自由か、さもなくば幸福か? ─二一世紀の〈あり得べき社会〉を問う (大屋 雄裕 著)
読んでいない本について語る資格はないのだが、「自由か、さもなくば幸福か?」というフレーズが気に入っている。
というのも、自由と幸福は、多くの場合、トレード・オフ関係にあると思われるからである。
ためしに、自由と幸福の関係について、「自由ではないが幸福である」典型と思われるペット(家畜)を例にとってみる。
「家畜」と言うと、私は真っ先に家猫を想像するのだが、つい最近、ある動画「暖房が壊れたので飼い主のお腹の上で暖まる猫がこちらです笑」を見つけた。
「もちまる」氏は、おそらく、いま日本で最も幸福な猫たちのうちの一人(一匹)であり、素晴らしい飼い主(「下僕」さん)に恵まれている。
食事には事欠かず、外敵に脅かされることもなく、飼い主の愛情をたっぷり浴びて安楽な生活を送っている。
まるで、下僕さんという絶対的な「神」を信仰し、その懐に抱かれた「信者」のようである。
そんな「もちまる」氏に欠けているものがあるとすれば、それは「自由」である。
家猫が自由を得たいというのであれば、飼い主のもとを離れて野良猫になるということなのだろうが、これはイバラの道であり、「幸福」にたどり着くのは至難の業だろう。
車や自転車、凶暴な人間たちから身を護らなければならず、食料(ネズミ?)は自分で手に入れないといけないし、寝る場所も確保する必要がある。
これでは生存すら容易でなく、到底「幸福」ではないし、「自由」どころの話ではない。
・・・こういう風に想像を膨らませていくと、家畜(あるいは社畜)の「幸福」が羨ましいもののように思えてくる。
読んでいない本について語る資格はないのだが、「自由か、さもなくば幸福か?」というフレーズが気に入っている。
というのも、自由と幸福は、多くの場合、トレード・オフ関係にあると思われるからである。
ためしに、自由と幸福の関係について、「自由ではないが幸福である」典型と思われるペット(家畜)を例にとってみる。
「家畜」と言うと、私は真っ先に家猫を想像するのだが、つい最近、ある動画「暖房が壊れたので飼い主のお腹の上で暖まる猫がこちらです笑」を見つけた。
「もちまる」氏は、おそらく、いま日本で最も幸福な猫たちのうちの一人(一匹)であり、素晴らしい飼い主(「下僕」さん)に恵まれている。
食事には事欠かず、外敵に脅かされることもなく、飼い主の愛情をたっぷり浴びて安楽な生活を送っている。
まるで、下僕さんという絶対的な「神」を信仰し、その懐に抱かれた「信者」のようである。
そんな「もちまる」氏に欠けているものがあるとすれば、それは「自由」である。
家猫が自由を得たいというのであれば、飼い主のもとを離れて野良猫になるということなのだろうが、これはイバラの道であり、「幸福」にたどり着くのは至難の業だろう。
車や自転車、凶暴な人間たちから身を護らなければならず、食料(ネズミ?)は自分で手に入れないといけないし、寝る場所も確保する必要がある。
これでは生存すら容易でなく、到底「幸福」ではないし、「自由」どころの話ではない。
・・・こういう風に想像を膨らませていくと、家畜(あるいは社畜)の「幸福」が羨ましいもののように思えてくる。