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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「渡良瀬遊水池」・旧谷中村を訪ねて。その1。東武日光線「柳生駅」下車。特急スペーシアX。「群馬・栃木・埼玉三県境」。(関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

2023-10-14 20:01:45 | 歴史・痕跡

東武日光線「柳生駅」。

当駅所在地の地名から命名されています。
穀倉地帯であるこの地域は、渡良瀬川をはじめ谷田川、合の川等多くの川が流れており、川の氾濫でたびたび水害を引き起こしていました。
そこで地域住民は水害対策の一環として、堤に根張りの良いといわれる柳の木をたくさん植えて、水害から守ったそうです。
そんなところから「柳生」という地名が生まれました。

足尾鉱毒によって全村が廃村になった「谷中村」跡を訪ねました。広大な渡良瀬遊水池になっています。

10月6日(金)快晴・強風。

 

たわわに実るクリの木。

田舎からゆで栗をたくさん貰い、一家で美味しく食べたばかりです。

                     

踏切で待っていると、「特急スペーシアX」が通過。

孫がもう乗りたがって乗りたがって、近々一緒に出かける予定です。                               最新型の特急。

        

渡良瀬遊水池に行く前に「三県境」地点へ。

柳生駅から歩いてわずかなところに位置します。向かって左が埼玉県、正面が群馬県、手前が栃木県。

三県境は栃木県栃木市・群馬県板倉町・埼玉県加須市(北川辺地域)にまたがり、道の駅きたかわべの南東方向約500メートルの水田にある行政界です。

三県境は以前、渡良瀬川の中に位置していましたが、明治時代から大正時代にかけての渡良瀬川の改修工事により、現在の河道に変わり、現在の水路の位置となりました。平成28年1月から3月にかけて、2市1町(栃木市・板倉町・加須市)を代表して栃木市により、測量が実施されました。その結果、三方向からの水路の交点から、以前、入れられたと思われるコンクリート製の杭が見つかり、その点が三県境と確認されました。

「歴史的農業環境閲覧システム」によれば、

現在のようす。

              〇が「三県境」。

1880年代のようす。

        渡良瀬川の中に三県境が存在。

中央の標柱。                                  

群馬県(旧上野国)側。 

埼玉県(旧武蔵国)側。 

栃木県(旧下野国)側。  

「三県境」遠景。

渡良瀬遊水池へ向かいます。

土手から振り返る。        

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足尾銅山跡を訪ねて。その8。高原木。「足尾砂防堰堤(砂防ダム)」。「銅(あかがね)橋」。「渡良瀬川源流の碑」。足尾銅山労働組合・足尾銅山閉山50年。直利音頭。(関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

2023-10-12 20:31:43 | ローカル鉄道の旅

銅山社宅が並ぶ高原木。

川向こうの台地が「高原木」というところで、その昔天正18年(1590)に小田原の武士、斎藤大和守・山城守の兄弟が浪人となり、やがて足尾に来て足尾郷14ヶ村を支配し、後に弟の山城守がこの高原木に住んで仁田元・松木・久蔵・赤倉を治めてから開かれたといわれている。慶長15年(1610)に足尾に銅山が発見されてから、各所で採鉱が行われるようになり、宝永2年(1705)に幕末の大思想家、佐藤信淵の祖父信景(農政学者)が仁田元で錫山を発見し、その後錫山を銀山にしようと仁田元・高原木の招きで、日光に来ていた信淵の父信季(農政学者)は信淵を伴って天明4年(1784)来山したが、信季の客死に遇い実現できなかった。明治になり足尾銅山再開発とともに廃石堆積場になり現在の台地が築かれ、同40年(1907)ごろ銅山社宅が建ち賑わったが、昭和21年(1946)から徐々に撤収され2~3年後に無人となった。

足尾砂防堰堤(砂防ダム)。

        

               対岸には「銅(あかがね)親水公園」。

足尾砂防堰堤(ダム)

足尾銅山付近の山地は、銅山の煙害などによりはげ山と化した山容は荒廃の極まりになりました。この岩肌の露出した山腹から崩れ落ちる砂礫は谷を埋め、洪水のたびに下流に押し流されていきました。この被害を防止するため、足尾ダムは、昭和 2年(1927)蒲孚技師が検討した渡良瀬川全川の砂防計画の中で計画されましたが、具体化には至りませんでした。
 昭和22年(1947) 9月のカスリーン台風、昭和23年(1948) 9月のアイオン台風による連年の災害発生によって、ダム建設の必要性が再認識され、足尾山地で最も荒廃の著しい渡良瀬川上流の渡良瀬川(旧名松木川)・仁田元川・久蔵川の3川合流点の喉元にあたる地点に計画されました。


 工事は昭和25年度(1950)から昭和52年度(1977)まで3次に分けて実施しました。その計画貯砂量500万㎥はわが国第二の大規模なもので、下流河道へ流出する土砂量を調節軽減する効果の大きさはいうまでもなく、ダム上流域の渓岸斜面の崩落防止、ひいては山腹植生の回復を促進するなどの総合的な役割を果たしています。
 現在、ダムサイトには緑とうるおいを取り戻そうと、植林活動や、治山治水が学習できる銅(あかかね)親水公園が整備されています。

よみがえれ、鉱毒で荒れ果てた足尾の緑

                             眼下に「足尾ダム」

 市民ボランティアグループ「足尾に緑を育てる会」は、足尾銅山の鉱毒による煙害で、“はげ山”になってしまった足尾の山に緑を戻す活動を繰り広げています。
 同会の植樹活動は、平成8年(1996)から毎年行なわれており、今年(平成13年)で6回目になります。
 写真は、大畑沢「緑の砂防ゾーン」で、足尾ダムを眼下に緑を取り戻そうと、荒廃した山肌に苗木を植える参加者達。
    「渡良瀬河ノ水源ヲ清ムル
(農漁民と共に闘った田中正造の明治天皇への直訴状より)

(この項、「」HPより)

着実に緑の木々が生長しています。

「銅(あかがね)橋」。

                

「足尾砂防ダム」。

              ニホンカモシカの壁画。

        「足尾の治山・治水事業」解説板。

「渡良瀬川源流の碑」。

眼前の河原。

                 増水時には水没してしまう。

          

                上流に架かる橋は、工業用水を送る「仁田元沢水管橋」。

ここから上は、関係者以外進入禁止

下流方向を望む。

ここから来た道を戻ります。

          

                        中央に大煙突。

水管橋。周囲には、かつてよりも緑が多くなっています。

    

足尾の山々を振り返る。

掲示板。

「この付近でクマが出没しています。早朝や夕方は活発に行動しますので、特に注意してください。日光市」。

ここのバス停から乗車します。

          赤尾~間藤駅~東武日光駅

「足尾銅山労働組合」事務所。

足尾銅山閉山50年、元労働者が記録映画鑑賞

中野渉
 

 小口は鉱毒事件を題材とした版画集「野に叫ぶ人々」「鉱毒に追われて」「盤圧に耐えて」の3部作を手掛け、企画展では全160点が展示された。

 「盤圧に耐えて」(76年)は、日本の労働運動の先駆けとなった銅山労働者の闘いをテーマにした80点。過酷な労働実態や労働運動、閉山に至るまでの盛衰の歴史と人々の暮らしが描かれている。映画はこの作品を元に、ナレーションを加えて構成している。

 会場には、元銅山労働者で不当解雇の撤回闘争に携わった斉藤惇さん(94)、上岡健司さん(90)、赤塚俊一さん(90)の日光市足尾地区在住の3人の姿があった。

 66年、労働者25人は、銅山を経営する古河鉱業(現・古河機械金属)側から指名解雇を通告された。大半が労働組合の中堅幹部。勧告は組合活動を理由としたもので、全員が解雇を拒否した。7人が不当解雇だとして裁判闘争をし、70年に宇都宮地裁で勝利判決を得た。

 裁判は東京高裁で続いたが、古河は銅山を73年2月28日に閉山、高裁の職権で和解をあっせんし、幕を閉じた。7人は結局、職場復帰することはなかった。

 斉藤さんも上岡さんも、解雇を命じられて鉱山に入れなくなった後、町議に転じた。

 斉藤さんは「映画では労働者が酷使されていた状況がよく分かる。私たちは意思統一をして闘い、労働者の権利を守ることができた」と振り返った。上岡さんは、版画を制作した小口さんについて「何回も家に来て話を聞いてくれた」と話した。

 足尾は最盛期の1916(大正5)年には県内で宇都宮市に次ぐ人口3万8千人以上を誇ったが、現在は1500人程度にまで減っている。中野渉

足尾銅山盆踊り 直利音頭 発祥の広場

この広場で、大正13年(1924)赤倉町務会が「八木節」を始めたことがきっかけであろうか。時に足尾銅山労働大争議(大正8・10年)で荒れた後でもあり、文化・スポーツの振興に気運が高まる中、本山坑勤務の畑中清(舟石出身)・堺正高(フランキー堺の父)等が、銅山に相応しい盆踊り唄を作ろうと、同年から毎年歌詞を募集し当選歌を社内報で発表した。お囃子、振付けも創作され、昭和2年(1927)頃に「直利音頭」に変えて踊るようになり、足尾の盆踊りとして定着し全山で盛大に行われた。しかし、この広場での盆踊りは平成8年(1996)を最後に思い出を残して幕を閉じた。

※直利(なおり):銅鉱を多量に含んだ良質の鉱脈。

♪ハア―花の渡良瀬(アーヨーイヨイと)青葉の小滝 サー月の眺めは チョイトサ備前楯(ハ スッチョイ スッチョイスッチョイナ)

天の岩戸も踊りで開く 銅山(やま)の直利も 踊りゃ出る

山は三角、やぐらは四角 踊れ兄弟 まんまるく

わだしゃ足尾の 坑夫の女房 坑内(しま)を恐がる 子ば産まぬ

銅山の友子の どこ見てほれた 腕と度胸と 直利歌

運と鈍とで 開いた足尾 根で張り切りゃ 大直利

                                           日光市 

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足尾銅山跡を訪ねて。その7。「足尾製錬所」跡全景・硫酸タンク・製錬所大煙突。痛々しい岩肌・鉱毒除去作業。愛宕下。NPO法人「足尾に緑を育てる会」。(関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

2023-10-11 18:38:01 | ローカル鉄道の旅

上流へ向かう。

             秋の訪れを感じる渓谷。中央に巨大な煙突。

振り返る。

              「足尾製錬所」跡全景。中央が旧足尾線・ターミナル駅舎跡。

奥に、「硫酸タンク」跡。

足尾銅山本山製錬所大煙突。

痛々しい岩肌。

               

銅の採掘・精錬が終了した後も、まだ鉱毒除去の作業が続いている。

社宅が並んでいた地域。

「足尾銅山社宅愛宕下」。

江戸時代の愛宕下は赤倉村字「牧詰」という地名で農家が3戸あったが、明治20年(1887)に松木から起こった大山火事で焼失し、以後草っ原となっていた。その後足尾銅山の社宅地として開発され、始め同30年に鉱毒予防工事で間藤浄水場を建設するため、東京から来た人達の飯場が建てられたが、工事が終わると除去された。次いで同40年代になると対岸の精錬所の社宅14棟(1棟7戸建」が建ち、「赤長屋」と呼ばれるようになり、大正10年(1921)に久蔵の社宅がこの地に移されるなど変遷を経て増大した。戦後は「愛宕山」の麓に位置するところから「愛宕下」と呼ばれ、昭和31年(1956)には181世帯819人の人口を数えたが、経営合理化により徐々に減少し、足尾銅山閉山時(昭和48年)110世帯377人、足尾精錬設立時(昭和62年4月1日)49世帯127人、平成9年(1997)現在で13世帯24人が住むのみとなり、昔日を偲ぶ「つわものどもの夢の跡」となりつつある。

                                       (「今昔マップ」より)

煉瓦造りの障壁。背後の山には、木々が育っています。

跡地に、サクラの木。  

          

かつてのはげ山が、芝草のような緑に。

かつての、すっかり荒廃したイメージから、大きく変化していました。       

そこには、官民一体となっての粘り強い、地道な緑化・植樹運動、実施があります。

特に、NPO法人 「足尾に緑を育てる会」


足尾に緑を取り戻そう 

銅山の隆盛と公害

足尾銅山は、本格的に採掘が開始したのが1610年といわれており、江戸幕府直轄の鉱山として大いに栄えましたが、江戸時代末期には銅の産出量は落ち込んでいました。明治維新後、経営者が代わり、産銅量は飛躍的に増えました。1885年には全国産銅量の4割に迫るほどとなり主要銅山の地位を不動のものとし、日本の産業発展に貢献しました。しかし、この銅山の隆盛は、同時に大規模な環境破壊をもたらしました。鉱毒による渡良瀬川流域一帯への被害と、足尾銅山周辺の煙害が、のちに「公害の原点」として世に知られるのです。足尾の山々は、2,400haとも3,000haともいわれる地域が荒廃しました。

渡良瀬川の源流に位置する足尾町松木地区は、足尾銅山の煙害等により荒廃し、国や県などの関係機関による復旧事業が約100年前から続けられてきました。その間、さまざまな困難がありましたが、現在までに荒廃地の半分ほどが緑化されたといわれています。

こうしたなかで、渡良瀬川上流と下流の市民活動グループが集まり、19965月、足尾の山に緑を取り戻そうと、「足尾に緑を育てる会」を結成し、松木地区で植樹活動を開始しました。毎年、春の植樹デーを開催、参加者は年を追うごとに増え、近年は2,000人ほどの人たちが集まるようになりました。また、児童・生徒による体験植樹や、各種団体の緑化活動も活発となり、現在社会における環境問題への関心の高さがうかがえます。

私たちの会は、荒廃した足尾の山の緑化活動を軸に、足尾町の活性化に寄与し、渡良瀬川に清流を取り戻そうとするものです。ひとたび破壊された自然の回復には、じつに長い年月を必要とします。そのためには、多くの人たちによる地道で息の長い活動が必要となります。ぜひ、あなたも私たちの活動に加わってください。

 

(この項、「」HPより)

※以前、関わっていた高校生達がボランティア活動の一環として体験学習を行ったことがあります。

その時植林した木々は今、どうなっているのでしょうか? 彼らの熱意によって、立派に生長していると思います。

       正面奥に「足尾松木川渡瀬源流砂防ダム」が見えます。左手には「銅親水公園」。

          

      

「道と川百選」。3川合流地点の渡良瀬川。

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足尾銅山跡を訪ねて。その6。新旧古河橋。足尾線・鉄橋跡。「足尾製錬所」跡。倉沢栄吉。1970年代のようす。(関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

2023-10-10 20:20:50 | ローカル鉄道の旅

古河橋。

古河橋は、足尾銅山施設の近代化の一環として渡良瀬川に架設されたもので、明治23年に竣工した。ドイツ国ハーコート社製の鋼製のトラス橋で、工場であらかじめ製作した部材を、現場でボルト接合のみで短期間で簡易に組み立てられる工法が用いられている。
古河橋は、足尾銅山において近代最初期に整備された施設の中で、ほぼ完存する唯一の遺構であり、歴史的に価値が高い。日本でも数多く架設されたドイツ国ハーコート社製のボルト接合による橋梁の中で、原位置に残るわが国現存最古の遺構であり、西洋の異なる国々から先端技術を導入し、短期間で近代化を成し遂げたわが国橋梁分野の技術的展開を示す遺構として重要である。

(この項、「文化遺産オンライン」HPより)

足尾本山駅があった本山地区は、足尾銅山の操業の中心地であった。その本山地区と社宅などが立ち並んでいる赤倉地区の間には松木川が流れているため、両区を結ぶために1884年(明治17年)に木造の直利橋(なおりばし)が架設されたが、1887年(明治20年)4月8日に松木村の大火で消失してしまった。そのため、足尾銅山から足尾製錬の精錬所までの鉱石運搬用として、直利橋の跡にドイツ人の設計により本橋梁が架設されている。

1891年(明治24年)には、鉄道道路併用橋として日本初となる実用化された単線の電気鉄道が施設されている

その後は、道路橋にそのまま転用されており補強工事も行われていたが、本橋梁の老朽化に伴い、南側に新古河橋が1993年(平成5年)に架設されたため、現在は歩道橋として整備・保存されている。なお、現在は橋の入り口に柵が設けられ立ち入り禁止となっている。

本橋梁は日光市指定文化財に指定されたのち2014年(平成26年)に国の重要文化財に指定された。また、土木学会による「近代土木遺産2800選Bランク」にも選出されている

          

間藤からの鉄橋跡。右手の建物内に。           

左の建物内に向かっていました。

     この奥一帯が「足尾製錬所」跡。建物内にあったのが「足尾本山駅」。

対岸から足尾製錬所跡。

新古河橋から下流を望む。

通りの反対側に、

          日本の国語教育に大きな影響を与えた「倉沢栄吉先生」解説板。

上流に向かいます。

             

かつて聞いた話では採掘や煙害などによって、周囲の山々はまったくの不毛の地になってしまった、と。

1970年代のようす。

                                                                                    (「歴史的農業環境閲覧システム」より)

緑の部分と茶色の部分が識別できないほど。上流は、地肌がほとんど丸出しで、草木の生えている様子はなさそう。

・・・

足尾銅山は昭和48年(1973)に閉山しましたが、坑内等廃水処理は中才浄水場で続けられ、処理の段階で発生する廃泥はポンプにより簀子橋堆積場に送られています。銅山で用いる各種機械を製造・修理してきた間藤工場は、現在特殊鋳物製造工場として稼働しています。

また、煙害により荒廃した松木地区の治山・緑化事業は、本山製錬所に自熔製錬技術が導入された昭和30年代より徐々に治山工事と緑化工事の効果が現れ、現在では広範囲に緑が蘇りつつあります。さらに国民の環境に対する意識の高揚から、植樹に対する関心が高まり、平成8年(1996)に足尾に緑を育てる会の活動開始、平成12年に足尾環境学習センター開設が行われ、多くの人が当地を訪れ、植樹活動が行われています。

(この項、「日光市」HPより)

・・・

50年ほど経過して、今はどうなっているか?

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足尾銅山跡を訪ねて。その5。間藤水力発電所跡。上間藤。旧本山小学校。赤倉。足尾銅山本山跡へ。(関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

2023-10-09 20:32:38 | ローカル鉄道の旅

水量発電所跡。

                解説板の奥に当時の導水管が保存されています。

            

間藤水力発電所は、坑内排水用動力として坑内に設置した蒸気ボイラーの排煙問題解決のために導入されたのが契機とされています。ドイツのシーメンス社の提案に基づき、明治23年に完成しました。水源は久蔵沢、深沢とし、2.9kmに及ぶ水路を木銿で通し、落差318mの水力によってトルピン式水車を回転させた。400馬力の電力は、坑内排水、竪坑捲揚機、電灯などに利用、銅山近代化を強力におしすすめる力となった。

しかし、渇水期には安定した電力を得ることが難しいため、その後、足尾地内に小規模発電所を相次いで建設されました。明治39年に細尾発電所(出力2000キロワット)が完成した後、間藤水力発電所は足尾電燈株式会社に払い下げられて、町民に電燈電力を供給しました。その後、間藤水力発電所がいつまで使われていたかは定かではありませんが、現在、落下部の水圧管の一部と渡良瀬川河床に発電所の基礎構造物が残されています。

                

                   (「解説板」及び「日光市」HPより)

渡良瀬川。背後は急峻な崖に。

先に進みます。

         「旧本山小学校(1907~1966」。 

「割烹旅館暢和館」。

         行き交う車はありますが、住民の姿は、ほとんど見かけません。 

「足尾一の賑わい 上間藤」。

                    右の写真は、往時の「城崎屋」と「家並み」。  

江戸期寛永6年(1853)に二宮尊徳が足尾郷を廻村したときの間藤村は、僅か19戸90人が静かに農耕を営んでいたが、明治10年(1877)に古河市兵衛が足尾銅山の再開発に着手し、近代の技術と設備の導入によって飛躍的な発展を遂げるに至り、全国から坑夫達や商人等の集まるところとなり、上間藤が活気づいた街へと形成しつつあったとき、同20年の松木からの大火が上間藤も焼き尽くした。しかし、足尾銅山の勢いとともに驚異的な復興により、足尾随一の商業を中心とした最も賑わう街並みに変貌した。やがて足尾銅山は東洋一を誇り、名山足尾は「鉱都」と称され、最盛期の大正5年(1926)の人口は38,428人で宇都宮市に次ぐ市制が期待されたが潰えた。その時の上間藤はの人口は、不明であるが、昭和10年(1935)は330戸1,488人を有していた。同45年188戸591人、現在(平成11年10月)166戸、359人となった。昔日の夢は泡沫となったが、道筋は往時のままである。

           廃屋? 

        対岸左手奥には、「旧本山小学校」。 

       渡良瀬川に合流する支流のようす。

「足尾銅山学校」。

          大勢の子ども達の姿が写っている。 

横道にも低い屋根の家が並ぶ。

足尾一の賑わい 赤倉」。

・・・明治40年には約140軒の店が軒を連ね、中でも料理屋15軒、酒屋13軒、質屋6軒等は鉱山街を際立たせている。一般住宅も80軒余あった。時恰も、同年に坑夫達による大暴動事件が発生し、本山で鉱業所や社宅60数棟が焼失するなどして、銅山木ノは本山から通洞に移り、商店街の陰りがでるが、大正5年(1916)の足尾町の総人口は38428人と最高になり、その頃の北部は社宅約300棟飯場20棟に達し賑わいの最盛期であった。以後徐々に商店は減少した。昭和48年(1973)に足尾銅山は遂に閉山、栄枯盛衰は鉱山街の宿命であり、現在(平成11年10月)の赤倉は92戸188人となった。

足尾銅山本山跡に着きます。

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足尾銅山跡を訪ねて。その4。銅(あかがね)街道。往時の賑わい。下間藤。旧足尾町。旧足尾線・廃線跡。本山小学校跡。旧松木川。(関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

2023-10-07 20:11:59 | ローカル鉄道の旅

午前11時41分に「間藤駅」着。「銅・銅山(あかがね)街道」を北上します。

江戸時代のはじめ、足尾銅山は幕府の直営とされていました。足尾で精練した御用銅を江戸へ運ぶための道として、銅山街道(あかがねかいどう)が設けられました。この街道は、まさしく銅の道でした。足尾を出た御用銅は、沢入(そうり)・花輪・大間々(のちに桐原)・大原・平塚の、5つの宿を順番に送られたのち、利根川を下って江戸浅草の御蔵入りとなりました。
 この銅山街道が整備されたころ、はじめは大間々宿に銅問屋が設けられていました。しかしその後、大間々が天領でなくなったために、江戸時代の中ごろになって桐原宿に移されました。桐原の藤生家では、今でも銅蔵(どうぐら/銅をいち時保管する蔵)と、その役めに関係のある文書などが残されています。
 このように、大間々、桐原は御用銅を運ぶための、たいせつな場所でした。そのことからも、人がにぎわう宿場町としても栄えました。また、銅山街道は、大間々の奥にある村や集落へ、ふだんの生活に使う品物などを送るため、また、山地の産物を集めるなど、物資の集散地としての大間々町を発展させるのに役立ってきました。

歴史

慶長15年(1610年)に足尾山中で銅が発見され、慶安元年(1648年)に幕府の代官である諸星庄兵衛が銅山奉行を兼任して、慶安2年(1649年)に街道を整備して各宿に銅蔵を置いたと伝わる。当初の道筋は、足尾村から渡良瀬川右岸沿いを南下して上野国勢多郡沢入村(東町沢入)・花輪村(東町花輪)を経て、山田郡大間々村(大間々町大間々)から大間々扇状地を南進して、利根川の平塚河岸(境平塚)に至るものであった

寛文年間(1661年-1673年)に、幕府代官の岡上景能が銅山奉行を兼任して、笠懸野の新田開発によって笠懸新田(新田郡大原本町村、大原町)が成立し、村の中心に大原宿が置かれた。延宝年間(1673年-1681年)から天和年間(1681年-1684年)の頃が足尾銅山街道の最盛期であり、毎年35万貫から40万貫までの銅が運ばれた

元禄年間(1688年-1704年)に、銅の積出港が平塚河岸から下流の前島河岸(前島町)に、銅蔵が平塚村の北爪家から亀岡村(亀岡町)の高木家に移り、大原本町村の南方の上江田村(新田上江田町)から東南に向かって亀岡村・前島河岸に至る道筋に変わった延享4年(1747年)に、大間々村が幕府領から前橋藩領に編入、銅蔵が大間々村の高草木家から西隣の桐原村(大間々町桐原)の藤生家に移ったことで、足尾銅山から沢入宿・花輪宿・桐原宿・大原宿を経て亀岡村・前島河岸に至る道筋が確定した

慶応3年(1867年)の大政奉還後、銅山の管轄は日光県などを経て栃木県に移り、明治10年(1877年)に古河市兵衛の経営となる。明治23年(1890年)細尾峠に索道が架設され、大正元年(1912年)12月に足尾鉄道が足尾まで達すると街道は寂れたが、昭和37年(1962年)に足尾-大間々間が国道122号の一部に指定され、現在では国道を銅山街道と通称している

旧家らしいおうち。

                

          「北部の玄関口 下間藤 往時の賑わい」。

この地は、僅かに農業が営まれていただけであったが、明治10年(1877)に古河市兵衛が足尾銅山の再開発に着手し、飛躍的な発展を遂げるに至り、上間藤・赤倉と共に一大商業地になっていったが、同20年にはまだ辺りは畑で、街並みを形成する道路ができたのはその後である。同33年に「工作課」が大正6年(1917)頃には「分析係」がこの地に移り開設されて工業地ともなった。大正3年には足尾鉄道足尾~本山間が開通し、旅客の発着駅である「間藤駅」の開設などにより、200戸余の集落となった。その頃すでに、上の平(18棟、浴場)、下の平(6棟、浴場)浄水(2棟)の社宅が図示されている。同9年に現在地にあった建具屋から出火し、工場と駅を残して全焼した。昭和30年(1955)は、まだ一般107戸462人、下の平22戸86人、浄水11戸52人であったが、今は(平成12年9月)44戸100人となり、貨物線路は雑草が茂り、鉄路は赤く錆びているばかりである。

※この先にもある解説板の記載時期から23年経った、現在。足尾地区全体は、かなり過疎化しています。

《足尾地区の人口》

平成12年(2000):3,723

令和4年(2022):1,621

間藤・赤倉地区は、もっと過疎化しているようです。)

最盛期:大正5年(1916)の人口:38,428

右一帯に住宅が広がっていた。

このような説明板が各所に設置され、足尾銅山を中心とした足尾町のかつての様子が掲示されています。

足尾町(あしおまち)

関東地方の北部、栃木県西部に存在したである。足尾銅山松木渓谷で知られる。銅山全盛時の1916年には県内では宇都宮に次ぐ人口38,428人を抱えていた。

1973年の足尾銅山閉山後は、過疎化が著しく、合併直前の人口は3,000人台となり全盛時の1割にも満たなくなった。

2006年3月20日に、足尾町や(旧)日光市などの周辺自治体が合併し、(新)日光市の一部となった。

歴史

 

旧・足尾町の歴史は、足尾銅山の歴史そのものです。1610年(慶長15年)に銅山が発見されて以来、銅山は幕府の管轄下におかれ、多くの労働者が採掘と製錬を行い、江戸の中期には足尾千軒と呼ばれるほどの繁栄を示しました。

その後一時の衰退をみますが、1877年(明治10年)、古河市兵衛の経営となり、先進的な技術と設備の導入により、生産が急速に伸び、1890年代(明治20年代)には日本産銅の40%を産出する日本一の銅山となります。その後も次々と鉱脈が発見され、大正以降も発展は続き、当時の人口は宇都宮市に次ぐ38428人(1916年大正5年)で県下第2位。

しかし長い繁栄を続けた足尾銅山も産銅量の減少と時代の流れの中で1973年(昭和48年)2月28日、その長い歴史に終止符をうちました。

(この項、「日光市」HPより)

街道筋の家並み。

              屋根の低い家が続きます。渡良瀬川にへばりつくように家が並ぶ。

旧線路。信号機はそのままに。

                   右手から左手へ。間藤駅~足尾銅山(本山)駅まで。  

間藤駅方向。 

                       足尾銅山方向。

             渡良瀬川に架かる鉄橋と人道橋跡。

対岸に「本山小学校」跡があります。

                          (「Googleマップ」より)

2005年3月末をもって、足尾町立本山小学校(栃木県日光市足尾町上間藤16-1)が閉校しました。

1892年に足尾銅山を経営していた古河氏が私財を投じ、私立古河足尾銅山尋常高等小学校を設立。戦後、公立の学校となり足尾町立本山小学校と改称しました。同校は、上間市街地の山の中にある大きな校舎が特徴の学校。当時は足尾銅山の最盛期で、多くの銅山関係者の子どもたちが通学していました。しかし、児童数減少により2005年に閉校。足尾町立足尾小学校へ統合となり、113年間の歴史に幕を閉じました。

現在校舎はそのままの形で現存。敷地内にあった講堂は登録有形文化財に登録されており、足尾銅山の歴史を伝える遺構として残されています。ゆかりのある方は、この場所にもう一度足を運んでみてはいかがでしょうか。

            

(この項、「」HPより)

       橋脚。

眼下に渡良瀬川(旧松木川)。

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足尾銅山跡を訪ねて。その3。渓谷・初秋の。新旧「切幹(きりみき)」橋・ロケ地。庚申川。夏目漱石 『坑夫』。シックナー(濃縮沈降装置)・通洞選鉱場跡。(関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

2023-10-05 20:30:33 | ローカル鉄道の旅

渡良瀬川渓谷。

ススキ。

      次第に秋色に。 

             

           

通洞駅の手前に架かる橋。

「わたらせ渓谷鐵道」の「渡良瀬川橋梁」から、新旧「切幹(きりみき)」橋。手前が旧橋。庚申川に架かる。

※《ロケ地》TVドラマ「空から降る一億の星」主人公の片瀬涼(木村拓哉)が渡ったコンクリートアーチ橋(手前)。

庚申川

庚申山を源とし切幹の地で渡良瀬川に合流します。日光国立公園の一部であり源流部ではブナなどの自然林、中流部は景観が素晴らしい渓谷が連なります。少し上流の銀山平付近には温泉もあり、渓谷沿いには林道が切り開かれています。

川は深い谷に囲まれ奇岩や怪石が多く、新緑や紅葉などとともに渓谷美が楽しめます。天狗の投げ石などの名所もあります。付近には足尾銅山の産業遺跡も点在しています。

悲話を秘めた坑夫滝(光風の滝)・小滝の小滝・広道路の滝・めがね滝・庚申七滝など様々な滝があります。

(この項、「」HPより)

※夏目漱石に『坑夫』という作品があります。「足尾銅山」が舞台のようです。

坑夫(「新潮社」HPより)

恋愛事件のために家を出奔した主人公は、周旋屋に誘われるまま坑夫になる決心をし、赤毛布や小僧の飛び入りする奇妙な道中を続けた末銅山に辿り着く。飯場にひとり放り出された彼は異様な風体の坑夫たちに嚇かされたり嘲弄されたりしながらも、地獄の坑内深く降りて行く……漱石の許を訪れた未知の青年の告白をもとに、小説らしい構成を意識的に排して描いたルポルタージュ的異色作。

夏目漱石長編小説で、1908年明治41年)の元日から、東京の『朝日新聞』に91回にわたり、大阪の『朝日新聞』には96回にわたって掲載された。『虞美人草』についで、漱石が職業作家として書いた2作目の作品。

《あらすじ》

恋愛関係のもつれから着の身着のまま東京を飛び出した、相当な地位を有つ家の子である19歳の青年。行く宛なく松林をさまよううちにポン引きの長蔵と出会う。自暴自棄になっていた青年は誘われるまま、半ば自殺するつもりで鉱山で坑夫として働くことを承諾する。道すがら奇妙な赤毛布や小僧も加わって四人は鉱山町の飯場に到着する。異様な風体の坑夫たちに絡まれたり、青年を案ずる飯場頭や坑夫の安さんの、東京に帰った方がいいという忠告に感謝しつつも、青年は改めて坑夫になる決心をして、深い坑内へと降りてゆく。そして、物語の結末は唐突に訪れる。坑道に深く降りたった翌日、診療所で健康診断を受けた若者は気管支炎と診断され、坑夫として働けないことが判明する。結局、青年は飯場頭と相談して飯場の帳簿付の仕事を5か月間やり遂げた後、東京へ帰ることになる。

《解説》

ある日突然、漱石のもとに荒井某という若者が現れて「自分の身の上にこういう材料があるが小説に書いて下さらんか。その報酬を頂いて実は信州へ行きたいのです」という話を持ちかける出来事が起きる。漱石は当初、個人の事情を小説として書きたくないという思いから、むしろ君自身が小説化した方がいいと本人に勧める。しかし、時を同じくして、1908年(明治41年)の元日から『朝日新聞』に掲載予定だった島崎藤村の『』の執筆がはかどらず、急遽漱石がその穴を埋めることとなる。そこで漱石は若者の申し出を受け入れ、漱石作品としては異色と言える実在の人物の経験を素材としたルポルタージュ的な作品が生まれる。漱石の代表作として名が上がることは稀だが、作品の研究論文は現在に至るまで多数存在する。

(この項、「Wikipedia」より)

       

「通洞駅」手前300mほどの所、左手側に円形のシックナー(濃縮沈降装置)と階段式の屋根の通洞選鉱場跡。

※今日の夕方。鱗雲が、西の空一面に広がりました。

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足尾銅山跡を訪ねて。その2。渡良瀬川に架かる橋・「はねたき橋」・「福岡大橋」・「黒保根(くろほね)橋」・「五月橋」・「ひがせ橋」。・・・ (関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

2023-10-04 20:34:33 | ローカル鉄道の旅

渡良瀬川に架かる橋を中心に紹介。

「はねたき橋」。

はねたき橋は、渡良瀬川の中流、高津戸峡に架かる歩行者専用橋。全長120m、全幅3.5mを誇り、水が飛び跳ねる様が滝のように見えることから名前が付けられました。
橋からは関東の耶馬溪と讃えられる高津戸峡が一望でき、紅葉シーズンには多くの観光客で賑わいます。左岸側からは約500mの高津戸峡遊歩道を通って高津戸橋まで散策することも。

(この項、「」HPより)

※はねたき橋は自殺の名所として知られ、2016年の夏には橋上から家族で飛び降り、無理心中を図った事件も発生している。このため自治体では看板監視カメラを設置するといった自殺予防策を講じている。また、過去に山形県で自殺の名所とされていた吊橋にバンジージャンプ台を設置し、イメージアップに成功した事例があることから、はねたき橋にも同様にバンジージャンプ台を導入してはどうかとの提案がなされたこともある

※漢字で書くと「鱍瀧橋」。(「みどり市地域おこし協力隊」HPより)

(「Wikipedia」より)

「福岡大橋」。

渓谷が続きます。

水管橋? 

「黒保根(くろほね)橋」。

                     

「五月橋」。

堰。

花輪駅「うさぎとかめ」モニュメント。

「ひがせ橋」。

「松島橋」。

                 

神戸駅ホーム。前方を望む。

ヒガンバナ。

この先、かなり長い「草木トンネル」に入ります。

         

トンネルを抜け、渡良瀬川を渡り、左岸沿いにある「沢入(そうり)駅」に向かいます。

左手に「沢入発電所」。

「沢入」。

左岸沿いに進む「わたらせ渓谷鐵道」。左下に見える渡良瀬渓谷が見事です。

渡良瀬川に架かる橋には、人のみ渡れる吊り橋もあるようですが。

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足尾銅山跡を訪ねて。その1。東武鉄道「小泉線・「桐生線」。竜舞(りゅうまい)・三枚橋・治良門橋(じろえんばし)・藪塚(やぶづか)。相老(あいおい)。(関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

2023-10-03 20:34:13 | ローカル鉄道の旅

前回に引き続き、再び「足尾」へ。「足尾銅山」のその後が気になったので。

わたらせ渓谷鐵道の終点「間藤駅」までは本数が少ない。

前回乗った時は、午後1時過ぎに到着。とんぼ返りで戻ってきてしまいました。

今回は、午前11時41分「間藤」着に。

これならば、「間藤駅」から帰途につくまで2時間弱あるので、少しは見て回れるかな、と。

自宅を7時過ぎに出て、約4時間半。普通列車を乗り継いでの旅。

特急に乗るなら、もっと遅い時間の出発でもいいのですが、着く時間は同じ。

それなら、という次第。

電車に乗り継ぎ、乗りっぱなし、というのも、けっこうおしりが痛くなる! 帰りは最短時間で。

《行程》・往路 青砥―牛田―(東武動物公園)―館林―東小泉―(太田)―相老(わたらせ渓谷鉄道)―間藤

    ・復路 赤倉(日光市営バス)=(間藤駅)=東武日光駅(特急)―東京スカイツリ―押上―青砥

※東武鉄道。北関東エリアを含めけっこう路線網が多いのに驚きました。

        

「小泉線」には初めて乗りました。

小泉線の前身は、1917年大正6年)3月12日に館林 - 小泉町間で営業開始した中原鉄道(ちゅうげんてつどう)小泉線であった。同社は1922年(大正11年)に上州鉄道と改称され、軽便鉄道から地方鉄道となったが、1937年昭和12年)に東武鉄道に買収された。その結果、中原鉄道小泉線が東武鉄道小泉線となった。

その後、小泉町駅と仙石河岸駅を結ぶ仙石河岸貨物線が開業し、途中に新小泉駅が開設された。付近には富岡氏が支配した小泉城、富岡氏から分かれた小泉氏発祥の地もある。

1941年(昭和16年)6月1日中島飛行機小泉製作所への輸送を行うため、太田 - (現)東小泉間が開通したことを受け、小泉信号所(現・東小泉駅)が設けられた。同駅は翌1942年(昭和17年)4月に東小泉駅と改称し、旅客営業を開始している(代わりに小泉町駅での旅客営業を中止)。同年12月1日には仙石河岸線に西小泉駅が開設され、中島飛行機小泉製作所の玄関駅となった。

さらに軍の要請によって仙石河岸線の新小泉駅から利根川を渡り、埼玉県側の妻沼駅熊谷線と接続する計画も立てられ一部着手されたものの、第二次世界大戦の終結により工事は中断。戦後には工事再開も検討されたが実現せず、1974年(昭和49年)に免許が取り下げられた。その後、西小泉駅以南の仙石河岸貨物線は1976年(昭和51年)に廃止され(跡地は遊歩道「いずみ緑道」に転用)、熊谷線も1983年(昭和58年)に非電化のまま廃止されている。

東小泉駅は、1955年(昭和30年)に再び信号所となったが(代替として小泉町駅での旅客営業を再開)、1977年(昭和52年)の西邑楽高校開校に併せて旅客営業を再開し、小泉町駅とともに現在に至っている。

(この項、「Wikipedia」より)

※中島飛行機=現「SUBARU」。

JR熊谷―妻沼(熊谷線―廃線。探訪済。)と結ぶ計画があったことを改めて確認。

第二期工事区間である新小泉駅 - 妻沼駅間開通前に終戦を迎え、利根川を渡る橋梁の橋脚部分が完成した段階で工事は終了しました。そのため、利根川を挟んで南北に分断された形で営業を行うことになり、その南側が熊谷線です。

なお、橋脚は1979年(昭和54年)に撤去されましたが、利根川左岸堤防内(群馬県側)に1脚のみ残っています。

(「いずみ総合公園町民野球場」そば)。

                          (「Googleマップ」より)

・・・

ところで、停車する駅名が気になります。

「竜舞(りゅうまい)」

駅名の由来=貞観3年(861)に乱が発覚した時に、朝廷は藤原長良郷に命じて討伐させることにしました。
勝利を祈願した長良郷は陣内各地にまつり旗を立て、この旗が風に舞うさまが青竜に見えたため、「龍舞木の郷」と呼ばれるようになりました。駅名は地名から命名されたと思われます。

「三枚橋」

駅名の由来=江戸時代の初期、鳥山・鶴生田・大島の地区には3本の川と堀がありました。
洪水のたびに川が溢れ住民は、大変不便な生活を強いられていました。鳥山村の篤農家・天笠治良右衛門は、多額の費用と大勢の人を雇って、大きな石を運び架橋を三カ所にかけたといいます。
郷土の偉人・天笠治良右衛門の遺徳を記念するため三枚橋駅と命名されました。

「治良門橋(じろえんばし)」

駅名の由来=洪水で橋を流されてしまった人々の難儀を見かねて、篤農家・天笠治良右衛門は、石橋に替えて村民には大変感謝されたそうです。大正2年に開業した駅は、先覚者の天笠治良右衛門の名を永久に残しました。

「藪塚(やぶづか)」

駅名の由来=古墳地帯の北限として知られ、石之塔遺跡の出土品から、東北と関東の豊かな文化交流が推測されるこの地は、新田氏の一族岩松時兼(ときかね)が所有し、建保3年(1215)からは藪塚氏が領有していました。それが地名となり、駅名にもなりました。御存知(ごぞんじ)木枯し紋次郎の世界を、「歴史の里三日月村」で味わえます。

「阿佐見(あざみ)」

駅名の由来=この地に古くから沼があり、通称この沼を「浅い沼」、「浅い海」と呼んでいました。この沼が現在の「阿左美」です。当時から地元には大切な水源地となっていました。また阿左美氏と名乗る土豪が土着していたともいわれています。地名より命名された当駅は、昭和12年に開業されました。

※駅名の由来は、「東武鉄道」HPによる。

・・・

相老」で乗り換え。

                 上り線に鮮やかな色塗りのトロッコ列車が停まっています。。

「間藤」まで、前回撮り損ねたものを掲載します。 

       

「大間々(おおまま)」。 

                     大間々町の花 「さくらそう」。

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「わたらせ渓谷鐵道」その9。宮脇俊三さん国鉄全線を完全乗車した際の最後の駅。ゾンビトレイン。リバティけごん。「JR日光駅」行きのバス。(関東ローカル私鉄の旅。その7。)

2023-10-02 20:16:19 | ローカル鉄道の旅

赤とんぼ(アキアカネ)。

                        間藤駅前広場のベンチにて。

間藤駅は、紀行作家の故宮脇俊三さんが、77年に国鉄全線を完全乗車した際の最後の駅。そのため、鉄道ファンには聖地として有名。

宮脇俊三

(1926-2003)1926(大正15)年、埼玉県に生れる。東京大学西洋史学科卒業後、中央公論社に入社。「日本の歴史」「世界の歴史」シリーズ、中公新書の創刊等を手掛ける。出版部長、中央公論編集長等を経て、1978年退社。同年刊行の国鉄全線完乗記『時刻表2万キロ』で日本ノンフィクション賞を受賞する。『最長片道切符の旅』『時刻表昭和史』『中国火車旅行』等で文芸の一ジャンルとしての鉄道紀行文学を確立した。『古代史紀行』等の歴史紀行、泉鏡花文学賞を受けた小説集『殺意の風景』がある。1999年、菊池寛賞を受賞。2003年2月26日、病没。『宮脇俊三鉄道紀行全集』全6巻(角川書店)がある。

「お化け屋敷×列車―ゾンビトレイン」ポスター。

         すでに終了した企画ですが。

60分間降りられない、新感覚お化け屋敷列車

2023年7月9日(日)・22日(土)・30日(日)、8月5日(土)・19日(土)・27日(日)、9月9日(土)。

トロッコわたらせ渓谷号(ガラス付き普通列車)を舞台に、列車内で発生する様々な緊急事態から回避・脱出・生存を目指す体験型イベント。大間々駅から通洞駅までの区間、途中下車はできないため、約60分間のお化け屋敷をお楽しみいただけます。

              

(この項、「」HPより)

足尾銅山本坑(本山)跡方向。

       かつては「足尾銅山」関連会社だった。

古河C&F株式会社

当社の鋳物事業は、足尾銅山の修理工場として発足した機械部門が製品の開発用に素材を自家製造したことに始まりました。これまで歩みを止めずに来た、約100年もの蓄積から培われる"古河の特殊鋳物"は今も製鉄、破砕機、粉砕機など幅広い分野でご使用、ご好評頂いております。また、アルミ溶湯(溶解したアルミニウム)への鉄分溶出が少ない特殊鋼「トケナイト」を開発、2012年よりアルミ鋳造部品製造設備で使用される消耗部品類の早期溶損でお困りの自動車メーカーに、「トケナイト」製の部品を販売し、改良を繰り返し、少しずつ実績を積み上げてきております。

今回は、ここまで。「JR日光駅」行きのバスに乗って、「東武日光駅」まで。

閉山後の足尾銅山のようすは、次回に。

               「日光市営バス」。

右手に「わたらせ渓谷鉄道」の橋梁。

           

長い「日足トンネル」を抜ければ、「日光東照宮」エリアに入ります。

旧道である細尾峠つづら折れや車がすれ違えない程の狭隘道路は、日光足尾を結ぶ大動脈として慢性的な渋滞を招いていたことから、1973年昭和48年)10月22日栃木平にて起工式が行われ、4年半の歳月を費やして1978年(昭和53年)3月30日に開通、総工費は65億円、トンネル幅は9m, 総延長は2,765 mにも及ぶ長大トンネルとなった。

このトンネルが国道122号の新道となり、細尾峠ルートは旧道に格下げされた。入口付近にはトンネル開通記念碑が建てられている。

開通記念碑

日足トンネルの開通によって、足尾町(現在の日光市足尾町)の交通が改善されただけではなく、金精道路の冬期閉鎖に伴う迂回路としての機能が改善されたことになる。

昔から、このトンネルがある細尾峠は、足尾銅山で産出されたなどを日光東照宮周辺まで運ぶための索道が通っていた。足尾鉄道(後の国鉄足尾線、現在のわたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線)の開通によって、索道は廃止された。足尾町は鉄道の開通によって、東京桐生市への交通の便が良くなったのに対し、県都宇都宮市へのアクセスには峠越えか、または、桐生市・栃木市小山市経由(鉄道では、足尾線 - 両毛線 - 東武宇都宮線または東北本線)で遠回りとなり、不便であった。また、日光市が隣にありながら、桐生市以外はどちらも行き来の不便な場所であった。天候によっては桐生市側の道路・鉄道が通行止め・運休になることがあり、孤立することがあったが、トンネルの開通によって、宇都宮と日光が近くなり、孤立することもほぼなくなった。(「Wikipedia」より)

大谷川。

あっという間に市街地に。

東照宮前の賑やかな通りを過ぎ、バスを降りてすぐ飛び乗るように「東武日光」から特急で帰京しました。

「リバティけごん」号。

            

                    切符を急いで買って。

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「わたらせ渓谷鐵道」その8。渡良瀬橋。間藤駅。壁画「ニホンカモシカ」。トロッコわっしー号・トロッコわたらせ渓谷号。(関東ローカル私鉄の旅。その7。)

2023-10-01 20:16:37 | ローカル鉄道の旅

「渡良瀬橋」。

正初期には既に存在し、当初は一部木製の馬車鉄道の通る鉄橋だったという。その後数度改修などが行われ、2007年現在架かっているのは、1935年に鋼鉄部分をそのまま鉄筋とする形で改修されたコンクリートアーチ橋である。なお、1998年、老朽化などのためすぐ隣に新渡良瀬橋が架けられて自動車はそちらを通るようになり、元の渡良瀬橋は自転車·歩行者専用橋になった

※森高千里の曲「渡良瀬橋」で歌われる「渡良瀬橋」は、栃木県足利市のほぼ中央を流れる渡良瀬川に架かるトラス橋下路平行弦6連ワーレントラス橋。 橋長243.27m、幅員5.5m 森高千里がこの橋をモデルに渡良瀬橋 (曲)同名の楽曲を発表したことによって存在が全国的に知られるようになり、観光名所となっている。

まもなく終着駅の「間藤(まとう)駅」に到着。

         

旅客終着の間藤駅

足尾線は私鉄により開設され、この駅は大正3年(1914)11月1日に営業を開始した。時あたかも足尾銅山全盛期であり、鉄道は物資の輸送増強に必要であった。同7年に国鉄に移った。しかし、昭和62年(1987)に全町民野の猛烈な反対も空しく、赤字により廃止され、JRに移った。平成元年(1989)から第3セクター「わたらせ渓谷鉄道」として出発した。その間、昭和45年に無人化(最高時18人)され寂しい駅となったが、平成6年(1994)に陶芸教室と合築し「カモシカの見られる駅」として新装され注目されている。

振り返る。

かつてはこの先まで線路が伸びていました。

わたらせ渓谷鐵道の終着駅でトロッコわっしー号の始発・終着駅です。国鉄時代は1.9km先の足尾本山駅まで貨物専用の線路が伸びていましたが、現在は廃線となっています。
国の特別天然記念物に指定されているニホンカモシカに出会える(かもしれない)駅として知られており、駅舎にはニホンカモシカをモチーフにした壁画があります。
また、間藤駅は紀行作家の宮脇俊三が1977(昭和52)年に国鉄全線を完乗した場所で、著書「時刻表2万キロ」の終着駅として、今も訪れるファンが絶えません。
駅前からは日光市営バスが出ていて、日光東照宮やJR・東武日光駅まで約35分ほどです。
足尾ダムは、渡良瀬川の上流、松木川、仁田元川、久蔵川の合流点に造られた砂防ダムです。ダムの壁画にはカモシカをデザインした陶版壁画(日本最大規模)があり、「あかがね親水公園」として町の新しい名所になりました。1890(明治23)年に建設された「間藤水力発電所跡」や重文に指定されている「古河橋」、「本山製錬所跡(大煙突)」を見ながら、駅から徒歩で約50分です。ここからさらに徒歩で2時間の松木渓谷は、荒涼とした岩壁が連続し「東洋のグランドキャニオン」とも呼ばれ、訪れる人を魅了します。

壁画「ニホンカモシカ」。

トロッコわっしー号

わたらせ渓谷鐵道のキャラクター「わ鐵のわっしー」をモチーフにデザインされたトロッコ列車です。 窓ガラスのないオープンタイプのトロッコ車両と、窓ガラス付きの普通車両を連結して、2両編成で走ります。(冬期はトロッコ車両も窓にガラスを取り付けて運転します。) 車窓には渡良瀬川の渓谷が広がり、吹き込む風を全身で受けながら、自然の織りなす美しい景色を楽しめます。

《運転区間》桐生~間藤

トロッコわたらせ渓谷号

ディーゼル機関車が4両の客車を引っ張る昔ながらのスタイルで、鉄道ファンにも人気があります。 機関車にはトロッコ車両と同じ銅色をした「DE10-1537」と、赤い色をした「DE10-1678」の2種類あり、どちらが走るかは当日のお楽しみです。 車両は窓ガラスのないオープンタイプのトロッコ車両2両を、窓ガラス付きの普通車両2両で挟み込んだ格好で連結します。
車窓には渡良瀬川の渓谷が広がり、吹き込む風を全身で受けながら、自然の織りなす美しい景色を楽しめます。

《運転区間》大間々~足尾

駅前広場から駅舎。

                  なんだか雨雲が広がりそう。

山口青邨(やまぐちせいそん)の句。

昭和を代表する俳人。「夏草」を創刊し多くの句集を上梓した。青邨(本名・吉朗、1892~1988)は、明治25年(1892)に盛岡市に生まれた。大正2年に東京大学採鉱学科を卒業して、古河鉱業足尾鉱業所に入り、2年間勤務したことがある。その後、たびたび足尾を訪れ句を吟じ、次の作品などを残している。

合歓咲きて駅長室によき蔭を(昭和11年)

風花やをろがみ申す山の神(昭和18年)

青邨の作風は、清純高潔でその詩情は穏健で調和的である。  日光市

観光案内図。

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