おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

読書「荷風さんの昭和」(半藤一利)ちくま文庫

2013-02-06 20:56:36 | 読書無限
 自称(他称もありか。自他共に認める)歴史「探偵」・半藤一利さんの書。永井荷風の日記「断腸亭日乗」を題材に、荷風の同時代的昭和史を、ちょっと遅れてやってきた筆者が後追いしながら、昭和30年代までの自己史をも語るという趣。
 後書きで、ご本人は「荷風さんの昭和」という題名が気に入っているようですが、読後感としては、初出の時のように「荷風さんと『昭和』を歩く」という方が適切な感じがします。
 戦争へ、破滅へと進んでいった「乱世」の日本、昭和3(1928)年~昭和20(1945)年。その時代を荷風の日記を基としながらそこから派生した話題を披露していく(歴史の裏側・真実を探偵していく)、という変幻自在な文章タッチ。恐れ多くも天下の文人・荷風さんを旅先案内人(杖代わり)にしてとは、大胆不敵です。
 P278の「付記」
 『日乗』原本の扉の表記が昭和16年8月以降から「昭和」が追放され、西暦で統一されているという。荷風の魂はもはや日本から離れ、西欧とくにフランスこそが自分の精神の故郷と、この扉の表記で示したのであろうか。ふたたび「昭和」が原本の扉に記されるのは昭和21年、日本占領がはじまってからである。おおかたの日本人が日本の過去をぶざまにののしりだしたとき、荷風の心はかえって日本へ向いたというのであろう。この壮大なへそ曲がりを見よ、である。

 このあたりが、半藤さんの「荷風」像の基と言えそうです。そして、ご自身のスタンスでもあるか。向島に生まれ、隅田川の産湯につかったご自身の、失われた(つつある)地域社会への熱い思いを語っていきます。
 俗世間にあって、その世界から超越しつつ、遠く、広く世界を歴史(未来)を見透かしていた荷風。その荷風の孤独な晩年の言動を尊敬の眼差しで(それでいて記者としての目はぬかりない)見つめる半藤さんの血気盛んな、若き頃。その頃から、こうして自らも半生を振り返る時期が迫ったときに、改めて荷風の偉大さに気づかされる、そんな思いが伝わってきます。
 読者の一人としては、隅田川、浅草、向島・・・、長年なじんできた土地でもあるので、よりおもしろさが増してきました。
 
 それにしても、あれだけ膨大な日記を丹念に読み通す、とは。文筆を生業にしている方といっても、どうもついていけません。そこで我が家の「荷風全集」(岩波書店)より。
なるほど西暦表示です。
それ以前。
 荷風さんはよく出歩き、行く先々でのスケッチを残しています。その一つ。
千住付近。句もついでに。
 そんな荷風さんにあやかってこんな雑誌も出ていました。

 「東京オリンピックの頃」なんていう特集号も。荷風さんはそれ以前に亡くなっているのに。

 日記には挿絵もあり。


荷風全集。古本屋さんでは全巻セットで、価4,000円とか。・・・・・・・
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国鉄下河原線跡をたどる(「国分寺」~「東京競馬場前」)その2

2013-02-03 13:04:05 | 鉄道遺跡
 この緑道にはオートバイなど車の通行が禁止のため、歩行者や自転車が往き来してけっこう賑やか。よく整備された道沿い、灌木や草花が植わっていて、「緑道」らしい雰囲気。車の通りが激しい「府中街道」の歩道に比べ、断然安心な道。
説明版。「その1」での説明内容とほぼ同じですが。(枕木を再活用しているのが、いい。)

 明治43年(1910)東京砂利鉄道として主として多摩川の砂利運搬を目的に国分寺・下河原(府中市南町3丁目)間に開通しました。
 大正9年(1920)に国有の貨物線となり下河原線と改称・・・
 ここに残る線路は今はなき下河原線を記念してその一部を残したものです

道路をまたいで線路が埋められている。
ほぼまっすぐな線路跡の緑道が続く。
線路(跡)脇。草木に埋もれて「踏切事故者」の供養碑がひっそりと。花が手向けられてあった。
在りし日の「下河原線」のようす。のどかな田園風景が広がっています。
川べりを行く汽車。
JR南武線の跨線橋。なだらかな坂が長く南に下っていく。このあたりは、鎌倉街道など歴史的な道筋があって、説明碑が立てられている。
交差する鎌倉街道(坂を下りきったところ)から来た道を望む。
道ばたの草むらの中に、線路際などに見かける赤さびた柵。遺構?
東京競馬場前方面との分岐。右が多摩川方向。中央高速の高架橋をくぐってから西南にカーブし、多摩川に向かう。左が競馬場方面。線路(跡)は、競馬場に向かって急カーブで東南に進む(約0.5㎞)。
「しばまみち」という道しるべ。
来た道を振り返る。
「電車ごっこ」と題されたブロンズ像。
広々とした空間。終点の駅舎は、このあたりにあったのか。
競馬場に向かう人びとは上に南武線が通る地下道を抜けて向かった。
「川崎街道」という道しるべ。「府中街道」は「川崎街道」とも。競馬場の西側をかすめ、神奈川県川崎まで続く道。
「東京競馬場」は中央左奥に広がっている。
 この項は、以上で終了。「府中本町」(武蔵野線の終点の駅)から「西国分寺」まで戻った。歩いた距離は、約6.5㎞。機会があったら、多摩川方面に向かった下河原線跡をたどってみよう。
 
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国鉄下河原線跡をたどる(「国分寺」~「東京競馬場前」)その1

2013-02-02 16:26:23 | 鉄道遺跡
 久々に廃線を訪ねる旅。今回は「国鉄下河原線」跡。線路跡は、緑道(公園)風になっていて、自転車と歩行者が通る道筋。二カ所ばかりレールなども埋め込まれ、説明版もしっかり。
 この路線、当初は、中央線・国分寺から分岐して南下し、多摩川の河川敷までつながっていた貨物専用線。途中、「東京競馬場前」(当時は国鉄の中では一番長い駅名だった)への路線を分岐していました。したがって、旅客線でもあったわけです。その廃線跡を訪ねて。
 JR「国分寺駅」南口からスタート。駅の南西地域は国鉄の中央鉄道学園跡地など再開発が進んでいて、高層マンションなどが整然と建てられています。

 国分寺駅からしばらく中央線に平行して西に向かって走っていた「下河原線(単線)」。その線路跡は整地され、幅があることや灌木が一列に並んでいることくらいしかかつて線路があったという痕跡は残っていません(3,4年前にはまだ線路がしかれていたそうですが)。
中央線沿いの南側の敷地。
ぽつんと朽ちた枕木が一本横たわっていました。
 中央線・武蔵野線が交差する「西国分寺駅」の東南側付近も駐輪施設、ロータリーなど、区画整理が行われていて、「下河原線」の痕跡は見当たらない。
武蔵野線をはさんで東側のマンション。微妙な曲線を描いているのが、南西にカーズして向かう線路跡をうかがわせる。(西国分寺駅南の地点)
 下河原線は「武蔵野線」の南行する線路となった。そのため、ほぼ平行する府中街道をひたすら南に進むと、「北府中駅」に。
東芝の工場。引き込み線があってJRのオレンジ色の車両が見える。引き込み線は、もちろん、現役。
「府中刑務所」南西端。
 しばらく府中街道を進み、「市民球場」を過ぎて右折。
ここで、武蔵野線とはお別れ。
武蔵野線がトンネルに入り、ここから線路跡の道が始まる。中央の建物が線路跡になっている。
ここから本格的な「下河原線」跡の緑道。
細長い公園の中に線路が敷かれ、ベンチや枕木を使ったホーム(モニュメント)がある。
説明版。

「下河原線の歴史」 

 ここは、かつて国鉄下河原線の線路敷でした。
 明治43年(1910)、東京砂利鉄道が多摩川の砂利の採取運搬を目的に、国分寺から下河原(府中市南町3丁目)まで貨物専用鉄道を開通させました。その後、大正3年(1914)の多摩川大出水による被害で一時閉鎖しますが、大正5年(1916)に軍用鉄道として復活し、大正9年(1920)に国有化され、名称も下河原線となりました。昭和8年(1932)に東京競馬場が開設すると引き込み線がもうけられ、昭和9年(1934)より競馬開催日に限り乗客輸送するようになりました。戦時体制が深まってきた昭和19年(1944)国分寺~東芝前間で通勤者専用電車を運転、戦後の昭和24年(1949)からは国分寺~東京競馬場前間の常時運転が開始されましたが、昭和48年(1973)の武蔵野線開通にともない旅客が廃止になり、昭和51年(1976)には貨物線も廃止され66年間にわたる歴史の幕を閉じました。
 この跡地は、府中市が国鉄から用地を受けて自転車・歩行者道、花と緑の緑道として整備し、郷土の森や市民健康センターなどを結ぶ、市民のための道として生まれ変わりました。            府 中 市

公園を南側から望む。直線のレールが延びている。
「京王線」のガードをくぐる。サザンカが道に沿って植えられ、紅い花が今を盛りに。
足下には枕木が柵として再活用されている。
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「スウィングガールズ」(古きよき映画シリーズその22)

2013-02-01 22:13:59 | 素晴らしき映画
 ちょっと重い作品が多かったので、少しばかり青春物にも首を突っ込んでみます(あながち無縁な世界でもなかったので)。
 「ウォターボーイズ」のヒットに味をしめた、まさに二番煎じ。興行成績は前作よりもはるかによかったらしい。たしかに、おもしろかった! 懐かしいビッグジャズオーケストラの名曲を披露してくれたせいですが(プロの吹き替えじゃなく、まさに等身大の、ちょっと素人ぽかったのが、またいい)・・・。オールドボーイにはちょうどよかったです。



《あらすじ》
 「東北の片田舎の落ちこぼれ女子高校生がビッグバンドを組んで、ジャズを演奏する青春映画」。「山形」弁の世界(ちょっとアヤシイらしいが)。
 東北地方の田舎町。野球部の試合中、応援に来た吹奏楽部全員が食中毒で倒れる。その代わりに急遽集められた友子をはじめとする落ちこぼれ13人と、リコーダーとギターとベースしか出来ない3人という計16人の女子高生とたったひとり難を逃れた吹奏楽部の1年生の男子・拓雄。野球部の応援の為にビッグバンドを結成することに。猛特訓を開始し、演奏の楽しさを知ったが、じきに吹奏楽部員が病から復帰。17人の夏休みは、不完全燃焼のまま。

 しかし、一度知ったスウィング・ジャズの楽しさは忘れられない。
 途中、脱落者は出たり、アルバイト先でもドジをし、松茸狩りでは大イノシシに遭遇するなどのハプニングもありながら(3D風のストップモーションがおもしろい)、何とか中古楽器をゲットする。その修繕もまた大変と、行きつ戻りつ・・・。
 パチンコ店の開店で見事に恥をかいた彼らだったが、隠れジャズマニアの数学の小澤先生の助言?もあって、演奏も徐々に上手になっていく。
 スーパーの安売りセールの場で、ほんの少しのメンバーで行った演奏が見事に決まるのをきっかけに、去っていったメンバーたちも戻ってきて、17名のビッグバンド“Swing Girls (and a Boy)”の本格的な活動。
 そして、“東北学生音楽祭”にも出場。帰りかけた聴衆を振り返らせるほどのみごとな演奏を披露し、満場の喝采を浴びる、いろんなハプニングを克服して。
 あまりにも荒唐無稽な作りと言ったら、身もふたもないですが・・・。


 春夏秋冬(特に雪深い冬の場面)の自然の移り変わりとともに、高校生がみんなで一つの目標に向かって努力・成長しつつ、充実した青春を送る・・・、学園ドラマにはよくあるパターンでもあって、安心して観ていられます(笑いあり)。(一応、少し波立つ程度の展開にはなりますが、落ち着くべくして落ち着く)青春映画作りの王道を行く、こういう映画も、またありかな。

 勝たんがため、高校や中学の運動系部活動の体罰、暴力、しごき・・・、遂には自殺まで起こる。今や、「勝利至上主義」の全日本女子柔道界にまで波及しているご時世(そういえば、準強姦罪で実刑判決があった金メダリスト・指導者もいますが)の中、こんな「夢」みたいなお話もまた一服の清涼剤にはなりますね。

《劇中での演奏曲目》(いずれも、名曲中の名曲)
・A列車で行こう
・故郷の空
・メイク・ハー・マイン
・イン・ザ・ムード
・ムーンライト・セレナーデ
・メキシカン・フライヤー
・シング・シング・シング

 そうそう、イノシシに追いかけられるシーンのバックには、サッチモの「What a Wonderful World」、エンディングでは、ナット・キング・コールの「LーOーVーE」、と小気味よい名曲が流れます。すてきな音楽は、何度聞いてもいいですね。劇場上映当時、若い観客には理解できたかしら。もちろん、この映画の後、女子高生の間でジャズ演奏チームが続出した、とか。
画面は、すべて「予告編」より。
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