おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

読書「男が女を盗む話」(立石和弘)中公新書

2013-09-09 18:44:16 | 読書無限
 高校の古文の教材としても有名な「伊勢物語(芥川)」「大和物語(龍田川・安積山)」「源氏物語(若紫)」を取り上げて、略奪婚(男が女を盗む)を取り上げています。これまで授業の教材としてどのように扱われてきたか。一方的な男性の視点でしか扱われてこなかったのではないか? 
 千年もの間、基本的には連綿とそれを読者に受容するようしむけた歴史、時代背景。そして、解釈の押しつけ。そこに、(一方的に)略奪された女性(分別もつかない子どもを含め)が不本意ながらもその現実を受け入れていくようになっていく、と。それは略奪(婚)への正しいとらえかたなのだろうか? 
 かつて高校の授業などで聞いた(そう教えられた)読者への刺激的な内容を持っています。一つの現在の時代背景を踏まえての現代的な解釈ともいえますが。新潟の女性拉致監禁事件も引用、ストックホルム症候群という括りで、加害者の暴力性を肯定する物語の存在をまっこうから批判しています。
 「伊勢物語(芥川の段)」では、「白玉かなにぞと人の問ひし時露とこたへて消えなましものを」という鬼に食われたしまった女を想い、男の嘆きで終わりにしている、その後日談をカットしている教材編集への疑問。
 「大和物語(安積山の段)」では「学習の手引き」にある「設問」(読者・高校生への誘導質問)への疑問。(ここでは、古典教科書の編集者は、源氏の若紫の巻のような垣間見の話や男が女を盗む話を好みにしているのではないか、という鋭い?指摘もあった。)
 ・男は沓をはいているが女は素足なこと(それによって、未来が男にすべて拘束されている)
 ・「食う」ことをすべて男に委ねざるを得ない女(それによって、男に生殺与奪を握られている)
 ・保護者という名目で男が女の顔や姿や趣味などを一任される(それによって、男の好む女性像を作らされる)
 ・三途の川を渡るには男の助けが必要だという信仰・風習の固定化(それによって、初めて関係した男を頼るしかない)
 ・・・
 実におもしろい指摘でした。高校の古文の先生には、ぜひ一読することを勧めます。
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「暗殺の森」(古きよき映画シリーズ。その37。)

2013-09-07 16:55:07 | 素晴らしき映画
 原題: Il conformista「同調者(体制順応主義者)」。原作はイタリアの作家アルベルト・モラヴィアの小説『孤独な青年』。邦題は(この映画にかぎったことではなく)集客のためではあるが、映画全体のテーマとずれていると感じる場合がある。
 暗殺シーンが雪の中の森で行われたことにあるからなのだろうが・・・。
 当時の、ドイツ・ヒトラーと呼応したイタリアのムッソリーニ・ファシスト体制に順応した男の生き様を描いたもので、原題のままの方がいいのではなかったか?

 哲学講師のマルチェロ(ジャン=ルイ・トランティニャン)は少年の頃、同性愛者の男に性的関係を強要され、射殺した過去を持っている。父は、発狂して精神病院に、母は若い愛人と退廃的な生活をしている。
 盲目の友人でファシストのイタロのすすめでムッソリーニ・ファシスト党の一員となった彼は、大学時代の恩師で、パリに亡命中の反ファシスト運動者のクアドリ教授の身辺調査を命じられる。。
 マルチェロは婚約者のジュリア(ステファニア・サンドレッリ)との新婚旅行を名目にパリへと向かう。マルチェロたちは、教授夫妻に歓迎される。マルチェロはクアドリの新妻アンナ(ドミニク・サンダ)に惹かれ、目的を見抜かれてしまうが、関係を持ってしまう。途中で、クアドリを暗殺することの指令が届く。
 マルチェロはジュリアからクアドリ夫妻が別荘へ向かうことを聞かされる。マルチェロはクアドリ夫妻の車を追うが、道中で他の秘密警察たちによってクアドリは刺殺され、アンナは、マルチェロの乗った車まで逃げてきたが、マルチェロは拒絶し(銃声が2発発射される)。絶望的に逃げ惑うアンナは死んでしまう。目の前で行われたテロに、マルチェロは車内から冷然と見ているだけであった。
 数年後。ムッソリーニ政権が崩壊し、ファシストの時代も終わりを迎えた。ファシストとしてそれなりの地位にあったマルチェロ夫妻にはすでに子どもがいる。妻との関係は冷たい。
 ファシスト狩りを恐れる友人イタロに呼び出されたマルチェロは、二人で夜の街を歩いているとき、かつて少年時代に銃殺したはずの男の姿を目撃、クアドリ襲撃班の一員でもあったことに気づく。衝撃を受けたマルチェロは、群衆に向かってその男とイタロがファシストの一員であると叫ぶ。・・・ラストは、ホモの若い男のもとにうずくまるマルチェロ。静かに古い歌が流れる。

マルチェロ(ジャン=ルイ・トランティニャン)
ジュリア(ステファニア・サンドレッリ)
アンナ(ドミニク・サンダ)

監督・脚本
ベルナルド・ベルトルッチ
原作
アルベルト・モラヴィア
『孤独な青年』

 この監督は、『ラストタンゴ・イン・パリ』や『ラスト・エンペラー』など話題作を発表している。
 
 ※画像は「予告編」(youtube)より。

 展開は、過去と現在が絡んでおもしろい。さらに1930年代の設定でここかしこにそうした時代背景を描く事物が映像化されていたが、現代的な舞台装置、ショットも、斬新な印象。精神病院に入院している父との面会場面での無機質な空間。遠景のエッフェル塔と手前の広い石畳(まだドイツナチスに占領されない頃の)パリのブルジョア的な華やかさと荒涼とした状況が対照的。
 また、白と黒のコントラストが有効に用いられ、帯状の光の陰影、直線的・幾何学模様など随所に登場。
 その他、人物を斜めに俯瞰するショット。雪の森の中での殺害シーン(映像の美しさ?に負けて人物の動作、表情が今ひとつ。撮影も大変だったのだろうが)。ラストの洞窟のような場所も、教授の暗示的な発言と呼応している。
 斬新なセットとカメラワークが魅力的。戦前の人間描写や風景描写というよりも、監督の今の(映画製作当時の)心象風景にこだわったつくりでした。映像、衣装、音楽・・・、細部まで計算された演出でした。

 中華料理店でのクアドリ教授夫妻との会食シーン。それぞれ器用に箸を操っていましたが、ジュリアだけは箸を両手で食べ物を切り取っているだけで口に持っていっていないような・・・。
 今や懐かしい歌となった労働歌「インターナショナル」がスミレの花売り親子の歩きとともに流れてきたのには、びっくり。
 
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世界では「フクシマ(Fukushima)」になっている現実を見ようとせず。

2013-09-05 19:32:35 | 世間世界
【五輪招致】PRロボ、不発!竹田理事長に海外メディア「原発」質問連発(スポーツ報知) - goo ニュース
 海外メディアの関心事は、欧米でも連日報道されている原発問題への不安だった。6つの質問のうち4問が汚染水絡みで「放射能は大丈夫か」「東京は安全なのか」などの質問が次々に飛んだ。
 竹田理事長は「東京の食品、水、空気は安全で全く問題ない。放射線量はロンドン、パリなどと同じレベルだ。東京は福島から250キロ離れている。まったく問題ない」と繰り返した.
「(首都圏に)3500万人の市民が住んで、一人として問題があった人間はいない」・・・。

 未だに15万人が避難生活(福島を離れ、県外、東京にもやむをえず移り住んでいる人もいる。)、首都圏でも高濃度の放射能汚染対策に苦慮している地域住民、また、福島の漁業を壊滅させただけでなく、世界の海に放射能汚染水をまき散らした、そして、現地で、あちこちで、事故の対応に必死になっている(見通しの付かない事態の中で)・・・、にもかかわらず、だ!
 これほど強弁をしてまで誘致するオリンピックってなんだろうか?

 日本の、一地域での、それも「都会から遠く離れた」ところでの原発事故という括りで乗り切ろうとする関係者。
 今や「福島」が「フクシマ」となって世界では憂慮すべき事態にもなっているのに・・・。目先の経済効果・利益のみを追求する、アベ政権。それに従順するスポーツ関係者、都。・・・。何をか言わんや、である。
 
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霜降銀座。霜降橋。駒込。谷田川跡をたどる。王子~駒込編。その3。

2013-09-04 21:56:12 | 河川痕跡

「作成&管理霜降銀座栄会ホームページ作成委員会」より。

谷田川
 この川は上流より、谷戸川・境川・谷田川・蜆川・蛍川・藍染川とその流域により呼ばれたが、一般的には谷田川で、今は暗渠である。
 巣鴨の青果市場(御薬園渋江長庵御預地所)より染井墓地(播州林田藩一万石建部内匠頭下屋敷)の下を流れて、豊島区(上駒込村)の境域を形成して、霜降橋・谷田橋より荒川区西日暮里へ入り、谷中(台東区)と千駄木(文京区)の間を流れて不忍池へと入った。全長は不詳であるが行程よりみて一里あまりは充分にある。
 谷戸川の名が示すように最初の流域である西ヶ原村には、東谷戸・西谷戸・南谷戸・谷戸の小名があり、水田が多く見られた。谷戸・ヤトは地域的には谷間で水田が出来る地とされている。谷田・谷津谷地もまた同系統の言葉とされている。
 中里村を経て田畑村に入ると小名に東谷田・西谷田があり、川の名も谷田川と改まり、今も谷田橋通りに谷田の名を残している。
 霜降橋とは風流な名前で明治以降の命名とされ、市電・都電の停留所で知られたが、今はバス停に使われている。
 江戸時代には立会橋・境橋と呼ばれ、立会い橋の名は将軍日光社参拝の時に万が一があってはならないので、上駒込、西ヶ原村立会の下に点検修理を行なったがその必要も無くなれば境界を示す境橋という平凡な名に変わる。
 谷田川沿いの道は江戸時代には上野から入る六阿弥陀道として春秋の彼岸には大層な賑わいをみせた。大正に入ると暗渠化が進み、地区も昭和7年より工事開始となり、暗渠化の上は道路となって、両側には田端銀座・霜降銀座・染井銀座等の商店街が形成された。
 北区郷土館シリーズ「北区の水ものがたりより」抜粋

 とあった。ここでは、「谷田川」は、石神井川から分離した川ではないことに。

 次の文章も掲載されていたので、孫引きさせてもらいます。

「滝野川第4号」より
・今、幻の谷田川を探る(抜)
岩出進
谷田川の最源流は、南側台地の巣鴨御薬園跡地裏手斜面の湧き水で、それに続く西側台地の下瀬火薬製造所(元東京外語大)東側台地の染井墓地に降った雨水や、湧き水が谷に流れ込んで川になったと思われる。
 その周辺は森や池や沼が点在し所々に椎の木が立ち、牧場もあり、沼には植木屋の菖蒲園も見られ、のどかな田園風景が続いた。
 現在西ヶ原の谷戸の交番の近くに住む旧家小野沢秀雄氏の話によれば、染井墓地下の慈眼寺の傍に釣堀があり、その脇を谷田川が細く流れて、野菜の洗い場が所々に設けられていた。
 この辺は農家が多く、大根、牛蒡を作り、川の近くでは里芋やしょうがを作っていた。洗い場は清水が湧き出しているそばに作られていたので、いつでもきれいな水で野菜を洗って出荷することが出来た。
霜降橋から滝野川小学校を方面にかけて、夏は見渡す限りの大根畑や、とうもろこし畑であり冬は麦畑であった。
動坂下の辺は、田が多かったが、現在の北区側の中里から田端にかけては、畑であり、この辺にも洗い場が5カ所あった。
 そして本郷と上野の両方の台地からきれいな水が流れ込んでいた。洪水があると、釣堀や養魚場から流れ出した金魚をすくうこともできた。地図には谷戸川と言う名で載っているが、北区に入って西ヶ原、中里、田端の人々は谷田川と呼んでいた。
 川幅が約2メートル、深さも約1メートル以下の谷田川は、現在の扇屋そば店の前あたりから、現在の谷田川通りに曲がり、霜降橋のところの本郷通りの下を通り、駒込駅下の谷田川通りを経て、田端の谷田橋薬局の方へ流れている。そして昭和壱六年には全部暗渠が完成した。

・西ヶ原回想
 波多野政雄
 海軍火薬庫から流れていた谷田川では、鮒や濃いが釣れた。大根の洗い場があって、夏は蛍もいたしね。
 またあっちこっちに蓮池があって、蓮の実を採りに行って呼子に引っ掛かり肥杓子で追いかけられて押入れに逃げ込んだこともあった。
 谷田川が岩槻街道と交差するところに霜降橋があって土橋だった。冬霜が降ると白く見えたので霜降橋と伝った。
 ここらは湧き水があって、古河庭園の池は湧き水で、今地下水が減らないように、傍に井戸を掘って監視しながら調査している。
 この辺各家に井戸があったが今はうちだけが水道と井戸を使っています。現在は下水も無くなって谷戸川の風情はなくなりました。地名だけ残っている。
 暗闇坂の名前は切通しで大八車1台しか通れなかった。大正初期ですかな、私は明治44年生まれですが、道路が改正になって、こっち側が削られてなだらかになりました。
 急坂で切通しで、日本橋魚市場や神田の青果市場から荷を持って帰ると坂が上がれない。半纏を引っ掛けた立ちん棒がいて、旦那押しましょうかと声かけ、頼むと車の後を押した。ヨイショと掛け声ばかりで力が入ってないぞと云うと、すみませんと返事する。駄賃は2銭もらっていた。
 道路が改正になってから、中学に入ったのですけれど、大正5年皇后陛下(貞明皇后)が西ヶ原の蚕糸学校に行啓なさって、この道をお通りになった。
2階は窓を閉めて国旗を立て、家族のものは外へ出て拝顔するよう。犬猫は家に入れると布命が出た。当時馬力ですから馬糞は綺麗に掃除して、駒込橋から蚕糸学校まで三間幅で砂を敷いた。そうしないと砂利道ですからお通りになれない。
 行啓の馬車がくるさなかになって、馭者をふりきって馬が逃げてきた。近所に竹屋があり、うちの父が竹竿で通せんぼして馬を止めた記録があります。
私の小学校の時には浅野長勲侯爵、渋沢子爵、古河男爵この方々が出勤なさるのを知っています。渋沢さんは自動車七十七の緑色で乗用車が1台、それから当時貨物自動車、トラックとはまだ云わなかった。ファードの二十五馬力1台。これは王子製紙のトラック。
 浅野侯爵は二頭立ての馬車、車輪が金モールで飾った。お殿様はシルクハットをかぶり、二重廻しを着て後ろの座席にすわり、別当は紺のハッピを着て浅野葉の家紋をつけた帽子をかぶり、前の座席に一緒に乗った。
この坂に来ると後ろに乗り、ガス塔の付いた金の矢羽根のついた馬車で毎朝でした。
 それしかこの道は通らなかった。ある日貨物自動車がオーバーヒートして煙をだしたので、ボンネットを揚げて冷やしていた。「貨物自動車がとまったぞ}と親父さん連中がよってたかって見学していた。考えてみるとのんびりした時代でした。
 上中里の鷹番山は有名な大田道灌が鷹狩の場所で、鷹匠がいた所です。

編集者注(小野磐彦氏)鷹番は上中里と西ヶ原にまたがって一万二千五百余坪に亘る御用屋敷。一名兎御用屋敷があって、兎狩りや鷹狩がしばしば行なわれ、屋敷内には御鳥番の役宅が設けられていたという。鷹番も住み、鷹場もあったはず。

 そこに立てば西は富士が根、東は筑波山と両方見えた。稲穂の先に帆かけ船通る荒川が見え、黄金色に色づいた稲穂の中に王子軌道電車が通って見えた。川口へ肥料を運ぶ伝馬船も見えました。
 中学当時には荒川まで行って泳いだり、櫓を漕いで遊び、両国の川開きというと友達と弟三人で小台の貨船を櫓漕いで両国に行った。そんな経験もある。汚穢船を繁留していたおだいには、バケツで水を汲み中を洗っていた。そこで泳いでいたので、おじさんきたないなーと云ったら、水というものは三尺流れりゃきれいになると云っていた。
 その船頭のお神さんが米を洗って炊いていた。そういう時代だった。
飛鳥山下にきれいな小川が流れて、藻がなびいていた。金魚屋があって、少し大降りの雨があると金魚が流れてきた。あすこの下の土手に全部清水が出て、上中里の暗渠があって覗くとこっちへきた。
 田端中学の裏の土手に道灌山の三角屋敷に粘土が取れるので、登ってとり、汚れた手は下で洗えた。
 駒込は田端に行くJRは上へ上がっていくが、もっと下にトンネルがあった。トンネルを通ってこち側へ出た。駒込駅の橋は明治38年に建設したが、この間土手を掘り出したら、てかてか風化していなかった。九千?もあるのをつるして地下鉄を掘っている。38年の橋桁を保存するべく運動している。
 汽車がこっちから入って、あっちへ抜けると煙がパッと出るので面白く見に行ったものです。駒込駅の入り口が上にあって下にホームがある。階段の真ん中に杉の皮をむいた柱の手すりがあり、またがってすべりおりした。あすこの提のさつきは、家の前の鍋島侯爵の園丁の長崎さん(初代の人)に頼んで植えてもらい、町の有志が揃って手伝った。戦後駒込の商店街の方で管理するようになったが、もともとこっちの町会の有志がやったのです。
 六阿弥陀かけてなくらむほととぎす其角足立の長者の姫が、豊島の長者の許に嫁したが、姑の虐待に耐えかねて、思い余って、憐れにも沼田川に投じ、5人の侍女も後を追って之に殉じた話に六阿弥陀の像を刻んで六女の冥福を祈った行司が春秋彼岸の六阿弥陀信仰の由来で、昔のハイキングコースであった。第三番の無量寺、第四の田端興楽寺に古河邸から聖学院下を通って、興楽寺へ行って谷中に抜ける道中だった。
 信仰は物見遊山の肩身ごろ
 六阿弥陀像嫁のうわさの捨てところ

江戸時代の西ヶ原のようす。(「霜降銀座栄会」HPより)
 a地点が西北の石神井川からの流れ(途中で消えている)。bが「谷田川」。c地点が水源の一つ。右下(東南)がのちの染井霊園。もう少し西南・巣鴨方向から流れてきた川が存在している。d地点が現「霜降橋」交差点。駒込からの「妙義坂」下。中央の道は「本郷通り(日光御成街道・岩槻街道)」。
 e地点に「植木屋多し」とある。ソメイヨシノ発祥の地か? 
 染井霊園北(また、巣鴨付近)から流れ出た「谷田川」と石神井川から切り離された川とは、直接、合流せず、水田地帯を細々と流れて、谷田川に注いでいたのかもしれない。現在、その痕跡は全く分からなくなっている。

 こうして、何となくかつての「谷田川」のようすと現状が垣間見ることができました。「谷田川」(その後の暗渠となったとそこで営まれたその地域の人々の「面影」を彷彿とさせます。こうして現代を歩きながら往時を偲ぶのも、また一興。
「霜降銀座栄会」。
この商店街がかつての「谷田川」。
古風な建物のお店。
「谷田川通り」は広い道路として「滝野川」方向への道。一方、旧谷田川は、商店街の方に流れていたようです。右が「谷田川通り」左の細い商店街の道が旧谷田川。
「谷田川通り」となっていますが、水路跡ではなさそう。
「本郷通り」。左へカーブして西ヶ原方向へ。ゆるい上り。
「〃」。駒込駅方向。左へカーブしていく。「妙義坂」というゆるやかな上り坂。
「霜降銀座」のアーケード。「本郷通り」側。
「霜降橋」交差点。
同じく「谷田川通り」方向。
下流・駒込駅方向。「谷田川通り」ゆるやかな下り。この辺りからは谷田川は「中里用水」という名もあったようです。
奥が山手線をくぐるガード・「中里用水架道橋」。
上流方向(「霜降橋」方向)を望む。
「駒込駅」改札口の案内板。霜降商店街、染井商店街が谷田川の暗渠の上にあることが微妙なカーブがあることなどで分かります。

 こうして、断続的(千駄木~上野。千駄木~駒込。王子~駒込)でしたが、「谷田川」跡をたどってみました。新たな発見もたくさんあってなかなかおもしろい「小さな」旅でした。
 「歴史的農業環境閲覧システム」さん、「今昔マップ」さんの地図には大変お世話になりました。特に「今昔マップ」。標高が表示されているのにはずいぶん触発されました。深く感謝します。
 
 飛鳥山西(標高18㍍)→滝野川第三小学校南(17㍍)→染井霊園北(14㍍)→霜降橋(13㍍)→駒込駅北ガード(11㍍)→谷田橋(9㍍)→千駄木・枇杷橋(6㍍)→不忍池(5㍍)。
 
 ちなみに秋葉原駅付近は、標高3㍍。
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ゲーテ記念会館。谷戸。水源?。・・・。谷田川跡をたどる。王子~駒込編。その2。

2013-09-03 19:20:25 | 河川痕跡
 明治通りを渡って、うろうろしながら、低いところ、低いところはと探したが、どうも武蔵野台地・本郷台地から連なる丘陵地帯の上り下り、という感じになってしまった。都電の線路付近が低いことに気づき、方向転換。桜丘高校、線路を渡って小学校付近へ。「西ヶ原4丁目」付近の小道を行ったり、来たり、・・・。暑さに参った!
高校の脇の道。西側は上り坂。東側は、都電の線路まで下り道。そこで、線路を越えていく。ちなみに、都電は徐々に高度を上げていき、標高25㍍(西巣鴨付近)、そこから大塚駅(標高19㍍)までゆるやか下りが続く(地図上ではそうなっているが、実際に乗った印象はどうだか、確信がない。
滝野川第三小。この辺りがこの近辺では標高としては一番低いところ。
このあたりかな? このへんは、東は上野台地(飛鳥山の南)西は、本郷台地(武蔵野台地)とのはざまの地域。
 
 しばらく進んでいくうちに、ひょんなところに出てきた。
「ファウスト」の一節
「ゲーテ記念館前ポケットパーク」。 

「東京ゲーテ記念館」公式サイトより。
Goethe Archive Tokyo
【開催中】
書籍展「ゲーテの格言」
8月28日(水)~12月10日(火)
【情報提供の例】
ゲーテについてのQ&A 『ファウスト』邦訳目録 ファウスト伝説関連図 《ゲーテ人物ファイル》
【活動暦】
 当館 は、ドイツの詩人ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテについての資料や情報を提供する非営利の資料館です。利用者は専門家にかぎりません。基本原典のほか、初訳本、研究書、雑誌、新聞切抜きなど既整理総資料数15万点を収蔵しています。これらの文献は、すべて詳細な文献カードで整理されており、あらゆる角度から検索できるようになっています。なお、ギャラリーでは、「ゲーテ入門」の一助として資料の一部を展示・紹介しています。
【地域関係】
ゲーテの小径とゲーテパークの由来
【由来】
 1949年、ゲーテの生誕200周年を記念して、実業家・粉川 忠(こがわただし 1907~89)が「ゲーテの精神的遺産を継承発展するため」の研究機関・資料館として北区王子に《財団法人 東京ゲーテ協会》を設立。1952年、渋谷区上通りに移転、本格的な活動を始める。1988年、現在地に移転。新館落成。名称を《財団法人 東京ゲーテ記念館》と改める。
【利用案内】
◆開館時間:火曜~土曜、11am~5:30pm (入館は5pmまでに) 閲覧無料
◆休館日:日・月曜、祭日(展示は4~6月、8~12月)
◆資料閲覧(基本的に無料):電話かメールで予約してください
◆ゲーテ文献に関する質問:メールでお願いします(展示期間外も対応)
東京ゲーテ記念館
 114-0024 東京都北区西ヶ原2丁目30番1号
 tel.: 03-3918-0828
 mail: info@goethe.jp

「ゲーテ記念館」。小ぶりながら、どっしりとした印象をもつ、なかなか趣ある建物。

記念館の前の道はその先はゆるやかな下り坂。そのまま西に向かいました。
 すると、交差点に。
ここにも「ゲーテの小径」の案内。
 その角の交番。
「滝野川警察著谷戸駐在所」(赤い○の部分に注目)。大発見! この辺一帯が「「谷戸」と呼ばれた地域(らしい)。なんだかここまで導かれてきたようです。

 谷戸(やと)とは、丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形である。また、そのような地形を利用した農業とそれに付随する生態系を指すこともある。谷(や、やと)、谷津(やつ)、谷地(やち)、谷那(やな)などとも呼ばれ、主に日本の関東地方および東北地方の丘陵地で多く見られる。
 多摩丘陵、三浦丘陵、狭山丘陵、房総丘陵などの関東の丘陵地が長い時間をかけて浸食され形成された谷状の地形は、谷戸、谷津、谷地などと呼ばれている。
 これらの表記および読みは地域により分布に差が見られ、同様の地形を表す際にも、千葉県などでは「谷津」(やつ)を、神奈川県および東京都多摩地域では「谷戸」(やと)、「谷」(やと)を、東北地方では「谷地」(やち)を使っている場合が多い。
 これらの経緯については史料が少なく詳細は分かっていないが、いずれの場合も意味は同じで、浅い浸食谷の周囲に斜面樹林が接する集水域であり、丘陵地の中で一段低くなった谷あいの土地であることを表している
 なお、多摩・三浦丘陵における谷戸地形の成因は主に約2万年前の最終氷期頃にかけて進んだ雨水・湧水による浸食で、その後の縄文海進期にかけて崩落土などによる谷部への沖積が進んで谷あいの平坦面が形成されたと考えられている。
 大量の水を使う水稲耕作において水利の確保は重要な課題のひとつとなるが、日本において稲作が始まってからしばらくの間、利水・治水技術が発達していなかった(当初の鉄製品は朝鮮半島からもたらされる希少なものであり、農具は木製が多く、用水路開削などには多大な労力を要した)頃には、集水域であるから湧水が容易に得られ、しかも洪水による被害を受けにくい谷戸は、排水さえ確保できれば稲作をしやすい土地であった。よって丘陵地内にあっては古くから稲作が営まれており、中世までには開発が進んでいたものと考えられている。
 こうした土地は森林が近接する谷あいの農地であることから、日当たりを確保するため、田に近接する斜面では「あなかり」などと呼ばれる下草刈りが定期的に行われており、また近接する森林では薪などを取ることができ、そうした行為には慣例として入会権が認められていた。労力さえかければ生活に必要な食糧、燃料、道具等の材料を調達するに適した土地であったと考えられている。
 反面、こうした場所は尾根筋に挟まれた狭隘な地形である為に日照時間が短く、水はけが悪い場合には湿地状態になっていることが多い。また湧水地に近接する谷戸田へは農業用水を直接引き入れると水温が上がらないうちに入ってしまうこととなり(多摩地域では谷戸に流れる冷たく分解前の腐植質が混じる水を「黒水」と呼んだ)、水を引き回すなどして温める工夫が求められる上、収穫される米の食味が悪くなるとの指摘がある。
 戦国時代以降になると治水・利水技術が進展し、諸大名が石高向上のための稲作振興策を推進したため、関東においても新田開墾が進み、平野部での稲作が盛んになった。 さらに明治以降になると中央集権化が進められ、それまで地域毎に藩主導で行われていた農業振興策が縮小・廃止されるようになり、「高度経済成長」期になると農機や化学肥料の導入をはじめとする集約化が進められ、エネルギー源も薪から化石燃料へと転換した影響を受けて、前述のような谷戸地形の優位性が失われるとともに欠点が目立つようになり、谷戸田は衰退することとなった。 また、湿度が高く宅地とするにも不向きであることから、耕作放棄後には荒れ地になっていたり、建設残土などにより埋め立てられている場合すらある。
 しかしながら、都市化が進む地域においては緑地や水源地としての希少性・貴重性が認められて保全する動きが出てくるとともに、近年は後述するような価値も認められるようになっている。
 生物多様性の重要性が認識されるようになった近年、前述のような独特の条件がある谷戸の生態系に注目が集まるようになった。
 たとえば、トウキョウサンショウウオやヤマアカガエルなどの絶滅危惧種や地域固有種が、開発を逃れた谷戸に生息していることが多い。また、急激な都市化が進められた関東地方において今なお従来の生態系が残っている場合があることから、里山や雑木林などとともに価値が見直されはじめている。
 関東地方近辺では地域毎に主に下記の呼称が使われている。
宮城県やち茨城県や、やつ
谷田部(やたべ、東谷田川、西谷田川が存在する)千葉県(下総台地・房総丘陵など)、鎌倉付近やつ栃木県や、やつ群馬県かいと、やつ埼玉県(狭山丘陵など)やと(がいと)、やつ神奈川県、東京都(多摩・三浦丘陵)やと(相模野台地では「やつ」とも、武蔵野台地では「や」とも)
市谷、大谷田(おおやだ)
地名例
やち: 大谷地、大谷地村(おおやち)、前谷地(まえやち)、谷地畑(やちはた)
やと: 上谷戸(かさやと)、入谷戸(いりやと)
-や: 瀬谷(せや)
谷津干潟(やつひがた)、谷津駅(やつえき)
-がやつ: 扇ヶ谷(おうぎがやつ)
-がや、がい: 市谷(いちがや)、熊谷(-ケ谷、-ヶ谷、熊井)、越谷(こしがや)、鎌ヶ谷(かまがや)、世田谷、祖師谷、保土谷
 以上、「Wikipedia」を長々と引用しました(赤字は引用者)。自分なりに、この発見はとても気に入りました。「谷田」といういわれもここにあったと思われます。

「今昔マップ」より。戦前のようす。青い○のあたり。東側(駒込寄り)の地域には、「谷戸」という地名が表記されている(赤い○)。
明治14年頃のようす。右上の街道が「本郷通り」。中央が「谷戸」水田という表示。細い流れが田んぼと畑(高台)の間に流れているのが分かる。両側の高台に住まいがある。上の図の青丸辺り。
 残念ながら、明治末・大正期からの急速な宅地化によって、かつての「谷戸」(里山のようなもの)が全く失われ、面影はありません(「三四郎」の頃にはまだまだ残っていたのでしょうが。)
 どこを河川(「谷田川」「谷戸川」・・・)が流れていたのかも全く定かではありません。この交番とその先にあった町会の倉庫に「南谷戸」とあったのが目に付いただけでした。

はるか南の方に延びる「商店街」の道。「染井銀座商店街」、「霜降銀座商店街」に通じる。この道がかつての水路跡?
「西ヶ原みんなの広場(旧東京外語大キャンパス)」東側。このあたりが標高14㍍。公園の西側の住宅地は25㍍。一説では、水源はもっと西側の巣鴨の青果市場付近にあったという。染井霊園そのものは標高24㍍の高台なので、霊園の北側を抜けて東(谷戸方向)に流れていった。それにこの辺りの湧き水が合流して今度は南方向へ流れていった、ということが考えられます。
「北区」HPより。
北区と豊島区の区界。右が北区、左が豊島区。
「染井霊園」の北の隅。この辺りに水源があった?

江戸時代の西ヶ原のようす。(「霜降銀座栄会」HPより)

 かつての「谷田川」とそこで営まれたその地域の人々の「面影」を彷彿とさせます。こうして現代を歩きながら往時を偲ぶのも、また一興。
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音無橋。赤煉瓦酒造工場。谷田川跡をたどる。王子~駒込編。その1。

2013-09-02 18:51:59 | 河川痕跡
 炎天下。王子駅で涼しい電車から降りたときには、もう汗が噴き出してきて。今回は、石神井川から下ってみようと。しかし、飛鳥山公園脇のカーブを上っていくと、石神井川(北区役所)方向へ進む横断歩道が見当たらない。急坂で幅広く、
さらに都電まで通っているのだから仕方がありません。
 本郷通りと明治通りがT字型になっているところの歩道橋を渡っていくことに。石神井川に架かる橋の下は緑も濃く、ほっと一息。それからおもむろに駒込方向に。

(「歴史的農業環境閲覧システム」より。明治14年ころのようす。中央蛇行している川が「石神井川」。右が飛鳥山。当時も、もちろんすでに流れは王子方向に落ちるように流れていきます。さらに現在は隧道で飛鳥山の下をくぐるようになっています。飛鳥山に沿って北西に進む道は、「本郷通り(岩槻街道)」。中央部分に細い流れが見えますが、これが「谷田川」?
 なお、「音無川」は石神井川から王子の滝(音無橋下流にあった滝で、今はない)付近で分岐し、飛鳥山の東を流れ、日暮里、三ノ輪、思川、さらに山谷堀(日本堤)となり、今戸で隅田川に流れていました。

「飛鳥山公園」の一角。
歩道橋からの「飛鳥山公園」。
「本郷通り」はゆるい上り坂で駒込方向に進みます。一方、「明治通り」の方もゆるい上りで池袋方向に進みます。王子の坂がかなり急なカーブの坂になって王子駅方向に下っていきます。そのせいか、石神井川の南地域で低いところは見当たりません。石神井川の急な谷のような流れが大雨の時にあふれてしまう、とは想像もできません。しかし、現実にはかつてはよく氾濫したようです。

※音無橋
 3つのアーチ型の橋脚と欄干の優雅な曲線美が印象的な音無橋は、昭和5年の架橋以来、交通の要として、また、王子のランドマークとして多くの区民に親しまれています。
 この橋から川の下流方向には、水車や東屋、行灯などを配する音無親水公園が見えます。江戸風情を感じさせるその景観は、訪れる人々の心を和ませます。
 この公園は、平成元年「日本の都市公園100選」に、同2年「手づくり郷土賞」に選ばれました。
 春には、桜の花見客で、また、夏には水遊びの子どもたちでたいへんなにぎわいを見せる場所です。
(「www.city.kita.tokyo.jp/misc/100select/01/01_03.htm」より)

なかなか重厚な趣のあるアーチ式の橋。その親柱。
この橋の下が「音無親水公園」。

※音無親水公園 
 音無親水公園は、小平市の東部を源にして隅田川に注ぐ石神井川の旧流路に整備された公園です。石神井川は、北区付近では“音無川”と呼ばれ親しまれ、古くからの春の桜・夏の青楓と滝あび・秋の紅葉など四季の行楽の名所、景勝の地でした。
 しかしながら、戦後の経済の復興・発展とともに石神井川も生活排水などで汚れた川となり、洪水による被害を防ぐ目的で、昭和30年代から始まった改修工事によって緑の岸辺は厚いコンクリートの下へと消え、典型的な都市河川となりました。この改修工事で、飛鳥山公園の下に2本のトンネルを掘り、石神井川流路のショートカットが行われ、残された旧流路に、「かつての渓流を取り戻したい」として音無親水公園がでいました。
 音無親水公園は、全国の都市公園の模範たる公園として“日本の都市公園100選”に選ばれています。都内では、国営昭和記念公園、日比谷公園、上野公園、水元公園、代々木公園が選ばれており、園内には記念碑があります。
(「北区」HPより)

橋の階段をけっこう降りていかないと公園(流れ)にたどりつけない。
隧道(トンネル)の上部。「石神井川飛鳥山隧道」とあります。
その上から眺めると、遙か下を激しい勢いで一気に隧道内に入っていきます。
ところがほんの少し上流に行くと、澄んではいますが、見た目にはほとんど流れていません。おそらく隧道をつくる前は川幅と増水量がアンバランスだった感じです。洪水を起こしやすい川の構造に。
王子方向を望む。川は遙か目の下です。

 石神井川に飛鳥山の下を通る隧道が出来る前は、今の「音無親水公園」から王子方向へ流れていきました。洪水などを防ぐ目的で、江戸時代初期に流路の変更工事を行ったという説もありますが、もっとはるか昔、太古の頃から浸食作用(東京湾が上野台地まで浸食していた)によって、流路が変わったようです。
 それ以前は飛鳥山の縁に沿って南下し、上野台地と本郷台地の間を流れていた。「谷田川」は、王子方向に流れていなかった頃の「旧石神井川」であった、という見方があります。(以前、紹介しました。)
 それが今の石神井川が王子方向に流れていった時に断ち切れてしまい、ほとんど細い流れに。そこに染井霊園の北側付近にあった湧水が流れ込んで、南の方に流れていた、というふうに想像できます。

「takata.cafe.coocan.jp/hitkt/ccinfo/index92-2.html」さんのHPより。‎

 6000年から7000年前の後氷期有楽町海進最盛期には、石神井川は谷田川に流れ王子の飛鳥山と王子権現の間は切れていなかった。 この部分は海進と海退の繰り返しで侵食し、後に石神井川は荒川に流れた。それによって谷田川への流れが途絶えた。

 とありました。「谷田川」が石神井川から分かれたときに、いつしか当時の地勢、「谷」「田」を持つ川として命名されたのではないか。
 東西二つの台地にはさまれた谷間の地で、畑地、水田などの農業を行い、人々の生活が成り立っていくためには、それなりの河川の存在がないと実現できません。石神井川からの流れが途絶えても、農業が明治初期まで(その後は宅地化されていく)営まれてきたことは重要な視点です。石神井川の南から染井までの間にも畑が目立つことは何らかの水路(人工のものも含めて)の存在があったはずです。 
 しかし、実際歩いてみて、石神井川から谷間への水路は確認できませんでした。ようやく「染井墓地」北、「東京外語大」跡、豊島区と北区の区界を越えて南に入った辺りから、「谷田川」らしい水路跡がたどれます。

 さて、石神井川から離れて出発。これだけの峡谷ですから、上り道ばかり。「今昔マップ」による標高ではこの辺りが低いところとあれこれ狙いをつけてもまったく分からず。そのうち、レンガの舗道へ。
「音無のレンガ道」。
振り返ってみたところ。ゆるやかな上り道。
「赤煉瓦酒造工場」。
建物配置図。
趣のある煉瓦造り。
外にあった大型の甕。実際にお酒をつくっているそうです。


東京事務所酒造工場(赤レンガ酒造工場)の一般公開
 平成16年10月に、東京都北区滝野川にある赤レンガ酒造工場の一般公開を行った。
 また、赤レンガ酒造工場は、酒造工場として高い評価を得ているだけでなく、築後100年を経過した、 歴史的・文化財的建築物である。このことを国民に広く認知してもらうために、夜間のライトアップ設備を設置した。
より。
 研究所の研究成果やお酒についての技術的な情報等を分かりやすく解説した広報誌「エヌリブ」を年間2回発行しているようです。
創刊号から23号まで
 酵母、麹菌、原料、醸造法、酒類総合研究所きのうきょうあす、清酒の研究、お酒の安全性とおいしさ、などを特集しています。(PDFファイルで閲覧できます。)

 毎年、桜の季節にも一般公開しているそうで、そのときには利き酒の会もあるとか。研究を中心とした「独立行政法人」。広島に本部が置かれているらしい。歴史的にはなかなかのもの。知りませんでした。公開日にぜひ来てみたい。

 しかし、100年も前からこの場所にあった、ということはこのあたりには谷田川の流れはなかった、ということでもあるのか? お酒の製造にはたくさんの水が必要でもある。地下水を利用していたということに?
 本郷通り沿いにある「国立印刷局滝野川工場」(当初は、飛鳥山の東側、旧「王子製紙」工場のそばにあった。)製紙工場を含めて大量の水を必要としたのではないか。このへんの事情は不勉強のためさだかではありません。いずれにしても、水と大いに関わりのある製紙工場、酒造工場、さらに農事試験場などが明治時代からこの近辺にあったということは、「石神井川」の存在はもちろん、それだけでなく中小河川(荒川・隅田川を含む)の存在が大きかったと思われます。

※「国立印刷局滝野川工場」
 明治4(1871)年7月27日、大蔵省紙幣司として創設されました(同年8月に紙幣寮と改称)。創設当初の業務は紙幣の発行、交換、国立銀行(民間銀行)の認可・育成等紙幣政策全般でした。
 当時、国内では印刷技術が未熟であったことから、明治政府は、近代的な紙幣の製造をドイツやアメリカに依頼しました。しかし、紙幣は国内で製造すべきであるとの声が強まったため、紙幣寮において紙幣国産化の取組が行われることとなり、併せて証券類、郵便切手(明治5(1872)年1月に製造開始)の製造、活版印刷等の印刷・製紙業務を行うこととなりました。
 紙幣寮は、研究を重ね、明治10(1877)年10月15日に国産第1号紙幣(国立銀行紙幣(新券)1円)の製造を開始し、名実共に我が国近代印刷・製紙のパイオニアとしての第一歩を踏み出しました。
 そして、明治31(1898)年11月1日に、官報(明治16(1883)年7月2日創刊)を発行していた内閣官報局と統合し、官報も含めた事業官庁となりました。
 その後、幾多の変遷を経て、平成15(2003年)年4月独立行政法人国立印刷局となり、現在に至っています。
(印刷局のHPより。)

明治通り。左奥が飛鳥山。道はその方向へ少し下ってまた飛鳥山の方に上っていきます。池袋側は上り坂。
中央の円筒形あたりが一番低いところ。
これまでの他の河川跡探索の経験では、その辺りに河川が流れていたという感じですが・・・。現在の石神井川からは上って来る位置なので何とも言えない。但し、石神井川から明治通りにぶつかる道は不自然なほど(道路としては)曲がりくねった流水路のような道がこの辺りまで続いています。
 「今昔マップ」に表示された標高は、石神井川・音無橋付近:16㍍、赤煉瓦酒造工場の東(曲がりくねった道)a地点:18㍍、明治通りの上記の地点b地点:18㍍、飛鳥山下の本郷通りd地点:19㍍、明治通りの西(池袋方向)c地点:19㍍。
 明治通りにある横断歩道を渡っていき、都電の線路を挟んだ東側「滝野川第三小」の南地点e地点:17㍍。ということになっています。また、さらに下って旧東京外語大(現在、「西ヶ原みんなの広場」)の東f地点:14㍍。ちなみに、王子駅の南東の標高は、4㍍。石神井川が一気に王子方向に流れ落ちていくことが分かります。
「今昔マップ」1980年代。飛鳥山の標高は20㍍。意外に高く感じるのは、山の東側(崖下・JR線)が標高3~4㍍なので、高く見えるのだ。
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二つの踏切。谷田川跡をたどる。番外編。

2013-09-01 12:45:46 | 鉄道遺跡
 駒込駅近くには二つの踏切が有名。一つは山手線唯一の踏切。もう一つはかつての踏切。この二つを紹介します。
山手線唯一の踏切。手前が踏切、向こうは「湘南新宿ライン」(もともとは「貨物線」)の跨線橋。名称は、「山手線第二中里踏切」。駒込と田端の間にあります。
「跨線橋」から踏切を望む。
駒込駅方向を望む。よく見ると、線路はいったん下ってまた駅の方に上っています。底のあたりが「中里用水(谷田川)」跡。

 さて、もう一つは、「踏切」跡。
この踏切は、かつて駒込駅と「山手線第二中里踏切」との間にあった。もしかしたら「第一中里踏切」?跡。線路を挟んで直線の道が断ち切られています。北側から。向こう側を見ると、一部分が下に下がっています。踏切の名残?
反対側。どういうわけかフェンスに扉がありました。
振り返ると、直線の道路が先の方まで延びています。
(「今昔マップ」より。戦前のようす。上の赤丸から「第二中里踏切」、「第一中里踏切?」、「中里用水架道橋」。ということになりそうですが。

 これで、「不忍池」から「中里用水架道橋」までたどりました。次回は、王子駅で下車して「石神井川」の分岐付近?から駒込駅まで「谷田川」(中里用水)跡をたどってみます。
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