おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

足尾銅山跡を訪ねて。その4。銅(あかがね)街道。往時の賑わい。下間藤。旧足尾町。旧足尾線・廃線跡。本山小学校跡。旧松木川。(関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

2023-10-07 20:11:59 | ローカル鉄道の旅

午前11時41分に「間藤駅」着。「銅・銅山(あかがね)街道」を北上します。

江戸時代のはじめ、足尾銅山は幕府の直営とされていました。足尾で精練した御用銅を江戸へ運ぶための道として、銅山街道(あかがねかいどう)が設けられました。この街道は、まさしく銅の道でした。足尾を出た御用銅は、沢入(そうり)・花輪・大間々(のちに桐原)・大原・平塚の、5つの宿を順番に送られたのち、利根川を下って江戸浅草の御蔵入りとなりました。
 この銅山街道が整備されたころ、はじめは大間々宿に銅問屋が設けられていました。しかしその後、大間々が天領でなくなったために、江戸時代の中ごろになって桐原宿に移されました。桐原の藤生家では、今でも銅蔵(どうぐら/銅をいち時保管する蔵)と、その役めに関係のある文書などが残されています。
 このように、大間々、桐原は御用銅を運ぶための、たいせつな場所でした。そのことからも、人がにぎわう宿場町としても栄えました。また、銅山街道は、大間々の奥にある村や集落へ、ふだんの生活に使う品物などを送るため、また、山地の産物を集めるなど、物資の集散地としての大間々町を発展させるのに役立ってきました。

歴史

慶長15年(1610年)に足尾山中で銅が発見され、慶安元年(1648年)に幕府の代官である諸星庄兵衛が銅山奉行を兼任して、慶安2年(1649年)に街道を整備して各宿に銅蔵を置いたと伝わる。当初の道筋は、足尾村から渡良瀬川右岸沿いを南下して上野国勢多郡沢入村(東町沢入)・花輪村(東町花輪)を経て、山田郡大間々村(大間々町大間々)から大間々扇状地を南進して、利根川の平塚河岸(境平塚)に至るものであった

寛文年間(1661年-1673年)に、幕府代官の岡上景能が銅山奉行を兼任して、笠懸野の新田開発によって笠懸新田(新田郡大原本町村、大原町)が成立し、村の中心に大原宿が置かれた。延宝年間(1673年-1681年)から天和年間(1681年-1684年)の頃が足尾銅山街道の最盛期であり、毎年35万貫から40万貫までの銅が運ばれた

元禄年間(1688年-1704年)に、銅の積出港が平塚河岸から下流の前島河岸(前島町)に、銅蔵が平塚村の北爪家から亀岡村(亀岡町)の高木家に移り、大原本町村の南方の上江田村(新田上江田町)から東南に向かって亀岡村・前島河岸に至る道筋に変わった延享4年(1747年)に、大間々村が幕府領から前橋藩領に編入、銅蔵が大間々村の高草木家から西隣の桐原村(大間々町桐原)の藤生家に移ったことで、足尾銅山から沢入宿・花輪宿・桐原宿・大原宿を経て亀岡村・前島河岸に至る道筋が確定した

慶応3年(1867年)の大政奉還後、銅山の管轄は日光県などを経て栃木県に移り、明治10年(1877年)に古河市兵衛の経営となる。明治23年(1890年)細尾峠に索道が架設され、大正元年(1912年)12月に足尾鉄道が足尾まで達すると街道は寂れたが、昭和37年(1962年)に足尾-大間々間が国道122号の一部に指定され、現在では国道を銅山街道と通称している

旧家らしいおうち。

                

          「北部の玄関口 下間藤 往時の賑わい」。

この地は、僅かに農業が営まれていただけであったが、明治10年(1877)に古河市兵衛が足尾銅山の再開発に着手し、飛躍的な発展を遂げるに至り、上間藤・赤倉と共に一大商業地になっていったが、同20年にはまだ辺りは畑で、街並みを形成する道路ができたのはその後である。同33年に「工作課」が大正6年(1917)頃には「分析係」がこの地に移り開設されて工業地ともなった。大正3年には足尾鉄道足尾~本山間が開通し、旅客の発着駅である「間藤駅」の開設などにより、200戸余の集落となった。その頃すでに、上の平(18棟、浴場)、下の平(6棟、浴場)浄水(2棟)の社宅が図示されている。同9年に現在地にあった建具屋から出火し、工場と駅を残して全焼した。昭和30年(1955)は、まだ一般107戸462人、下の平22戸86人、浄水11戸52人であったが、今は(平成12年9月)44戸100人となり、貨物線路は雑草が茂り、鉄路は赤く錆びているばかりである。

※この先にもある解説板の記載時期から23年経った、現在。足尾地区全体は、かなり過疎化しています。

《足尾地区の人口》

平成12年(2000):3,723

令和4年(2022):1,621

間藤・赤倉地区は、もっと過疎化しているようです。)

最盛期:大正5年(1916)の人口:38,428

右一帯に住宅が広がっていた。

このような説明板が各所に設置され、足尾銅山を中心とした足尾町のかつての様子が掲示されています。

足尾町(あしおまち)

関東地方の北部、栃木県西部に存在したである。足尾銅山松木渓谷で知られる。銅山全盛時の1916年には県内では宇都宮に次ぐ人口38,428人を抱えていた。

1973年の足尾銅山閉山後は、過疎化が著しく、合併直前の人口は3,000人台となり全盛時の1割にも満たなくなった。

2006年3月20日に、足尾町や(旧)日光市などの周辺自治体が合併し、(新)日光市の一部となった。

歴史

 

旧・足尾町の歴史は、足尾銅山の歴史そのものです。1610年(慶長15年)に銅山が発見されて以来、銅山は幕府の管轄下におかれ、多くの労働者が採掘と製錬を行い、江戸の中期には足尾千軒と呼ばれるほどの繁栄を示しました。

その後一時の衰退をみますが、1877年(明治10年)、古河市兵衛の経営となり、先進的な技術と設備の導入により、生産が急速に伸び、1890年代(明治20年代)には日本産銅の40%を産出する日本一の銅山となります。その後も次々と鉱脈が発見され、大正以降も発展は続き、当時の人口は宇都宮市に次ぐ38428人(1916年大正5年)で県下第2位。

しかし長い繁栄を続けた足尾銅山も産銅量の減少と時代の流れの中で1973年(昭和48年)2月28日、その長い歴史に終止符をうちました。

(この項、「日光市」HPより)

街道筋の家並み。

              屋根の低い家が続きます。渡良瀬川にへばりつくように家が並ぶ。

旧線路。信号機はそのままに。

                   右手から左手へ。間藤駅~足尾銅山(本山)駅まで。  

間藤駅方向。 

                       足尾銅山方向。

             渡良瀬川に架かる鉄橋と人道橋跡。

対岸に「本山小学校」跡があります。

                          (「Googleマップ」より)

2005年3月末をもって、足尾町立本山小学校(栃木県日光市足尾町上間藤16-1)が閉校しました。

1892年に足尾銅山を経営していた古河氏が私財を投じ、私立古河足尾銅山尋常高等小学校を設立。戦後、公立の学校となり足尾町立本山小学校と改称しました。同校は、上間市街地の山の中にある大きな校舎が特徴の学校。当時は足尾銅山の最盛期で、多くの銅山関係者の子どもたちが通学していました。しかし、児童数減少により2005年に閉校。足尾町立足尾小学校へ統合となり、113年間の歴史に幕を閉じました。

現在校舎はそのままの形で現存。敷地内にあった講堂は登録有形文化財に登録されており、足尾銅山の歴史を伝える遺構として残されています。ゆかりのある方は、この場所にもう一度足を運んでみてはいかがでしょうか。

            

(この項、「」HPより)

       橋脚。

眼下に渡良瀬川(旧松木川)。

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