おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

池鯉鮒宿本陣。いずれあやめか、・・・(名鉄「矢作橋」駅から「豊明」駅まで。その5。)

2015-07-10 23:22:53 | 旧東海道

中町の六叉路。正面の細い路に入ります。


    
                          この辻の角には趣のある建物があります。

来た道を振り返る。右手の電柱に「東海道」の標示。

右手にある「食品館・美松」の駐車場に「池鯉鮒宿問屋場之跡」。

 「国道419号線」を渡ります。その右手に案内図。

 その案内図をもとに本陣跡へ。東海道から少し南に入ったところにあります。

    

 池鯉鮒宿本陣跡

 本陣とは、江戸時代の宿駅に設けられた、大名や幕府役人、公家等が宿泊する公認の宿舎である。
 東海道39番目の宿駅である池鯉鮒宿には、本陣・脇本陣(本陣だけでは対応できない時の予備の宿)が各一軒置かれていた。本陣宿は、当初峯家が勤めていたが(杉屋本陣)、没落したため、寛文2年(1662)からは永田家によって引き継がれた。敷地三千坪、建坪三百坪と広大な面積を有していたが、明治8年(1875)に取り壊され、二百年近く続いた永田本陣も、時代の変化とともにその使命を終えた。

 知立市教育委員会

車止めなのか、古タイヤが置かれている。裏手の石碑は「明治天皇行在所聖蹟」記念碑。

 しばらく進むと、左手に山車を収納する大きな蔵があります。

         「本町山車蔵」。

 その先の突き当たりを右に曲がります。正面に道標があります。右に折れると、正面奥には「了運寺」の山門。

        

 左手には、「知立古城跡」絵図。

「了運寺」のところを左に曲がります。曲がり角には「知立大明神」の「常夜燈」。

この道を通る先達が必ず?カメラにおさめる画像。そろばん塾のマスコット。 お腹の大穴にもめげず、まだまだ健在です。

 「国道155号線」の横断は、地下道を利用します。地下道の入口に総持寺跡の大イチョウの説明板。



総持寺跡大イチョウ 市指定文化財(天然記念物)
 イチョウ科の落葉喬木。雌雄異株。このイチョウは雌木で、秋には多くのギンナンが採れる。イチョウの木は、病害虫が少なく、火にも強いため、神社・寺院に植えられて巨木となって残る例が多いが、この木もその一つである。樹齢二百余年を経た今も樹勢未だ衰えていない。
 元和2年(1616)ここに玉泉坊を創建、貞享3年(1686)総持寺と改称、明治5年(18722)廃寺となり境内は民間の手に移った。総持寺はその後大正15年(1926)に西町新川に再建され、現在に至っている。

 奥にある大木がこのイチョウだと思いますが、近づけず。

国道をくぐり抜けて振り返る。

 しばらく進み、右折して行くと、左手に「知立公園」。園内には、花菖蒲が咲き誇っています。ちょうど「知立花しょうぶ祭」を開催中。

    

 「かきつばた」を見ることができなかったので、ここでしばし休憩しつつ観賞。東京・葛飾区にある「堀切菖蒲園」も見事な花しょうぶが咲きます。

 次の3枚は「堀切菖蒲園」の写真(2014年6月15日撮影)。

        

        

 この知立公園もなかなか見事でした。休憩所で地元・知立名物の「大あんまき」を。

        

 薄く細長いホットケーキ生地で餡を巻いたもの。1890年創業の小松家本家が元祖であり、藤田屋など知立市内には他にも何店舗かあるようです。「黒餡(小豆餡)」と「抹茶餡(白餡)」を買いました。写真は、黒餡。なかなかのもの。


 ところで、『菖蒲(あやめ)・菖蒲(しょうぶ)・杜若(かきつばた)の『違い』は?

 (以下HPより。)

 5月から6月にかけて、これからはあやめやしょうぶやかきつばたのシーズンですね。各地のXX菖蒲園など菖蒲の名所が賑わいます。東京では堀切菖蒲園や水元公園など有名ですね。

 皆さんも「いずれあやめか、かきつばた」という言葉を聞いたことありますね。
あやめとかきつばたはよく似ていて見分けにくいところから来た言葉のようです。そこであやめとかきつばたの違いは? を調べようと思って調べているとさらに面白いことを見つけました。

 あやめとしょうぶはどちらも漢字で書くと「菖蒲」なんですね。でも漢字は同じでも菖蒲(アヤメ)と菖蒲(ショウブ)は別物。

 菖蒲(ショウブ)と菖蒲園などで見る花菖蒲(ハナショウブ)も別物。だからアヤメとショウブとハナショウブは別物。それに「いずれがあやめ、かきつばた」の杜若(カキツバタ)が加わって4つ巴のぐちゃぐちゃ。

 混乱の元は4つあります。漢字が同じだったり葉っぱや花が似てたり・・・。

整理すると(1)菖蒲湯に入れる「菖蒲」(2)「花菖蒲」(3)「あやめ」(漢字で書くと菖蒲)(4)「かきつばた」(杜若)の4つが似ているが、実は違うのです。

・・・

 菖蒲湯の菖蒲は花菖蒲・あやめ・杜若の3つとは別物・・・これはすぐに判明
 植物学的には(2)「花菖蒲」(3)「あやめ」(4)「かきつばた」はすべてアヤメ科アヤメ属だから皆同じ仲間で極めて近い関係。
 ところが(1)菖蒲湯の菖蒲はサトイモ科で別物。葉っぱがにているだけ。花も咲くことは咲くけどきれいな花ではなく、蒲(がま)の穂みたいな黄色い花である。
 5月5日端午の節句の菖蒲湯に入れるあの菖蒲に花が咲くと、菖蒲園なんかに咲いている菖蒲(花菖蒲)なのかな(つまり、菖蒲の花=花菖蒲)と思っていたらこれが全く違うんですね。

 《名前の由来》

・はなしょうぶ(花菖蒲)
葉が菖蒲に似ていて花を咲かせるから。

・あやめ(菖蒲)
剣状の細い葉が縦に並んでいる様子が文目(あやめ)模様。花基部の網目模様からの説もあり。

・かきつばた(杜若)
かきつばたの色(青紫)を染み出させ布などに書き付けた、つまり衣の染料に使われたことから「書付花」と呼ばれていたのがなまったもの。

 では「花菖蒲」、「あやめ」、「かきつばた」の違いは?
 これがなかなか難しい。3つとも“アヤメ科”アヤメ属に属しています。だからとてもよく似ていて見分けにくいことは確か。
以下それぞれの特徴から見分ける方法を探る。

 《違いのポイント①》 咲く場所

・あやめは畑のような乾燥地で栽培するのに適し、
・かきつばたは水辺などの湿地帯に適し、
・花菖蒲はその中間で畑地でも湿地でも栽培できる

 《違いのポイント②》 背丈

 背のたけはあやめが一番背が低い(30~60cm)、杜若が中間(50~70cm)、花菖蒲は背が高い(80~100cm)。

 《違いのポイント③》 花の大きさ

 花の大きさは花菖蒲が大輪、あやめが小輪、杜若が中輪。

 畑に咲いてる奴で背が高くて(80~100cm)花がでかいのが花菖蒲、背が低くて(30~60cm)花が小さいのがあやめ。(これは大と小だから差が大きく判別しやすい)
 水辺に咲いてる奴は杜若か花菖蒲で、大輪の花で背が高い(80~100cm)のが花菖蒲。中輪で少し背が低い(50~70cm)のが杜若。

・・・

 《やっと見つけた1発でわかる方法! 》

・花菖蒲は花の種類は多く紫系統の他に黄色や白、絞り等、多彩であるがどれも「花弁の根元のところに黄色い目の形の模様」がある。
・杜若はあまり種類は多くないが、「花弁の弁の元に白い目型の模様」があるのが特徴。
・あやめも花の種類は多くないが「花弁の元のところに網目状の模様」がある。

 《結論》

 花弁の元を見よ!花菖蒲が黄色の目型模様、あやめが網目模様、杜若が白の目型模様。これで完璧。目的達成!

余談:「いずれあやめかかきつばた」について
 元々は、いずれ劣らぬ美人が二人いるときに使っていましたが、最近はいずれも優劣がつけ難いほど素晴らしいものを例えて使う言葉になっています。
 ただ、単にどちらもよく似ていて見分けにくいものを言うわけではありません、美しい(素晴らしい)という前提条件が必要です。

 《咲く時期》

・かきつばた(5月中旬)
・あやめ(5月中旬~下旬)
・花菖蒲(5月下旬~6月下旬)ハナショウブが遅くまで咲いている(種類が多いからね)。

 花菖蒲は日本産でかなり後から生まれた。花菖蒲は江戸時代の中頃より、各地に自生するノハナショウブの変わり咲きをもとに改良され、発達してきた日本が世界に誇れる伝統園芸植物です。だから種類も多い。
 万葉の頃はかきつばたが読まれ、菖蒲というと葉菖蒲のこと。花菖蒲が文献に出てくるのは江戸時代から。

(当方で、少し編集しました。今年はいずれも花期を過ぎましたので、また来年、ということで。識別方法を忘れてしまいそうですが)

 
園内には芭蕉の句碑があります。

芭蕉句碑

 不断堂川 池鯉鮒の宿農 
          木綿市  芭蕉翁

 元禄5年(1692)秋9月、江戸深川で詠まれた芭蕉の句である。
 木綿市についての資料は乏しいが、江戸で「池付白」と呼ばれて好評な三河木綿の集散地であった賑わいがうかがわれるようである。
 池鯉鮒蕉門の俳人井村祖風が、寛政5年(1793)この句が作られて百年目に当たったのを記念し、同好の士十五名に働きかけて建立されたもので、その名は碑陰に刻まれている。

 知立市教育委員会

 この句、「ふだんたつ ちりふのしゅくの もめんいち」と読ませていますが、『芭蕉俳句全集』(www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/Default.htm)には掲載されていません。他の句集も調べましたが、なし。句趣もそれほどいいとは思えませんが。果たして誰の作? (「藤川宿」の句碑に続いて真偽不明の芭蕉句碑の二つ目。)

    
 明治19年建築の洋風建築「養正館」。長年、各種の学校の校舎として使用されたのち、この地に移築されたもののようです。
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知立松並木。引馬野。天竺豆。池鯉鮒宿。・・・(名鉄「矢作橋」駅から「豊明」駅まで。その4。)

2015-07-09 23:01:45 | 旧東海道

 いよいよ「知立」(池鯉鮒)の「松並木」に到着です。

    
 歩道橋から望む。                         来た道(東)を望む。

    
                       暗渠になった「明治用水」が松並木の左側の緑道となっている。

東海道松並木

 徳川家康が江戸に幕府を開いたとき、禁裏にある京都と江戸間の交通を重視し、東海道を整備したのは慶長9年(1604年)のことである。当時幅2~4間(3.6~7.2メートル)の道は随分の大道であったに違いない。やがて参勤交代が始まり、逐年交通量は増えてきた。そのため寒暑風雨から旅人を守るため、中国の古例にならい両側に松木を植えたものである。
 知立の松並木は、近年まで牛田町から山町まで約1キロ続いていたが、住宅が次々と建てられて今では450メートル程になってしまった。戦前までは、昼なお暗いほど老樹が鬱蒼としていたが、昭和34年の伊勢湾台風により60~70%の松が折られたり、根ごと吹き倒されてしまった。昭和45年、幼松158本を補植し、以後毎年松食虫の防除に努め、昔の姿を今にとどめています。

小林一茶の句碑。はつ雪や ちりふの市の銭叺(ぜにかます)

 1813年(文化10年)に木綿市の繁昌を詠んだもの。銭叺(ぜにかます)=わら製の銭入れ

    

知立松並木 市指定文化財(名勝)

 慶長9年(1604)江戸幕府は諸国に対し、五街道へ一里塚と並木を設置することを命じた。この知立の松並木は、幅7m、約500mにわたり凡そ170本の松が植えられている。側道を持つのが特徴で、この地で行われた馬市の馬を繋ぐためとも推定されている。
 また、この松並木の西の地名を引馬野と呼び、大宝2年(701)持統天皇が三河行幸の際詠まれた歌「引馬野爾 仁保布榛原 入乱 衣爾保波勢多鼻能 知師爾(引馬野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに)長忌寸奥麻呂」から、浜松市・宝飯郡御津町と共に天皇行幸の推定地とされている。

 知立市教育委員会

 万葉歌「引馬野爾 仁保布榛原 入乱 衣爾保波勢 多鼻能 知師爾(引馬野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに) - 長忌寸奥麻呂」 702年(大宝2年)の持統天皇の三河行幸の際の捧呈歌。

途中には馬の像。

 池鯉鮒宿(ちりゅうしゅく・旧仮名遣いでは「ちりふ」)は、東海道五十三次の39番目の宿場。日本橋から約330kmで、当時でおよそ10日間かかったといわれています(当方は、その倍以上もかかっています)。
 馬市が立ったことで知られており、 毎年首夏(陰暦四月)、陰暦4月25日〜5月5日頃に開かれていた。 また三河地方の特産品であった木綿市も開かれていました。
 街道沿いの松並木は、馬をつなぐためにも使われていました。
 明治時代に馬市は松並木から慈眼寺(山町桜馬場)へと移動、牛市・鯖市に移り変りましたが、昭和初期に終了しました。


   東海道五十三次之内 池鯉鮒 首夏馬市 / 歌川 広重

 池鯉鮒は珍しい地名である。鯉と鮒が沢山いた池があったという。毎年4月25日から5月5日に馬市が開かれる。400から500頭の馬が集まり、馬喰や馬主が来た。大きな松は談合松と呼ばれていた。この時期には遊女や役者まで集まってきて賑わったそうである。初夏の爽やかな風景である。

 (「知足美術館」HPより)

※「首夏」=初夏の頃。旧暦で4月の異名。

    
   「万葉歌碑」。                     「馬市之址」碑。

説明板。 

  馬市句碑

かきつばた 名に八ッ橋のなつかしく
 蝶つばめ 馬市たてしあととめて

 俳人麦人は、和田英作を訪ねてこの地を訪れたことがある。

  万葉の歌碑

引馬野に
  にほふはりはら
     いりみだれ
 衣にほほせ たびのしるしに

 この辺りの地名を引馬野といい、昔時より万葉集引馬野の跡と伝えられている。
   
    
   大正期の池鯉鮒(「同」より)                  現在のようす。

 なお、「知足美術館」」では、7月2日から恒例の「歌川広重 東海道五拾三次(保永堂版)」展を開催中です。

                

    
 広重の「池鯉鮒宿・ 馬市」。                 左の通りは「国道一号線」。

 保永堂版『 東海道五十三次之内 池鯉鮒 首夏馬市』歌川広重 天保三~4年(1832~1833)頃

 歌川広重が浮世絵東海道五十三次の池鯉鮒で描いているように、当地では馬市が盛大に行われていた。鎌倉時代の初期に書かれた『海道記』に「池鯉鮒が馬場を過ぎて・・・」とあり、早くから馬にかかわる地であったことがわかる。また、江戸時代の浅井了意の『東海道名所記』、梅月堂宣阿『富士一覧記』、井原西鶴『一目玉鉾』、秋里籬島『東海道名所図会』等にに馬市の盛大な様子が述べられている。これらによると馬市は毎年4月から5月はじめ頃まで開かれ、遠く甲斐や信濃から馬が集められ、その数は4~500にもおよんだ。馬を売買する人はもよよりその他の商人や遊女、芸人、役者、人形遣いまでが集まってきてにぎやか極まりない有様であったという。刈谷藩では山町に馬市番所を設けて馬市の監督にあたった。

 松並木が終わると、「御林」の交差点。「国道1号線」を地下道で向こう側に横断します。

「地下道」内の「東海道」という標示。

地下道を上がると、「池鯉鮒宿」という標示。

 しばらくして名鉄三河線の線路を越えます。
    

    
                             街道沿いの古い家並み。

中にこんな看板が。「天竺豆買います」。「天竺豆」??

 「天竺豆」とは、「ソラマメ」の異名。

 天竺(てんじく)とは、インドの旧名。『西遊記』において玄奘三蔵一行が目指した地とされます。ただし、現在のインドと正確に一致するわけではないようです。
 かつては唐土(中国)・天竺(印度)・日本(倭国)を三国と呼んでいました。「ソラマメ」は、インド原産の植物? 

「ソラマメ」

 紀元前3000年以降中国に伝播、日本へは8世紀ごろ渡来したといわれている。インド僧・菩提仙那が渡日し、行基に贈ったのが始まりともいう。 古くから世界各地で栽培され、食用にされている。現在は南米、北米、ウガンダ、スーダンなどで栽培されている他、中華人民共和国河北省張家口で最高級品が栽培されている。
 高さ50cmほど。秋に播種する。花期は3−4月で直径3cmほどで薄い紫の花弁に黒色の斑紋のある白い花を咲かせる。収穫は5月頃から。長さ10−30cmほどのサヤには3−4個の種が含まれている。
 和名の由来は、豆果(さや)が空に向かってつくため「空豆」、または蚕を飼う初夏に食べ、さやの形が蚕に似ていることから「蚕豆」という字があてられた。酒処では「天豆」と表示している場合も多い。(以上、「Wikipedia」参照)

 「天豆」という表記は、「天竺豆」とも関連ありそうな、・・・。

先に進みます。「常夜燈」。
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在原業平。芭蕉句碑。来迎寺一里塚。・・・(名鉄「矢作橋」駅から「豊明」駅まで。その3。)

2015-07-08 22:48:56 | 旧東海道

 想像していたよりも手狭な「無量寿寺」境内。また「かきつばた」はほとんど刈り取られていましたが、芭蕉句碑などもあって、静かな散策を楽しめるところでした。

「謡曲『杜若』と業平の和歌」。

 謡曲「杜若」は、在原業平が都から東へ下る途中、三河国八橋で美しく咲く杜若を見て都に残した妻を偲び「かきつばた」の五文字を句の頭に置いて
 「唐衣 きつつなれにし 妻しあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思う」
と詠んだと書かれている伊勢物語を典拠に作曲されたものである。
 東国行脚の旅僧の前に、業平によって詠まれた杜若の精が女の姿で現れ、威勢物語の誇示を語り、業平の冠と高子の后の唐衣を身につけて舞い、業平を歌舞の菩薩の化身として賛美しながら杜若の精もその詠歌によって成仏し得たことをよろこぶという情趣豊かな名曲である。

謡曲史跡保存会

 ところで、在原業平と『伊勢物語』の東下りについて。

 「東下り」は、第7段の「むかし、をとこ、ありけり。京にありわびて、あづまにいきけるに」から第8段、第9段の「むかし、をとこ、ありけり。そのをとこ、身をえうなき物に思ひなして、京にはあらじ。あづまの方に」以下をさします。
 その前にはと昔男(在原業平に想定される)が藤原高子(後の二条の后)との恋に破れた話に続く構成となっていて、「芥川」の段には、高子を略取しましたが、発覚して取り返されてしまうという話があります。
 段の構成から東下りはこうした業平と高子の破局がひきがねとなって、「東下り」となるというつながりになっています。
 上の解説文で、謡曲「杜若」にはそのことをほのめかす内容になっていることが分かります。

 その在原 業平(ありわら の なりひら)ですが、

 9世紀半ばにいた人物で、平安時代初期の貴族・歌人。官位は従四位上・蔵人頭・右近衛権中将(それほど高い位ではなかったので、高子との恋が成就しなかったともいえます)。
 六歌仙・三十六歌仙の一人。別称の在五中将は在原氏の五男であったことによります。
 全百二十五段からなる『伊勢物語』は、在原業平の物語であると古くからみなされてきました。

(以下は、「Wikipedia」参照)

 業平は父方をたどれば平城天皇の孫であり、母方をたどれば桓武天皇の孫にあたる。血筋からすれば非常に高貴な身分だが、薬子の変により皇統が嵯峨天皇の子孫へ移っていたこともあり、天長3年(826年)、父・阿保親王の上表によって臣籍降下し、兄・行平らとともに在原氏を名乗る。
 仁明天皇の蔵人となり、849年(嘉祥2年)従五位下に叙爵されるが、文徳天皇の代になると全く昇進が止まり不遇な時期を過ごした。清和天皇のもとで再び昇進し、862年(貞観4年)従五位上に叙せられたのち、左兵衛権佐・左近衛権少将・右近衛権中将と武官を歴任、873年(貞観15年)には従四位下に昇叙される。陽成朝でも順調に昇進し、877年(元慶元年)従四位上、879年(元慶3年)には蔵人頭に叙任された。また、文徳天皇の皇子・惟喬親王に仕え、和歌を奉りなどしている。 880年7月9日(元慶4年5月28日)卒去。享年56。最終官位は蔵人頭従四位上行右近衛権中将兼美濃権守。
 業平は『日本三代実録』の卒伝(元慶4年5月28日条)に「体貌閑麗、放縦不拘」と記され、昔から美男の代名詞のようにいわれる。この後に「略無才学 善作倭歌」と続く。基礎的学力が乏しいが、和歌はすばらしい、という意味だろう。
 早くから『伊勢物語』の主人公のいわゆる「昔男」と同一視され、伊勢物語の記述内容は、ある程度業平に関する事実であるかのように思われてきた。『伊勢物語』では、文徳天皇の第一皇子でありながら母が藤原氏ではないために帝位につけなかった惟喬親王との交流や、清和天皇女御でのち皇太后となった二条后(藤原高子)、惟喬親王の妹である伊勢斎宮恬子内親王とみなされる高貴な女性たちとの禁忌の恋などが語られ、先の「放縦不拘(物事に囚われず奔放なこと)」という描写と相まって、高尊の生まれでありながら反体制的な貴公子というイメージがある。
 代表的な歌は、

・ちはやふる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは — 『古今和歌集』『小倉百人一首』撰歌。
・世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし — 『古今和歌集』撰歌。
・忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや 雪踏みわけて 君を見むとは — 『古今和歌集』巻十八、雑歌下。
・から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ — 『古今和歌集』撰歌。
・名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと — 『古今和歌集』撰歌。
・月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして —『古今和歌集』巻十五、恋歌五。

 「ちはやふる」は、落語が面白い。相撲取りの「竜田川」が遊女に振られるお話。
 「名にし負はば」は、東京・墨田の「言問橋」の由来。
などとけっこう有名な歌があります。



「業平竹」。

 植えられた時期は不明だが、江戸時代の文献には、当寺の堂前に「業平竹」があったとの記述が見られる。
 一節には竹「男竹」であるが笹「女竹」のように一筋から多くの枝を出すため、色男と云われる在原業平に見立てたともいわれる。
 男女竹と称え、縁結びの竹として俗に信仰されている。

「芭蕉連句碑」。

 かきつばた 我に発句の 
         おもひあり   芭蕉

 麦穂なみよる 潤ひの里     知足

 芭蕉が貞享元年(1684)に「野ざらし紀行」を終え、翌年4月上旬木曽路を経て帰庵の途、鳴海の俳人下郷知足の家に泊まり俳筵を開いた時の作といわれる。
 芭蕉は知足の案内でこの旧蹟八橋に遊んで懐古にふけったのであろうか。
 碑を建てたのは知足の子孫である下郷学海で「安永六丁酉六月」(1777)とあり、三河に残る芭蕉句碑の代表的なものとされている。

 知立市教育委員会 

 ところで、京都のお土産で有名な「八ッ橋」。この和菓子にも触れていきましょう。

起源・由来

 江戸中期にあたる1689年(元禄2年)に、聖護院の森の黒谷(金戒光明寺)参道の茶店にて供されたのが始まりとされる。
 八橋の名の由来は定かではなく、箏曲の祖・八橋検校を偲び箏の形を模したことに由来するとする説と、『伊勢物語』第九段「かきつばた」の舞台「三河国八橋」にちなむとする説がある。

特徴

 生八ツ橋(ニッキ風味)
米粉・砂糖・ニッキ(肉桂、シナモン)を混ぜて蒸し、薄く伸ばした生地を焼き上げた堅焼き煎餅の一種で、形は箏を模しており(聖護院八ツ橋総本店による。別に橋の形を模しているという説もある)、長軸方向が凸になった湾曲した長方形をしている。
 蒸し終えて薄く伸ばした生地を焼き上げずに一定サイズに切り出したものは「生八ツ橋」と呼び、1960年代に発売を開始した。純粋に生地だけのものと、正方形の生地を二つ折りにして餡を包んだものがある。とくに後者はメーカーにより多種多様な種類が作られている。生地は通常のニッキのほか抹茶やごまを混ぜたものがあり、餡も通常のつぶあんのほかに果物やチョコレートの餡を用いるものもある。
 明治時代、京都駅で販売されたことがきっかけとなり、認知されるようになり、人気が出て行った[6]。昭和期にはいるとよりやわらかい質の「生八ツ橋」が考案され、現代ではこちらの方が人気がある。
 抹茶味、イチゴ味、チョコレート入りの八ツ橋も作られており、バリエーションが増えている。

八ツ橋の主な製造販売企業について

・聖護院八ツ橋総本店 (玄鶴堂)、「聖(ひじり)」「旬菓(しゅんか)」 1689年(元禄2年)に聖護院の森の茶店として創業し、八ツ橋の製造販売を開始。
・本家西尾八ッ橋、「あんなま」 元禄年間に聖護院の森の黒谷参道に八ッ橋屋梅林茶店として創業し、1689年(元禄2年)に八ツ橋の原型が誕生。文政七年に熊野神社に奉納された絵馬には「八ッ橋屋為治郎」の名が残る。
・聖光堂八ツ橋總本舗、「なまやつ」 1850年(嘉永3年)の創業と同時に八ツ橋の製造販売を開始。
・おたべ(株式会社美十) 1957年(昭和32年)から八ツ橋製造を始めた。餡入り八ツ橋「おたべ」は1966年(昭和44年)から製造を開始し、新顔ながら一大勢力となる。
・八ツ橋屋西尾為忠商店(元祖八ツ橋) 本家西尾八ツ橋と分かれてできた銘柄。完全手作業製造・梱包、添加物無添加で、3軒の直営店だけでの販売を行う。餡入り八ツ橋が4角形で、通年販売は一般的な餡入りと抹茶餡入りだけであることも特徴。
・井筒八ッ橋本舗 1805年(文化2年)創業。井筒八ツ橋や餡入り八ツ橋「夕子」で知られる。

かつてはこれが主流でしたが、

いまはこちらが売れているようです。「生八ッ橋」。

 こうして一通り見学したあと、再び「東海道」へ。時刻は午後1時近く。食事をとるお店もない、出るときにコンビニで買ったおにぎりをどこかで食べようかと歩いていると、「明治用水」の説明板がありました。「水路」は遊歩道になっています。

    

 四阿風の休憩施設が見えたので、そこに立ち寄って、昼食休憩。なんと目の前に「芭蕉句碑」がありました。



 杜若 語るも 旅のひとつかな 

 この句は、芭蕉の紀行『笈の小文』に収められたもの。元禄元年(1688年)4月、大阪の保川一笑宅において作った句である。杜若を眼前にして、『伊勢物語』で有名な三河八橋の杜若を話題にしたのであろう。芭蕉はそれまでに東海道を少なくとも2往復半しているが、杜若を見たと思われるのは、延宝4年(1676年)夏、郷里へ赴いた折であった。『伊勢物語』の業平が望郷の思いに涙したという八橋の杜若は、久しぶりに郷里に赴く芭蕉にもさまざまな感慨を起こさせ、いつまでも心に残ったのであろう。一笑宅の杜若も見事だが、10年以上も前に見た八橋の杜若は、今も忘れられないというのである。なお、この句の芭蕉自筆のものが伝わらないので、この碑は乙州編の『笈の小文』によった。

(監修 愛知教育大学教授 岡本 勝)

 平成7年11月、知立市市制25周年記念に建立されたもののようです。作句の場所は異なりますが、今の心境に絶妙なタイミングです。さすが、芭蕉翁。意を強くして、午後の行動です。

一面の田園風景。

 再び「東海道」を西へ進みます。まもなく「来迎寺一里塚」。

    

来迎寺一里塚 県指定文化財(史跡)

 1603年(慶長8年)、徳川家康が江戸に幕府を開き、その翌年中央集権の必要から諸国の街道整備に着手、大久保長安に命じ江戸日本橋を起点に、東海道・東山道・北陸道など主要街道を修理させた。この時一里(約4キロメートル)ごとに築いた里程標を一里塚・一里山などと称した。
 こうした一里塚は通行者の便宜上後年になって脇街道にも造られるようになった。
 塚の上の樹木は主として榎が植えられたがこの塚は代々、松といわれる。この大きさは直径約11メートル、高さ約3メートルに土を盛り、街道の両側に造られている。
 この塚のように両塚とも完全に遺されているのは、大へん珍しい。
 県下ではほかに豊明市の阿野一里塚などがある。

 知立市教育委員会

    
 南側。                                  北側。

    道の向こう側、奥に北側の一里塚。日本橋から84里目。

しばらく道なりに進みます。「東海道」の標示。

「元禄12年の道標」。

まもなくすると、「国道419号」の向こうに松並木が見え始めます。
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「明治用水」。松並木。「かきつばた」。・・・(名鉄「矢作橋」駅から「豊明」駅まで。その2。)

2015-07-07 18:45:59 | 旧東海道

少し進むと、「宇頭(うとう)茶屋」というバス停。

 そこから10分ほどで、右手に「永安寺の雲竜の松」。

    

県指定天然記念物 永安寺の雲竜の松

 永安寺は大浜茶屋(浜屋町)の庄屋柴田助太夫の霊をまつる寺です。
 助太夫は1677年(延宝5)貧しい村人のために助郷役の免除を願い出て刑死したと伝えられています。
 この寺を覆い包むように横に枝を広げたこのクロマツの巨木は、助太夫家の庭にあったものか、寺が建てられた時に植えられたものか不明ですが、樹齢は300年くらいと推定されます。 この松の樹形は、中心の幹が上へのびず、分かれた幹が地をはうようにのびて、その形が雲を得てまさに天に昇ろうとする竜を思わせるので「雲竜の松」と俗に呼ばれています。
  樹 高  4.5メートル
  幹の囲  3.7メートル
  枝張り  東西 17メートル 南北 24メートル

              安城市教育委員会

 そこからしばらく進むと、「県道76号線」との交差点には、「明治用水」にちなんだ大きな石碑があります。

    

「明治用水」
 愛知県豊田市にて矢作川から取水し、安城市、豊田市、岡崎市、西尾市、碧南市、高浜市、刈谷市、知立市に水を供給しています。本流、西井筋、中井筋、東井筋の幹線と支線から成り、幹線は88km、支線は342kmある。灌漑面積は約7000ヘクタール。


明治用水の歴史

荒寥たる草野

 明治用水開発以前の安城市付近は広大な大地が広がる、「安城が原」「五ヶ野が原」と呼ばれるやせ地でした。わずかに流れる小河川沿いに小規模な水田が開発されていましたが、水に恵まれない地での農業は苦しいものでした。そのため、早くからため池が開発されましたが、台地上の耕地の半分以上がこれらのため池に依存していました。水が足りず、農民同士で争いが起こることもしばしばでした。

都築弥厚らの活躍

 この草野に用水開削が計画されたのは江戸時代末期のことでした。和泉村(現在の安城市和泉町)の豪農、都築弥厚(つづきやこう)は、矢作川上流の越戸村(現在の豊田市)から水を引き、30キロメートルにも及ぶ水路による用水の開削を計画しました。高棚村(現在の安城市高棚町)の数学者、石川喜平の協力を得て測量を始めましたが、水害や入会地の減少を心配する農民たちに妨害され、作業がなかなか進みませんでした。やがて、5年もの歳月をかけ測量図が完成し、幕府から一部の開発許可が下りたものの、長年の激務がたたったのか、弥厚は病没してしました。

悲願の開削工事

 弥厚の死後、明治時代に石井新田(現在の安城市石井町)の岡本兵松によって弥厚の計画は蘇りましたが、明治維新の影響もあり、出願された用水計画は一向に日の目を見ませんでした。明治5年に愛知県が成立し、同時期に矢作川右岸低地の排水と台地のかんがい計画を出願していた伊豫田与八郎(いよだよはちろう)の計画と一本化することでようやく許可を得ることができました。そして明治13年、ついに「明治用水」が完成しました。

日本デンマーク

 明治用水完成後の農業の発展は目ざましいもので、約2000ヘクタールだった水田面積が明治40年には8000ヘクタールを超す一大穀倉地帯へと画期的な転身を遂げました。台地という立地条件のため、秋になり水門が閉じられると水田は干し上がり畑になります。これを利用して冬期には麦や野菜、菜種、れんげなどが栽培され、耕地の高度利用が図られました。安城農林学校長だった山崎延吉の助けもあり、生産物は米作、養鶏、養蚕や果樹と多方面に渡り、多角形農業と呼ばれ普及していきました。こうしてこの地は「日本デンマーク」と呼ばれる、優良農業地帯になりました。

HPより)

 現在は、暗渠化の工事が進み、自転車専用道路などになっています。

    

昭和47年(1972)のようす。

 写真左側が明治川神社と鳥居で、奥の橋が東海道(旧国道1号線)。神社と明治本流との間には、県道豊田安城線があります。

HPより)

 交差点にある「明治川神社」には都築、伊豫田、岡本ら明治用水建設の功労者が祀られています。

 交差点を越えると、松並木が断続的に続きます。道なりに西へ向かいます。
    

 今にも雨が降り出しそうな空模様ですが、蒸し暑くなく、炎天下を歩くよりはかえって楽です。

    「東海道の松並木を守ろう」という標柱。

    
            安城市の「松並木」保存への取り組みを感じます。



市指定天然記念物 東海道のマツ並木

 1601年(慶長6)家康は、東海道に宿駅を定め、つづいて1604年(慶長9)には、街道に一里塚を設置して、道の両側に並木を植えさせた。さらに、1612年(慶長17)道路・堤などの補修、道幅・並木敷地等の定めをして、街道を直接管理した。こうして、街道の松並木は、旅人に風情を添え、夏は緑の陰をつくり、冬は風雪を防ぐに役立った幕府は、その保護補植に力をそそぎ、沿道・近郷の農民たちの、往還掃除丁場という出役によって、その清掃整備が維持されてきた。明治以後も重要幹線国道として維持管理がつづけられ、四世紀にわたる日本の歴史の大きな役割の一部を、担ってきた。近年、風害や公害等のために、その数を減じているが、この松並木のうち大きいもので、樹齢200年から250年ぐらいと推定される。

  安城市教育委員会



右手に「常夜燈」。

向こうに見えるのは、「御鍬神社」の杜。

「猿渡川」を越えて、知立市へ。

 橋を渡ると、左は「来迎寺公園」。そこには案内図があります。
 「東海道見て歩きマップ」。

            
       「なりひらくん」。             「かきつ姫ちゃん」。  

 東京・墨田には「在原業平」にまつわる伝承や地名などが残されています。「言問橋(ことといばし)」「業平橋(なりひらばし)」・・・、東武鉄道の「業平橋」駅は「東京スカイツリー」駅になってしまいましたが。ここで、業平さんにお会いするとは不思議なご縁です。ここは、「かきつばた」関連でいきましょう。

東京の「おしなり」くん。(「おしなり商店街振興組合 oshinari.jp」HPより) 

 すぐ先の交差点には、「元禄の道標」が建っています。
    

元禄の道標

 道標とは、道路を通行する人の便宜のため、方向・距離等を示し、路傍に立てた標示物のことである。この道は、江戸時代の東海道であったから、諸処にこの様な道標が建てられていた。
 従是四丁半北 八橋 業平作観音有 
 元禄九丙子年六月吉朔日施主敬白
と記されており、これは、元禄9年(1696)に、在り原業平ゆかりの八橋無量寿寺への道しるべとして建てられたものであることがわかる。ここから西へ五百メートルの牛田町西端にも、「東海道名所図会」に記されている元禄12年の道標が残されている。

  知立市教育委員会   

横断歩道を渡った西側にもあります。

分岐点を望む。左右に通じる通りが東海道。

 片道10分くらいの道のりです。ぜひとも「かきつばた」の地に行こうと、ここで右折して「八橋・無量寿寺」へ向かいます。時刻は、ちょうど12時。
 ほとんど人通りのない、新しい住宅が建ち並ぶ道を北へ。すでに時季外れではあります。

「八橋𦾔跡」。 


 案の定、誰もいない境内。庭園の方に回ったところ、このような有様。ガッカリ!
    


   

                     

史跡八橋かきつばたまつり
 八橋のかきつばたは、平安の歌人“在原業平”が、「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」と、句頭に「かきつばた」の5文字をいれて詠んだように伊勢物語の昔から知られるかきつばたの名勝地です。
 庭園の面積約13,000平方メートル、16の池(5,000平方メートル)に約3万本の「かきつばた」が植えられています。
 かきつばたまつりは、歴史も古く約60年前から行われており、期間は4月27日から5月26日までで、全国から約12万人程の観光客が訪れます。
 愛知県の花、また知立市の花が「かきつばた」でもおわかりのように、知立市において、このお祭りが最も大きなイベントになっています。
 まつり期間中には、「史跡八橋かきつばたを写す会」をはじめ「茶会」「俳句会」「短歌大会」などさまざまなイベントが催されます。
 期間中は、いつでもかきつばたを観賞することができますが、特に一番花が咲きそろう5月の10日前後が1番の見頃です。

(以上、写真も含めて「」HPより)  

 一ヶ月以上遅いのですから仕方がありません。よく見ると、一本咲いています。「名残のかきつばた」。
                       

庭園の奥にモニュメント。

    
   
 八橋の蜘蛛手に流れる沢のほとりにかきつばたが美しく咲いているのを見て、かきつばたの五文字を句の上にすえて、都に残してきた妻や子を偲び
 から衣きつつなれにしつましあれば
 はるばるきぬるたびをしぞおもう
と、詠まれました。
 この和歌は平安時代前期の代表的な歌人、在原業平作として勅撰和歌集の古今集に撰ばれまています。また、伊勢物語の九段東下りにも採り入れられ、八橋の地が永く語り継がれ親しまれてきました。

う~ん。以下は、原文。

 三河の国、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋といひける。その沢のほとりの木の蔭に下り居て、餉(かれいひ)食ひけり。その沢に、かきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、
かきつばたといふ五文字を、句の上に据ゑて、旅の心をよめ」
といひければよめる。

から衣 着つつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ

とよめりければ、みな人、餉の上に涙落して、ほとひにけり。 


 このような作句(歌)上の技巧を「折句」といいます。

 『古今集』には「をみなへし(女郎花)」を折句にした、

小倉山峰立ちならし鳴く鹿の
 経にけむ秋を知る人ぞなき 紀貫之

ぐらやま ねたちならし くしかの にけむあきを るひとぞなき

小倉山の峰を歩いて鳴く鹿が過ごしてきたであろう秋を分かる人もいない。

という歌もあります。

 なお、
  HPには、古代から近世までの例を挙げて詳細に説明してあり、とても興味深い話が載せられています。

                        「業平像」。
       
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出合之像。予科練の碑。尾崎一里塚。・・・(名鉄「矢作橋」駅から「豊明」駅まで。その1。)

2015-07-05 13:00:18 | 旧東海道

 いよいよ今回は、「七里の渡し」跡まで。日程的にはちょっとゆとりのある行程のはず。かといって、一日では無理。そこで、今回も一泊。時々合流する「国道1号線」の標示ですと、《(日本橋から)330㎞ポスト付近から358㎞ポスト付近まで》。

 6月16日(火)、17日(水)の2日間。

 東海地方も梅雨入りしたので、事前にホテルを予約しても、当日、強い雨ならばちょっと面倒、と思いながら、予約。「刈谷」駅直結の「名鉄イン刈谷」。朝食付きで5,900円。
 「矢作橋」から行けるところまで進んで、泊まる先には戻る感じ(前回の岡崎とは異なって)。ただし、「東海道」の道筋からは少し離れる。天気の予想は、16日は曇り時々雨、17日は曇り。果たしてどうなることやら?

 16日早朝、自宅を出て「東京」駅6:33発の「こだま631号」で「豊橋」。そこで、名鉄線に乗り換えて「矢作橋」駅に9:28着。何となく天気は持ちそうな雰囲気ですが。
 駅を出て、「国道1号線」を「矢作橋」まで10分ほど戻り、ここからスタート。午前9時40分。

    
                            「出合之像」。

出合之像  太閤伝説・日吉丸と小六

 日吉丸(後の豊臣秀吉)は尾張国中村(今の名古屋市中村公園)の木下弥兵衛(弥助)と妻のお仲の子で、八才のころから奉公にだされましたが、十二才の時の奉公先の陶器屋を逃げ出しました。家へ帰ることもできず東海道を東へ下る途中、空腹と疲れで、矢作橋の上で前後不覚で寝ていました。ここに海東群蜂須賀村(今のあま市)に住む小六正勝(後の蜂須賀小六)という野武士の頭が、手下をつれてこの付近を荒らし矢作橋を通りかかりました。通りざまに眠りこけている日吉丸の頭をけったところ、日吉丸は「頭をけり、ひと言のあいさつをしないのは無礼である。詫びて行け」と、きっとにらみつけました。小六は子どもにしては度胸が
あると思い、手下にするからその初手柄を見せよといいました。
 日吉丸はすぐさま承知し、橋の東の味噌屋の門のそばの柿の木によじ登り、邸内にはいり扉を開けて、小六たちを引き入れました。目的を果たし逃げようとした時、家人が騒ぎだしました。日吉丸はとっさに、石をかかえ井戸に投げ込み、「盗賊は井戸に落ちたぞ」と叫び、家人が走り集まるすきに、すばやく門を抜け、小六たちの一行についたといいます。
 史実とは異なりますが日吉丸と小六とのこの伝説は、後の太閤秀吉と、武将蜂須賀小六の人間的一側面を物語として、今なお私たちの心に生き続け、乱世の時代劇を垣間みる挿話となっています。
 この伝説を後世に語り継ぐため、ここに石彫を建立するものです。

 実際には、矢作橋が架けられた1601年には豊臣秀吉は既に亡くなっているため、この話は作り話であるとされていますが、この逸話を伝えるために矢作橋の西側に「出合之像」という像が建てられました。像の裏側には「平成元年十二月」とあります。
 「矢作橋」の掛け替え工事のため、一時、出合之像は撤去されたいましたが、工事終了後の2014年1月に元の場所に戻されました。

そこからの「矢作橋」。

         葛飾北斎「矢作橋」(「Wikipedia」より)

旧矢作橋の遺構。

 橋の付け替え工事・整備によりこの付近も変わってきたようです。土手を下り、左手の道に入ります。右手には「勝運寺」。
「旧東海道」。かつての家並みがところどころに残っています。

「東海道」の標示。


 その先の右手には、

    

誓願寺十王堂

 長徳3年3月(997年)、恵心僧都が、溺死した当時の住僧の慶念の冥福祈り、堂を建て千体地蔵菩薩を造って安置した。
 時代は下り、寿永3年(1138年)3月、矢作の里の兼高長者の娘、浄瑠璃姫が源義経を慕うあまり、菅生川に身を投じたので、長者はその遺体を当寺に埋葬し、十王堂を再建して義経と浄瑠璃姫の木造を作り、義経が姫に贈った名笛「薄墨」と姫の鏡を安置した。

 〈十王とは・・・、以下「十王」のいわれを記した部分は省略(注:「十王堂」の「十王」とは、冥土にいて亡者の罪を裁く10人の判官をいう。〉


 この堂内には、これらの十王の極彩色の像が安置してあり、壁には、地獄・極楽の有り様が描かれている。

 寄贈・文責 ボーイスカウト岡崎第五団

まもなく国道1号線と合流、振り返って望む。

「(日本橋から)330㎞」ポスト。

 しばらく国道沿いに進みます。「安城市」に入ってまもなく「尾東」の信号のところで、国道から離れてY字路を右に進むと、松並木になります。

分岐点正面は「マック」。

    

 松並木を過ぎると、右手の「熊野神社」には、「予科練の碑」「第一岡崎海軍航空隊由来」などの記念碑が並んでいます。

    
                             「予科練の碑」。
此処は第一岡崎海軍航空隊跡にて
予科練習生揺籃の地なり

 自らの若き命を楯として祖国を守らんと全国より志願して選ばれた若人が六ヶ月間の猛訓練に耐え海軍航空機搭乗員としての精神を培いたる地なり
 生涯を祖国に捧げんとこの地に集い実戦航空隊へ巣立つも戦局に利なく大空をはばたく間もなく血涙をのんだ終戦
 爾来二十八年吾等相寄り相語り既に亡き戦友の慰霊を兼ねた『予科錬の碑』を建立するものである

 昭和48年5月15日 元第一岡崎海軍航空隊 若桜会



第一岡崎海軍航空隊の由来

 第二次世界大戦が熾烈を極め、戦局必ずしもわれに利あらず、戦略上一大転機に直面し、戦力の画期的増強が急務となった昭和19年2月、若き精鋭を鍛えるため、海軍はこの地に練習航空隊を設置、当初河和海軍航空隊岡崎分遣隊として発足したが、急據訓練を開始することとなり名称も昭和19年4月1日岡崎海軍航空隊となり、作戦機能も独立して同年5月より本格的訓練が開始され、その後昭和20年2月第一岡崎海軍航空隊と改称された。
 本航空隊は飛行予科練習生の即戦力養成が主任務とされ、全国各地より選抜された童顔なお消えやらぬ熱血の若人が、土浦海軍航空隊入隊、岡崎海軍航空隊派遣の命により、昭和19年五5月入隊の一期生より毎月続々と入隊、十二月入隊の八期までその数およそ六千名と記録されている。入隊後は日夜の別なく猛訓練を重ね、それに堪え抜き逞しい戦士となって、全国各地の実践航空隊へ実務練習生として巣立って行った。しかしわが軍の劣勢は如何ともし難く、昭和20年8月15日ポツタム宣言を無条件で受諾、戦争は終結し本航空隊も解隊されるところとなった。
 広大な跡地は、戦後の食糧危機に再開拓され元の美田に戻り大いにその成果を挙げてきたが、その後のわが国の驚異的な経済成長に伴い本跡地も著しく変貌し、戦後四十年を経た今日、最早往時を偲ぶ痕跡すらなく幻の如く人々の脳裡から消え去らんとしている。
 こゝにわれ等相い集い保存資料に基づき、史実を後世に伝えるため、この由来を記録しておくものである。

 昭和61年5月18日

 左には、その広大な敷地のようすが図解されています。

現在のようす。

「予科練の歴史」

 1929年(昭和4年)12月、海軍省令により予科練習生の制度が設けられた。「将来、航空特務士官たるべき素地を与ふるを主眼」とされ、応募資格は高等小学校卒業者で満14歳以上20歳未満で、教育期間は3年(のちに短縮)、その後1年間の飛行戦技教育が行われた。
 当初は、横須賀海軍航空隊の追浜基地がその教育に用いられたが、手狭なため、1939年(昭和14年)3月、予科練の教育を霞ヶ浦海軍航空隊に移した。翌年同基地内に新設された土浦海軍航空隊に担当が変更された。
 1941年(昭和16年)12月、太平洋戦争が始まると、航空機搭乗員の大量育成の為、予科練入隊者は大幅に増員された。養成部隊の予科練航空隊は全国に新設され、土浦航空隊の他に岩国海軍航空隊・三重海軍航空隊・鹿児島海軍航空隊など、最終的には19か所に増えた。
 1943年(昭和18年)から戦局の悪化に伴い、乙種予科練志願者の中から選抜し乙種(特)飛行予科練習生(特乙飛)とし短期養成を行った。
 戦前に予科練を卒業した練習生は、太平洋戦争勃発と共に、下士官として航空機搭乗員の中核を占めた。故に戦死率も非常に高く、期によっては約90%が戦死するという結果になっている。また昭和19年に入ると特攻の搭乗員の中核としても、多くが命を落としている。
 昭和19年夏以降は飛練教育も停滞し、この時期以降に予科練を修了した者は航空機に乗れないものが多かった。中には、航空機搭乗員になる事を夢見て入隊したものの、人間魚雷回天・水上特攻艇震洋・人間機雷伏竜等の、航空機以外の特攻兵器に回された者もいた。
 1945年(昭和20年)6月には一部の部隊を除いて予科練教育は凍結され、各予科練航空隊は解隊した。一部の特攻要員を除く多くの元予科練生は、本土決戦要員として各部隊に転属となった。

(以上「Wikipedia」参照)

 以前茨城県の阿見町に出かけたことがあります。かつての霞ヶ浦海軍航空隊が設置されていた町です。戦後、その跡地は一部を除いて農地として開拓され、その後、整然とした町並みになっています。コンクリートの滑走路などを掘り返しての農地開拓の歴史を調べるためでした。その時に記念館に立ち寄りました。以下は「阿見町」HPより。

 「予科練」は、「海軍飛行予科練習生」及びその制度の略称で、第一次世界大戦以降、航空機の需要が世界的に高まり、欧州列強に遅れまいとした旧海軍が、より若いうちから基礎訓練を行って熟練の搭乗員を多く育てようと、昭和5年に教育を開始しました。
 14歳半から17歳までの少年を全国から試験で選抜し、搭乗員としての基礎訓練をするもので、飛行予科練習制度が始まってから、終戦までの15年間で約24万人が入隊し、うち約2万4千人が飛行練習課程を経て戦地へと赴きました。
 阿見町は、大正時代末期に東洋一の航空基地といわれた霞ヶ浦海軍航空隊が設置されて以来、昭和14年には飛行予科練習部いわゆる「予科練」が神奈川県横須賀から移転し、翌年には予科練教育を専門におこなう土浦海軍航空隊が設置され、終戦まで全国の予科練教育・訓練の中心的な役割を担うこことなりました。
 このように長く海軍の町としての歴史を歩んできた阿見町は、日本の近代史の中でも特別な時代を過ごし、戦争と平和を考えるうえで、忘れることのできない多くの事柄をその風土と歴史の中に刻み込んでいます。
 阿見町では、この貴重な予科練の歴史や町の戦史の記録を保存・展示する「予科練平和記念館」を開設しています。

HPより

 「予科練」生存者は、戦友への複雑かつ感傷的な感慨もより深いでしょう。記念碑、遺品などでそうした想いを感じます。
 一方で、前途ある多くの青少年を「特攻」に駆り立てていったことへの反省・評価があいまいなままに、またしても対外戦争への積極的な法制化が仕組まれている今日こそ、その総括にきちんと取り組まなければならないと思います。
 こうした「戦跡」をどのように平和教育に生かしていくかが問われてもいます。

 さらにその並びには鎌倉街道の説明板が設置されています。


鎌倉街道跡

 1192年(建久3年)鎌倉に幕府が開かれると、京都と鎌倉の間に鎌倉街道が定められ宿駅63ヵ所が設置された。
 尾崎町では、里町不乗の森神社から証文山の東を通り、熊野神社に達していた。街道はここで右にまがり、南東へ下っていったのでこの神社の森を踏分の森と呼んでいる。ここより街道は西別所町を通り、山崎町に出て、岡崎市新堀町へ向かい、大和町桑子(旧西矢作)へと通じていた。この位置を旧鎌倉街道と伝えており、それを証する「目印しの松」が残されている。

 昭和54年10月1日  安城市教育委員会

「目印の松」。

その下には一里塚跡碑。日本橋から83里目「尾一里塚」。     
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読書「未闘病記」(笙野頼子)講談社

2015-07-03 22:43:55 | 読書無限

 「二〇代デビュー後持ち込み十年、論争積年の三冠ホルダー、大学院教授にして不屈の純文学さっか、そんな「私」をある日不意に襲う……(プ、女の一代記かよ、て、め、え)、難病、……。」(P5)

 「そう、難病である。難病になったのだ、難病、と判明した。純文学難解派、と分類される難解文学の書き手のこの私がね、それは。」(P6)

 記号論的にいえば(といっても「記号論」なるものへの一知半解の立場だが)、長年、心身を悩ませてきた自らの体調、否、むしろそれをバネとして文学を紡いできた作者が、その病名がはっきりと判明した(名づけられ、記号化した)ことにより対象化しえたことで、新たな文学的地平を切り開いた(プッ、実に通俗的な表現、)作品。   

 膠原病のひとつ、混合性結合組織病の患者となった「私」。言ってみれば、「私」の立場からものを書き、発言した矛先は「私」をつぶそうとする「組織」(文壇、既成の)との果てしなき闘いを挑んできた「私」がよりによって自身が「結合組織病」となった!  これまでの自らの身体性と内面性をどう「私」はとらえ直し、総括するか。読者の興味はそこにあり、作者の興味もそこにあるはず。
 老いて病がちな猫の世話と、看取り、さらに学生相手の仕事、・・・

 「病気と知ったのは最近でも、特徴的な症状は軽く、大昔からあった。」(P22)

 こうして、これまでの「私」の作品の背景(執筆時の心身風景)を解き明かすというサービス(笙野頼子になりかわって)が、とてもけなげな「おばさん」ぶりです。

 「結局、どんなに私小説から遠い作品を書いても、どんなに身の回りの「自分の事だけ」書いても、「他者がない」と言われても私にはこの病がちの肉体があった。どう出るか判らない他者としての持病。そんな中で想像の世界にも現実にも似た、私的虚構を書いた。
 そして、この他、私の書くべきものがあるだろうか?
・・・
 ひとりの人間がただ生きている。その内面はひとつの独立した宇宙である。不当な洗脳なしにこの自立性を変えることは難しい。つまり、その自立性に依って思考していれば、言葉を使っていれば、そしてその言葉に意味や芸術があれば、その人は孤独ではない。
・・・
身体性は私の社会性だから。」(P257)

 誰にでも当てはまる(同質の)「社会性」なるものは存在しない、と。さすが向かうところ敵ばかり(敵に仕立ててきた)「私」の面目躍如の心象風景。自らの中に巣くう「病」を自らのものであってしかも他者として突っ放す姿勢は敵にしたら恐い存在である(「混合性結合組織病」にとって)。そういって「私」は闘いを挑みつつある。病気との、否、そんなものとではない!

 病気そのものでは「死なない」病ではあるが、ステロイド剤の副作用(これは医師のコントロール下にあるかぎり、心配はなさそうそうだが)、あるいは他の合併症で命を奪われる危険性を併せ持つ病。それに留まるような狭い話ではないだろう。広く社会を覆う歪んだ「個」と「全体」との関係を突く、その本格的な闘いは始まっていない。

 作者は主人公の「私」を通して、個から、部分から全体を俯瞰する視野という究極の視点を獲得しようとしている。
 だが、路半ば、「闘い」は始まったばかり。だから、「未」闘病記なのであろうか。

 随所におさめられた猫の写真(時には筆者の指が入った)が「私」にとって、読者にとって励ましになっている。そうやすやすとはは老いさらばえぬ、という決意を込めて。

 アベが「日本の原風景を世界に」と伊勢でサミットを開催する、と。この決定に右はもちろん、左も賛成、賛成の声々・・・。
 さて、地元での開催に「神道左派」としての「私」(筆者自身)はどう対(決)するか? 猫神様は、どのようなご託宣を下すか? 
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読書「呪いの時代」(内田樹)新潮社

2015-07-02 21:28:10 | 読書無限
 2011年11月発行の書。ということは、「新潮45」誌上に2008年11月から不定期に連載してきた内容にプラスして、「東日本大震災」以後のものが加わっているということ。

 加筆修正があるとはいえ、第1章「『呪い』の時代」で提起した時代状況(「現在」に対する問題意識)がそのままより深まっていくことに驚く。11年以前と以後との筆者の、現在のとらえ方に大きな変化はない、つまり、「東日本大震災」とりわけ福島原発の未曾有の事故が起こったことで、よりいっそう2年半前から思索してきたこととのつながりを持つ、と。
 改めて2011・3・11以前と以後のスタンスに変化がないことに驚嘆する。それは、一貫して主張してきたことに間違いはなかったという筆者の確信でもある。特に、筆者自身が「阪神淡路大震災」を直接に経験したことが、より強い説得力を持っている。

 ますます「呪い」「呪われ」の様相を見せている社会情勢。特にメディア、左翼的な批判的態度への批判は鋭い。

 そうした中で、「呪い」から「贈与」という価値観をもとにした人間関係、社会的な関係を結ぶことによって社会の未来を見いだす、安定させていくことができる、このことを提唱しているが、今はそんな「悠長な」価値などなどは「くそ食らえ」の世の中。にもかかわらず、あえて「徒手空拳」的価値観をかかげる武闘家としての筆者の立場は一貫している。

 呪詛も贈与も人類と同じだけ古い制度であり、それがどう機能するものかは誰でも知っている。けれども、多くの人々はそれは神話や物語の中のことであって、私たちの日々の生活には何のかかわりもないと思っている。そうではない。呪詛は今人びとを苦しめ、分断しているし、贈与は今も人びとを励まし、結びつけている。呪詛の効果を抑制し、贈与を活性化すること。私が本書を通じて提言しているのは、それだけのことである。(P285 「あとがき」より)

 さて、世間はそう甘くはない。この書が世に出てからの4年間。自滅した民主党からアベ政権に移った後の政治、経済、文化状況はどうであろうか。 
 責任をとらない・認めない、反面、自らの主義・主張を数の多さで国民に強要し、(領袖様の恩恵を有り難く頂戴せよと)、メディアへ露骨に介入してもの言わぬ国民にさせ(物をいわせぬように仕向け)、一方でもの申す人々に対してレッテル貼りをし(呪詛し)、・・・。

 それでもなお、「贈与」の価値観を訴える筆者だとしたら、騎士道物語を読んで妄想に陥ったの主人公が、自らを伝説の騎士と思い込み、痩せこけた馬のロシナンテにまたがり、従者サンチョ・パンサを引きつれ遍歴の旅に出かける物語の主人公のようではある。
 が、この物語をもとにした「ラマンチャの男」の主題歌が「インポシブル・ドリーム」(邦題が「叶わぬ夢」でなくして「見果てぬ夢」)であることにまさに筆者は価値ある「夢」を託しているのだろう、と。

 それにしても、アベをはじめ、自民党の大西発言といい、百田発言といい、言いたい放題の果てに何が生まれるだろうか? さらに、新幹線での事件といい、箱根山の噴火といい、人間界も自然界も「呪い」に左右される現実がますます濃厚になっているご時世ではある。「丑の刻参り」を精神的・言動的に「人に知られるように」、それぞれの立場で皆が行っているかのようだ。そこで、神がますます怒りをなす。

 この時にこそ、筆者が提唱する、荒ぶる神々に対して、「鎮め」・「鎮魂」という具体的な行いが重要なのかも知れない。

 しかし、「福島原発事故」と同様に、生身の人間(同時代に生を営む人々)のささやかな願い・思いをせせら笑うように、思いがけない事態を作り出す。

 車両内に放火すると死者やけが人が出ることは想像がつく。新潟青陵大の碓井真史教授(社会心理学)は「無関係の他人を巻き込んで自死する『拡大自殺』を試みた可能性は否めない」と指摘。常磐大大学院の藤本哲也教授(犯罪学)は男が焼身自殺を選んだことについて「焼身自殺の背景には、特定の個人や社会に対する抗議の表明であることが多い」と話す。(「産経新聞」より)
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まったくの内向き志向。だが、これで一件落着する魂胆見え見え。

2015-07-01 23:29:08 | 平和
大西氏発言で公明に陳謝=安保法案、今月中旬採決目指す―自民

 堕落もここに極まれり。謝る相手が違うでしょ! 

 野党をなめきり、国会を軽視し、・・・。もともとマスコミなどに謝る気はまったくなし! これでよし! 一件落着。あとは採決のタイミングをはかるのみ。内容論議を避けて逃げ切ろうとしている。公明党もなめられたことを知ってか知らずか。

 ここまでおごり高ぶっているアベ政権に付ける薬はないのか!
 
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