左手は、急な傾斜地。
旧東海道を北に向かい、浅間神社下まで進みます。
(11:32)
浅間神社と富士の人穴
創建は承歴4年(1080)富士浅間神社の分霊を祭ったものと伝えられています。旧芝生村の鎮守。本殿のある丘は袖すり山と呼ばれ、昔は山の下がすぐ波打ち際であったといいます。境内西側の崖には富士山に通じていると伝えられる「富士の人穴」と呼ばれる古代の横穴墓があり、東海道を往還する人々が見物する名所となっていました。しかし今は、周辺の開発によって見ることもできなくなってしまいました。
この先、「東海道」から右折し、「横浜道」を波止場(「象の鼻」・現在の大桟橋脇)まで、大変貌した横浜の市街地を進みます。
(「」HPより)
この付近から東側の今昔。
1880年代のようす。「横浜道」は入り海沿いに進んでいます。「平沼」という名のごとく、沼地となっています。右は鉄道線路(築堤)。
2010年代のようす。まるっきり様子が異なっています。下方中央に「現平沼橋」が「帷子川」と鉄道をまたぎ、小さな「元平沼橋」がその下に見えます。上方が「横浜駅」。
旧東海道は公園の中を抜けて行きます。振り返る。
浅間下交差点。旧東海道は斜め右・交番の辺りから入っていく。
「よこはま道」解説板。
安政5年(1858)6月の日米修好通商条約調印によって開国に踏み切った幕府は、神奈川(横浜)の開港を翌年6月と定めた。
しかし、ミナト横浜の街づくりは開港3ヶ月前の3月になって、やっと工事が始まった。当時は、東海道筋から、横浜への交通はまことに不便を極めたことから、幕府は東海道筋の芝生村(現浅間町のこの地点)から横浜(関内)に至る「よこはま道」と呼ばれる道を開いた。
これは、芝生から湿地帯であった岡野・平沼・石崎の各新田を経て戸部村まで一直線に通ずる道路を築くと共に新田間(あらたま)・平沼・石崎の三つの橋を架け、併せて戸部坂、野毛の切り通しを開き、野毛橋(現:都橋)、大田橋(現吉田橋)を架けたものである。
記録によると、当時の橋の幅は3間(約6m弱)で道路もおそらくこれと同程度の幅員であったと考えられる。
なにしろ工期3ヶ月の突貫工事であったことと、橋材が杉と松を使用した仮普請であったことから「3年ももつまい・・・」と噂されたが、それでも戸部村までの経費で、4470両(注)かかった。
新開地横浜への主要道路として大いににぎわい栄えたこの道筋も、時代の移り変わりとともに大きく変わり、今では住時の面影をわずかにとどめるのみとなった。
注:江戸時代の1両は、現代に換算すると約75,000円なので、約3億4千万円。当時はインフレ気味なので、もっとかかったと思われる。
右図で、赤い点線が「旧東海道」、青い点線が「横浜道」。
案内図。
旧道はわずかに残るのみで、現在の広い「新横浜通り」に合流し、最初の橋「新田間(あらたま)橋」を渡ります(11:43)。
下流方向。
現在のようす(「新田間橋」から東を望む)。(「」HPより)
昼食休憩後、再開。(12:15)しばらく進むと、「帷子川」、「JR東海道線」、「相鉄線」をまたぐ「平沼橋」。右側の脇道を進み、エレベータで下に降りると「帷子川」に架かる「元平沼橋」となります。かつての「平沼橋」。
橋のたもとに「横浜道解説板」が設置されています。
内容は、横浜道に入るところに設置された解説板とほぼ同じです。
・・・
※当時、東海道と横浜(関内)とを連絡するには、保土ヶ谷から井土ヶ谷、蒔田を通るか、神奈川からの舟運しかありませんでした。
錦絵には、新田間橋、平沼橋、戸部橋などが描かれ、また神奈川宿、さらに遠く対岸の川崎大師河原の裏が描かれています。海岸伝いだったことが分かります。
再び現「平沼橋」を渡り、向こう側に。
エレベータで下に。そこにも同じ解説板があります。
(12:25)「平沼商店街」を進みます。上は京急線。
蕎麦屋「角平」。待つ人が並び、はやっているようす。
創業は昭和25年。
おそばを愛する初代が研究を重ね、当店一番人気の「つけ天そば」が生まれました。
アツアツのつけ汁に豪快な海老天。そして特性手もみそば。ぜひご賞味ください。
また宴会コースではおそばに限らず多彩なメニューをそろえております。
蕎麦焼酎をはじめ生ビールや各種地酒もご用意いたしております。
ご予算に応じたコースも承りますので、お気軽にご相談ください。
(「」HPより)
(12:29)その先に三番目の橋「敷島橋」。もと、ここに架かっていた「石崎橋」は上流に移動。
「石崎橋」。
旧東海道を北に向かい、浅間神社下まで進みます。
(11:32)
浅間神社と富士の人穴
創建は承歴4年(1080)富士浅間神社の分霊を祭ったものと伝えられています。旧芝生村の鎮守。本殿のある丘は袖すり山と呼ばれ、昔は山の下がすぐ波打ち際であったといいます。境内西側の崖には富士山に通じていると伝えられる「富士の人穴」と呼ばれる古代の横穴墓があり、東海道を往還する人々が見物する名所となっていました。しかし今は、周辺の開発によって見ることもできなくなってしまいました。
この先、「東海道」から右折し、「横浜道」を波止場(「象の鼻」・現在の大桟橋脇)まで、大変貌した横浜の市街地を進みます。
(「」HPより)
この付近から東側の今昔。
1880年代のようす。「横浜道」は入り海沿いに進んでいます。「平沼」という名のごとく、沼地となっています。右は鉄道線路(築堤)。
2010年代のようす。まるっきり様子が異なっています。下方中央に「現平沼橋」が「帷子川」と鉄道をまたぎ、小さな「元平沼橋」がその下に見えます。上方が「横浜駅」。
旧東海道は公園の中を抜けて行きます。振り返る。
浅間下交差点。旧東海道は斜め右・交番の辺りから入っていく。
「よこはま道」解説板。
安政5年(1858)6月の日米修好通商条約調印によって開国に踏み切った幕府は、神奈川(横浜)の開港を翌年6月と定めた。
しかし、ミナト横浜の街づくりは開港3ヶ月前の3月になって、やっと工事が始まった。当時は、東海道筋から、横浜への交通はまことに不便を極めたことから、幕府は東海道筋の芝生村(現浅間町のこの地点)から横浜(関内)に至る「よこはま道」と呼ばれる道を開いた。
これは、芝生から湿地帯であった岡野・平沼・石崎の各新田を経て戸部村まで一直線に通ずる道路を築くと共に新田間(あらたま)・平沼・石崎の三つの橋を架け、併せて戸部坂、野毛の切り通しを開き、野毛橋(現:都橋)、大田橋(現吉田橋)を架けたものである。
記録によると、当時の橋の幅は3間(約6m弱)で道路もおそらくこれと同程度の幅員であったと考えられる。
なにしろ工期3ヶ月の突貫工事であったことと、橋材が杉と松を使用した仮普請であったことから「3年ももつまい・・・」と噂されたが、それでも戸部村までの経費で、4470両(注)かかった。
新開地横浜への主要道路として大いににぎわい栄えたこの道筋も、時代の移り変わりとともに大きく変わり、今では住時の面影をわずかにとどめるのみとなった。
注:江戸時代の1両は、現代に換算すると約75,000円なので、約3億4千万円。当時はインフレ気味なので、もっとかかったと思われる。
右図で、赤い点線が「旧東海道」、青い点線が「横浜道」。
案内図。
旧道はわずかに残るのみで、現在の広い「新横浜通り」に合流し、最初の橋「新田間(あらたま)橋」を渡ります(11:43)。
下流方向。
現在のようす(「新田間橋」から東を望む)。(「」HPより)
昼食休憩後、再開。(12:15)しばらく進むと、「帷子川」、「JR東海道線」、「相鉄線」をまたぐ「平沼橋」。右側の脇道を進み、エレベータで下に降りると「帷子川」に架かる「元平沼橋」となります。かつての「平沼橋」。
橋のたもとに「横浜道解説板」が設置されています。
内容は、横浜道に入るところに設置された解説板とほぼ同じです。
・・・
※当時、東海道と横浜(関内)とを連絡するには、保土ヶ谷から井土ヶ谷、蒔田を通るか、神奈川からの舟運しかありませんでした。
錦絵には、新田間橋、平沼橋、戸部橋などが描かれ、また神奈川宿、さらに遠く対岸の川崎大師河原の裏が描かれています。海岸伝いだったことが分かります。
再び現「平沼橋」を渡り、向こう側に。
エレベータで下に。そこにも同じ解説板があります。
(12:25)「平沼商店街」を進みます。上は京急線。
蕎麦屋「角平」。待つ人が並び、はやっているようす。
創業は昭和25年。
おそばを愛する初代が研究を重ね、当店一番人気の「つけ天そば」が生まれました。
アツアツのつけ汁に豪快な海老天。そして特性手もみそば。ぜひご賞味ください。
また宴会コースではおそばに限らず多彩なメニューをそろえております。
蕎麦焼酎をはじめ生ビールや各種地酒もご用意いたしております。
ご予算に応じたコースも承りますので、お気軽にご相談ください。
(「」HPより)
(12:29)その先に三番目の橋「敷島橋」。もと、ここに架かっていた「石崎橋」は上流に移動。
「石崎橋」。
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