おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR外房線「誉田」~「大網」。その3。坂道を下ったり、上ったり。落ち着いた家並み。外房線のトンネル。昭和の森。(「房総東往還」を歩く。第2日。)

2023-11-11 19:23:03 | 房総東往還

大網駅まで再開。下り坂。

下りきったら、左折して上り坂を。

けっこうな急坂。右に曲がると、

落ち着いた家並みに。

               

奥に「天満宮」。 

振り返る。        

突き当りを右折し、下り坂に。

                   

大網街道の右手にあすみが丘池。

この付近の今昔。

                             (現在)下りきって「現大網街道」に合流。 

                             (1880年代)

大網への旧道(大網街道)は曲がりくねっている。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

正面に「昭和の森」。

千葉市昭和の森

千葉県千葉市緑区にある都市公園総合公園)である。名称に公園はつかない。敷地面積は約100haと千葉市内最大規模の公園であり、広場遊び場キャンプ場野球場テニスコートサイクリングコースウォーキングコース、展望台、アウトドア施設、宿泊施設等多くの施設がある。園内には遺跡も保存されており、荻生道遺跡は県指定史跡に指定されている。公園は一部を県立九十九里自然公園に指定され、日本の都市公園100選房総の魅力500選にも選定されている。

千葉市昭和の森公園の梅林

千葉市の中心部から東南に約18km、緑区土気地区に位置する面積105.8ha、南北2.3km、東西0.8kmの市内最大、県内でも有数の規模を誇る総合公園である

公園の西側は、標高60mから90mの下総台地に連なり、東側は九十九里平野と下総台地を分ける高低差約50mの崖地(海食崖)に接している。展望台(標高101m)からは、九十九里平野と太平洋の水平線が一望できる。

公園の一部が県立九十九里自然公園に指定され、良好な自然環境が残されているため、四季を通じて草花や樹木、野鳥や昆虫など多くの種類の植物や生物を見ることができる。3月 - 4月には菜の花や桜が、5月 - 6月上旬にはツツジサツキが、6月 - 7月はハナショウブアジサイが、6月 - 8月まではスイレンなどの花々が季節ごとに楽しめる[2]。施設も充実しており、自然公園、遊び場、キャンプ場野球場テニスコート、サイクリングコース、ウォーキングコースなど多くの施設がある。各有料施設(駐車場、サイクリングセンター、野球場、テニスコート)については、株式会社昭和の森協力会によって運営されている

また、1989年平成元年)には、国を代表する公園の一つとして「日本の都市公園100選」に選定される。

園内の旧ユースホステルは、その跡地を合宿、キャンプ、公園、スポーツ施設を融合した複合施設を設計・改修工事を実施しており2014年(平成26年)4月、野外活動ゾーンにて「昭和の森フォレストビレッジ」としてリニューアルオープンした公園内はレクリエーションゾーン、展望ゾーン、中央林間ゾーン、宿泊・野外活動ゾーン、スポーツゾーンの5つに分かれている。

(この項、「Wikipedia」より)    

 

          

                           

      (「」より)

出会ったところは、北の入口のようです。

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JR外房線「誉田」~「大網」。その2。槇の垣根。大木戸新田。土気(とけ)駅。関東ふれあいの道。土気(とけ)のいわれ。(「房総東往還」を歩く。第2日。)

2023-11-10 20:30:24 | 房総東往還

槙の垣根。房総地域では多く見られる垣根。よく整備されています。

                           

       畑地が広がる。

外房線を望む。

線路沿い、藪の中の廃墟。

保存木「タブノキ」。

「大木戸新田」交差点。

この「大木戸」は、かつてあった野馬の放牧地内外を仕切る木戸ではないでしょうか?

         

※「日光東往還」歩きの際、野田市内のかつての野馬放牧地でもこのよう地名・木戸がありました。

コスモス。

この付近には旧線路跡があるようです。

右手には住宅地が広がります。

緩やかな坂道を下り、左折します。

     

                上り坂を土気駅へ向かう。

          

                地下道を抜けて駅の反対側に。

土気駅ホーム。

駅舎下のベンチで休憩。

                 

「土気駅」の読みも難しい。「とけ」。その由来は?

土気駅(とけえき)は、千葉県千葉市緑区土気町にある、JR東日本外房線である。外房線内の駅で標高が最も高い所に位置する。

駅名は周辺の地名に由来する。土気の読みの由来は、大網からの長い峠を取って「とけ」となったという説もあるが、真偽は定かではない。周辺は南関東ガス田と呼ばれる水溶性ガス田の範囲内であり、古来天然ガスが湧出する気配を示す土地は「土気」と呼ばれ、これが地名由来と考えられている。(この項、「Wikipedia」より)

一方で、「土気高校周辺の歴史散歩 齊藤汀魚」HPによると、

土気高校のある千葉市緑区の旧土気町の歴史散歩をしていきましょう。参考書は、千葉県の高校で歴史を担当している、または担当した先生方が、千葉県各地を実際に歩いて調べた史跡が紹介されている『千葉県の歴史散歩』(千葉県高等学校教育研究会歴史部会編、山川出版社発行、2014年。)や『千葉歴史散歩 50コース』(千葉歴史散歩編集委員会編、草土文化発行、1982年。)などです。
 その土地の歴史はその土地の風土すなわち地形や気候が大きく影響します。土気も例外でありません。千葉城郭研究会員の遠山成一氏は「再発見ふるさとの城 房総の城跡めぐり 土気城跡」(千葉日報)で土気の地理環境を次のように説明されています。

「土気は、房総半島のほぼ中央に位置し、一説には地名の語源が「とうげ」にある、という分水界の地である。土気を源として東京湾へ村田川が、印旛沼へ鹿島川が、太平洋へ小中川(南白亀川なばきがわ)がそれぞれ注ぐ。つまり水系的にこれら三方に開かれた要地といえよう。そして、城跡の北・東・南方面は、比高差80メートルもある急斜面が巡り、西方面のみ台地続きである。城跡の東部や南部からは、九十九里平野がパノラマ状に展望できる。」。さらに土気の位置は北の北総台地と南の上総丘陵をつなぐ所でもあり、房総半島の腰にあたります。また、太平洋と東京湾との距離が短いのも地理的特徴です。・・・

土気と言えば土気城と言われるくらい有名な戦国大名酒井定隆(さかいさだたか)が住んでいたお城の跡を見学してみましょう。
 お城というと私達は、織田信長・豊臣秀吉の安土城・大阪城(安土桃山時代)、徳川家康・家光の江戸時代に建てられた天守閣がそびえて立派な石垣のあるお城、例えば熊本城・松本城・江戸城(現在の皇居)を思い浮かべてしまいますが、そうではありません。

室町時代の応仁の乱(1462)後、幕を開けた戦国時代は、実力のある武士がどんどん領地を拡大していく「食うか食われるか」すなわち下剋上の世の中。平たい土地にお城、当時は大きな館(陣地)を造るわけには行きません。敵が攻めにくい山の中や切り立った崖の上にそのお城(山城)を造りました。その点、周りより高いこの土気の地(標高約90メートル)は、敵の侵入を防ぐのにもってこいの場所でした。千葉県内に大小あわせて数百と言われる山城のうち、この土気城は規模も大きく戦国末期の山城として有名です。

 JR外房線土気駅から大網方面へ行ったバス停善勝寺からほど近い台地に土気城址があります。標高90メートルを超す台地の先端に位置して、東側は平地との差40~50メートルの急な斜面となっています。そもそもこの山城は、はるか昔の奈良時代、陸奥(むつ)鎮守府(ちんじゅふ)将軍大野東人(おおののあずまんど)が、蝦夷(えみし)征討の軍事拠点として築いた砦(とりで)「貴船城(きふねじょう)」が始まりとされます。現在も土塁の上に貴船神社がまつられています。

 その後数百年の後の戦国時代初期、古河公方(こがくぼう)足利茂氏(しげうじ、1434~97)に仕えていた酒井定隆(さかいさだたか)が、1488(長享2)年に城を修築して入城し、以後土気酒井氏の本拠地となりました。定隆はのち次男を連れて東金に隠居したので長男の定治が土気城を継いだといいます。酒井氏一族は、土気・東金の二つの城を拠点にこの地域を支配しました。
 戦国末期の1575(天正3)年、小田原に本拠地を持つ北条氏政(うじまさ、1538~90)の支配下に入ったため、1590(天正18)年の豊臣秀吉の小田原攻めにより北条氏と共に滅亡しました。

現在、土塁や空堀(からぼり)・郭(くるわ)がよく残っています。この遺構は、その大規模な様子から秀吉軍の攻撃に備えて再修築されたものと考えられています。晩秋の一日、空堀や崖下の路を通りますと一気に戦国末期の世界に取り囲まれます。・・・

とありました。

土気の今昔。

                         (「今昔マップ」より)

土気の中心地があつては台地上にありました。今は、駅の南西側が住宅地として発展しています。

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JR外房線「誉田(ほんだ)」~「大網」。その1。旧道。県道20号(大網街道)。シャインベリー(いちご狩り・直売農園)。跨線橋。(「房総東往還」を歩く。第2日。)

2023-11-09 18:41:36 | 房総東往還

「誉田駅」。

今回は(も)、ゆっくり目のスタート。「大網駅」まで。距離としては短いですが、アップダウンがありそう。

前回歩かなかった旧道を振り返る。

それに続く旧道を歩くことに。

        誉田駅を望む。

住宅地を進む。  

「県道20号(大網街道)」に合流。 

跨線橋を渡る。

           外房線に沿って進む。

「誉田IC」。

               

千葉県道67号生実本納線(おゆみほんのうせん)

千葉市緑区から茂原市に至る、主要地方道である。かつては、一部区間が千葉県道路公社が管理していた有料道路の千葉外房有料道路であったが、2023年令和5年)2月1日に全線無料開放された。

東京千葉方面と外房方面を連絡する道路のうち、千葉県道20号千葉大網線(大網街道)の慢性的な交通渋滞緩和のために建設された。事業費は、約234億円。(「Wikipedia」より)

左右に畑地が広がる。

              

大きなおうちが目立つ。

                 

「大網街道」。けっこう車の交通量が多い。

シャインベリー(いちご狩り・直売農園)」。

​味にこだわり有機肥料で育てた 美味しいイチゴで 皆様をお迎えいたします。

       (「じゃらんネット」より)

再び外房線を越えます。「大網」方向。

               

竹林。

誉田から大網への道のりの今昔。

                                   (「今昔マップ」より)

   ほとんど変化はなさそうです。右図で、「誉田」駅が「野田」駅になっています。

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JR内房線「浜野」~外房線「誉田」。その4。鎌取駅。「大木戸」。野田十字路。大網街道。五日堂。誉田(ほんだ)駅・誉田のいわれ。(「房総東往還・伊南房州通往還」を歩く。第1日。)

2023-11-07 20:37:01 | 房総東往還

鎌取駅前の賑やかな通り。

「房総東往還」(大網街道)は、駅の反対側を進みますが、当方は、この道を「誉田駅」に向かいます。                 

線路方向を望む。

         「大木戸」。

※「木戸」=人間や物品の出入りを管理するのが目的で、城下や宿場内外の境界に設置された関所。

道の反対側に「都川防災調整池」が広がります。

      

住宅が続く直線道路をけっこう歩き、やっとここで「大網街道」に出会います。

         野田十字路。「野田」はこの地域の地名。

                        ※千葉県内では、交差点を「十字路」と呼ぶことが多い印象。

旧道に復帰。

大きなおうちが目立つ。

               

      

「中宿」バス停。

旧道らしい道筋。

土蔵。

左手に「五日堂」。

                  日浄上人他僧俗五名処刑殉難之霊地。

日浄は折伏布教して家康に弾圧された日経の弟子で、日経亡き後、関東一円の法華経の普及に努めましたが、幕府の弾圧を受けて信徒と共に斬首に処されました。この五輪塔は、高田村の源右衛門が日浄の供養のために造り、当時幕府の目を恐れて土中に埋めていましたが、明治11年に掘り出されたものです。明治13年、信者が浄財を集めて精舎を建立し、日浄の命日である9月5日をもって五日堂と名づけました。なお、現在の五日堂は、公会堂として後年新たに建てられたものです。

(この項、「」HPより)

この先、GSのところから右手に入るのが旧道。

           

ですが、「大網街道」をそのまま進み、誉田(ほんだ)駅に向かいます。

左手に「千葉市立誉田小学校」。

来た道を振り返る。

「誉田駅」。

              

案内板。

             右(西)から左(東)へ歩いてきたわけです。

大網駅方向を望む。

誉田駅は明治29年1月20日房総鉄道株式会社による蘇我-大網間の鉄道開通に伴い「野田」駅として開業しました。 房総鉄道は明治40年に鉄道国有法により国有化され、その後に駅名も大正3年12月1日より誉田駅に改称されました。

誉田(ほんだ)の由来

このあたりは古くから千葉氏の領地で、千葉郡山家郷といわれていたのではないかと言われています。天正年間になって徳川氏の領地になりました。
慶長・元和年間(約400年前)には幕府の支配領として代官を置いて治めました。
その後、藩の領地になったり、旗本の知行地になり、領主は変り、また村によって支配もちがっていました。明治の廃藩置県によって、葛飾県・曽我県・印旛県・木更津県となったのですが、明治六年に現在の千葉県になりました。その頃は、野田村・遍田村・高田村・平川村・平山村・東山科村の六村に分れていました。明治14年10月野田村他5か村が連合しました。戸町を石田権右門が努めました。
明治17年8月には戸町役場を野田村に置きました。明治22年町村制公布と共に合併して「誉田村」と改称しました。初代の村長に野田の三枝八十郎氏がなりました。
誉田の村名は野田村をはじめ各村にある八幡宮の祭神、誉田別命の名からとって、村名にしたと言うことです。

(この項、「」HPより)

八幡神

清和源氏桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた誉田別命(ほむたわけのみこと・ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。

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JR内房線「浜野」~外房線「誉田」。その3。落ち着いた町家。北生実上宿。生実城(おゆみじょう)・北小弓城 大手口跡。大網街道。外房線「鎌取」。。(「房総東往還・伊南房州通往還」を歩く。第1日。)

2023-11-06 20:39:28 | 房総東往還

上がってきた道を振り返る。

旧家の雰囲気。

一方でモダンなおうちも。

落ち着いた家並み。

「北生実上宿」信号を右折。

      実は、この付近、「北小弓城下の町」ということに。

生実城(おゆみじょう)は、千葉市中央区生実町にあった日本の城北生実城北小弓城(きたおゆみじょう)とも言われる。近世以降は生実藩陣屋(生実陣屋)がおかれた。

千葉氏は、上総国との境界付近の守りとして、南生実町に小弓城(南生実城)を築き、重臣原氏に守らせていたが、1517年永正14年)に足利義明小弓公方)にこれを奪われた。その後、1538年(天文7年)の第一次国府台合戦に勝利した後北条氏方の原氏は、敗死した足利義明から領地を取り戻し、新たに北に2キロメートルほど離れた生実町(北生実)に城を築いて、ここを本拠地とした。同時に「おゆみ」の表記を「小弓」から「生実」に変えたものと考えられていた。

しかし、近年の発掘調査で、北生実の城も室町時代には既に存在していた事が確実となり、実態としては2つの城を併せて「小弓城」または「生実城」と書き表していた可能性も出てきた。・・・

16世紀に中頃に原氏は臼井城に進出して拠点を移すが、生実城は依然として原氏の重要な支城であり、千葉氏・後北条氏の勢力にとって里見氏に対抗する最前線の城であった。永禄4年(1561年)と元亀2年(1571年)の2度、里見氏によって攻め落とされているが、そのたびに原氏が奪い返している

1590年(天正18年)に後北条氏が滅亡し、関東に徳川家康が入部すると、生実城にも徳川家の家臣が入った。最初に城主となったのは西郷家員である。その後、1627年(寛永4年)に生浜地区を中心とする地域の大名となった森川重俊は、生実城の一角に陣屋を築き、生実藩藩庁とした。以後11代240年にわたって森川氏の支配が続いた。

城の西側には曹洞宗寺院の重俊院があり、森川氏累代の墓碑がある。

《規模》

(京成千原線)「学園前駅」入口から蘇我インターチェンジに抜ける県道沿いに位置する。標高20メートル前後の台地上に広がり、700-800メートル四方の規模である。

城の東部には、南北に掘られた空堀によって区画された大手口があり、県道の傍らに石碑が立っている。主郭は、北西部の角栄団地と呼ばれる住宅街の中にあったが、昭和40年代(1966年-1975年)の宅地開発により破壊されており、遺構は残っていない。角栄団地内にある本城公園にかつての小字名が残り、千葉市の案内板が立てられている。

城内には、かつて御霊神社と呼ばれた生実神社があり、その西側に空堀が残っている。神社に隣接する飲食店のあたりが、近世生実陣屋が置かれた郭である。

北生実上宿の交差点から南に入る道がかつてのバス通りで、森川藩の陣屋前に当たる。近世には町場が形成されており「町並」の小字がある。

(この項、「Wikipedia」より)

通りの向こう、左手奥の森には「生実陣屋跡(森川陣屋跡)」、「生実城空堀・土塁」等がある。

また、通りの向こう正面には、「北小弓城 大手口跡」碑がある。

(「Wikipedia」より)

しばらく進むと、右に旧道が少し残されています。

                        旧道から通りの向こうに続く旧道を望む。

外房線に近づきます。

               

                この付近手前で半地下化した「京成千原線」を越えます。

      (「ジョルダン」より)

この付近では、「おゆみ(台)」とひらがな表示が目立ちます。たしかに「生実」では読めませんから。

しばらく線路沿いに進みます。

変わった建物が。

広いアンダーパスと交差。

線路をくぐり反対側に。

旧(らしき)道へ出ます。

住宅地の中の道。

「鎌取十字路」。

                   現在の「大網街道」と合流します。

                

「房総東往還」道はしばらく鎌取駅の北側を進みますが、JR外房線「鎌取駅」南口に向かい、小休止します。

とあるおうちの門の横には、愛らしいフクロウ?

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JR内房線「浜野」~外房線「誉田」。その2。旧生浜(濱)町役場庁舎。西雷(にしらい)踏切。生実(おゆみ)町。本満寺。(「房総東往還・伊南房州通往還」を歩く。第1日目。)

2023-11-05 20:03:48 | 房総東往還

歩き始めると、すぐ左手に古い建物。

「旧生浜(濱)町役場庁舎」。

解説板。

旧生浜(おいはま)町は、現在の中央区から緑区にまたがる地域にあった町です。1889(明治22)年に北生実(おゆみ)・南生実・浜野・村田・有吉(ありよし)の5か村が合併して生実浜野村となり、1925(大正14)年に生浜村に改称しました。1928(昭和3)年の町制施行により生浜町が生まれました。生浜町の誕生を機に、1932(昭和7)年に建てられたのがこの旧生浜町役場庁舎です。生浜町は1955(昭和30)年に千葉市へ編入されましたが、この建物は生浜支所・生浜地区市民センターとして1992(平成4)年まで使用され、長く地域の人々に親しまれてきました。木造2階建てフランス瓦葺き、市内に残る昭和初期の洋風建築で、1階は役場、2階は議場になっていました。玄関ポーチ上のバルコニーは明治初期から大正期の郡役所建築によく見られるもので、この建物の大きな特徴です。

                    

千葉市のマンホール。汚水用。

中央に千葉氏の家紋「月星紋」と千葉の「千」を配した市章、周囲に市の鳥「コアジサシ」、市の木「ケヤキ」を描いている。フチに沿って配置されているのは市の花「オオガハス」。

※「オオガハス」=故大賀一郎博士が千葉市検見川で発掘した実をもとに発芽・育成に成功した古代のハスで、千葉県の天然記念物にも指定されている。2000年前のハスの実3粒のうち1粒が発芽に成功した。

※以前、「千葉公園」の大賀ハスを見に行ったときの記録。

  

  

・・・
これはその先にあったマンホール。雨水用。

市の花・大賀ハス、市の木・ケヤキ、市のシンボル鳥・コアジサシのデザイン。 中央のマークは、千葉市のコミュニケーションマーク。弧を描く円は6つの区を表し、千葉に集まる人、もの、情報の活発な交流とコミュニケーションを表している。

内房線「西雷(にしらい)踏切」。

踏切脇のススキの群れ。

先に進みます。

             振り返る。

前方に「東関東自動車道」高架。下は国道16号線。

     交差点名は「生実(おゆみ)」。

※「生実」は難解地名の一つ。生実町は、かなり古い町で、実は幕府の藩があった町。元々は『小弓城』だったのが、後に『生実』と改められ、それが地名となったようです。

千葉市立生浜小学校。

       「祝 創立150周年記念」。            ↑「チーバ君」

       田畑が広がる。

「生実町五差路」を左折。

             

左手には「本満寺」。

本満寺は本行寺を開山した日泰上人が開基となり、文明5年(1474)4月に創建したといいます。江戸時代には「不受不施派寺請禁止令」により衰亡したものの、第14世日諌が再興、數ヶ寺の末寺を擁する中本寺格の寺院だったといいます。

         

※この地には、「顕本法華宗」、また、徳川幕府によって禁制・弾圧された「不受不施派」系の寺院が多くあるようです。

※不受不施派

日蓮宗の一派。京都妙覚寺住持の日奥(にちおう)を派祖とし,江戸幕府に禁教されたので〈禁教不受不施〉の名で有名。不受とは寺や僧侶が謗法(ほうぼう)(他宗)からの布施供養を拒否すること。不施とは謗法の寺社や僧侶に日蓮宗の信者は布施供養をしないこと。法華信仰だけを正しい仏法とした日蓮宗の立場からみると、謗法からの布施供養はその邪を正すべき相手からの施物であり、受容すると,邪を正す〈折伏(しやくぶく)〉の根拠は失われる、とする。 

この先を左折し、上り坂を進みます。

                     

この付近の今昔。

                     (現在)「生実町」。寺を右折する道が旧道。

                     (1880年代)家並みが続く。

          房総東往還道は、突き当たりを右折して進む。

上がりきると、落ち着いた家並みが続く。かつての宿場(間の宿)のような雰囲気に。

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JR内房線「浜野」~外房線「誉田(ほんだ)」。その1。大網街道。房総往還(内房沿い)との分岐。「房総東往還・伊南房州通往還」を歩く。第1日目。)

2023-11-04 20:16:18 | 房総東往還

JR内房線「浜野駅」

今回から「房総東往還」を歩くことにします。正しくは、「伊南房州通往還」のようです。

伊南房州通往還(いなんぼうしゅうつうおうかん)は千葉県千葉市中央区浜野から外房を通り館山市北条に至る街道である。茂原市までの一部は「茂原街道」と「大網街道」として構成されている。別称は「房総東往還」である。

千葉県外房の大部分を通っており、現在は県道14号国道128号が当街道に沿う形で建設された。しかし、元禄地震関東地震関東大震災)などの東京湾地下の相模トラフ巨大地震慶長地震などの房総沖地震千葉県東方沖地震などにより隆起沈没、樹木の倒壊、地質が軟弱のため土砂崩れが起こるなどしたため道順は度々変化している。また、正確な成立年は不明である。なお、「伊南」とは中世の上総国夷隅郡に作られた荘園である伊南荘に由来する。当街道は江戸時代には確立しており、内房の房総往還、外房の伊南房州通往還、銚子街道成田街道(佐倉道)と共に多くの生活路・輸送路として役割を果たした。

主な地名(市・町)をつなげると、

浜野~大網~茂原~一宮~大原~御宿~勝浦~安房小湊~鴨川~和田~館山 

《浜野から館山までの約132km+α》

鉄道だと主に「JR外房線」沿い、となります。

赤い線が「房総東往還」、青い線が「房総往還」     

浜野付近の今昔

1880年代)赤↓:茂原街道、青↑:大網街道

蛇行して進んでいるのが「房総往還」。この頃には、茂原街道ルートが主流になってきているようです。

(現在)茂原街道ルートは線路のため迂回。

・茂原街道ルート

千葉市中央区「浜野」交差点の房総往還から分岐する。「高師」交差点で国道128号大網街道ルート)と合流する。

「浜野」。

房総往還と分岐する。手前の道が茂原街道、正面が房総往還。

茂原街道は大きく右に曲がり、浜野駅付近からほぼ東を進む。

→茂原街道へ。

・大網街道ルート

房総往還「塩浜橋」交差点から分岐し、北東に進み、外房線沿いをたどる。             

         塩浜橋。

房総往還(船橋方向)。

「房総往還」(JR内房線沿い)を歩いたとき、この地も通りました。

 

                 房総往還は、突き当りを左折。

今回、歩く順路は、大網街道ルートにし、茂原で茂原街道ルートと合流します。

ということで、まずは、2日間かけて大網まで歩きました。

しばらく房総往還を歩きます。

塩浜橋から分岐。

住宅地を進みます。

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関東ローカル鉄(鐵)道線総集編。その3。⑨上信電鉄上信線。⑩JR久留里線。⑪わたらせ渓谷鉄道。⑫富士山麓電気鉄道。付①江ノ電 ②銚子電鉄 ③流山電鉄。

2023-11-02 21:32:32 | ローカル鉄道の旅

⑨「上信電鉄上信線」編。高崎駅~下仁田駅。8月25日(金)。

現存する日本の私鉄路線のなかでは、南海電気鉄道阪堺鉄道)・伊予鉄道西武鉄道(川越鉄道)についで4番目に開業しており、法人として存続する東日本最古の私鉄でもある。

                                 (「」より)

          

                      世界遺産・「富岡製糸場」の下車駅。

繭から生糸を取る(繰糸)が行われた場所です。操業に当たりフランス式繰糸器300釜が設置され、その当時、世界最大規模の製糸工場でした。小屋組には「トラス構造」という従来の日本に亡かった建築工法が用いられました。そのため、建物内部は中央に柱のない広い空間保たれています。さらに、採光のための多くのガラス窓や、屋根の上に蒸気抜きの越屋根が取り付けられました。現在は、昭和41年以降に設置された自動繰糸機が保存されています。

           

 広く天井が高い建物とたくさん並ぶ繰糸機に圧倒されます。   

寄宿舎。             

・・・      

「下仁田」。

                      12時少し前に到着。

⑩JR久留里線。8月10日(木)

(「ジョルダン」より)

《往路》・木更津 11:11→久留里 11:55 

    ・久留里 13:53→上総亀山 14:11(木更津から13:01発の列車)

《復路》・上総亀山 14:27→木更津 15:36  

「木更津」~「上総亀山」。

「久留里」駅構内。               

「古代からの贈り物『生きた水・久留里』」。 

「生きた水 久留里酒ミュージアム」。

       

館内。

     ずらりと各酒蔵のお酒が並び、けっこうお客さんも入っています。                      

⑪わたらせ渓谷鐵道―「桐生」~「間藤(まとう)」9月19日(火)。

わたらせ渓谷線は、足尾銅山から産出される鉱石輸送のために私鉄の足尾鉄道が敷設し、のちに国有化された足尾線が由来である。桐生駅から大間々駅までは市街地を走り、大間々駅から北の区間では、路線名の通り渡良瀬川上流の渓谷に沿って沢や支川を渡りながら谷筋を遡る。特に初夏の新緑と秋の紅葉の風景が美しく、臨時運行されるトロッコ列車では、風に当たりながら渓谷美を堪能できる。足尾地区では、本路線の建設目的であった足尾銅山の跡地や関連施設が沿線に残っており、一部が観光・見学施設として開放されている一方、廃止された旧足尾本山駅付近では、過去の歴史的な公害である足尾鉱毒事件の影響によりいまだにはげ山が連なり、異観を呈している。

渓谷が続きます。              

「渡良瀬橋」。

終着駅の「間藤(まとう)駅」。

         振り返る。

この後、改めて足尾銅山跡を訪問、さらに、足尾銅山鉱毒被害のため全村廃村になった谷中村(遊水池)を訪れました。

          「足尾製錬所」跡全景。中央が旧足尾線・ターミナル駅舎跡。

      

谷中村役場跡(休憩所)。

延命院共同墓地

⑫富士山麓電気鉄道(大月~河口湖)10月13日(金)

地元の人に交じって、大きなザックを背負った外国人がたくさん乗り込んできます。

     日本語よりも英語、中国、他の外国語と様々な会話が飛び交う。

富士急行線 (「ジョルダン」より)

山梨県大月市大月駅から富士吉田市富士山駅を経て南都留郡富士河口湖町河口湖駅までを結ぶ、富士山麓電気鉄道が運営する鉄道路線の総称である。駅ナンバリングを構成する路線記号はFJ。大月駅から富士山駅までの大月線(おおつきせん)と、富士山駅から河口湖駅までの河口湖線(かわぐちこせん)の2路線で構成されている。両線で一体的に運行されている。

  (この項、「Wikipedia」より)

大月駅から富士山に近づくように進み、標高差は約500mあります。

※ 往路は普通電車、復路はで(+400円)。

「富士山駅」から。

  

                                             

付①江ノ電

4両編成ですが、江の島駅付近からけっこう混んできます。

路面電車風に走るところも。

車窓からの湘南の海。

付②銚子電鉄

本銚子駅・駅舎内。

  (「もとちょうしえき」)

「上り調子・本調子」。

跨線橋から。

付③流山鉄道

路線図。

・「平和台」は開業時「赤城」。大昔の大洪水で群馬県赤城山の崩れた土砂が流れ着いて出来たものといわれている。また、流山の地名はこれに由来するともいわれている。

・「鰭ヶ崎(ひれがさき)」というめずらしい地名は、弘法大師が、突然、現れた竜の捧げた木で薬師如来を刻んだとき、竜の鰭の先が、すこし残ったのに由来するといわれている。

使用車両

「流星」 「流馬」 「銀河」 「若葉」 「なの花」
西武鉄道で使用されていた車両で昭和53年より順次購入しました。
この形式より編成毎に車体色を変え、お客様に投票をいただき愛称をつけました。
「なの花」が2両編成で他は3両編成でした。

「あかぎ」
西武鉄道で使用されていた車両で昭和62年に購入しました。
赤色にZ形の白帯が特徴で、ツリカケ電車としては最後まで活躍した編成です。
1200形とは床下機器に違いがあるため別形式としました。2両編成でした。

「流星」 「若葉」
西武鉄道で使用されていた車両で平成11年に購入しました。
編成毎に車体色が異なり側面のNラインが特徴です。
3両編成で初の発電ブレーキ付でした。

「流馬」「流星」「あかぎ」「若葉」「なの花」
西武鉄道で使用されていた車両で平成22年より順次購入しました。
編成毎に車体色が異なり側面のNラインとブラックフェイスが特徴です。全編成2両編成です。

「青空」 「明星」 「なの花」 「流馬」
西武鉄道で使用されていた車両で平成6年より順次購入しました。
編成毎に車体色が異なり側面のNラインが特徴です。この形式より冷房装置が搭載されました。
「青空」「なの花」が2両編成、「明星」「流馬」が3両編成でした。

流山南高校家庭科部装飾電車。      

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関東ローカル鉄(鐵)道線総集編。その2。⑤ひたちなか海浜鉄道。⑥関東鉄道常総線。⑦真岡鉄道。⑧上毛電鉄。

2023-11-01 20:57:19 | ローカル鉄道の旅

⑤ひたちなか海浜鉄道。8月2日(水)。

勝田~阿字ヶ浦。14.3㌔、乗車時間約28分。

ユニークな駅名標示。

現代アートプロジェクトの「みなとメディアミュージアム」(以下、MMM)で、制作されたアート作品です。
MMMを運営しているみなとメディアミュージアム実行委員会は、 「産(那珂湊地区商店街、ひたちなか海浜鉄道湊線)+学(主に大学教員、 大学院生、大学生)+芸(アーティスト)」からなる研究活動グループです。

芸術と地域の恊働でまちの地域活性化を図る活動として、ひたちなか海浜鉄道沿線を中心にアート展示を期間限定で開催しています。

「工機前」

もともとは日立工機(当時)の専用駅でした。きな工場や陸上自衛隊勝田駐屯地が続く。

          「金上(かねあげ)駅」ホーム。

『金上(金運を上げる)』という名前の通り、縁起の良い名前の駅として知られています。勝田からこの駅までの切符が"縁起のいい切符"として人気があります。

那珂湊「おさかな市場」。  

    

魚などの種類も多く、安くて量も多い。屋台では焼き蛤や牡蠣なども販売。

⑥関東鉄道常総線。取手~下館

 

              

 

「守屋駅」。駅前広場。            

つくばエクスプレスとの乗換駅。けっこう大きな駅になってます。乗降客も多い。

筑波山を右手に見ながら。

                   

⑦真岡鉄道。下館~茂木。途中15駅、所要時間1時間13分。11:10発、12:23到着。

田園風景が広がる。

 「真岡駅」。

「益子(ましこ)」。

現在、窯元は約250、陶器店は50。若手からベテランまでここに窯を構える陶芸家も多く、その作風は多種多様です。春と秋には陶器市が開かれます。

1924年、濱田庄司がこの地に移住し、「用の美」に着目した柳宗悦らと共に 民芸運動を推めるかたわら、地元の工人たちに大きな影響を与え、益子焼は 「芸術品」としての側面も、もつようになります。
 
※1「用の美」=飾らない美しさと、道具としての機能性を併せ持つ美しさ。 道具 は使われてこそ美しい という考え方。柳宗悦(やなぎ むねよし)による。民藝運動の創始者である柳宗悦は、生活道具として使われていた民藝品に新たな価値を見出し、“用の美”と称えた。
※2「民芸」=「民衆的工芸」の略語。        

「七井」。

「茂木」。

                     転車台。SLのための施設。

⑧上毛電鉄 中央前橋~西桐生 8月18日(金)

上毛電鉄「中央前橋駅」。

(「上毛電鉄」HPより)    

「富士山下」。

駅名の由来となった富士山(ふじやま)は、いわゆる富士信仰による各地の「富士山」のひとつで山頂には浅間神社もあるが、標高は160メートル、駅からの高さは約40メートルの小さな山であり、静岡・山梨県境の富士山(ふじさん)からは直線距離でも約130キロメートル離れている。しかし、その字面から外国人観光客が「ふじさん」の最寄駅と勘違いする事もあり、2013年(平成25年)に「ふじさん」が世界遺産に登録されると当駅の存在も合わせて注目されるようになった

渡良瀬川。

「はしる水族館」。

終点の「西桐生」駅に着きます。     

舎外観。      

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