外房線「誉田(ほんだ)駅」。
今回は(も)、ゆっくり目のスタート。「大網(おおあみ)駅」まで。距離としては短いですが、アップダウンがありそう。
駅前から旧道を歩きます。
「県道20号(大網街道)」に合流。
跨線橋を渡る。
左右に畑地が広がる。
「大網街道」。けっこう車の交通量が多い。
再び外房線を越えます。
「大網」方向。
誉田から大網への道のりの今昔。
(「今昔マップ」より)
ほとんど変化はなさそうです。右図で、「誉田」駅が「野田」駅になっています。
槙の生垣。房総地域では多く見られる垣根。よく整備されています。
畑地が広がる。
外房線を望む。
保存木「タブノキ」。
「大木戸新田」交差点。
この「大木戸」は、かつてあった野馬の放牧地内外を仕切る木戸ではないでしょうか?
※「日光東往還」歩きの際、野田市内のかつての野馬放牧地でもこのよう地名・木戸がありました。の付近には旧線路跡があるようです。
上り坂を土気駅へ向かう。
地下道を抜けて駅の反対側に。
土気駅ホーム。
「土気駅」の読みも難しい。「とけ」。その由来は?
土気駅(とけえき)は、千葉県千葉市緑区土気町にある、JR東日本外房線の駅である。外房線内の駅で標高が最も高い所に位置する。
駅名は周辺の地名に由来する。土気の読みの由来は、大網からの長い峠を取って「とけ」となったという説もあるが、真偽は定かではない。周辺は南関東ガス田と呼ばれる水溶性ガス田の範囲内であり、古来天然ガスが湧出する気配を示す土地は「土気」と呼ばれ、これが地名由来と考えられている。(この項、「Wikipedia」より)
一方で、「土気高校周辺の歴史散歩 齊藤汀魚」HPによると、
「土気は、房総半島のほぼ中央に位置し、一説には地名の語源が「とうげ」にある、という分水界の地である。土気を源として東京湾へ村田川が、印旛沼へ鹿島川が、太平洋へ小中川(南白亀川なばきがわ)がそれぞれ注ぐ。つまり水系的にこれら三方に開かれた要地といえよう。そして、城跡の北・東・南方面は、比高差80メートルもある急斜面が巡り、西方面のみ台地続きである。城跡の東部や南部からは、九十九里平野がパノラマ状に展望できる。」。さらに土気の位置は北の北総台地と南の上総丘陵をつなぐ所でもあり、房総半島の腰にあたります。また、太平洋と東京湾との距離が短いのも地理的特徴です。・・・
とありました。
土気の今昔。
(「今昔マップ」より)
土気の中心地があつては台地上にありました。今は、駅の南西側が住宅地として発展しています。
下りきったら、左折して上り坂を。
急坂を上がり、右に曲がると、
落ち着いた家並みに。
奥に「天満宮」。
突き当りを右折し、下り坂に。
この付近の今昔。
(現在)下りきって「現大網街道」に合流。
(1880年代)
大網への旧道(大網街道)は曲がりくねっている。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
正面に「昭和の森」。
(「」より)
出会ったところは、北の入口のようです。
大網方向へ。切通しの下り坂。
けっこう車の行き来が多く、急なカーブが続く中、スピードも出てるようで、路端を歩くのはちょっと恐い!
眼下に民家。
眼下の左右が開けてくる。
房総らしい谷戸、田園風景。
右奥に「圏央道」の橋脚。
「大網白里市」に。
「圏央道(千葉区間)」をくぐる。
来た道を振り返る。
この付近。「県道20号(現大槻街道)」から分かれた旧道があるはずですが、ちょっと不明。
この川沿いに大網駅へ。
大網白里市のマンホール。
太平洋に面している大網白里市の名勝九十九里浜海岸に朝日が昇るデザイン。
前方に「大網駅」。
※この川沿いが「房総東往還」道になっています。
来た道を振り返る。
大網駅改札口。
当駅開設当初は東金線の福俵駅方面に500 mほど進んだJR東日本大網保線技術センター付近にあり、東金駅方面から千葉駅方面と安房鴨川駅方面の双方向に分岐する線形であった。そのため、当駅を経由する房総東線(現・外房線)の列車はスイッチバックが必要であった。
1972年(昭和47年)5月に、当駅と房総東線の線路が移設のうえ高架化され現在の形態となった。かつての房総東線の線路は貨物列車用の短絡線として1996年(平成8年)まで使われていたが、新茂原駅での貨物取扱終了により撤去された。
(「今昔マップ」より)
※第二日目。ゆっくりペースでの歩きでした。
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