おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

市内と市外の境。墨田区・向島編。南葛飾郡。

2013-09-24 20:34:14 | 歴史・痕跡
 台東区と荒川区は市内と北豊島郡との境界。隅田川の東は、今度は市内と南葛飾郡との境となります。向島地域で分かれていましたが、現在は同じ墨田区向島。横十間川から東がやはり南葛飾郡で、現在の江東区となります。今回は、この境界線をたどってみました。もともとは細い川(水路)の流れに沿って区分けされていましたが、現在はまったく流れの痕跡はありません。北十間川との合流地点も定かではありません「横十間川」は今も昔も変わらぬ流れです。
 よりどころは、「goo」地図の明治時代のもの。市内は詳細な地図が掲載されていますが、市外は全くの空白。その境目はいまどうなっているか? 再び路地裏の探訪ということになるのか?
江戸・安政3年(1856年)の古地図(「曳舟川」沿いの掲示による。南北を修正。)。赤い線が境界線となった流れ。赤丸に「葛飾郡請ぢ」とある。西の大きな川は隅田川。東は中川。中央南北の流れは、「曳舟川」「大横川」。南の運河は北十間川。合流点から少し東、南方に流れるのが「横十間川」。中央の鐘淵付近から南東への流れ(「古綾瀬川」)は、荒川(放水路)工事で吸収された。

首都高の向島入口。このあたりが境界線でした。墨堤通り。
「墨堤通り」から東に入ったところ。何本か道がありますが、どうもこの細い道がそうだったようです。南の広い道も隅田川から分かれて東南に流れ、曳舟川に合流した流れのようですが、これは境界線の内側(東京市内)の流れのよう。
細い路地をはさんで、東京市内と市外(南葛飾郡)とは思えないほど。現在は、墨田区向島五丁目・四丁目町内。
(「今昔マップ」より。明治末頃のようす。)このころは、はっきりと水路(境界線)が残っていました。北十間川との合流付近には大きな池(赤丸)。
南東に向かって進んでいます。
「鳩の街商店街」入り口(水戸街道側)。この通りの一本南の通りが境界線となった流れ跡。
水戸街道を渡ったところから続きます。
道路(流路の跡)に比べて両側の土台が少し高くなっています。
このあたりは、頑丈な土台になっています。
曳舟川通りから来た道を振り返る。微妙なカーブを描いています。
曳舟川通りをはさんで水路跡の道。
土盛りされた道沿いの土地。
東武線の線路にぶつかりました。振り返ったところ。両側を細い道で囲まれた細長い住宅が続いていました。水路跡?
たどってきた路地。
スカイツリーも間近。
線路を越えた付近。ここまでは何とかたどれました。
(「同」。)京成電車が押上まで開通したころのようす。黄色い○あたりに東武線との乗換駅として「請地」駅がありました。
(京成線高架線工事沿いにあった掲示写真より。)左が京成押上駅(地上駅)。右が東武線。
地図では境界線はこの通路なのですが・・・。
 この先は、戦後の区画整理で道も縦横に直線で広く流路跡はまったくさだかでなくなりました。
(「同」)。押上駅の東側一帯。区画整理されてかつての水路は?

「わんぱく天国」脇。この辺りが少し広くなったところだったと思いますが。
「わんぱく天国」。
そこからのスカイツリー。
北十間川との出会い付近。他よりも少し広くなっているのが気になりました。
来た道を振り返る。
十間橋からのスカイツリー。首都高向島入口付近からここまで(ほんの一部、不明なところもありましたが)、細い道ながらもほぼここまでたどれることに驚きました。


(「歴史的農業環境閲覧システム」より。)北十間川との合流地点。(赤丸の部分)。南に流れる運河が「横十間川」。
北十間川と横十間川との分岐点。横十間川の東側が「南葛飾郡」。現在は、江東区亀戸地域になる。(江東区でも、「竪川」以南はもともと東京市内に属し、現在は深川地域。)
北十間川。かつては「南葛飾郡」だったが、現在は、川をはさんで右奥が江東区、左・右手前が墨田区。北十間川は東に流れ、旧中川に合流する。
横十間川の流れ。右が墨田区、左が江東区。横十間川は南に流れ、小名木川へ。そして、さらに南へ流れていく。

 現在の墨田区の区域にはいる江戸時代の町村は、慶応四年(1868)7月10日区北半の向島地区18ヶ村は武蔵知県事に所属したのち(同年9月8日明治改元)、同11月東京府南葛飾郡に編入されたが、区南半の本所地区は最初(慶応四年5月12日江戸府設置)から江戸府(7月17日→東京府改称)に編入された。同7年3月8日大区小区制により第六大区・第十一大区に編入され自治権被奪の憂き目に遭う。2ヶ月後の7月22日「大区小区制」を撤回すると「郡区町村編制法」ほか2法を制定し地方自治の方向を示した。11月2日郡制を復し当区では南葛飾郡16ヶ村・本所区77町が成立した。
 同22年5月1日明治政府が初めて地方自治を認めた「市制町村制」により、南葛飾郡下の須崎・押上・小梅・請地・中ノ郷・柳島の6ヶ村を本所区に編入し本所区亀戸町を郡下に移した。残りの10ヶ村は統合して隅田・寺島・吾嬬・大木の4村に改編、同24年3月18日本所区編入の6ヶ村を9町に編成し本所区は82町となった。同44年5月1日市制町村制の改正により本所地区では町名改称し南本所・本所の冠称を削除した。
 大正元年日9月5日吾嬬村が町制移行。同3年3月31日荒川放水路開鑿のため大木村は廃村となり、残った村域を本田村と吾嬬町に編入。同12年3月24日寺島村が、同8月16日隅田村が町制に移行。昭和4年11月1日町名改正により本所区は68町となった。同7年10月1日東京市周辺郡部を市に組み込んで20区を新設することになり、南葛飾郡下の3町が合併して向島区29町が成立した。同18年7月1日、府県制を改正し新たに「都制」を敷き東京府と東京市を廃して東京都を発足させた。
 敗戦後の同22年3月15日都は、戦禍による疲弊と人口減少のため都心区の統合を図ることになり、向島区と本所区が合併させ墨田区97町を成立させた。(「東京の地名の由来 東京23区辞典」さんより引用。途中、一部省略あり。)

 なお、「南葛飾」は、葛飾区立石にある「都立南葛飾高校」にその名を残しています。
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