おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

鋭い指摘。さすが直感、策略の人。

2015-12-11 20:51:24 | 平和
軽減税率「ここまで妥協するとは」…橋下氏驚き

 その通りになるでしょう。誰がどうみても参院選のために公明党の協力を得る、とはうわべで、選挙区で公明党を当選させるための取り引き。いいかえれば、公明党に恩を売って票を「売る」ことに決めた。これは、アベの「憲法改正」に公明党が全面的に協力することを約束したことも意味しています。
 真意をずばり突かれた菅はあわてて弁解に走る。いずれにせよ、国民などは甘い、甘い飴を配れば、鞭の存在など忘れて結局、なびくものだ、とは双方とも考えています。
 「衆院選」では、大阪など関西圏はすでに公明党と「おおさか維新の会」とは棲み分けが出来ています。だから、この間の同時選挙では公明党は自主投票で対応しました。
 しかし、「憲法改正」で何としても主導権を握って、公明党以上に(公明党を切ってでも)自民党に恩を売りたかった橋下さんは、後手を取った! これで参院選あるいは衆院選に立候補するにちがいありません。衆参同時選挙という目も持ち上がってきそうです。「自民+橋下+公明」、これにアベに媚びを売る連中もくっついて、一気にアベ独裁政権が誕生します。
 アベ政治NO! の声を何とかまとめていかないとどうしようもない時代が到来します。

 ・・・中立の立場を取っていた首相も、同日面会した党幹部に「明日、谷垣さんには『もう合意してくれ』と通告する」と語り出した。話を聞いた幹部は「たった数千億円で自公の関係がガタガタしては良くない」と周囲に漏らし始めた。
 菅氏は首相の「お墨付き」を奪い返し、党執行部を切り崩した。9日昼、官邸で首相と谷垣、菅両氏の3者会談が開かれた際は、谷垣氏の外堀は埋まっていた。
 財務省は、財政規律を重んじる自民党税調幹部の意向を尊重するあまり、持論を繰り返すばかりで、菅氏に応えるアイデアを提供した様子はない。議論の終盤、劣勢が濃厚になると「10%増税を見送られるくらいなら1兆円は安い」(幹部)という投げやりな声も聞かれた。財務省幹部は「首相の『ない袖は振れない』という言葉に頼りすぎた。対象品目の線引きを最初に財務省が決めて議論すれば、1兆円も取られずに済んだはずだ」と肩を落としている。
 自民党内には、自分たちの頭越しに巨額の財源捻出を決めた菅氏に対し、「まるで独裁政治だ」(幹部)とやっかむ声も聞かれる。首相の高い支持率と官邸の実行力に頼り切る自民党の哀しき姿が、そこにある。

 (以上、「産経ニュース」より)
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瀬田の唐橋。大津。~京・三条大橋。(江戸・日本橋から京・三条大橋まで。その12。)

2015-12-10 18:38:55 | 旧東海道
いよいよまとめも最終回。11月10日(火)、11日(水)。草津駅から三条大橋まで。一泊二日。天気に恵まれた旅。

 足かけ2年の「東海道53次」の旅も、いよいよ最終段階。
 11月10日(火)。草津駅から旧東海道に戻るには、旧中山道を少し南に進む。草津宿から最後の宿場町「大津」へ向かう。

「立木神社」。

 そのまま進み、「草津川」の橋を越える。橋の手前、左手に京方見附跡の「黒門」解説板。。

    

現草津川。
                               天井川だった草津川の流路変更によって開削された川。

 さらに進むと、右手に広重の浮世絵に描かれた「うばがもち(乳母が餅)」を売っていた旧店舗跡のお店が見えてくる。現在は、国道1号線沿いにお店を構えている。



  
 東海道五十三次之内 草津 名物立場 / 歌川 広重    (「知足美術館」HPより)

広重の描いた方向から。

    
「大正期のようす」。(「同」より)                 現在のようす。

 「うばがもち」は、草津駅前店で売っていたので、お土産として買った。乳母の乳房を思わせるように上にポチンと白あんが乗り、さらに餡の中にはお餅が入っていて、なかなかの美味。

 なお、道標には「右やばせ道 是より廿五丁 大津へ船わたし」と刻まれている。

 ここから25丁(2.5㎞)行くと、「矢橋舟着場」で、大津まで湖上1里の近道。上の解説文にもあるように、「急がば廻れ」の語源になっている、とか。
 武士のやばせの舟は早くとも 急がば廻れ瀬田の長橋 (醒酔笑)と詠まれ、近道であっても、湖上が荒れて舟が出なかったり、風待ちをしたりする矢橋の渡しを利用するより、回り道でも瀬田橋まわりの方が着実であることから、成果を急ぐなら、遠回りでも着実な方法をとる方が着実な方法をとる方がよいことを指南したものである。

 しばらく進んで、「国道1号線」を横断。その先の小さな公園には、「野路一里塚」跡碑。
日本橋から119里目。

 公園を突っ切って通りを横断する。

右手の民家の庭に清宗塚。

平清宗(1170―1185)
 平安時代の公卿、平宗盛の長男、母は兵部權大輔平時宗の娘。後白河上皇の寵愛をうけ、3才で元服して寿永2年には正三位侍従右衛門督であった。
 源平の合戦により、一門と都落ち、文治元年壇ノ浦の戦いで父宗盛と共に生虜となる。
 「吾妻鏡」に「至野路口以堀弥太郎景光。梟前右金吾清宗」とあり、当家では代々胴塚として保存供養しているものである。
  遠藤権兵衛家  当主遠藤 勉


 しばらく道なりに進み、通りを横断、右手に小さな公園。 ここが荻の玉川の名残りのところ。


 すぐ後ろには、こじんまりとしているが、田園風景が広がる。かつてはさぞかし風光明媚だったことを偲ばせる。

 その先には「弁天池」。なだらかで曲がりくねる坂道が続く、右手には「ここから大津」と記された常夜燈。


しばらく進むと、左手角に「名勝 月輪大池」碑。

広い通りを横断すると、「東海道立場」碑。

 「瀬田」駅に通じる広い通りを渡る手前、左手のクリーニング屋さんの前には、「大萱一里塚」碑。
日本橋から120里目。

 「一里塚」跡碑があるのは、ここまで。

 大津市に入ると、「旧東海道」は住宅や寺院の並ぶ道筋を、けっこう南に、北に、西に、と右左折を繰り返すが、解説板(案内板)が要所、要所に立てられ、道に迷うこともなくて、大変有り難い。
 いよいよ正面に「瀬田の唐橋」が見えてくる。 
「神領」交差点。 

足元には瀬田の唐橋。

いよいよ「瀬田の唐橋」に到着。 

 瀬田の唐橋(せたのからはし)は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる橋。全長260m。勢多の唐橋とも書き、瀬田の長橋とも言われる。宇治橋、山崎橋とならんで日本三古橋の一つとされてきた。また、日本の道100選にも選ばれている。
 「瀬田川」は、琵琶湖から流れる唯一の川で、「宇治川」、「淀川」と名称を変えて、大阪湾に注ぐ。
 東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡る、もしくは南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要がある。瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。

 木造の橋が現在のコンクリート製になったのは1979年(昭和54年)のことであるが、橋の特徴である擬宝珠は歴代受け継がれており、「文政」「明治」などの銘が入ったものも現存する。 2012年(平成25年)には、唐茶色に塗り替えられ、現在に至っている。

「常夜燈」と句碑。松風の 帆にはとどかず 夕霞  茶酔



     

京阪電車の踏切を渡り、その先の「鳥居川」交差点を右折し、JR石山駅方面に向かう。旧東海道はJR線によって分断され、石山駅を通る道が本来だった。しかし、そのままガードをくぐって北へ向かう。途中で、石山駅北口から来た道(こちらが「旧東海道」? )と合流。 

              合流地点の解説板。

 江戸時代、旧東海道のこの辺り、膳所城下町の南総門から鳥居川の間は、美しい松波危機が続いており、近江八景の一つ「粟津の晴嵐」として知られた名勝であった。歌川広重の浮世絵などにも、湖辺に城と松並木が続く風情ある景色として描かれている。 

左手工場フェンス沿いに松の木が数本。
                        この付近に「粟津一里塚」(日本橋から121里目)があったようだ。
旧東海道は、もう少し琵琶湖の湖畔際を北上していたが、現在は湖畔から離れている。この付近がもっとも琵琶湖に近い地点のようだ。「大津湖岸なぎさ公園」へ寄り道。

    
 左奥遠くに「三上山(近江富士)」の姿が。                    「近江大橋」方向。 

「膳所城勢多口総門」跡碑。膳所の城下町入り。

曲尺手(枡形)のような道のようす。

西に向かってしばらく進むと、「若宮八幡神社」。

この表門は、この表門は、膳所城の犬走り門で明治3年(1870)の膳所城取り壊しの際に移築された。

 右に曲がり、今度は北へ。その先、「瓦ヶ浜」駅構内の踏切を渡る。
 この付近では、旅人が休めるようにつくられた折りたたみ式ベンチがあるおうちをみかける。
    

突き当たりを左に。角には石柱。「晴好雨竒亭址」。
行く手に踏切が見えたら、その手前を右折。

 しばらく直進すると、交差点の角に「膳所城中大手門跡」碑と解説板。

    

「和田神社」の先の二叉道を左へ。

 住宅地を通り、「響忍寺」のところを右に。100㍍程進んだら、駐車場のところを左折。道はカーブして進み、スーパーを右手にしてすぐ直角に右折。意外に分かりにくい道筋。

振り返って望む。

膳所城北総門跡碑。   
                                      ここにも曲尺手(枡形)が残っている。

そのまま進むと、「義仲寺」へ到着。
木曽義仲の供養塔、松尾芭蕉のお墓、さらに義仲の愛妾巴御前の供養塔がある。
 こぢんまりとした境内だが、句碑やお堂など見所満載。

    
右奥は「翁堂」。

  義仲公墓(木曽塚)。   芭蕉翁墓。

行(く)春をあふミ(おうみ)の人とおしみける 芭蕉桃青

旅に病(ん)て(で) 夢は枯野を かけ廻る 芭蕉翁 

 住宅や商店が連なり、「義仲寺」境内のみが埋もれるようにひっそりとただずんでいる。

 「義仲寺」を出て最初の交差点を過ぎ、さらに京阪電車の踏切を渡り、その先の分かれ道を左に進む。

 「福蔵寺」を左手に見ながらなだらかな坂道を上る。この付近に一里塚(「石場一里塚」日本橋から122里目)があったようだが、それを示すものはない。


左手角に石碑と解説のプレートが。

露国皇太子遭難地の碑。

《53 大津》(2015~掲載)

 しばらく進むと、大きな通りに突き当たる。京阪電車が路面電車のように通りの中央を走っている。そこを左折。


 「京町1丁目」交差点。通りを渡った角に、「大津市道路元標」と「札の辻」解説板。そのまままっすぐ行けば、「三井寺」方向に。

                                

 「札の辻」を左折して、京阪電車が右(西)の方へ離れて行く先の左側に「本陣跡」がある。



 ここから「逢坂山」の上りに。JR線を越えると、右手に「関蝉丸神社下社」。
      

 京阪線の踏切を渡ると、いよいよ山道の雰囲気に。
 そのすぐ先、「国道1号線」との合流手前に「旧逢坂山ずい道東口」。

    
                                           扁額。

 「国道1号線」との合流地点先で歩道がなくなるので、国道の左側に渡る。その先には、日本橋から「486㎞」の表示が。

左は京阪線。

右側に関蝉丸神社上社の石段。

「逢坂常夜灯」。

坂を登りきった右側に常夜燈と「逢坂山関址」碑。

「逢坂の関」解説板。
 「逢坂の関」は、伊勢の鈴鹿・美濃の不破を並ぶ天下の三関のひとつで、歌枕としても名高い。横断歩道で右側に渡ると、平成21年につくられた小公園・休憩施設がある。
    

 小公園のところから「国道1号線」をしばらく離れて進み、さらに坂道を下りて「国道1号線」に合流。歩道橋を渡り、京阪線、国道を越えて左側の歩道へ。

「逢坂の関」方向を振り返って望む。左手は京阪大谷駅。

左手に石柱。大津算盤の始祖・片岡庄兵衛。

 その先にあるのが、「月心寺」。ここの走井(井筒・湧水)でつくられたのが「走井餅」といわれている。しかし、門は閉ざされていた。

     

 この付近に「走井一里塚」(日本橋から123里目)があったようだが。
「一里町」という表示。

 しばらく「国道1号線」に沿って緩やかに下って行く。「名神高速道路」をくぐると、国道から離れ、左の道に。
緩やかに上って行くと、「追分」。

「みぎハ京ミち ひたりハふしミみち」。

 左の道を行くと「伏見」、「淀」、「枚方」、「守口」の4宿を経由して大坂京橋に向かう道となる。

来た道を振り返って望む。

 時刻は、午後5時少し前。今日はここまで。
 ということで京阪「追分」駅まで戻り、そこから「上栄町」駅で降り、JR「大津駅」近くのビジネスホテルに泊まることに。

11月11日(火)。快晴。いよいよ最終日。京阪「追分」駅までやってきて、「追分」から昨日の続き。朝8時30分前。

 緩やかな下り坂を進むと、右手のお寺の門前に車石。

    

 東海道大津・京都間3里(約12㎞)の道には物資を運送する牛車の運行を楽にするために、花崗岩の厚板石が敷き詰められていた。これが車石で、溝は牛車の頻繁な通行によって削り取られて、できたものである。
 文化2(1805)年には、画期的な車石敷設工事が行われ、歩車道分離が整備された。この付近は、京に向かって右側が車石の敷かれた車道で、左側は人や馬が通る人馬道であった。人馬道は、旅人の安全確保のために、一段高く設けられていた。
 境内には当時の状況を一部復元して保存している。
 
ゆるやかに下って、「国道1号線」を歩道橋で越える。

    
 京都方向。                                大津方向。

 渡り終えて右に進む途中、民家の前に「車石」の実物と解説板。

    

「三井寺観音道」。ここが「小関越追分」。

 この道は、逢坂峠を越えない「間道」として、小関、「三井寺」を経由し、「大津宿」の札の辻(現「京町1丁目」交差点)で東海道と合流する道となる。

しばらく進むと、ようやく「京都市」に。 

右手に「徳林庵」六角堂。京の街道出入口に置かれた六地蔵の一つ。

    

 住宅地、商店街を抜け、「山科」駅を右手に見て広い通りを渡る。

    
 「旧三条通り」という標識。

 しばらく進んだ交差点には「五条別れ道標」が建っている。

    

「右ハ三条通」「左ハ五条橋 ひがしにし 六条 大佛 今ぐまき水 道」と刻まれている。

 そのまま直進すると「三条通り」に合流。「東海道線」のガードをくぐり、その先を左折。手前には、

「陵ヶ岡みどりの径」。

 この道は「旧東海道」ではなく、もとは京阪・京津線(けいしんせん)の線路跡。線路は地下化された。

その先の細い道を左折。道標あり。

この細い道が? と思うような印象。

振り返って望む。
                 左右が「陵ヶ岡みどりの径」。ここは、かつて京阪電車の踏切があったところ。

 細い道を抜けると、広々としたところへ出る。正面の丘を越えていくことに。


 この付近に「御陵(みささぎ)一里塚」(日本橋から124里目)があったとされる。 なお、「御陵」という地名は、北に「天智天皇陵」があることによる。

「日ノ岡」。実は意外にきつい上り坂。
 後ろを振り返ると、けっこう長く続く上り坂。この道は三条通りへの抜け道なのか、狭い道に次々と車が上って来るので、後ろを振り向きながらの上り。要注意。

 坂道の左手には「亀水不動尊」が祀られて、湧き出す清水が旅人の喉を潤したというところがあるはず。が、生い茂った草むらの中に長年放置されていたような乗用車、その奥にかつての祠らしきものが朽ちたまま。
私有地ということで立ち入り厳禁になっていて、これがそのものなのか確認はできない。写真を撮るのも憚れる感じ。

右手奥に祠。

そのすぐ先の左手に道標。「右 妙見道」。
                    洛中から大塚(山科の南東)にある「妙見寺」への参道。 

もう少しで、峠の上にさしかかる。
                                        道中、最後の「飛び出し」坊や。
  三重、滋賀、京都と断続的に目にした。まるで道案内をしてくれたようだった。感謝!

下り道はますます細く。

右手に「旧東海道」という石碑がみえて、

その先で、再び「三条通り」に合流。

 合流してすぐの左手に牛車道のモニュメントが置かれた広場。

    

 平成9年10月の京都市営地下鉄東西線開業の伴い廃線となった京阪電鉄京津線の軌道敷きを利用し三条通の四車線化及び歩道の整備事業を実施した本事業の完成を記念して三条通の舗関石として敷設されていた車石を利用し往年の牛車道を模した広場を設置する

 平成16年1月 京都市

                        

 左手は「蹴上浄水場」。右手にはインクライン(琵琶湖疎水)。
    

 時刻は10時15分。三条大橋での待ち合わせまで時間はありそう。向こう側に渡って、南禅寺境内にある「琵琶湖疎水」にちなんだ「水路閣」に行ってみることに。

「南禅寺」境内の右手奥の方にある「水路閣」。

    

     

 上にも上がってみた。

    
 右から左へ勢いよく流れている。                      上流方向。

  この水路は、「南禅寺」の裏山を抜けて東山方向へ流れていく。盆地になっている京都市街地の隅々まで琵琶湖の水が行き届くようになっている。                     

 もと来た道を戻るときに再びくぐったインクライン下のトンネルも見逃せない。

雄観奇想」と刻まれた扁額。

 「ねじりまんぽ」。アーチ部に煉瓦やコンクリートブロックを用いるとき、まっすぐに積まずに、斜めにねじって積んだ構造のトンネルのこと。このトンネルは、1888(明治21)年に造られた。日本で現存する数少ない「ねじりまんぼ」の一つ。

「陽気発所」と刻まれた扁額。

    
トンネル内は暗くて、携帯ではうまく撮れません。

 あとは「三条大橋」に向かうのみ。
いよいよ「三条大橋」が見えてきた。

 11時30分少し前。橋のたもとに到着! 東京からの知人の姿はなさそう。

 橋の北側の歩道を進み、橋の西詰めへ。そして、渡り終えた。

来た道を振り返って望む。


西詰、解説板の奥にあるのが、「天正」の銘のある石柱。

高札場。

三条大橋南東側を眺める。 

 東海道五十三次 京都 (京師) 三条大橋 絵師 安藤広重  編者 橋口五葉 発行 岩波書店(大正8年)

 大津より3里。東海道五十三次、旅路の果てである。江戸を立って十数日,224里半の行程も、鴨川にかかる三条大橋に着いて、いわゆる‘上り’となる。橋上をゆきかうひとびと、京女らしい風俗,大原女など、広重の関心もここに集中され、橋のかなたに東山がくっきりと浮かびあがる。日本橋図の緊張もここではほぐれて、平凡な構図にまとめあげられたが、大尾をかざるにふさわしい安定した作風である。

                                        (「鹿児島県立図書館」HPより)

 鴨川の流れと東山。しばし、佇む。
    

 と橋の西側からやってくる二人連れ。11月11日11時35分過ぎ。橋のほぼ中央で会うことが出来た。
 3人揃って、ゴールの西詰めへ。

と、その前に。

  
    擬宝珠の刀傷跡。○の部分。       幕末・池田屋騒動の時のものといわれているらしい。

注:池田屋事件は、幕末の1864年7月8日に、京都三条木屋町の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件。

 渡り終えて、そこにある「弥次喜多」像のところで、記念写真!

    
                                「幟」までつくってくれて、ありがとうございました!

 それから、夕方まで京都見物を楽しんできた。共々にお疲れ様! 
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土山。水口。石部。~草津。(江戸・日本橋から京・三条大橋まで。その11。)

2015-12-09 20:52:16 | 旧東海道
 富士山に初冠雪が観測された翌10月12日(月)、13日(火)。一泊二日。
 東京から新幹線、在来線、バスと乗り継いで「道の駅「あいの土山」に着いたのが10時35分過ぎ。ここが、前回の最終地点。

《49 土山》(2015.10.14~掲載)

                    案内図と「土山宿」の石碑。
    

それぞれの家にはかつての屋号が。
    
  「たば古屋」。                         「お六櫛商・三日月屋」。

 これから先「三日月屋」の屋号が目立ちます。その「お六櫛」。

お六櫛(おろくぐし) は、長野県木曽郡木祖村薮原で生産される長野県知事指定の伝統工芸品。梳き櫛。(整髪具の櫛には、髪を梳かす梳き櫛と、髪に飾る挿し櫛などがある。)
 その名は、大きさが六寸だったからという説など諸説あるが、最も有名なものは、お六説。
 元禄年間(1688年 - 1704年)、持病の頭痛に悩んでいた村娘お六が、治癒を祈って御嶽山に願いをかけたところ、ミネバリで櫛を作り、髪をとかしなさいというお告げを受けた。お告げのとおりに櫛を作り髪を梳いたところ、これが治った。ミネバリの櫛の名は広まり、作り続けられることになった。

「お六櫛」 

 それにしても、生産地の木曽・薮原から「土山宿」まで直線距離にして約175㎞。木曾街道(中山道)、飛騨街道を南下し、尾張から伊勢街道(東海道)を経て土山に。現在、車を使っても約230㎞で4時間半はゆうにかかるほどの距離。
 当時の物流、交易の、思ったよりも広いことを感じる。

左手にそれに因んだ句碑。
 上島鬼貫の作。吹けばふけ 櫛を買いたり 秋乃風 

しばらく進むと右手に「土山一里塚跡」碑。日本橋から110里目。

 道の両側には次々と「旅籠跡」の石碑。

「二階屋本陣跡」。

その先、「東海道・伝馬館」入口には「問屋場跡」。 

その前の屋号が「八百屋」、現在も同じ商売を。

その先、右手「問屋宅」跡の隣には本陣跡。

本陣の隣には石碑が二つ。明治天皇聖蹟の碑と井上圓了が詠んだ漢詩碑。


左手の「中央公民館」には林羅山の漢詩碑。

その先の交差点を過ぎると右手に句碑。
                          高桑闌更「土山や 唄にもうたふ はつしぐれ」。

 2本並んで「本陣」と「問屋場」の跡。少し離れて「高札場」の跡。
                      

 「大黒橋」を過ぎると、「土山宿」ともお別れ。けっこう見所満載のところだった。
    
                                       振り返って望む。

「国道1号線」南土山交差点へ。

 前方に石造りの道標が見えたので、そこに向かう。
道標 御代参街道起点。

 この道標の左に進む小路が旧御代参街道で、右斜めに進む道が旧東海道。御代参街道は東海道土山宿のこの地点から笹尾峠を越え、鎌掛、八日市を経て、中山道愛知川宿手前の小幡までの十里余りの脇往還である。

 標識に従い、この道(旧東海道)をしばらく進み、左折して「国道1号線」に復帰。左手の「鈴木製作所」のところで左の道に入る。


 「←先へ。足進めれば歌声橋 のんびり歩こう、旧東海道 これより三キロ先に、松林」と手書きの看板。この道は江戸時代の東海道とは異なっているが、車の激しく行き交う国道歩きよりは、まさにのんびり歩ける道。

前方が「歌声橋」。

「歌声橋」からの「野洲川」。  

しばらく進むと、右手・三叉路に「案内図」。女の子が手を挙げて。

 左側の狭い道が江戸時代の東海道で明治13年3月1日に右側の道ができて東海道の道路が変更された。

この道が江戸時代の東海道ということに。

 周囲には、茶畑が広がる。
    

 この地域一帯で栽培されるお茶は、「土山茶」として有名。

とあるおうちの車庫には  
                   「ミッキー」や「ショクパンマン」など、みんな揃ってお見送り、お出迎え。

左手には「垂水頓宮御殿跡」碑。

しばらく進むと「大野市場一里塚」跡。日本橋から111里目。

視界が開けてきて「大日川堀割」碑。 

 その先には、久々に松並木が見える。
     

左の植え込みには「是東淀領」と記された榜示石。

「東海道反野畷」。   

 左手に「野洲川」の流れを見ながら西に向かう。街道筋には、かつての旅籠跡や屋号が目立ってくる。この辺りは「土山宿」と「水口宿」との間にあった「間の宿」になる。

   

 「大野公民館」前には布引山の解説板と鴨長明の歌碑。
    
 あらしふく 雲のはたての ぬきうすみ むらぎえ渡る 布引の山

作り酒屋。 おなじみの「杉玉」。

 しばらく進むと、「国道1号線」にぶつかるので、横断歩道で向こうに渡る。交差点の手前は、「三好赤甫」旧跡。現在は、「赤甫亭」という食事処。

 左側を走る「国道1号線」、右側を歩く旧道、周囲はのどかな田園風景。
     

 左側に大きな「常夜燈」が見えてきたら「国道1号線」に合流し、今度は向こう側に横断。
    
                         振り返って望む。

「県道549号」に入ると甲賀市の観光案内図。

坂を上がって平坦な道を行くと、「今在家一里塚」。日本橋から112里目。

 「一里塚」を過ぎたら、最初の角を左に折れて下り坂を進み、突き当たりを右に。目の前は「野洲川」。
              

右手に「高札場」跡。 

 
司馬遼太郎「街道をゆく」の碑。

静かで落ち着いた家並みの中を行く。

すぐ県道に合流したあと、正面の家の右の道に。

「古城山」が前方に見えてくる。水口宿はその麓に。

《50 水口》(2015.10.19~掲載)

坂道を上がった右手に「東見附(江戸口)」跡。

枡形を残している。

「元町交差点」を渡ってしばらく進むと「本陣」跡。
                                奥には明治天皇の記念碑。

    
 大正期の水口(「同」より)。                    現在のようす。

 「水口宿」は三筋に分岐した道路の形態になっている珍しい宿場。まず「高札場」のある分岐を左に進み、次の分岐を右に進む(三筋の真ん中の道)。

左手に「問屋場」跡の解説板。

 右手にお休み処。からくり時計と「曳山」のモニュメント。

    

通りを進むと常夜灯とからくり時計。ここが三筋の合流地点。

    
                          振り返って望む。真ん中の道を来た。

「近江鉄道」の踏切の先に「山蔵」がある。

 この先、城下町特有の屈折した道が続くので要注意。

小坂町の曲がり角に水口石と呼ばれる力石。

その先の公園には「百間長屋」跡。

「五十鈴神社」の角に「林口一里塚」跡。
                                   日本橋から113里目。また、ここは水口宿の「西見附」(京口)でもあった所。

 ここで、「水口宿」ともお別れ、広い通りを左折、すぐその先の信号を右に曲がり、しばらく行くと、「美冨久酒造」。ちょうど新店舗のオープンセール中で、大勢のお客さん。
    


 前方には、遙か彼方まで見通せる直線道路が。これが「北脇縄手」。西の終わりまで約2㎞の距離。

右手に鐘楼のモニュメント。

ふたの中を覗くと、干瓢干しのようすがからくり風に。

 裏側には安藤広重の辞世の歌 「東路(あづまぢ)に筆をのこして旅の空 西のみくにの名所を見む」

 どこまでもまっすぐな道。車もほとんど通らず、のんびりと。

振り返って望む。はるか遠くまで一直線。

やっと集落に。    

 その町並みも終了、その先のY字路を左に進むと、「舞込橋」橋のたもとに道標。

            

 橋を渡ったその道沿いに「泉一里塚」。その手前には、「日吉神社御旅所」という石柱。

    

そのまま進むと、「横田の渡し」に。

東海道横田橋常夜燈
 文政5年(1822)、地元や京都・大坂を中心とした万人講中の寄進によって建てられたもので、その高さは10.5メートル、燈火を灯す火袋は大人でも通れるほどで、道中でも最大級のものとされている。

「横田橋」の説明板のある場所に、かつての横田橋は架けられていた。
                     

 現在はここから向こう岸に渡ることは出来ないので、迂回して「国道1号線」へ向かう。

「(日本橋から)456.5」という表示。甲賀市から湖南市入り。

現「横田橋」で「野洲川」を渡る。午後5時少し前。

 橋を渡って「国道1号線」から離れて左に曲がって行くと、JR草津線「三雲駅」に。駅前の道が旧東海道。先ほどの「横田の渡し」からの道につながる。

 翌日、「三雲」駅から再開。駅に降りて少し東へ。
「石部宿 横田常夜燈」。

 駅前の交差点の角には、「微妙大師萬里小路藤房卿墓所」「妙感寺」と刻まれた石碑。その先の民家には「明治天皇聖跡」の巨大な石碑。


「荒川橋」を越えると左手に三基の石碑。奥に「草津線」の踏切。

線路際に大きな道標。  >

 しばらく進むと天井川の「大沙川」の下をトンネルで通り抜ける。
「大沙川隧道」。

 「大沙川」は、大雨の毎に土砂が流れ、川底が上がり天井川になったと言われている。明治17年(1884)3月に県下最初の道路トンネルとして築造され、「吉永のマンポ」と呼ばれ親しまれている。(「案内図」より) 

トンネルを抜けると左手に「弘法杉」の解説板。

三雲城跡と八丈岩。山の方に目を向けると大きな白い岩(↓)。

「夏見の里(藤棚)」。

しばらく進むと、「夏見一里塚」跡。日本橋から115里目。

道路の反対側には祠? 

その先「湖南市立夏見診療所」の所にも解説板が。
 この辺が夏見の立場といわれ、ここでも何軒かの茶店があり、立て場の役割を果たしていた。名物トコロテンや名酒桜川を売っていた。

すぐ先にトンネルが見える。二つ目の天井川「由良谷川」。
                                     工事中で、歩行者と自転車のみ通れる。

 工事関係者の方に「トンネルの拡幅工事ですか? 」とたずねると、
 「いや、川を道路の下に通す工事ですよ。大雨での洪水防止のため、天井川を解消するするのです。この先はもう完成していますので。」
 「では、天井川ではなくなるのですか」
 「そうです」。

 流路変更の工事によって、この隧道はなくなる運命にある。

振り返って望む。

 旧東海道を地元では「東海道・きずな街道」と呼び、解説板や「お休み処」がある。ここもその一つ。


その先に、造り酒屋の老舗・北島酒造。  

 「家棟(やのむね)川」。以前は天井川だったが、河川改修の結果、普通の川のように橋で越えることに。
当時の隧道の扁額。

 この付近には国の天然記念物「うつくし松」の自生地が。行くことができなかったので、
                  

 美松山の斜面だけに群生する、極めて珍しいマツ。根本近くから枝が放射状に分岐した樹形は、まるで扇か傘のよう。平安時代、藤原頼平が静養でこの地を訪れた際、松尾神社の使いの童女が現れ、周囲の山を美しい松に変えたとか。

左に曲がる付近には「常夜燈」。

その向かいには「お休み処」。
                                      「ようこそ! きずな街道(東海道)へ」。

《51 石部》(2015.10.24~掲載)

小さな橋を渡ると、「石部宿」。

しばらく進むと「石部宿・東見附」跡。

 「石部中央」の交差点脇は小公園になっていて、常夜燈や石部町の案内等がある。

    
  
通りの反対側には「問屋場跡」の解説板。

左手角に「いしべ宿駅」という無料休憩所。

 しばらく進むと、左手に本陣跡の碑。奥には大きな「明治天皇聖蹟」碑。

    

「田楽茶屋」のある角を右に曲がる。本日は休み。   

 その先を左に折れる。鈎の手・曲尺手(枡形)。

    

左に折れてすぐ右手にあるのが「石部一里塚」跡。日本橋から116里目。

「西の見附」跡。

右に折れてJR草津線「石部」駅前の公園へ。東海道に因む。


 再び「東海道」に戻ると、江戸時代、ここは宿内に入る手前に整列した場所で、西縄手と呼び長い松並木があった。

 突き当たりを左折すると、川沿いの道の両側には採石工場などが並んでいる。北側は野洲川。JR草津線沿いの道を行き、「名神高速道路」の下をくぐる。

「三上山」が右手に。手前には「辻行燈」。

「三上山」。

 藤原秀郷(俵藤太)による大ムカデ退治伝説が残ることから「ムカデ山」の異名も持つ。

 栗東(りっとう)市内に入っていく。

その手前のおうちの軒先には大石を運搬する荷車?

「東海道」「中山道」。いいよいよ「中山道」も登場。

道幅はかつてのままのよう。

「従是東膳所(ぜぜ)領」榜示石。

 ここにきて、紅殻(べんがら)塗りのおうちが目立つ。
    
                                        東海道六地蔵村麹屋 糀屋太郎兵衛

 左手前方に大きく立派な建物が飛び込んでくる。「和中散本舗」。旅人を圧倒する迫力。
       


            

県道に合流して右の道を進むと、左手に「六地蔵一里塚跡」碑。日本橋から117里目。

「東海道六地蔵村両替商 茶太」。

「行商旅籠 出羽屋」。

右手にある「西厳寺」には「肩がえの松」。

 しばらく進み、「名神高速・栗東IC」と「国道1号線・8号線」をつなぐ道路のガードをくぐると、
「行者堂」。

その先、左手に「稲荷神社」。
奥に見える三角屋根がJR「手原」駅。

しばらく行くと右手に石柱。「東経136度 子午線」

 子午線は南極点と北極点を結ぶ大円。「子午線」という語は、子の方角(北)から午の方角(南)に伸びていることから。

 広い道路を横断して道なりに左に曲がっていくと、左手に「上鈎池」の高い土手が現れ、たくさんの石碑が並んでいる。九代将軍 足利義尚公 鈎(まがり)の陣所ゆかりの地。

    

 「上鈎池」」脇から、旧東海道は「県道116号線」となる。シーボルトが立ち寄ったという「善性寺」を左に見て、突き当たりを右に曲がって土手下の道沿いに進む。

 この付近、道幅は狭く、見通しもよくない。対向車が行き交うのも大変。それでいて車の通行量も多く、歩行者レーンもない中を歩くので、かなり要注意!


この辺りから「目川」。

 大小さまざまな形をしたひょうたんが軒先に。「目川ひょうたん展示・販売」。

    

 道幅も直線で少し広くなり、周囲は落ち着いた住宅地に。そこに「目川一里塚」があります。

一里塚
 日本橋から118里目。

 しばらくすると街道名物・田楽のお店の跡碑が3つ続く。
「元伊勢屋跡」。隣には、「従是西膳所領」傍示石。

「古志ま屋跡」。

「京伊勢屋跡
 東海道五十三次之内 石部 目川ノ里 / 歌川 広重   (「知足美術館」HPより)

現在の「京伊勢屋」跡。

大正期のようす(「同」HPより)
前方は「新幹線」のガード、左手は「(旧)草津川」。

旧草津川の土手。

その先の右手には、「高札場跡」。「東海道小柿村 高札場  大谷」。 

《52 草津》(2015.10.31~掲載)

 左の「(旧)草津川」土手に上がって進む道(江戸時代の「東海道」)を行こうとしたが「通行止め」。

さてどうするか? 

道しるべでは土手に上がるようになっているが。

 やむを得ず「国道1号線」方向へ進む。ここで大きなミス! 「国道1号線」を突っ切っていけば、国道の向こう側で土手に上れたが、「国道1号線」のトンネルをくぐってしまった。

この上が「旧草津川」。

 「国道1号線」から細い路地を抜けていくと、「神宮寺」脇のところで旧道に何とかぶつかった。

振り返って「東海道」を望む。 

 さて、道が突き当たる右側角には道しるべ、等。ここが「(江戸期の)東海道」と「中山道」(右のトンネルからの道)と合流点(分岐点)。

    
                                          来た道を振り返る。
 ここから京までは二つの街道は合わさって進む。
道路の反対側には、「高札場」が復元されている。 

「草津市民センター」前にある石碑、解説板。

 近江路や 秋の草つは なのみして 花咲くのべぞ 何處ともなき    覧富士記

 将軍のお供をして富士を見に行く途上、秋の近江路を草津まで来たが、草津とは名ばかりで、秋の草花が咲いた美しい野辺を思い描いていただけに心寂しい思いをするものだよ。

「草津本陣」。残念ながら休館日。

      
                                           正面には「細川越中守宿」宿札。

本陣が廃止となった明治時代以降、本陣の建物は郡役所や公民館として使用されていたが、江戸時代の旧姿をよくとどめているとして、昭和24年(1949)に国の史跡に指定された。現在、全国に残る本陣の中でも最大規模を有しており、当時の面影を今に伝えている。

お店の脇に「脇本陣跡」碑。

昔と今とが混在する家並み。

その先には「草津宿がわかる歴史館」。ここも休館日。

その先、左手には、太田道灌が遠祖という「太田酒造」。
                          
「草津宿と政所」。
 草津宿は東海道53次の中でも大宿で、水陸交通の要所でもあることから、関所的な役割を担ってきました。
 草津宿でこの付近一帯は、政治的な中心地として、宿場における旅に必要な馬や人足の用意をしたり、宿の管理を行う問屋場がありました。併せて東海道筋では3ヵ所しか置かれていなかった荷物などの重量検査を行う貫目改所も設置されていたので太田家を中心とするこの付近は、草津の政所(まんどころ)といわれた所以です。

 今回は、ここまで。「草津川トンネル」まで戻り、アーケード街を進み、左折してJR「草津駅」へ。
      
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亀山(後半)。~関。~坂下~鈴鹿峠~(江戸・日本橋から京・三条大橋まで。その10。)

2015-12-08 23:36:35 | 旧東海道

 9月22日(火)。東京を6時30分発の新幹線で名古屋、そこから関西本線で「亀山」まで。着いたのは9時40分前。前回来たところまで戻ってスタート。
 ところで、関宿、坂下宿から「鈴鹿峠」を越え、土山宿方面に向かう区間。
 ここにはバスの便がまったくない。かつては鈴鹿峠越えをする三重県)内と滋賀県内を結ぶ国鉄(JR)バスがあったが、採算が取れず、すでに廃止。
 三重県側の「坂下」宿のどん詰まり(「鈴鹿峠」直下)まで行ったとしても、午後1時過ぎにそこから引き返すにはタクシーしかない。さもなければ、そのまま鈴鹿峠を越え、峠の向こうの滋賀県側の「土山」宿まで延々と歩いていく。
 しかし、天気が悪くなったら、それこそお手上げ。なにしろ天気が変わりやすい場所。先達も雨に降られたり、雪に見舞われたりで難渋した、とのレポートも。
 関宿を過ぎたら、進むか戻るかの決断が必要になりそう。同行の士でもいればまたいいが、たった一人で歩くにはちょっと、・・・。という、ある意味で現代の「旧東海道」の旅では難所中の難所ともいえそう。実際に関宿、土山付近以外では数人の方に出会ったのみ。鈴鹿峠山中では誰にも会わなかった。「おいはぎ」にでも会ったら、ホントに恐そう! 携帯だけが頼り!


前回のところまで戻って階段を上がると、
西町問屋場跡 。

「亀山宿」の中心部から続く「黄土色」に塗られた道を進む。

突き当たりを右に曲がり、正面・突き当りを左に曲がる。枡形になっている。                      
    
かつての屋号が三つ並ぶ。 
 西に折れる右の角地には「亀山城外堀」跡。

    

しばらく進むと「京口門」跡。

 京口門は石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、通行人の監視にあたっていた。また門へ通じる坂道は左右に屈曲し、道の両側にはカラタチが植えられ不意の侵入を防いだとされる。
 往時、坂の下から見上げると、門・番所のそびえる姿が壮麗であったことから、亀山に過ぎたるものの二つあり、伊勢屋蘇鉄に京口御門」と謡われるほどであった。


 東海道五十三次之内 亀山 雪晴 / 歌川 広重    (「知足美術館」HPより)

    
  大正期の亀山(「同」HPより)。                 現在のようす。

「京口門橋」付近から「京口門」跡を望む。

ゆるやかに下って行く。振り返って「亀山宿」を望む。

 交差点を進んだ右手に巨木が植えられた「一里塚」が見える。
        
                       「野村一里塚」。
 ここは三重県内で唯一原型をとどめる一里塚。江戸・日本橋から105里目。 

T字路を右に折れ、

「布気神社」を過ぎしばらく進むと、二叉の道になり、左の下り坂を進む。「関西本線」の跨線橋を渡ると、「鈴鹿川」沿いの道、「大岡寺(だいこうじ)畷」と呼ばれる、まっすぐな道。

 

「太岡寺畷橋」。左手が「鈴鹿川」。

 のんびりと「鈴鹿川」沿いの道を進む。道なりに右に曲がり、「関西本線」の踏切を渡って「国道1号線」に出て、歩道橋で向こう側に行く。

右手前方に「関宿」の看板。

《47 関》(2015.9.29~掲載)

左手に「小萬のもたれ松」。左に見える松がその松。

 「小万の仇討ち」の詳細はよく知らない。三重では「鍵屋の辻の決闘(かぎやのつじのけっとう)」が有名。
 この決闘(仇討ち)は、寛永11年11月7日(1634年12月26日)に渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻(現三重県伊賀市小田町)で討ったという事件。
「伊賀越の仇討ち」とも言われ、「曾我兄弟の仇討ち」と「赤穂浪士の討ち入り」に並ぶ日本三大仇討ちの一つ、とも)。
 それに比べて知名度は低いのだろう。

「東の追分」からいよいよ本格的な「関宿」の町並みに。 



鳥居の裏手にある「関一里塚址」碑。

    
                                   「休泊 はせや(長谷屋)伊三郎」

 「関宿」は、家々の日常生活そのものが行われているところ。観光地にありがちな「資料館」や「お土産さん」、食べ物店など最小限におさえられていて、まさに日常そのまま。そのためか、けっこう地元の車の通行も多い。他の伝統文化遺産関係のところが観光客目当ての商売が目立つ中で、この雰囲気はすばらしい。
 
    

  「御馳走場」。

「鮮魚青果物商 遊快亭」。

雲林院家


   写真を何枚撮っても追いつかないくらい、興味ある意匠の家々。 

「百五銀行」。町並みに配慮した意匠の銀行。

いよいよ宿場の中心部になる。


 東海道五十三次之内 関 本陣早立 / 歌川 広重    (「知足美術館」HPより)

    
 大正期のようす(「同」)                         現在のようす

「問屋場跡」碑と「山車倉」。   

 「関の曳山」は、旧東海道関宿に江戸時代の元禄年間(1688~1703)からつたわるお祭りです。最盛期には十六基もの山車があり、横幕・見送り幕・提灯などを豪華に飾りつけて華美を競い合い、また、笛太鼓で祭囃子を奏でながら、家々の軒先をかすめ、人ごみをかきわけて巡行する様から「この上は無い、精一杯である」という意味で用いられる「関の山」という言葉の語源になった。
注:「関の山」=なし得る限度。精いっぱい。「一夜漬けの勉強じゃ、いくら頑張っても70点くらいが関の山」? あまりいい話ではなさそう。

川北本陣跡。
                 延命寺山門が「旧川北本陣」の門を移築したもの。

「百六里庭・眺関亭」。

 関宿が見渡せる小公園。関宿が江戸から106里余りにあることから名づけられた。「眺関亭」からは関宿の家並みが一望できる。

    
 西を望む。遠くは鈴鹿峠方向。                  東を望む。

        「伊藤本陣 松井家」。

    
                         「旅人宿・石垣屋」。
 寝袋持参での素泊まり。なかなかの魅力です。奥でのんびりくつろぐ姿がちらほら。

大旅籠 玉屋。
          資料館になっている。店奥に展示してあったのが「吉兆火縄」。 

高札場跡は、「関郵便局」のところ。郵便ポストは、この地域に相応しく日本最古のものを模している。

 

    

             
               「局藥オガナ 約特店商義野塩社會式株」
                  「番五拾四 話電」

「関宿名物 志ら玉」。

こしあんを米粉を原料にした皮で薄く包んだ上から赤、青、黄色で色どりを添えた餅菓子。

素朴な味わいの和菓子。
「地蔵院」・「歴史の道 旧東海道関宿」碑。



ここを過ぎると人の姿もまばらに。新所の町並み。

    

南禅寺 井ノ口家

そうこうしているうちに「西追分・休憩施設」へ。

「関宿」を振り返る。

 いくら歩いても見飽きない町並み、家並み。「いっぷく亭」、「関まちなみ資料館」、「玉屋 関宿旅篭歴史資料館」などの建物、施設。
 さらに、見上げれば、庇下の幕板、虫籠窓、漆喰細工(虎・龍・亀・鶴・・・)、起(むく)り屋根、瓦細工、庵看板など実に多彩な江戸の趣。
 先を急がなければもっとじっくりと見学したい、と。旧東海道・宿場の中ではたしかにピカイチの雰囲気。

 東海道は西の追分から右に進む。

 しばらく「国道1号線」を進む。「(日本橋まで)425.8㎞」ポスト。左手、反対車線の向こう側に「関宿入口」の看板が見えたら、その先、右手の道に入る。

    
                      「市瀬橋」からの「鈴鹿川」。

 道は再び「国道1号線」に合流。道路をはさんだ先に「常夜燈」。
     

 横断して家並みの中を行き、工場の脇を過ぎると「国道1号線」に合流。ここからはしばらく「国道1号線」沿いに進む。

    

右手の道を少し入ると「筆捨山」の解説板。

 私道のようなところを行くと、農作業中の方が指さして、手前の、ごつごつした岩が見える山が筆捨山だよ」と。



 「年に何度か向こうの山との間の谷に霧が湧いて、筆捨山が見えなくなることがあるよ。」


                                           ↓が「筆捨山」
 再び「国道1号線」に戻る。右手へ分岐する辺り、国道の向こう側に「市瀬一里塚」。
    
                       日本橋から107里目。


人気のまったく無い道を歩く。

「沓掛」バス停。但し平日の午前中のみ運行。

相変わらず人に出会わない。「鈴鹿峠」は正面の山並み方向。

木の柱が「日本橋」から「三条大橋」まで坂道。

 左手にユニークなかたちをした「鈴鹿馬子唄会館」の右手は「「鈴鹿峠自然の家」。

    

 「鈴鹿峠自然の家」は、「坂下尋常高等小学校」校舎として昭和13年(1938)に建てられたもの。
 昔懐かしい木造校舎。じっくり見学したかったが、校庭の入口に鎖がかかっていて中に入れず。
 
「坂下宿」に向かって出発。 

《48 坂下》(2015.10.03~掲載)

 広い通りに合流したあと、山あいの道を進むうちに前方が開けてくると、「坂下宿」に。江戸時代には「箱根峠」と並んで難所だった「鈴鹿峠」を控えて繁盛した宿場のようだが、現在はすっかりさびれてしまっている。



 江戸中期には本陣3、脇本陣1を含め旅籠51軒、町並5町56間あり、戸数約150戸、人口500人あまりと記録されている。
 明治28年には関西本線が開通したが、鈴鹿峠の勾配が蒸気機関車に障害となったため路線は西寄りの柘植経由となる。地域の経済を旅人相手の商売に依存していた坂下は、交通の要所から外れることとなってしだいに衰退していった。
 現在は域内を国道1号の新道が通るが、旧街道沿いは民家も少なく、過疎化が進行している。かつて繁栄した宿場町であったことを示すのは、本陣跡を示す、旧関町によるいくつかの石碑のみである。

家屋がなくなり、敷石のみ残るところが目に付く。

「松屋本陣跡」碑。「坂下集会所」の広場。ここが、「伊勢坂下」バス停のあるところ。

来た道を振り返る。閑散とした町並み。

 午後2時を少し回ったところ。予定としてはここまで。タクシーを呼んで関駅に帰ろうかと。

 右手前方に、この地区に入ってから初めてのお店と唯一の自販機。何か飲み物でも、と。するとその「前田屋商店」(といってもほとんど商品は置いてなさそう)の店先からご主人らしき人が出てきた。天気も何とか持ちそうだし、足の方も何とか持ちそうだし、・・・。

「ここで戻ろうかと思ったのですが、この先、峠を越えて土山までどのくらいかかりますかね?」
「まだ2時でしょ、2時間半もあれば行けますよ。神社の脇を通って、国道をくぐって行く。峠を越えれば、山中で。そこまで行けば人家もある。」

 実は今日はここまでにしようと、この先のルート(「鈴鹿峠」以降)をコピーして持って来なかった。ちょっと心配だが、うろ覚えの地図を思い浮かべて思い切って行くことにした。(それがその後の困難を呼びます)。

「ありがとうございます。」
「頑張って下さい」

 ジュースを飲んで小休止。

向かい側には「大竹屋本陣跡」碑。周囲は茶畑。

「梅屋本陣跡」碑。

 「坂下宿」。立派なおうちが目立つが、時勢という現実を目の当たりに感じた。ここまでにも旧宿場の一部には、過疎化になっているところもあった。ここでも、かつては繁盛した宿場の、その後の姿を垣間見た。

 しばらく進むと、右手に「岩屋十一面観世菩薩」碑。その先、「国道1号線」に沿って歩く。
 しばらく行って右に分かれる道が「旧東海道」。薄暗い道になり、ここからが本格的な鈴鹿峠越えになる。


              この付近に「元坂下一里塚」があったようだが、特にそれを示す石柱等はない。

途中にあった解説板。

 このあたりから「鈴鹿坂八丁二十七曲り」の急坂が始まり、「東の箱根峠、西の鈴鹿峠」と言われた街道の難所、鈴鹿峠へと続く。周囲はうっそうとした林。
 簡易舗装された山道を進むと、大きな鳥居のある「片山神社」に出る。ここで、大失敗!
 「旧東海道」はその手前を右に登って行くことになるのだが、その標識を見逃してしまい、左に進む舗装され歩きやすい道を道なりに左右に曲がりながら上がっていくと、「国道1号線」(上り線:東京方向)にぶつかった。

 「これは変だ」と思いながらも、そのまま進んで、車が結構なスピードで通り過ぎるのを横目で見ながら、国道沿いにだんだん上って行くと、道路(上り専用道路)の反対側に小広場が見え、何か標識のようなものがあり、右下を見ると「国道1号線」の下を抜ける道が眼下に見える。

 しまった! この道は間違っている! 「先達はあらまほしきものかな」徒然草の一文がふと脳裏に。向こうに渡るにもごっついガードレールがガッチリ何本も。車はビュンビュン曲がりながら猛スピードで突っ込んでくる。とうてい渡ることはできない。

 仕方なく先ほどの地点まで戻り、写真もそこそこに上り坂を急ぐ。やっとさっきみえていた小公園への階段。

芭蕉句碑「ほっしんの 初にこゆる 鈴鹿山」を横目で見て、進むと「鈴鹿峠」。「鏡岩」はパス。



 森の中を通り過ぎ、辺りが開けてくると、茶畑。

振り返って来た道を望む。

目の先には巨大な「万人講常夜燈」。

 この「大常夜灯」、もともとあった東海道沿いの位置とは異なっているらしく、従って、この常夜灯前の道も「旧東海道」ではない。この付近の旧道の大半はすでに廃道、あるいは今の「国道1号線」の一部に吸収されてしまったものと思われる。もちろん「東海自然歩道」=「旧東海道」、とはいえない。

滋賀県側は茶畑などが広がる丘陵地帯。

 どうにかやっとここまでたどり着いた。しかし、「土山宿」まで「国道1号線」に沿って、延々と歩くことになる。
 前方に「滋賀県 甲賀市」という道路標示。いよいよ滋賀県甲賀市に。

鈴鹿峠方向を振り返って望む。

けっこう長く国道沿いを歩く。お店も何もないところ。急峻な三重県側とは異なって、ゆるやかに下って行く。

「山中」交差点に「飛び出し坊や」があった。
                                   「ゴルゴ13」風?

横断歩道の向こうにも。

 それに導かれるように向こう側に渡る。しばらくすると、右手に小公園。
    
                      「鈴鹿馬子唄」坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る

道なりに行くと、頭上には第二名神の橋梁。

 その先で「国道1号線」に合流、すぐに右手に先ほどよりこぶりの小公園。

「山中地区圃場整備竣功記念碑」と「常夜燈」。

そして、「山中一里塚公園」碑。日本橋から109里目。

公園内にある道標。

さらに奥には、「鈴鹿馬子唄之碑」。

 しばらく「国道1号線」沿いに進み、「猪鼻」交差点を右に入ると、「旧東海道」が残っている。

「東海道猪鼻村」。道の色も茶色に。

「猪鼻村」解説板と句碑。

句碑  いの花や 早稲のもまるる 山をろし 子葉

 子葉=大高源吾は赤穂浪士の一人、俳人宝井其角とも交流があった。

その先の右手には「旅籠 中屋跡」碑。明治天皇が休息されたとか。

急坂を上って「国道1号線」に復帰。

振り返って「猪鼻村」を望む。 

 神社脇にある「ようこそ『歴史の道 東海道』へ」との案内板。

 ここは、土山町蟹ヶ坂です。
 これより、往時の東海道を歩かれる方は、左図に示すとおり「海道橋」を渡り、道の駅「あいの土山」方面へ向かって下さい。
 尚、「東海道土山宿」へはここから800mです。
 土山を訪れていただいた皆様の道中のご無事をお祈りします。

 甲賀市


                                        振り返って集落を望む。

 昔、この辺りに旅人を食べる巨大な蟹がいたという伝説から「蟹ヶ坂」と呼ばれている。それに因んだ名物が「蟹ヶ坂飴」。

工場の間を抜け、しばらく行くと「蟹坂古戦場跡」。

 「蟹坂古戦場跡」の碑を過ぎ、そのまままっすぐ新しい道に進むと、林の中となり、正面に新しい橋が見えてくる。
 当時の板橋を復元した「海道橋」が2005年(平成17年)に竣工した。江戸以来の旧来の橋名は「田村川橋」。

「海道橋」。

 この橋を渡るといよいよ土山宿。広重の浮世絵もここを描いていると言われている。


 東海道五十三次之内 土山 春之雨 / 歌川 広重    (「知足美術館」HPより)

 土山宿は東海道49番目の宿で、東の田村川板橋から西の松尾川(野洲川)まで、22町55間(約2.5km)に細長く連なっていた。東の起点である田村川板橋は、安永4年(1775年)に架けられたもので、このとき東海道の路線が変更され、田村神社の参道を通るようになった。

 「鈴鹿馬子唄」の一節「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」に因んだ絵柄であるようだ。

「田村川」の流れ。

参道を進み神社の前を左に曲がる。

曲がり角に「高札場跡」碑と「海道橋」の解説板。

 「国道1号線」を歩道橋で越えると、待望の「道の駅あいの土山」に到着。午後5時10分過ぎ。やれやれ!
              

 しばらく施設内をうろうろしたあと、地元の公共交通機関「あいくるバス」でJR「貴生川」駅に。お客さんは途中から乗った二人を合わせて3人。そこから「草津」経由で「京都」に。そこから新幹線で帰京。先に京都に着いてしまった、感じ。

 次回は、「道の駅・あいの土山」から。宿場の数であと5つ。「土山」、「水口」、・・・。いよいよゴールが見えてきた。

 ところで「あいの土山」のいわれは?

1.相の土山説
 鈴鹿馬子唄の歌詞で、坂(坂下宿)は晴れ、鈴鹿(鈴鹿峠)は曇り、相対する土山(土山宿)は雨が降るとする説。鈴鹿峠を境に伊勢側と近江側では天候ががらりと違う。

2.間の宿説
 宿駅制度ができ、土山が本宿に設定される以前は間(あい)の宿であったことから、坂下宿程繁栄していないことを唄ったとする説。「照る」を栄える、「雨が降る」を「さびれる」と解するようだ。

3.鈴鹿の坂説
 峠の頂上付近に土山という土盛があったとする説。

4.間の土山、松尾坂説
 鈴鹿馬子唄の歌詞で、坂を松尾坂(土山宿の西、野洲川西岸部分にある坂のこと)と考え、鈴鹿(鈴鹿峠)との間にある土山(土山宿)は雨が降るとする説。 

5.藍の土山説
 当時土山では藍染めが盛んで藍草の栽培が行われていたとする説。

6.鮎の土山説
 当時、土山では鮎漁が盛んで、特産物として有名であったとする説。

7.あいのう土山説
 北伊勢地方の方言に「あいのう」という言葉があり、「まもなく」という意味であることから、「まもなく土山へ着く」とか「まもなく雨が降ってくる」と解釈する説。

8.かけ声説
 鈴鹿馬子唄は民謡なので、民謡独特のかけ声ではないかという説。

【参照:機関紙「土山浪漫」〔現:土山ろまん〕第2号(平成3年2月 土山の町並みを愛する会発行)】

                                                 (以上、「甲賀市」公式HPより)

 平仮名にしてあることで、上のようないわれを抜きにして、「会い」、「逢い」あるいは「愛」というイメージづくり。
 「鈴鹿馬子唄」の詞「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」と不思議とマッチしていて、地元の愛着と熱心な取り組みを感じる。 
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桑名~石薬師~亀山(前半)。(江戸・日本橋から京・三条大橋まで。その9。)

2015-12-07 23:05:55 | 旧東海道

桑名宿への行き方は、

・その名の通り、海上七里を船で行く←団体貸切らしく、金額は高い。
・「国道1号線」(江戸時代初期の海岸線)を行く。←基本:マイカー。
・「国道23号線」(江戸時代後期の海岸線)を行く。←基本:路線バス乗り継ぎ。
・「明治東海道」跡(明治初期の「東海道」。これは興味深い道筋だが)を行く。←途中経路が?
・「佐屋街道」(「七里の渡し」を経由しない陸路。これも興味深い)を行く。←資料不足。
・名古屋から鉄道で移動。

 等の方法がある。この中で一番楽な方法「桑名まで名古屋駅から鉄道で移動」にした。

 7月20日(祝)、21日(火)。亀山までは暑さとの闘い? だった。桑名到着は、9時20分少し前。東京~名古屋~桑名と新幹線、JR関西本線を乗り継いでの旅。
 この時は、結局、暑さに参って、「石薬師」宿と「庄野」宿間は、断念。改めて8月18日(火)に再訪問するはめに。桑名から亀山まで3日がかりとなってしまった。そのへんの経緯は掲載した時の本文にある。

《42  桑名》(2015.7.31~掲載)

 東京は梅雨明け、ここもまさに、猛暑。駅から「七里の渡し」跡まで約20分。強い日差しの下、もうすでに汗が噴き出すほど。
         
                     
 桑名宿と宮宿(現名古屋市熱田区)の間は、江戸時代唯一の海路で、その距離が七里(約28キロ)であることから、七里の渡しと呼ばれた。七里の渡しはちょうど伊勢神宮の東の入口にあたるため、伊勢神宮の「一の鳥居」が天明年間(1781~1789)に建てられた。
 昭和34年(1959)の伊勢湾台風によってこの付近は甚大な被害を受け、七里の渡し跡の前に堤防が築かれたため、七里の渡し跡の風景は、江戸時代と異なる。

    
 大正期のようす(「同」HPより)。                    現在のようす。

舟だまり。桑名城外堀。「七里の渡し」付近は、桑名城の「三の丸」。

「勢州桑名に過ぎたるものは銅の鳥居に二朱の女郎」。

「船津屋」。旧本陣。

桑名宿は「船津屋」のもう少し北西にも広がっていた。

旧東海道のようす。

 宿場町らしい建物は見当たらないが、歴史的建造物等については、解説板が設置されている。

「春日神社」青銅の鳥居。

 この鳥居は、寛文7年(1667年)当時の藩主松平家重公の命を受け、御鋳物師 辻内善右衛門尉藤原種次により 鋳造されたもので、桑名の名物として今も昔を物語る。

その先の左手には「桑名城城壁」。
                          奥に見えるのが、城壁の一部。堀川には小型船がたくさん係留されている。

 東海道五十三次をモチーフにして造られた「歴史を語る公園」の突き当たりを右折し、「桑名市博物館」を過ぎ、通りを渡った先で左折。桑名宿内の道標は間違うことがないよう、曲がり角や要所要所に立てられ、道も旧東海道が識別できるように色塗りされている。

指差し表示の道標。「右京いせ道」「左江戸道」。

    
                             街道筋らしい町並み。

「吉津屋見附跡」碑。

 ここは四角形の三辺をまわる升形道路となっている。右折し、その先の角を左折、さらに左折し、写真正面の通りとなる。



 いかにも棒鼻・曲尺手の名残のような道の先を右に曲がる。西側には神社・仏閣が軒を連ねている。しばらくそんな道を進み、通りを横断、広い通りに出て、「日進小学校」の先を右に入り、曲がってすぐの右手に、

「広瀬鋳物工場跡」碑。

足元のマンホールには、「七里の渡し」。

「矢田町」交差点で「国道1号線」を横断。
      
突き当たりの角に、    「火の見櫓」。「矢田立場」。

通り沿いにある交通安全標識「飛び出し」坊や。
        かなり頻繁にお目にかかる。「東海道」を行き来する人にとっては目印的存在? 京都まで見かけることに。

 炎天下をひたすら歩き、「国道285号線」をくぐる。
      
                             「玉喜亭」・安永の藤

その先の角には、「伊勢両国常夜燈」。

 この常夜燈は、文政元年(1818年)に東海道のみちしるべとして、また伊勢神宮への祈願を込め、桑名・岐阜の材木商によって寄進されたもの。

 突き当たりは「町屋川」の土手。そこに「東海道五十三次 町屋橋跡」の説明板。


対岸を望む。

桑名側を望む。正面の大きな木付近が旧街道。

「縄生一里塚跡」。日本橋から97里目。

 そのまま進むと「伊勢朝日」駅。駅付近は、町の中心で、東海道五十三次沿いの小向立場のあったところで、焼き蛤の小向茶屋があった。宅地開発等で人口が急増している。

「東海道」の標識に沿って左に折れ、さえぎるものもない炎天下を進んでいくと、やがて正面に「伊勢湾岸自動車道」の高架が見えてくる。

    
          「柿」交差点の手前右、「伊勢湾岸自動車道」沿いに、「多賀神社の常夜燈」。

高架下をくぐり、「朝明橋」を渡ると四日市市。「朝明川」。
 
 「朝明橋」からは緩やかに右に曲りながら下って行く。暑い夏の昼下がり。人の姿もほとんど見かけない。
   

鏡ヶ池(笠取り池)跡。

 近鉄のガードをくぐると、右手に「富田一里塚跡」碑。                             
八幡神社の力石。

「力石」が市内の数カ所に置かれている。

 しばらく工場、倉庫街を進む。
「常夜燈」。比較的新しい。

 左手に松の木が見えてくる。戦前まで、この付近には松並木があったが、現在はこの1本のみで、「河原津の松」と呼ばれている。説明板によると、樹齢200年ほど。現在、四日市市内で東海道に因む「松」が残っているのはここと日永のみだそうだ。

    


旧東海道らしい町並み。

左に折れて「国道1号線」に合流。「(日本橋から)393㎞」ポスト。

 しばらく「国道1号線」に沿って進み、「三ツ谷」交差点を過ぎたら、「多度神社」への道を左斜めに入ると、突き当たりの土手のところに、
「三ツ谷の一里塚」。日本橋から99里目。

 旧道には橋がないため、国道1号線の橋を渡り、すぐ左折する。

《43 四日市》(2015.8.09~掲載)

 現在の四日市には、本陣、脇本陣、問屋場など宿場に必ず設けられていた施設跡のしっかりとした表示がない。先達の方々の記録などを参考にしたが、今一つはっきりしない。結局、ほとんど見逃してしまった。
 「四日市」も町並みの変化(特に戦後の変化)が激しかった。東海道の「宿場」町というイメージはまったくなく、戦後、湾岸工業都市として大発展してきたことの証しでもある。
 特に他の都市と同様、第二次大戦末期、米軍による激しい空襲で壊滅的状況になったことが大きい。
 「東海道五十三次」を歩いていると、沼津、浜松、岡崎など、宿場町など多くの都市が空襲の大きな被害を受け、その後、官民の必死の努力によって見事復興を成し遂げている実態を肌で感じる。また戦後の区画整理、道路整備・拡幅、都市計画などによって、戦前、まして江戸時代の遺構がほとんど存在しない町も多くあることに気づかされる。

さっそく奇妙な人形がお出迎え。
 これは、「四日市祭」の大入道のモニュメント。

 
    「東海道五十三次之内 四日市 三重川 / 歌川 広重   (「知足美術館」HPより)

 この絵は、現在の三滝橋付近を描いたとされている。

「大正期の四日市」(「同」より)

 この先から四日市宿の問屋場や高札所、さらには本陣、脇本陣などの施設が置かれていた地域になる。

本陣の一つ(といわれる)「黒川本陣」跡。

宿内を振り返る。「清水本陣」はもう少し南側だったらしい。

広い通りを渡ると、交差点の角に道標。 

「東海道」はこのまま諏訪神社方向に向かい、「みやまえ商店街」が旧道にあたる。

「商店街」南側。東海道は広い通りを越えて南に続く。

 旧東海道はほぼ四日市あすなろう鉄道内部(うつぶ)線(あすなろう四日市駅~内部駅)に沿って南下していく。

近鉄名古屋線のガードをくぐり、古い町並みを進むと、
「鈴木薬局(旧鈴木製薬所)」。

「鹿化橋」を渡ると、古い町並み。

「日永(ひなが)神社」の境内に、
「追分道標」。もともとこの先の追分の地に明暦2年(1656)に建てられていたもの。東海道中の最古の道標。

 まもなく右手の建物と建物との間に石柱。「日永(ひなが)一里塚跡」碑。日本橋からちょうど100里目。
 

 しばらく進むと、「東海道名残りの一本松」。
      

 この辺りから泊の集落までは東海道の両側に低い土手が築かれ、その上に大きな松の木が並んで植えられていた。その向こうには、家は一軒もなく、縄手(なわて)と呼んでいた。この松は、その蝿手に植えられていたものが残った貴重なもの。
 縄手の道の幅は、土手も入れて約5間(9m)であった。松の木が無くなった現在の道幅とほぼ一致する。因みに、旧東海道の道幅は、3間(約5.5m)で、現在も変わっていない。

そこから来た道を振り返って望む。


「日永郷土資料館」の先で「国道1号線」と合流。

 正面に「日永の追分」が見えてきた。

    
 左が「国道1号線」(すぐ先で「伊勢街道」を分岐し、西へ向かう)、右が旧東海道(「追分」駅の先で県道と分かれて左に進む。)

左いせ参宮道 右京大坂道

 「四日市あすなろう鉄道内部線」の線路を渡る。

「追分」駅。      

「追分」駅の先を左折。住宅街の細い道を標識に従って進む。途中、右と左に大きく曲がり、「山中胃腸病院」の脇を通り、広い通りに出て左に進む。

左手奥に「内部」駅。内部線の終点。

右手の道が「旧東海道」。
  
 ここからは、8月18日(火)に出かけた内容。「内部」駅からスタート。

旧東海道。

 しばらく進むと、「内部川」にぶつかり、旧道は分断されるので、「国道1号線」の地下道を抜け、反対側に出て、「マックスバリュー」の先を左折する。

「杖衝坂」方向。

このおうちのところを左折。上り坂へ。

芭蕉句碑。「歩行(かち)ならば杖衝坂を落馬かな」

 この句は『笈の小文』にあり、
 「・・・桑名より食はで来ぬれば」と云ふ日永の里より、馬かりて杖つき坂上るほど、荷鞍うちかへりて馬より落ぬ。歩行ならば杖つき坂を落馬哉と、物うさのあまり云ひ出で侍れ共、終に季のことば入らず。・・・

「季語」の入っていない句としても有名。

「史蹟 杖衝坂」碑。

そこから振り返って「杖衝坂」を望む。

 しばらく進んで、「国道1号線」に合流。「国道1号線」の向こう側に「采女一里塚」碑。

     
    日本橋から101里目。                  「国道1号線」では403㎞

 しかし、炎天下の国道歩きはきつい。しばらく行き、国道から左に分かれて進むと、のどかな道筋。車も人も通らない。


 しばらくして再び「国道1号線」に合流。そこの案内図に従って地下道を通って向こう側に渡り終えて横断歩道を行くと、「石薬師宿」へ。 

《44 石薬師》(2015.8.21~掲載)

「石薬師宿」の入口。

 石薬師宿は、東海道五十三次の44番目の宿場で、元和2(1616)年に宿場となりました。それほど規模は大きくなかったようだ。
 また、この地は歌人・文学者の佐佐木信綱、父弘綱の生誕の地でもあり、それに因んで「信綱かるた道」が街道に沿って掲示されている。

「ゆく秋の 大和の国の薬師寺の  塔の上なる 一ひらの雲」。

「小澤本陣址」。

 「石薬師小学校」のすぐ先が、建物や歌碑。
    

これのふぐら良(よ)き文庫(ふぐら)たれ故郷(ふるさと)の里人のために若人(わこうど)のために

                

 「石薬師」では、信綱作詞の唱歌「夏は来ぬ」に因んで「卯の花の里づくり」に取り組んでいて、初夏になると、どこの家庭の庭先にもまた道端にも白い可憐な花が咲き清楚な趣をそえている。

(「Wikipedia」より)

 宿場名にもなった「石薬師寺」は、宿場の南端に当たるところ。道はだんだんと下って行く。

「瑠璃之橋」から右手「石薬師寺」方向。

 もちろん旧東海道のここに橋はなかった。「国道1号線」建設で切り通しになったために、橋が架けられた。広重はこの橋の手前あたりを描いたのだろうか?



    
 現在のようす。                          大正期のようす(「知足美術館」HPより)

 かつては、深い森に囲まれたところであったようだ。

宿内を振り返る。

しばらく進むと橋のたもとには、

「石薬師の一里塚」。
                                    日本橋から102里目。
 くたびれた やつが見つける 一里塚(江戸時代の川柳)
  まさにこの川柳のようで、この木陰でしばし休息。照り返しの強い舗装道路を人っ子一人通らない道をひたすら歩いて来て、いささかくたびれた。
 水分補給も食糧も、この先にもコンビニか自販機くらいはあるだろうと、都会的な安易な考え。これらの甘い考えが、後の辛い状況を生み出す。


                                   「石薬師宿」方向を望む。

案内表示に従って関西本線のガードをくぐり、右に曲がる。 

 しばらく行くと、「国道1号線」の下をくぐり反対側に。そこからそれこそあぜ道のようなところを曲がって、「国道1号線」に再び合流。激しく行き過ぎる車を横目にひたすら国道を歩く。
 「庄野町北」の交差点を右折し、その先を今度は左折。その角が、「庄野宿」の入口。12時10分頃。木陰も休むスペースもないので、そのまま進む。
  
《45 庄野宿》(2015.8.22~掲載)

解説板。庄野宿入口。 


      東海道五十三次之内 庄野 白雨 / 歌川 広重   (「知足美術館」HPより)

注:「白雨」=白く見える雨。ゆうだち。にわかあめ。

    
 大正期のようす(「同」より)。                 現在のようす。  

 しばらく進むと、左手に「庄野宿資料館」。これは助かった! 見学しながら休憩しようと。水分を補給し、昼飯でも食べながら・・・。ところが「休館日」。自販機も置いてない! 結局、この先、宿内の旧道には「自販機」は1台もない。

    
                    鈴鹿市指定建造物 旧小林家住宅・庄野宿資料館。

 後から調べたら、当日のこの時間帯、この地域は快晴で、気温はすでに32度を越えていたらしい。日なたでは35度以上? 

問屋場跡。

しばらく進むと右手に「庄野宿本陣跡」。

    
   「高札場跡」。                          「助郷会所」跡。

 この付近になると、かなり暑さにまいってきた。せめて広重にあやかって、「白雨」に出くわしたい、と。

「東海道 庄野宿」碑。ここが京方の出入口?

 真昼時。しばらくして「国道1号線」と合流する地点へ。のどはカラカラ、腹はペコペコ。ここまで、「石薬師一里塚」から約3㎞強。時間にして40分少し。人も車も通らない炎天下の歩き。すると、「国道1号線」のところに「サークルK」。助かった! 飲み物を購入して、一気飲み。ホッと一息。

 複雑な交差点を渡って、旧道へ。ふと角にタイヤ屋さん。無理に頼んで店内に。お店の中に入ると、ひんやりと涼しい風。「冷たいお茶、差し上げますよ」・・・ゆっくりと休養でき、歩きを再開。 

「従是東神戸領・これより東 神戸(かんべ)領」
 「神戸藩」と「亀山藩」の境界標。

「中富田一里塚跡」碑。

「従是西亀山領 これより西 亀山領」。

 かつてはそのまま「和泉橋」を渡ったが、下流に橋が移設されたため、「川俣神社」のところを左に折れて「和泉橋」を渡る。

 橋を渡り終えたら右に下り、その先で左に折れ、「地福寺」を右手に見て、左に曲がる(このへんは分かりにくい)。「関西本線」の線路と遠くに「井田川」駅が見えてくる。

竹林が点在する旧道を振り返る。

JR「井田川」駅前。

 時刻は、午後2時05分。、暑さは一段と。結局、ここでギブアップ。前回と同じ発車時間の名古屋行きで戻ってきた。車内の快適さはたとえようがありません。


 注:21日の実際の経路は、亀山駅から井田川駅までだったが、京に向かう旅なので構成し直してある。所要時間は、約1時間40分(ほとんど高低差のない道のりですのでどちらからでも同じくらい)。

 「井田川」駅からしばらく線路沿いの道を進み、「国道1号線」を越える。

歩道橋から見た上り方向。

渡り終えたら、左に折れる。 

のどかな道筋を進むと、右手に「谷口法悦供養塔」。

 まもなく左手には、和田の道標。
    

 東海道分間延絵図(文化年間・19世紀初頭)には「脇道神戸城下町江二里半、白子町江三里、若松邑江三里三十四町」とあり、亀山城下より亀山藩領若松港へいたる重要な分岐点であった。東海道の在銘道標の中で最も古いものである。

すぐ左は「国道1号線」。

    
                           「和田」付近の家並み。
 ここまで桑名宿からほぼ南(南西)に進んできた東海道がこの辺りからしばらくは西へ向かうようになる。関宿からは鈴鹿峠越えのため北へ向かう。

 町並みを抜け、ゆるやかな上り坂になり、広い道路をしばらく行くと右手に「和田一里塚」(復元)。
   

しばらく広い道を進む。けっこう暑い。なかなか自販機が見つからず、やっと「ファミマ」でペットボトルを購入。

しばらく行くと、左手に「亀山ローソク」の工場。

 あれ、聞いたことがある会社名。一般には亀山ローソク、カメヤマローソクの名で知られ、ろうそくの国内シェアは約5割を占める。社名は創業地・三重県亀山市に由来する。世界でも有数のキャンドルメーカーでもある。

《46 亀山》(2015.8.28~掲載)

いよいよ本格的に亀山宿内へ。「従是西亀山宿」。
 
    
                                    「巡見道」(「東海道」と交差する北側)
 巡見道という呼称は、江戸時代にこの道を巡見使が通ったことによる。巡見使が最初に派遣されたのは、三代将軍家光の寛永10年(1633)のことで、その後の将軍の代替わりごとに、諸国の政情、民情などの査察や災害などの実情調査を行う目的で実施された。巡見使はここで東海道から分岐して北上し、菰野を経て濃州道と合流した後、伊勢国を通過し、中山道とつながる。

これまでの宿場町にもあったように、家々には「屋号」が掲示されている。

しばらく進むと、左手に「江戸口門跡」。

 江戸時代前期においてはこの位置が亀山城下の東端と認識されていたことから、江戸口門は東海道の番所としてではなく、城下西端の京口門とともに、亀山城惣構の城門と位置づけることができよう。

枡形。右に折れて中心部に入る。

左からやって来て、右に曲がる。正面が「江戸口門」跡。

道路の反対側にある本陣跡や脇本陣跡の表示を見逃した。

「亀山城大手門跡」解説板。

 「大手門」は、東海道に直面する亀山城の正門としてあった門。明治初頭に石垣にいたるまで破却されてしまった、そうだ。

古い家並み。

東海道の道筋には色が塗られている。

    
                          「屋号札」の掲示された家。

行く先表示板。広い道を下った右手に「亀山」駅。

西町問屋場跡
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池鯉鮒~鳴海~宮。(江戸・日本橋から京・三条大橋まで。その8。)

2015-12-05 22:01:20 | 旧東海道
 今回は、岡崎・矢作橋から七里の渡しまでの1泊2日の旅。少しゆとりのある行程。
 6月16日(火)、17日(水)の2日間。矢作橋たもとの「出合之像」からスタート。「太閤伝説・豊臣秀吉(日吉丸)と蜂須賀小六」にちなんだもの。
 実際には、矢作橋が架けられた1601年には豊臣秀吉は既に亡くなっているため、この話は作り話。が、この逸話を伝えるために矢作橋の西側に「出合之像」という像が建てられた。

 橋の付け替え工事・整備によりこの付近も変わってきた。土手を下り、左手の道に入ると、「旧東海道」。かつての家並みがところどころに残っている。


まもなく国道1号線と合流、「(日本橋から)330㎞」ポスト。

 「安城市」に入ってまもなく、国道から離れてY字路を右に進むと、松並木になる。

    

 松並木を過ぎると、右手の「熊野神社」には、「予科練の碑」「第一岡崎海軍航空隊由来」などの記念碑が並んでいる。かつての広大な跡地は、戦後の食糧危機に再開拓され、その後の経済成長に伴い大きく変貌している。

現在のようす。

 「予科練」は、「海軍飛行予科練習生」及びその制度の略称。14歳半から17歳までの少年を全国から試験で選抜し、搭乗員としての基礎訓練をするもので、飛行予科練習制度が始まってから、終戦までの15年間で約24万人が入隊し、うち約2万4千人が飛行練習課程を経て戦地へ。
 対外戦争への積極的な法制化が仕組まれている今日こそ、こうした「戦跡」をどのように平和教育に生かしていくかが問われてもいる。

日本橋から83里目「尾一里塚」。  

そこから10分ほどで、右手に「永安寺の雲竜の松」。

 そこからしばらく進むと、「県道76号線」との交差点には、「明治用水」にちなんだ大きな石碑。

    

「明治用水」
 愛知県豊田市にて矢作川から取水し、安城市、豊田市、岡崎市、西尾市、碧南市、高浜市、刈谷市、知立市に水を供給している。本流、西井筋、中井筋、東井筋の幹線と支線から成り、幹線は88km、支線は342kmある。灌漑面積は約7000ヘクタール。1880(明治13)年に完成した。

現在は、暗渠化の工事が進み、自転車専用道路などに。 

 交差点にある「明治川神社」には都築、伊豫田、岡本ら明治用水建設の功労者が祀られている。

交差点を越えると、松並木が断続的に続く。

「猿渡川」を越えて、知立市へ。

橋を渡ると、左は「来迎寺公園」。すぐ先の交差点には、「元禄の道標」。
従是四丁半北 八橋 業平作観音有 元禄九丙子年六月吉朔日施主敬白。

 元禄9年(1696)に、在原業平ゆかりの八橋無量寿寺への道しるべとして建てられたものであることがわかる。
分岐点を望む。左右に通じる通りが東海道。

 片道10分くらいの道のり。ぜひとも「かきつばた」の地に行こうと、ここで右折して「八橋・無量寿寺」へ向かう。ほとんど人通りのない、新しい住宅が建ち並ぶ道を北へ。すでに時季外れではあるが。

 案の定、誰もいない境内。庭園の方に回ったところ、このような有様。ガッカリ!
    

 八橋のかきつばたは、平安の歌人“在原業平”が、「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」と、句の頭に「かきつばた」の5文字をいれて詠んだように伊勢物語の昔から知られるかきつばたの名勝地。
 庭園の面積約13,000平方メートル、16の池(5,000平方メートル)に約3万本の「かきつばた」が植えられている。特に花が咲きそろう5月の10日前後が1番の見頃、という。

庭園の奥にモニュメント。
   
「業平像」。
       
 想像していたよりも手狭な「無量寿寺」境内。また「かきつばた」はほとんど刈り取られていたが、芭蕉句碑などもあって、静かな散策を楽しめるところだった。

「芭蕉連句碑」。

 かきつばた 我に発句の おもひあり   芭蕉
 麦穂なみよる 潤ひの里     知足

 こうして一通り見学したあと、再び「東海道」へ。途中、「明治用水」遊歩道に四阿風の休憩施設が見えたので、そこに立ち寄って、昼食休憩。なんと目の前に「芭蕉句碑」があった。


 杜若 語るも 旅のひとつかな

 今回の旅の心境にピッタリ。再び「東海道」を西へ。まもなく「来迎寺一里塚」。両塚とも完全に遺されているのは、大へん珍しい。

    
 南側。                                  北側。日本橋から84里目。

しばらく道なりに進む。
「元禄12年の道標」。

まもなく、「知立」(池鯉鮒)の「松並木」に到着。

歩道橋から望む。    

 知立の松並木は、近年まで牛田町から山町まで約1キロ続いていたが、住宅が次々と建てられて今では450メートル程になってしまった。戦前までは、昼なお暗いほど老樹が鬱蒼としていたが、昭和34年の伊勢湾台風により60~70%の松が折られたり、根ごと吹き倒されてしまった。昭和45年、幼松158本を補植し、以後毎年松食虫の防除に努め、昔の姿を今にとどめている。

    

 また、この松並木の西の地名を引馬野と呼び、大宝2年(701)持統天皇が三河行幸の際詠まれた歌「引馬野爾 仁保布榛原 入乱 衣爾保波勢多鼻能 知師爾(引馬野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに)長忌寸奥麻呂」から、浜松市・宝飯郡御津町と共に天皇行幸の推定地とされている。

途中には馬の像。

 池鯉鮒宿(ちりゅうしゅく・旧仮名遣いでは「ちりふ」)は、東海道五十三次の39番目の宿場。日本橋から約330kmで、当時でおよそ10日間かかったといわれている(当方は、その倍ほどかかっている)。
 馬市が立ったことで知られており、 毎年首夏(陰暦四月)、陰暦4月25日〜5月5日頃に開かれていた。 また三河地方の特産品であった木綿市も開かれていた。街道沿いの松並木は、馬をつなぐためにも使われていた。


   東海道五十三次之内 池鯉鮒 首夏馬市 / 歌川 広重

 池鯉鮒は珍しい地名である。鯉と鮒が沢山いた池があったという。毎年4月25日から5月5日に馬市が開かれる。400から500頭の馬が集まり、馬喰や馬主が来た。大きな松は談合松と呼ばれていた。この時期には遊女や役者まで集まってきて賑わったそうである。初夏の爽やかな風景である。

 (「知足美術館」HPより)

※「首夏」=初夏の頃。旧暦で4月の異名。

    
   「万葉歌碑」。                     「馬市之址」碑。

【万葉の歌】

引馬野に にほふはりはら いりみだれ 衣にほほせ たびのしるしに

左の通りは「国道一号線」。

《39 池鯉鮒》(2015.07.05~掲載)

「国道1号線」で地下道を上がると、「池鯉鮒宿」。

しばらくして名鉄三河線の線路を越える。  

    
                           街道沿いの古い家並み。

中町の六叉路。正面の細い路に入る。

右手にある「食品館・美松」の駐車場に「池鯉鮒宿問屋場之跡」。

 「国道419号線」を渡り、右手の案内図をもとに本陣跡へ。東海道から少し南に入ったところにある。

    
                                裏手の石碑は「明治天皇行在所聖蹟」記念碑。

 東海道に戻ってしばらく進むと、左手に山車を収納する大きな蔵。

         「本町山車蔵」。

「了運寺」のところを左に。角には「知立大明神」の「常夜燈」。

 「国道155号線」の横断は、地下道を利用。しばらく進み、右折して行くと、左手に「知立公園」。「知立花しょうぶ祭」を開催中。

    

 「かきつばた」を見ることができなかったので、ここでしばし休憩。休憩所で地元・知立名物の「大あんまき」を。

薄く細長いホットケーキ生地で餡を巻いたもの。

園内には芭蕉の句碑。

不断堂川 池鯉鮒の宿農 木綿市  芭蕉翁

 この句、「ふだんたつ ちりふのしゅくの もめんいち」と読ませていますが、『芭蕉俳句全集』には掲載されていない。
誰の作?

 逢妻川の土手に突き当たったら左へ折れ、「逢妻橋」を渡る。

「国道1号線」に合流。「名古屋25㎞」の標示。

「刈谷市」に入って、「一里山歩道橋」歩道橋の下に「一里塚跡」。
                                           日本橋から85里目。

「夢」と刻まれた石碑の先で「国道1号線」から右の道に入り、倉庫・工場が並ぶ道をしばらく進み、再び「国道1号線」に合流し、「歩道橋」を渡り、反対側へ。

これから進む道を望む。

洞隣寺には「めったいくやしいの墓」と「中津藩士の墓」があり、墓にまつわる伝承が残されている。

今度は右手に「いもかわうどん」の説明板。

 江戸時代の東海道の紀行文にいも川うどんの記事がよくでてくる。この名物うどんは「平うどん」で、これが東に伝わって「ひもかわうどん」として現代に残り、今でも東京ではうどんのことをひもかわとよぶ。
 きしめんのルーツとされるいもかわうどんは「芋川」の名物であるが、芋川は今岡村の一部だったとする説、芋川=今岡村とする説、芋川=今川村とする説など諸説ある。

古い家並み。

名鉄「富士松」駅先の県道を「歩道橋」で越えてしばらく進み、「今川町」交差点で「国道1号線」を横断、反対側に進み、「境橋」に向かう。

「境橋」。
 この橋が国境で、いよいよ三河国から尾張国へ入る。そのまま進み、「伊勢湾岸自動車道」のガードをくぐり「国道1号線」に合流。

 「案内」表示に従って、国道1号線から左の道に入り、県道57号線の高架をくぐると、国指定史跡の「阿野一里塚」がある。

    
                       道の両側にきちんと残っている。

 愛知県内には18の一里塚があったが、現存するのは4ヶ所。そのうち、道の左右とも残っているのはこの塚と知立市のみである。この一里塚は、「日本橋」から86里目。

ここから緩やかな上り坂。

 急に道が広くなり、周囲も畑などがあって開けた場所に。その先で「国道1号線」と合流。


「中京競馬場」入口には馬の像。

 「旧東海道」は左に折れ、名鉄のガードをくぐると、 左手にある大きな病院が「桶狭間病院」。そこを左に折れると、「桶狭間古戦場伝説地」。
「史蹟・桶狭間古戦場」碑。

 永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国・桶狭間で行われた合戦。
 2万5千といわれる大軍を率いて尾張に侵攻した駿河の戦国大名である今川義元・今川氏真親子に対し、尾張の大名・織田信長が少数の軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を退却させた、日本の歴史上有名な戦い。

今川治部大輔義元の墓

「桶狭間病院」の前を通る道が旧東海道。

 再び「国道1号線」に合流し、しばらく進み、「大将ヶ根」交差点で向かいの道に進むと、有松の町並みに。ここは、名古屋市緑区。

《40 鳴海》(2015.7.22~掲載)

いよいよ有松の町並みに。

 広重も鳴海の宿はこの町並みを描いた。


  東海道五十三次之内 鳴海 名物有松絞 / 歌川 広重   (「知足美術館」HPより)

    
   大正期の鳴海(「同」より)。竹田家。              現在のようす。ほとんど変わっていない。

有松・鳴海絞り(ありまつ・なるみしぼり)

 愛知県名古屋市緑区の有松・鳴海地域を中心に生産される絞り染めの名称。江戸時代以降日本国内における絞り製品の大半を生産しており、国の伝統工芸品にも指定されている。「有松絞り」、「鳴海絞り」と個別に呼ばれる場合もある。
 木綿布を藍で染めたものが代表的で、模様については他の生産地に類を見ない多数の技法を有する。

有松絞りで染め抜かれた文様。

 乳児に話しかけるご主人「すてきな浴衣だね、お婆ちゃんが染めてくれたのかな」にこっり笑いながら答える母親「ええ、そうなんです」。ちらっと横目で見るとあざやかな藍色の浴衣。

    
  【服部幸平家住宅】                          【服部家住宅】

    
  【小塚家住宅】                            【岡家住宅】

 他にもほれぼれするような立派なおうちが東海道の両側に建ち並んでいる。
    

これまでの道中では、一番宿場町らしい町並みに出会った。

 名古屋市有松町並み保存地区。東から西まで約800㍍、徒歩で約10分の範囲。北は名鉄線、南は国道1号線に挟まれた区域。現代と江戸が微妙に交差しつつ、江戸時代の雰囲気をそのまま残している。

道路上のマンホールの文様はミズスマシ? 有松絞りでこのような文様があるのだろう。

 まだまだ見所が多いところだが、そろそろ西のはずれにさしかかる。

町並みの奥に見えるのは、「名古屋第二環状自動車道」。

 突然、現代に戻る。頭上には、「名古屋第二環状自動車道」の高架道路。その橋脚の下には、「有松一里塚跡」碑。 
                               

「スーパー」先の交差点のところに大きな「常夜燈」。

 鳴海宿の東の入口平部町に建てられたものである。表に「秋葉大権現」右に「宿中為安全」左に「永代常夜燈」裏に「文化三丙寅正月」の文字が刻まれている。
 文化3年(1806)に設置されたもので、大きく華麗な常夜灯であり、道中でも有数のものといわれ、往時をしのぶことができる。

ここが鳴海宿の入口。

東海道をイメージした石碑。             

 相原町と本町との境目付近に「曲尺手」。

     

 現在の鳴海宿には、当時のものは寺院以外は残っていないようだが、2009(平成21)年、高札場が復元された。本町交差点を右折したところにある。

    

 通りを挟んで高札場の反対側には、最古の芭蕉供養塔がある「誓願寺」がある。

東海道に戻った左側に「本陣跡」碑。

「作町」交差点を右折し、しばらく進むと、右手に「丹下町常夜燈」。ここまでが「鳴海宿」。

 「山王山」交差点を横断して、「天白橋」を渡ると、「緑区」から「南区」へ。

その先に「大きく細長い古地図(絵図)」。 

    昔のままの道筋。

前方にこんもりと茂った大木。「笠寺一里塚」。

 日本橋から88里目。名古屋市内を通る旧東海道唯一の一里塚で、現在、東側だけが現存している。 

「笠寺一里塚」の先には、「笠覆寺(りゅうふくじ)・笠寺観音」。

 「名鉄本笠寺」駅横の先の交差点を右に曲がる。分岐点には「東海道 是より北よびつぎ」という「道標。

                  


        宿駅制度制定四百年記念碑
 今に残る東海道は、徳川家康による宿駅制度制定以来、わが国の代表的な幹線道路として産業・経済・文化の発展に大きく寄与してきた。江戸時代東海道の西側には、呼続浜の潮騒が磯を洗い、大磯の名を残している。ここで造られた塩は塩付街道を通じて小牧・信州に送られていた。東側には、松林を遠く望む風光明媚な景勝の地として有名であった。
・・・ 

「万葉の里 年魚市潟あゆちがた」。
 この「年魚市潟」(あゆちがた)という名称が、「愛知」の地名の由来とされている。
 「万葉集」には、高市連黒人(たけちのむらじくろひと) の歌がある。
 桜田(さくらだ)へ鶴(たづ)鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干(しおひ)にけらし鶴鳴き渡る (巻3 271)
〈訳〉 桜田の方へ鶴が鳴いて飛んでいく。年魚市潟は潮が引いたらしい。鶴が鳴いて飛んでいく。

 古来、呼続一帯は四方を川と海に囲まれた、巨松の生い茂る陸の浮島として、「松巨嶋」(まつこじま)と呼ばれ、尾張の名所であった。ここは東海道が南北に通り、これに鎌倉街道が交差している。西側の磯浜は「あゆち潟」と呼ばれ、これが「愛知」の地名の起源になったと言われている。
 
その先「山崎橋」手前にある道標。
                                         「北あつた 南よびつぎ」。
広い道路になり、「名四国道事務所」を左手に見ながら進む。

 この先で「松田橋」交差点・「歩道橋」を渡り、「国道1号線」をしばらく進み、左の側道に入って、JR東海の踏切を渡る。

「東海道」の名が。

熱田橋を越えると、「熱田区」。

《41 宮》

名鉄常滑線のガードをくぐると、右手に「伝馬街園」。

公園の中央には木が植えられ、一里塚のような雰囲気だが、説明は見当たらない。

 しかし、ここまで、一つ前の「笠寺一里塚」からほぼ4㎞の道のりがある。これが日本橋から89里目となる「伝馬町一里塚」とではないかと。これ以降、「海上七里」のため、「一里塚」は桑名宿と四日市宿の間にあるものまで、しばらくない。
 しばらく進むと、左手に説明碑や記念碑、石柱のある一角に出会う。。

    
   「裁断橋址」碑。                          解説板。


旧裁断橋桁石。

奥には「都々逸発祥の地」碑。 

都々逸作品例

・恋にこがれて 鳴くせみよりも 鳴かぬほたるが 身をこがす
・ついておいでよ この提灯に けして(消して)苦労(暗う)はさせぬから
・あとがつくほど つねっておくれ あとでのろけの 種にする
・あとがつくほど つねってみたが 色が黒くて わかりゃせぬ
・はげ頭 抱いて寝てみりゃ 可愛いものよ どこが尻やら アタマやら

 「伝馬町」との表示がある通りを進むと、大きな通りに分断されるので近くの「伝馬町」交差点を渡り、正面を左折。



「里程標」。東海道と美濃路/佐屋街道の分岐点。

「国道247号線」を歩道橋で渡る。正面が進む道。

「宝勝院」。

 熱田湊常夜灯は承応3年(1654)から明治24年(1891)まで当寺が管理をしてきた。

いよいよ到着! 宮の渡し公園。

              
                        ひときわ目立つ「時の鐘」。

そして、「熱田湊常夜燈」。

かつてのようすとは異なって、はるかかなたに名古屋湾。

「隷書版東海道五十三次・歌川広重」
     HPより

 「七里の渡し舟着場跡」解説板には、この浮世絵が掲載されている。

丹羽家住宅。

 丹羽家は幕末の頃、脇本陣格の旅籠屋で、伊勢久と称し、西国各藩の名のある提灯箱などが遺されている。正面の破風付玄関は、かっての格式の高さを残している。創建は不明であるが、天保12年(1841)森高雅画の「尾張名所図会・七里渡船着」には当家のものと思われる破風付玄関のある旅籠屋が描かれている。昭和59年、市の有形文化財に指定された。
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吉田~赤坂~岡崎。(江戸・日本橋から京・三条大橋まで。その7。)

2015-12-03 23:21:51 | 旧東海道
 この回からは一泊二日の旅。泊まりは一泊朝食付の「ビジネスホテル」。
 5月19日(火)~20日(水)。JR二川駅から岡崎駅まで。初日。初めての雨。JR二川駅から出発。

県道3号線の緩やかな坂道を上っていく。
 
左側に松並木の復元事業。

    
 この地区には、昭和40(1965)年代に100本を越える松が残っていたが、松食い虫や道路拡幅などにより減少し、ここにあった最後の松も松食い虫の被害に遭い、平成19年2月28日に伐採された。

 「殿田橋」を渡って国道1号線と合流。そこに「飯村(いむれ)一里塚」。

江戸・日本橋から73里目。

 ここからはしばらく「国道1号線」を進む。沿道には昔ながらの家並みが見られる。30分ほど歩くと、「東八町交差点」。

歩道橋上から。路面電車の走る町。 

右側の角には大きな「常夜燈」。

《34 吉田(2015.5.21~掲載)》

歩道橋を下りると「東惣門」の復元模型と説明板。

 「東惣門」を右手にして少し進み、次の道を右に入る。次の交差点を左に。さらに、突き当たりを右に。広い通りにぶつかると、左手の中央の緑道のところに「吉田宿」と刻まれた石碑。

「吉田宿」「江戸 74里」。

右手の生け垣には「曲尺手門跡」の石碑。

 再びジグザクの道。路面電車が行き交う大通り。「札木」。その角にあったのが「吉田宿問屋場跡」碑。

    

 通りを渡った先にある鰻屋「丸よ」の店先に本陣跡の碑。

    

 通りの向かい側には「吉田宿脇本陣跡」碑。

 交差点の向かい側にある公園が「松葉公園」の角には、「吉田宿」の石碑。
         「東海道 吉田宿 江戸まで73里 京まで52里」。

広い通りを渡ると、右手に「西惣門」の復元模型。

 さらに進み、右手の「湊町公園」のところに芭蕉の句碑。貞享4年(1687年)11月11日、芭蕉と越人が渥美郡保美に杜国を訪れ途次この地の旅籠屋で一夜を明かした。

            
  寒けれど二人旅寝のたのもしき              ごを焼いて手拭あふ(ぶ)る寒さかな 

 「ご」は松の枯れ落葉のこと。かき集めて焚物にする。三河地方の方言とも。季語は「寒さ」で冬。

 その先を右折すると、ようやく「豊橋」のたもとに。

「船町と高札場」。



 江戸時代には、江戸幕府が整備、管理する長さ120間の大橋であった。

豊橋を渡り、左に進む。「右 御油道」。

しばらく進むと、右手に「下地一里塚跡」。江戸・日本橋から74里目。  

 右にカーブすると、道幅が狭くなり、昔のままの道幅のよう。古い家並みが続く。

    

「豊川市」に入ると、とたんに道も狭くなり、歩道もなくなる。
                大型の貨物トラックや軽トラなどが激しく行き交う道を進むことに。

「国道247号線」を渡ると、芦のそよぐ沼地に。 

「才ノ木」交差点を過ぎ、旧道らしい道筋を行く。

JR飯田線の踏切。奥に見えるのが「小坂井」駅。
     

 しばらく進むと、「伊奈村立場茶屋 加藤家跡(俗称 茶屋本陣跡)」。
                 

・芭蕉句碑「かくさぬぞ 宿は菜汁に 唐が羅し」 ・烏巣句碑「ももの花 さかひしまらぬ かきね哉」 

 注:芭蕉の句= 日頃の菜汁に唐辛子だけの粗末な食膳を、客の前でも隠そうともしない。この家の主は、けっして気取らぬ人物だ。」
 季語は、唐辛子で「秋」。「菜汁」は干菜のみそ汁。ここに登場する「宿(の主)」とは「烏巣」らしい。

しばらく行った先の右手には「伊奈一里塚跡」。
                                江戸・日本橋から75里目。お隣の建物は太鼓屋さん。

 「国道1号線」から一本南に入った道。車もほとんど通らず、落ち着いた町並みが続く。


「佐奈橋」。向こうに「国道1号線」。 

 小さな橋を越えて行くと周囲は倉庫や工場の地域に。埃っぽい道になる。
           

 迂回の表示に従って進む。跨線橋の下をくぐって右に。

振り返る。右の線路は名鉄線。

「国道1号線」へ。「名古屋62㎞ 安城32㎞ 岡崎22㎞」。

 「国道1号線」に沿って進み、「国府町藪下」交差点で左に入る。

国道から離れてしばらく進むと、右手に「秋葉山常夜燈」。

「大社神社」を右手に見て進むと、「御油一里塚」。
                               江戸・日本橋から76里目。

 しばらく行くと、広い通りと交差、その右手に大きな「常夜燈」。ここは、「姫街道」との追分になっている。


《35 御油(2015.5.25~掲載)》

「御油橋」を渡ると、「御油宿」に。

    
   大正期の御油(「同」より)。                      現在のようす。
 宿内に入ると、道幅も曲がり具合もほとんど変化がなく、かつてのままのようすが感じられる。

「高札場跡」。

そこを右に折れると、「問屋場跡」。

その先の角が曲尺手(鈎の手)。ここからが宿場の中心部。

宿内の詳細図。 

    
 なまこ壁のある大きな蔵造り。                    格子のある家々。 

 これから「御油の松並木」にさしかかるが、その手前の右手に、「御関札立掛場」。
「寛文元年十一月二十一日 松平丹波守宿」。

 「御油の松並木」。国の天然記念物に指定されるだけあって、よく保護、保存、手入れがなされている。


途中にあった「弥次喜多茶屋」。

    
 切り株の跡には大きく育った松。地元の方々の環境維持に努める熱意と姿を強く感じる道筋。

     松並木の終わりから振り返る。

《36 赤坂(2015.5.26~掲載)》

松並木を過ぎると、右手に「赤坂宿」の「見附跡」。

 さすが東海道の宿場では最短距離に位置していた「御油」と「赤坂」。

昔ながらの道筋。

 左側の「関川神社」に芭蕉の句碑。

「夏の月 御油より出でて 赤阪や   芭蕉」

 夏の月が出ている短さといったら、なんと御油から赤阪の間を過ぎるほどの時間に過ぎないことよ。

右手に「赤坂宿」の説明板(広場)。奥には「高札場」。

「赤坂宿町並みの図」。

左手には、「本陣跡」。 

右に行くと「名電赤坂駅」。その交差点名は「赤坂紅里」。

交差点の右手にある「尾屋」。軒下の看板には「曲物・民芸品製造卸問屋」と。

 続いて左手に「旅籠 大橋屋」。

    

その先の右手には、「高札場跡」。

右手には「赤阪陣屋跡(三河県役所跡)」。

しばらく進むと右手に「見附跡」。ここが「赤坂宿」の西の出入口。

左手に「常夜燈」。

 「八王子」地区で「東名高速」から分岐した「三河湾オレンジロード」を横切る。 
しばらくして「長沢一里塚」に到着。江戸・日本橋から77里目。

 「長沢城跡」を過ぎ、国道1号線と合流、あとは道なりに。
 いよいよ岡崎市に入り、間宿の「本宿」。道路脇にはモニュメント広場風。大きい説明板。「これより西 本宿村 藤川宿へ壱里」。「本宿」は、赤坂宿と藤川宿の中間に位置する間の宿としての役割を果たしていた。

左手の大きなお寺が徳川家康ゆかりの「法蔵寺」。

「法蔵寺橋」を渡ると、間の宿・「本宿」内に。

古い家並み。平日の昼間。ほとんど車も人も通らない。

右手には「本宿一里塚」。
                                     江戸・日本橋から78里目。

「本宿」の西の出口にある、大きな案内板。 

 ほんの少し残された松並木が終わると、「国道1号線」と合流。
              
                               「(日本橋から)316㎞」ポスト。名古屋まで51㎞。

名鉄線路脇の細い道に入る。「東海道」の表示。                           
 名電山中駅を右に見て進むと、現代の旅人の便宜を図って、小休止できる広場が左にあり、解説板がある。


 「国道1号線」を横断してしばらく進むと、大きな石碑。「御開運御身隠山」。

 しばらく進み、「市場町」の交差点で県道327号線に。正面奥には「藤川宿」の説明板。
                 

《37 藤川(2015.6.04~掲載)》

「藤川宿・東棒鼻跡」に着く。    
広重の絵に合わせ榜示杭を復元。

左手の奥が「曲尺手」(鈎の手)になっている。それに従って、左の道を進む。

    
                     宿内のようす。静かで落ち着いた道筋。

道の右手には「高札場跡」。

続いて「問屋場跡」。

    
                          宿内には古い家屋が残っている。
            
右手に「本陣跡」。明るく開けた広場になっている。昨年春に完成したばかり。

奥には、「むらさき麦栽培地」。
                      藤川小学校の児童が育てている、とのこと。          

「脇本陣跡」。

「藤川小学校」に面したところに、「西棒鼻」。 

その先には芭蕉の句碑。「爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつばた はせを」

 この碑は、この近辺の芭蕉句碑では最大級といわれている。

左手に「藤川の一里塚」。江戸・日本橋から79里目。

 そのまましばらく進むと分岐点に差し掛かる。分岐点を左に行くと吉良道。「東海道」は右側の道を進み、名鉄線の踏切を越えると、手入れの行き届いた「松並木」。この日も大勢の方々で清掃、手入れなどの活動が行われていた。

      

「藤川宿」の看板を過ぎると、「国道1号線」へ合流。
     

 「岡町神馬崎」交差点の先を斜め左に。ここからはしばらく道なりに進む。その後、東海道は「乙川」で行く手を阻まれてしまう。


 「大平橋」で左に折れ、道なりに進み、「国道1号線」を横断歩道で渡る。右手に薬師寺。その脇に「東海道」の道標。

奥に見えるのが「西大平藩陣屋跡(大岡越前守陣屋跡)」。

その先には「大平一里塚」。

 その先で再び東海道は分断されるので、「岡崎インター西」の信号の先から「国道1号線」脇の道を進む。斜め右に入り、緩い上り坂を道なりに進む。
 
そのまま進むと、左前方に「冠木門」が見えてくる。

 ここから「岡崎宿二十七曲がり」のスタート。

《38 岡崎(2015.6.08~掲載)》

 「旧東海道」を旅する者のために、「い」「」ろ「は」・・・の表示で始まる大きな「道標」(上部に金の草鞋が置かれている)とそれが設置できないところには「看板」(これはちょっとよそ見をしていると見逃しそう)が、曲がり角ごとに懇切丁寧に設置されていて、迷うところがない。
 これまで通ってきた、宿場・城下町でもこれほどの懇切丁寧な案内表示は初めて(他では、中途半端な表示でかえって迷いやすいところもあった)。大変ありがたい試み。

岡崎城下二十七曲り
 
 岡崎城下を通る東海道は、その曲折の多さで知られ、通称二十七曲りと呼ばれていました。享和元年(1801)当地を見聞した大田南畝も「町数五十四町、二十七曲ありとぞ」と「改元紀行」に書いています。
 二十七曲りは、田中吉政が城主だった時(1590-1600)城下に東海道を導き入れたことに始まり、のち本田康重が伝馬町を慶長14年(1609)創設して以後、道筋がほぼ決定したと思われます。このねらいは城内を防衛するためのものと言われますが、これにより岡崎の城下町は東海道筋の宿場町としても繁栄することになりました。
 二十七曲りの一部は、戦災復興の道路整備などにより失われはしたものの、現在でもその跡をたどることは可能です。この歴史の道とも言うべき二十七曲りを後世に伝えるために、城下二十七曲りの東口であった当所に記念碑を建て、道標とします。

 「岡崎」も他の太平洋沿岸都市と同様、米軍の数度に及ぶ空襲により、大きな被害を受け、人的被害はもちろん、建物も主要な施設のほとんどが焼失してしまった。その後の復興によって大きく市街地が変貌し、宿場町時代はもちろん、古い建物や史跡などはほとんど存在していない。

「伝馬町通り」には道標や説明板、モニュメント。

    
       東海道・岡崎宿にちなんだ石像と説明板が歩道に設置されている。
    

 天保年間(1830~1843)の記録によれば、岡崎宿には伝馬町を中心に本陣三軒、脇本陣三軒、旅篭屋が百十二軒あったとされ、東海道五三次中三番目の規模を誇る宿場だった。

注:東海道で最大の宿場は宮宿(熱田宿)、2番目が桑名宿、3番目が 岡崎宿、らしい。

「東 京みち 西 京いせ道 きらみち 明治二年己巳十二月建立」。

「籠田公園」を斜めに突っ切る白砂の道。
 
「唐弓弦」という古びた看板。 

右に曲がり、左に折れ、橋を越えていく。「国道1号線」と「国道248号線」交差点「八帖」に架かる「歩道橋」を渡る。

「歩道橋」から東を望む。右手奥が「岡崎城」の方向。

「松葉総門跡」石碑。岡崎城下西出入口にあたる。

 その先は、岡崎の地場産業「八丁味噌」の町。
高架線の右手には「カクキュー」。

                      趣のある建物が続く一画。
     

連続テレビ小説「純情きらり」ロケ地。「純情きらり手形の道」(宮崎あおいの手形)。

突き当たりを右折して「矢作橋」へ。                                                 「矢作橋」。川下の鉄橋は「名鉄線」。

 「矢作橋(やはぎばし)」は、矢作川にかかる橋で、橋上を通るのは東海道(国道1号)。
 矢作橋は慶長6年(1601年)に土橋として架けられ、その後何度も大水に流され改修を繰り返してきた。架橋がみだりにできなかった江戸時代には日本最長の大橋だった。現在の矢作橋は東海道に架かっていた橋よりも少し南側に位置している。


  東海道五十三次之内 岡崎 矢矧之橋 / 安藤 広重

 藤川より1里半。この宿の出入口にあたるところに東海道随一の長橋がある。矢矧橋がこれで,長さ208間(378m)であった。現在の橋より右手に岡崎城があるが、広重画では左手に見えるから、もと橋はかなり左によって架せられていたのであろう。この矢矧橋が画面の中心である。粛々と隊伍をととのえてすすむ大名行列、そのむこうに岡崎城と山々が見える。この遠山は実景ではなく、広重の作図であろう。

(「鹿児島県立図書館・『東海道五十三次~五葉が選ぶ広重の風景画~』」HPより)


    
大正期の岡崎(「知足美術館」HPより)。               現在のようす。

 「道標」、「案内板」によって導かれ、何とかクリアできた。
 
 

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天竜川~浜松~新居~二川。(江戸・日本橋から京・三条大橋まで。その6)

2015-12-02 21:21:57 | 旧東海道

 静岡県内の4つの大きな川。「富士川」「安倍川」「大井川」と越えて来て、残された「天竜川」を越えると浜松。
 県道を西に進む。しばらく行くと、右手にあるのが、「宮之一色一里塚」跡。江戸・日本橋から数えて63里目。
 しだいに天竜川の土手が見え隠れしてくる。

 いよいよ「天竜川」を渡る。
橋の途中でちょうど「(日本橋から)250㎞」ポスト。

渡り終えると、橋の左手のたもとにある小公園(休憩施設)。
    

 「舟よりあがりて建場の町にいたる。此処は江戸へも六十里、京都へも六十里にて、ふりわけの所なれば中の町といへるよし」-東海道中膝栗毛-

 やはりこの辺りが「どまん中」ということになるようだが・・・。

土手を降りて河川敷に出て、対岸を望む。

 「六所神社」から右に曲がって、東海道を西に向かう。

伊豆石の蔵。

 細い道を横切ると、「軽便鉄道軌道跡」。
    
   南側。                                       北側。

 しばらく進んで、県道312号と合流。その付近、右手のフェンスの中に、「安間(あんま)一里塚」跡の標柱。

    

 「国道一号線」のガードをくぐって進む。しばらくすると、東海道名残の松並木。

        

右側は「浜松アリーナ」。その前に広重の浮世絵。

 「子安」交差点で通称「自動車街通り」という国道152号線と合流し、地下道を通って反対側に出る。しばらくは「国道152号線」を行く。

琵琶橋。正面奥が「アクトタワー」。

「馬込一里塚跡」。

 この先の「馬込橋」が浜松宿の東の入口にあたる。

《29 浜松》(2015.4.02~掲載)

「馬込橋」には、浜松宿の東木戸が置かれていた。ここからが浜松宿内。

 江戸から京との中間に位置して、名実共に関東・関西の中間地域として存在していた。天保年間には本陣が6軒、旅籠が94軒もあり、遠江国・駿河国を通じて最大の宿場。
 しかし、現在、当時を偲ばせる史跡はほとんどなく、説明板等で当時のようすをイメージするのみ。その理由の最大なものは、第二次世界大戦における米軍による空襲によってほぼ壊滅的になったこと。著名な公共建築物や公共施設、商店、住宅、工場の大部分は焼失または倒壊した。
 その罹災面積は旧市内で6.90km2、罹災戸数3万1,000戸、罹災人口12万人に及んでいる。



 こうして廃都と化した浜松だったが、その後、急速に復興し、今や静岡市をしのぐ勢いで発展している。歩いてみても、静岡市と肩を並べる「繁華街」という印象。

                      
                     出世大名家康くん。(今年のゆるキャラ優勝)

 「板屋町」交差点から「遠州鉄道」のガードをくぐり、そのまま賑やかな通りを進む。「連尺」交差点を左折し、ここから「国道257号線」を進む。
 ここからが浜松宿の中心地。但し、史跡それ自身はなくて(上記の理由による)、そのあった場所に解説板が置かれ、詳しく説明がある。
 成子交差点で国道から右に曲がり、その先の交差点を今度は左に。この付近が「桝形」なのか? 「浜松宿」ともお別れ。

 そのまま道なりに進み、東海道本線のガードをくぐり、「国道257号線」へ。そこは、「八丁畷」。幅の広く長い直線道。1時間近く歩くと、「高塚駅入口」交差点。道が二手に分かれ、国道から離れて右の道を行く。西日を浴びて、直線道路をただひたすら歩くのみ。

 「旧東海道」歩きのうちでは、車の往来の激しいひたすら道路を歩いた、ということで、この区間が一番しんどかった。

JR「舞阪」駅からすぐ行く手にあるのが「松並木」。

 左側の歩道沿いに東海道53次の各宿場のプレートが安藤広重の53次の浮世絵をレリーフにして、順番に並んでいます。

 広重の浮世絵の大きなレリーフ。


   東海道五十三次之内 舞坂 今切真景 / 歌川 広重 (「知足美術館」HPより)

松並木の最後の地点には金色の小僧像。

《30 舞坂(2015.4.26~掲載》

史跡「見付石垣」。舞坂宿の東はずれに位置する。

 宿内に入ってすぐに、「常夜燈」と「一里塚跡」碑。  
    
 日本橋から68里目。

 宿内に入ると、今でも古い町並みの雰囲気が残っている。見付石垣から渡船場の雁木(がんげ)まで約800㍍。

    
 振り返って宿内を望む。                         前方は浜名湖。

右手のところに、「本陣跡」碑。

そしてそのすぐ近く、左手に「脇本陣」跡。

坪庭から奥を望む。

上段の間。

2階から「東海道」・宿内を望む。

灯台。

 昔はここから対岸の新居関まで船で渡った。

  
  右手に見えるのが「魚市場」。

 現代の足・鉄道を使って対岸の「新居町」へ移動することにした。そこで、浜名湖沿いに歩いて、JR「弁天島」駅を目指す。

途中にあった北雁木跡。  

 目の前には広大な海の風景が展開している。穏やかな内海。

    
 遠くの橋脚は「浜名バイパス」。                     大正期のようす(「知足美術館」HPより)。

 しばらく岸壁で眺めたあと、「弁天橋」を渡って弁天島に向かう。

境内にある「正岡子規句碑」。

 天の川 濱名の橋の 十文字」

 その先で「国道1号線」に合流し、JR「弁天島」駅へ。一駅先・「新居町」駅まで乗車。電車に乗らずに歩けば、約40分(3㎞ちょっと)かかる。電車の乗車時間は約3分。

《31 新居(2015.4.28~掲載》

「新居町」駅近くの公園に種田山頭火(たねださんとうか)の句碑。浜名街道 水のまんなかの道がまっすぐ 山頭火

 道筋には関所、宿場町を意識した建物が目立つ。
    
  新聞販売店。                                  お蕎麦屋さん。

 そして、右手の敷地に「新居関所」の堂々とした建物が。観覧料:410円(旅籠紀伊國屋資料館とセットで)

    
                                          大正期のようす(「知足美術館」HPより)。



 新居宿が他の52の宿場と大きく違うところは、「関所」と「渡船」の2つの役割を持っていたところ。現在、関所前まであった海は埋め立てられて、宿場の雰囲気は失われてしまったが、当時は目の前まで浜名湖が広がっていて、舟は直接、関所に接岸した。

    
                     実物大の役人達。武器の展示も。

「渡船場(復」元)。

大御門。

大御門の枡形には新居宿の高札場。

    
                          「旅籠 紀伊国屋資料館」。

 江戸時代中期より昭和30年代に廃業するまで約250年にわたり旅館業を続けていた。

2階からの眺め。

 当時の旅の様子なども資料として展示されている。

 西に進むとT字路。その正面にあるのが、「飯田武兵衛本陣跡」。そこを左に曲がる。その先に疋田八郎兵衛本陣跡。
そのすぐ先には寄馬跡。さらにしばらく行った左手には、「新居一里塚跡」。ここが日本橋から69里目。
                 

 その先で東海道は右に曲がる。  

さらに左に曲がると、「棒鼻跡」碑。

 ここで、新居宿ともお別れ。

 宿場と宿場の間の街道は、今では(昔も? )ひたすら歩く場合が多い。今回の「浜名旧街道」もしばらく単調な道筋。しかし、松並木が続き、周囲も視界が広がるなど、次の一里塚まで約1時間の道のりもそれほど苦ではない。

 「国道1号線」との交差点「橋本」。「新居宿加宿」とあるので、このあたりも宿場町が形成されていた。「国道1号線」をしばらく進み、「橋本西交差点」を右に入る。

この付近のようす。

 ここからが「浜名旧街道」。道の南側に松並木がつづく。この「旧東海道」、大正時代からは「国道1号線」として重要な道路として存在していた。しかし、江戸時代からあった松並木は、昭和50年代に発生した全国的な松くい虫の被害によって、この街道の松も全滅してしまう。そこで、昔の面影を再現すべく昭和62年に植栽・復元したもの。

    
                                       左手には、田畑が広がる。

 現在の「国道1号線」と比べて、車の通りも少なく、自然なカーブの中で、のんびりと田園風景を楽しみながら歩くことができる。

 大きな石碑。 藤原為家と阿佛尼の歌碑。

    

 松並木の先に立場跡。

《32 白須賀(2015.4.29~掲載)

現在の町並み。

 「白須賀宿」の案内図。

 「白須賀宿(しらすかしゅく、しらすかじゅく)」は、東海道五十三次の32番目の宿場。現在の静岡県湖西市白須賀。遠江国最西端で、静岡県最西端の宿場町。
しばらく進むと右手の民家の前に、「一里塚」と「高札場」跡の石碑と説明板。ここが日本橋から70里目。

    

「潮見坂」に向かう。右手へ。

 急坂をしばらく上って振り返ると、家並みの向こうに海が見える。海(潮)が見えるから、「潮見坂」。ここからは遠州灘だけではなく、富士山も見えたそうだ。

    
   現在のようす。                       大正期のようす(「知足美術館」HPより)。
 
 けっこう急な上り坂。振り返る。

「潮見坂」説明板。

 坂を上りきったところに「おんやど白須賀」。東海道宿駅開設400年を記念して設置された施設で、史跡のパネルなどが展示されている。

眺望が開けて、遠州灘が遠くに。

 安藤広重の絵もこの辺りからの眺望だろうか?


東海道五十三次之内 白須賀 汐見阪図 / 歌川 広重

 関西から下る人は汐見阪で初めて海を見るという。汐見阪を大名行列が通っている。画面の左右にバランスよく坂や松が描かれている。その間に藍をぼかした遠州灘を描くという見事な構図である。
 (「知足美術館」HPより)
             
「曲尺手(かねんて)」。

注:「曲尺手(かねんて)」直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割も持っていた。

「本陣跡」。「脇本陣跡」。

問屋場跡。 「火除け地跡」碑。

右手の角には、「高札場跡」碑。

 いよいよ静岡県(遠江国)と愛知県(三河国)との県(国)境に近づいてくる。静岡県最後の宿場・白須賀宿内を振り返る。
               

 正面の、緩やかな坂を上がっていくと、国道42号線に合流し、静岡と愛知との県境となっている小さい川を越す。

北側。右が静岡、左が愛知。

    
   手前が「静岡県」。                  その反対側が「愛知県」。

 愛知県内、最初の市は豊橋市。突き当たりの「一里山東」交差点で、で国道1号線と合流して「名古屋・岡崎」方面に進む。
しばらく行くと、右手にこんもりとした緑の一角が見えてくる。

    
                             「一里山一里塚」。日本橋から71里。

 「国道1号線」を西に向かって歩く。右手は畑が続き、遠くには大きな工場などが。かつての東海道を拡幅整備したような印象の道。緩やかなカーブと緩やかな下り坂。交差点の地名も「三つ坂」とか「茶屋ノ下」、「元屋敷」など古い地名のよう。広くて上下線分離の国道、ひっきりになしに大型車が歩道をかすめるように通り過ぎて行く。

     

 1時間ちょっと歩き、「二川ガード南」の交差点を右折して、新幹線のガード下をくぐって反対側に向かう。

左手に「東海道」の標識。

小さな橋を通り、東海道本線の踏切を渡り、すぐ左に曲がる。

《33 二川(2015.5.02~掲載)》

 この辺りから「二川宿」に入ることに。道なりに進むと右手の建物(「二川宿案内所」になっている)の角に一里塚。江戸・日本橋から72里目にあたる。

    

宿内のようす。

    
           格子戸のおうちが並び、情緒豊かな落ち着いた雰囲気の町並み。

「東駒屋」と表示された古い建物の前に「曲尺手」。

    

かつての旅籠屋の屋号。

左手に大きな「二川宿本陣」。

 豪壮な建物。ちょうど五月人形展~端午の節句~を開催中。明治から平成のさまざまな五月人形や兜飾り、金太郎や鯉のぼりなどが各部屋に所狭しと飾られ、展示されている。 

街道側の門をくぐった正面の雰囲気。

    

    
         上段の間。                           裏庭。

本陣のすぐ先が、少し「曲尺手」(鈎の手)になっていて、そこに「高札場跡」碑。

     

道が広くなるところで宿場は終わりに。
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大井川~金谷~小夜の中山~掛川~見付。(江戸・日本橋から京・三条大橋まで。その5。)

2015-12-01 23:44:12 | 旧東海道
 県道34号線を西に向かい、「大井川」へ。その手前に、島田宿側川越し場がある。

「大善寺・時の鐘」。
 明け六ッ(日の出の時刻)と暮れ六ッ(日の入りの時刻)の鐘の音は、大井川川越しの始まりと終わりの合図ともなっていた。

 三叉路を左の道に進み、「東海製紙工場」の脇を行く。しばらく行くと、上段の間が現存する塚本家。川越し場が開設した当時からの旧家。その先の道ばたに道標。


                     「国指定 島田宿大井川 川越遺跡町並」。

「六番宿」。川越し人足たちが詰めていた番宿。

 建物に入ると、等身大の人足や品々が置いてある。生活している家もあるが、復元・保存され見学自由な建物が並んでいる。

    
                                   「札場」。川越し人足が川札を換金するところ。 

芭蕉の句碑。「馬方はしらじ時雨の大井川」 
                なお、水深4尺5寸(1.5m)、人足の肩を超えると全面的に渡河禁止(「川留め」)となった。

「せぎ跡」。
                  大井川の増水を食い止めるための堰。両側にあって、板を差し込めるような溝がある。
 
「川越遺跡」の町並みを振り返る。

大井川の土手に上がって、対岸を望む。

 対岸の「金谷宿」は江戸時代には「遠江国」に属していた。北側の雲は雪雲そのもの。立っているのがやっとのほどの強風、どうしようか、一瞬、戸惑った。渡る橋は北側の「大井川橋」。あそこまでけっこう距離はありそう。猛烈で冷たく雪の舞う西風の中、土手の上を進むしかない。
 辺りを見回す余裕もなく、帽子が飛ばないよう必死に押さえながら、やっと橋のたもとに。

「大井川橋」。

 大井川橋は、昭和3年に架設された鋼製のトラス橋です。・・・当時の技術力を結集して建設された最大級の道路橋です。いまなお建設当時の姿をよく残していることから、土木学会推奨土木遺産として認定されました。
          静岡県

 道路橋の南側に「歩行者・自転車」専用の歩道橋。1㎞という橋の長さ!

   
    対岸はかすんで見えるのみ。             振り返れば、少し明るくなった島田宿方向。

やっと対岸の金谷へ。所要時間:16分。

 しばらく土手を進み、ほっとして橋の方向を振り返ると、何と! 橋の向こうに富士山が。

                   

 ウソみたいに晴れ渡ってきて、風もいくらか穏やかに。土手の上を自転車に乗ってやって来た地元の方、自転車を停めて、富士山を指し、「今日はよく見えますね、すばらしいですね。」と。こちらも土手の上で、すてきな景観をしばらく眺めていた。

土手を下れば、富士山ともお別れ。


《24 金谷》(2015.02.20~掲載)

 大井川の土手を下っていくと、金谷宿側の「川越し場」。ここにも、対岸の「島田宿川越し場」と同じように、「川会所」「札場」人足の詰所「一番宿」から「拾番宿」などの施設が置かれていた。といっても、「島田宿川越」のように、復元・保存されているわけではない。現在、生活している建物に「八番宿跡」というように表示されている。

    
       「八番宿跡」。                       「九番宿跡」。

 「大井川」は、今も昔も流れのところと川原のところが入り組んでいて、旅人は、川を渡ったり、橋を越えたり、石だらけの川原を歩いたり、と渡河が困難だった。

「大井川鉄道」踏切。「旧国道踏切」と記されている(↓)。

振り返って望む。緩やかにカーブしながら上る道が続く。

 「金谷宿」は、「大井川」の河原から西の台地に連なる谷間にかたちつくられた町。
 現在、牧の原台地など金谷周辺の丘陵には茶畑が多くあるが、これは、大政奉還後、窮乏生活をしている旧幕臣らが、地元町民と一緒になって開拓した茶畑で、静岡が全国一の茶生産地となる基礎を築いた。そこには、かの勝海舟の尽力もあった、と。

「佐塚屋本陣(本町・佐塚佐次右衛門)」。佐塚家は現在も続いていて、15代目になる。

少し進むと、左手に「柏屋本陣跡」。

 宿場は、緩やかな上り坂の旧道(「国道478号線」)に沿うようにつくられている。

 「旧東海道」はJR「金谷駅」東のガードをくぐり、南西の丘陵地帯の、上り・下りの続く峠道へ向かう。 「金谷宿」が、旅人にとって東は大井川、西は小夜の中山、と難所を控える宿場として繁盛したことが分かる。

「お七里役所(七里継ぎ御状箱御飛脚小屋)跡」。徳川御三家のひとつ、紀州家が重要書類の送信のために、七里(約28㎞)ごとに置いた飛脚の継立所(飛脚小屋)。「大名飛脚」・「七里飛脚」とも呼ばれていた。道中は8日かかったが、臨時の急便は4日足らずで到着した。「急便」だと584㎞をわずか4日足らずであった。まさに「駅伝」。
 
JR「金谷駅」手前に、「金谷一里塚跡」。

 JRのガードをくぐって右に行くと、「小夜の中山」方向へ。
 
 「小夜の中山峠」越え。「佐夜」とも書く。この峠は、「箱根」「鈴鹿」と共に東海道中の三大難所と言われていたところ。ここは最後に、「二の曲がり」沓掛の急坂が待ち構えている。

 周囲は、丘陵。お茶畑が一面に広がる。緩い坂道を上り、国道473号線を横切ると、「旧東海道石畳入口」。

右手にある「石畳茶屋」を過ぎると石畳の上り坂。 

 上りきって県道にぶつかったら右に。この辺りは、「牧ノ原台地」の一角、「川根茶」の産地。一面、お茶畑。


 しばらく進み、県道を越えると、今度は「菊川坂」という下り坂。
  
    平成の道普請。                     江戸時代後期の石畳。   

「菊川の里」。

「小夜の中山方面」という道標に従って進む。

「阿仏尼・歌碑」

 ここから先には、「小夜(さよ・さや)の中山」峠にちなんだ和歌や俳諧の碑が続く。
 ようやく「箭置(やおき)坂」=「青木坂」という長い上り坂も終わり、少し開けたところに出る。左手が接待茶屋跡、右手が久延寺。



 「久延寺」境内には、「夜泣き石」と同じ形で、「夜泣石物語」の小石姫(妊婦)を弔うために建てられた供養塔がある。

「小夜の中山公園」。西行の歌碑が建っている。
                                 年たけて また越ゆべしと おもひきや 命なりけり さやの中山

「茶」の字が遠くに。

 しばらく進むと、左手に「佐夜鹿一里塚跡」。茶畑の中、緩やかな下り坂が続く。
 
 「国道1号線」へ通じる広い道との分岐点に出て、左の「旧東海道」へ進む。但し、「1.5㎞先車両通行不可」との表示。この辺りは充分行けそうな雰囲気で、この表示を無視して(気づかずに)車を進めると、大変な事態が待ち構えている。

ここが「夜泣石」のもともとあったところ。

坂道を見上げる。右手奥に「夜泣石跡」碑。

 「小夜の中山」付近。両側に深い谷筋があり、その真ん中の山の上を歩いているような雰囲気(まさに「中山」)は、今もまったく変わっていない。
 次第に遠ざかる「茶」の字を振り返りながら、いくつもある史跡碑を確認し、そして、広大に広がる茶畑を眺めながら、のんびりと下っていく山道。ところが、この先にとんでもない急坂が待ち構えている。

    
          「落ちていく」先が見えず、爪先が痛くなるほどの一方的に曲がりながらの下り。

 眼下が開け、国道1号線の橋脚が見えてきたら、この急坂も一段落。


《25 日坂》(2015.3.02~掲載)

 橋脚の向こうは、「日坂宿」の家並み。近代に入ってからのこの辺りの土地の改良もさすがに急坂を切り崩すまでには到らなかったようで、舗装道路に変わるのみ。

朽ち果てる寸前の屋号札。

 国道一号線の下をくぐり、旧国道一号線(現:県道415線)を横断して細い道に入って行く。「日坂(にっさか)」という地名は、さっきの急峻な「西坂(にっさか)」から来ているようだ。

右手には、常夜燈。本陣入口に当たっている。

    
 「澤屋」。                            「池田屋」。
 このように古い旅籠なども残されている。こじんまりとしている宿場だが、なかなか情緒のある家並み。

「脇本陣黒田屋跡」。

 宿内を振り返る。緩やかに曲がった道沿い。 

 旧日坂宿旅籠「川坂屋」を過ぎると道は下り坂になる。

「高札場」のそばにあるのが、「下木戸跡」。

 県道415号線が「国道1号線・日坂バイパス」をくぐると、「国道1号線」になって、掛川方向に進む。「塩井川原」道標の先、「八坂橋」を左に入る。
 
少し行くと、右手に、「伊達方(だてがた)一里塚跡」。

「国道1号線」に合流。「(日本橋から)224㎞」。

 「本所」で再び国道に合流。その後、国道1号線を「本村橋」まで西に向かって歩く。途中には、「コンビニ」もなく、水分補給もままならない。

「本村橋」を左に折れる。

 20分ほど「掛川駅」方向の道を進む。

「馬喰橋(ばくろうばし)」を渡ってすぐ左に「葛川一里塚」。

《26 掛川》(2015.3.05~掲載)

 いよいよ掛川宿。しばらく進むと、「七曲がり」にさしかかる。道路工事が進んでいて、ちょっと分かりにくい感じですが、何とか・・・。道標に従って、路地を左に右に曲がって進む。

「掛川宿東番所跡」。

「七曲がり」説明板。

「掛川信用金庫連雀支店」。

清水銀行掛川支店。
                            
建物の横には「札差」の看板が懸かっている。

 その先、道なりに右に向かう。しばらく進んで左からの道と合わせ、「二瀬川交差点」で、国道1号線と合流して左に進む。
「倉真川」に架かる「大池橋」を左折し、そのまま県道253号線を進み、「鳥居町」の交差点。沢田IC交差点で、国道一号線のバイパスをくぐり、突き当たりを左に曲がって最初の道を右へ。

旧東海道。のどかな道筋。

 「善光寺橋」を渡ると、「仲道寺」。その昔、江戸から京都まで測量したところ、この寺が丁度東海道の真ん中で仲道寺という寺名がついたと云われている。
 「仲道寺」を過ぎると、見事な松並木。
    

松並木を過ぎて「国道一号線」に合流。「袋井市」に。

 「同心橋」を渡って左に曲がると「名栗」。

袋井の松並木。  

袋井東小学校には「久津部一里塚」跡。

校門には、「東海道どまん中東小学校」という表札。

 緩やかにカーブする旧道を進み、しばらく行くと、右手に「七ツ森神社」。日坂の怪鳥に関わる神社。

    
                    松並木の南側には、田園風景が広がる。

 新屋交差点で県道413号線と合流して反対側に。「どまん中茶屋」の案内に従って右折。

《27 袋井》(2015.3.21~掲載)

 道なりに進み、正面を左折して大きな通りへ。最初の信号を斜め右に渡ると、「袋井宿」入口。

        

 「袋井宿」は、江戸からも京都からもちょうど「ど真ん中」の27番目なので、「どまんなか」が町のキーワード。 
 
         
                         「東海道どまん中茶屋」。東海道はこの茶屋の左手を進む。

しばらく進むと、右手に本陣跡の門。東本陣跡。

 さらに今度は左手に「袋井宿場公園」。
     
                        「此処はどまん中袋井宿」。

 そしてここが西のはずれ。宿内を望む。

こちらは「東海道どまん中西小学校」。

 消防署の前の交差点を渡って左に進むと、右側には田園風景が広がる。しばらく行って小さな橋を越えると、右に折れる道が、旧東海道。

左手に復元された「木原一里塚」。日本橋から61里目の一里塚。

 袋井市と磐田市の市境になっている川。
 
    
                     「鎌倉時代の古道」。

続いて右手に「大正の道」。 

少し上り坂にかかると「明治の道」。 

 その先を行くと、左手に「江戸の古道」。そこを左に上って行きます。この辺りからは山道にかかる。

     
                                      坂の上から下を望む。

 上りきると、住宅地。車の往来の激しい通りを横切り、けっこう長い坂道を進み、「特別支援学校」を過ぎると、緩やかな上り坂になって、標識が出てくる。
「従是西 見付宿」。榜示杭。
 そのまま坂道を下っていくと、国道一号線。目の前の歩道橋を渡って右側に。その歩道橋の脇に急な石段が。上がりきった、狭く草ぼうぼうのところに「遠州鈴ヶ森」という大きな標識。

 

左手の橋が「涙橋」。

《28 見付》(2015.3.26~掲載)

 そのまま急坂を下ると、東木戸跡。

「阿多古山(愛宕山)一里塚」。

     
       問屋場跡。                             本陣跡。

 右手の奥に、「史跡 旧見付学校」。 

 昭和44年、国指定史跡となった。自由に中を見学して回れる。

5階からの展望。

 5階は、太鼓楼だった。この学校ができた明治8年(1875年)から大正中期頃まで、児童の登校や正午の時報として毎日打ち鳴らされていた。当初は、小使いさん(用務員)が叩いていたが、その後太鼓当番の上級生が叩くようになった。この太鼓の音は児童だけでなく、見付町民の生活の音としても親しまれ、ここから1㎞離れたところでも、はっきりと聞こえていたといわれている。

「旧見付宿脇本陣大三河屋門」。

 「西坂」を下ると、突き当たりには「姫街道」の標識。

「西木戸跡」。



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