おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「五日市鉄道」跡。JR「立川」駅~「拝島」駅。その3。

2019-03-08 19:24:55 | 鉄道遺跡
                           「八高線」を地下道で越える。

小休止のあと、先に進みます。

「五鉄通り」の右手は小高くなっています。

振り返る。

 「五日市鉄道」の線路は、この付近では切り通し(堀割)で、現在もその名残があるようです。なお、「八高線」は鉄橋で「五日市鉄道」を越えていました。
 その鉄橋は2000年頃まではそのままあったようですが、その後撤去され、「八高線」と交差する地下道がつくられました。

「八高線」をくぐる地下道方向を望む。

振り返る。左手(立川側では右手)に土盛りがあり、空間が存在します。

地下道脇の梅が満開。

                        

八高線をくぐり抜けると、左手は雑木林。

その先に「大神」駅のモニュメントが設置されています。

                    解説板。
五日市鉄道大神駅跡
 この場所には昭和5年(1930年)から昭和19年(1944年)までの間、大神駅という小さな停留所(無人駅)がありました。東西の道路は、立川駅と拝島駅を結んでいた五日市鉄道(単線)の線路跡です。
 現在のJR五日市線の前身である五日市鉄道は、大正14年(1925年)4月21日、拝島・武蔵五日市駅間(11.1km)が最初に開通し、蒸気機関車が走りました。後に立川駅までの延長が認められ、立川・拝島駅間(8.1km)が昭和5年(1930年)7月13日に開通し、この駅も誕生しました。
 立川・拝島駅間には、「武蔵上ノ原」「郷地」「武蔵福島」「南中神」「宮沢」「大神」「武蔵田中」「南拝島」の8駅がありました。
 旅客用にはガソリンカーが運転され、「五鉄」の愛称で親しまれた五日市鉄道は、昭和15年(1940年)に南武鉄道と合併し、昭和19年(1944年)4月1日には、太平洋戦争の影響で青梅線といっしょに国に買収されました。そして、近くを青梅線が走っているという事情から、立川・拝島駅間は昭和19年10月11日付けで休止路線とされ、そのまま廃止されました。

 このモニュメントに使用した鉄道資材は、青梅線(昭島駅・奥多摩駅)で使用していたものを利用した、とのこと。(このモニュメントを含め、周囲はポケットパークとして2000年に整備されました。)



 当時の駅(線路)は、現在よりも2,3m地下にありますが、右手にあるサクラの古木は当時からのようです。満開頃には見物客が大勢、見に来るそうです。

手前の交差する道は「昭和通り」。
 1937(昭和12)年、青梅線北側の広大な雑木林に昭和飛行機が進出し、まもなく航空機の製造が始まりました。翌1938(昭和13)年には工場通勤者のために青梅線に昭和前(今の昭島駅)が開設されました。こうした工場や駅に向かうこの道は、当時「昭和道路」ともいわれました。時代を経て道は整備され、今では、「昭和通り」と名付けられています。

昭和飛行機
 1937年(昭和12年)6月5日、元、三井合名理事長團琢磨の長女「めい」の夫である牧田環(初代社長、三井鉱山会長等も歴任。工学博士)の尽力により昭和飛行機工業株式会社が設立される。
 当時の日本航空機業界は、すでに欧米に匹敵する優秀な軍用航空機を製作していたため、昭和飛行機はこれを追従するのではなく、日本が立ち遅れていた輸送機の製作こそが使命と捉え、当時のベストセラー機であったダグラスDC-3に目を付け、その国産化(ライセンス生産)を目指すこととなった。
 航空機を製造するあたり、飛行場を併設した工場が必要であり、それには広大な土地が必要だった。検討した結果、北多摩郡昭和町、拝島村(以上現昭島市)、砂川村(現:立川市)の3町村にまたがる土地に、航空機製造工場である東京製作所を作ることを決め、工場および飛行場の建設に着手し、1938年(昭和13年)に稼働を始めた。稼働開始に合わせて、通勤者の便に配慮して、青梅線に新駅の開設の認可をもらい、昭和飛行機が駅舎用地を提供、建設費を一部負担して、昭和前駅(現:昭島駅)が開設された。
 工場は稼働したものの、DC-3の国産化には困難を極め、実現に3年の月日を費やすこととなる。DC-3国産化に成功し、順調に量産化を始めた頃、太平洋戦争が勃発する。1940年(昭和15年)には、日本海軍にDC-3を零式輸送機として制式採用されたことにより、終戦までに430機のDC-3/零式輸送機を製造した。戦時中には他にも、愛知航空機(現:愛知機械工業)の九九式艦上爆撃機や、川西航空機(現:新明和工業)の紫電改などもライセンス生産した。
 1945年(昭和20年)の敗戦とGHQ占領により、航空機事業が禁止され、この間に会社存続をかけて事業の多角化を図ることとなる。占領終結後の1957年(昭和32年)から始まった民間輸送機YS-11、続くC-1計画にも参加し、分担生産を行った。現在開発中のC-2輸送機・P-1哨戒機でも分担生産に参加している。
現在、航空機事業は主力ではなく、特殊車両(タンクローリーなど)やライフサポート機器、ハニカム構造体などの製造が中心である。
 また、工場跡の広大な敷地を活用した不動産事業やレジャー事業にも積極的で、昭島駅前の大型ショッピングセンター「モリタウン」のほか、「フォレスト・イン昭和館」、「ホテルS&Sモリタウン」、「昭和の森ゴルフコース」、「昭和の森テニスセンター」、「フィットネスクラブ・フォーラス」などのホテルやレジャー施設を運営している。
 2015年3月には、モリパーク・アウトドアヴィレッジを開業した。

(以上、「Wikipedia」参照)



2010年代のようす。この周辺一帯が「昭和飛行機」の土地。ショッピングモールなど大規模開発が行われている。

「大神」駅の隣には信号機などのモニュメントが設置されている。

                     

                          

その先、右手に見事な梅林があります。

  

              

 ふと見ると小鳥の囀りがしきりに。「メジロ」の一群です。「向島百花園」以来、1年ぶりに姿を発見。
                         

「立ち入り禁止」になっていますが、いつまでも残っているといいですね。  

右手が大きく開けてきて、畑が広がっています。    
コメント
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