「演じるダンサーたちが言葉を発していないのが不思議なくらい、主人公たちの感情がいきいきと伝わってくる──それが物語バレエの巨匠ジョン・クランコによる「ロミオとジュリエット」の魅力です。巨匠美術家ユルゲン・ローゼによる2層構えの壮大な装置をあらゆる場面で効果的に使い、二つの 貴族の家の対立や、民衆のざわめきと貴族たちの威勢を巧みに対比させる演出。有名なバルコニーの場面から教会での結婚式、寝室での別れ、そして最後の墓室の場面まで、まるで恋人たちの語らいが聞こえてくるかのような主役たちのパ・ド・ドゥと演技。全編をとおして温かい感情に溢れ、胸をしめつけるような感動が押し寄せてきます。」
バブル時代、女性が結婚相手に求める条件として、「三高」(高学歴・高収入・高身長 )というのがあった。
そういう人たちにとって、「ロミオとジュリエット」の「一目惚れ」に始まる純愛は、冷静な判断を欠いた、幼稚で愚かなものに見えるのかもしれない。
だが、そう言う前に、「ロミオとジュリエット」における「一目惚れ」について分析してみる必要があるかもしれない。
これについては、原作(戯曲)とバレエ(クランコ版)でやや異なるが、基本的には、舞踏会場でロミオがジュリエットを見染めるという筋立てになっている。
ロミオとジューリエット(岩波文庫)(p55~56)
ロミオ あのご婦人はだれなんだ、あそこで騎士に手をとられているあの女(ひと)は?
使用人 存じませんね。
ロミオ ああ、なんて美しい女だ!おかげで炬火の光もいっそう輝いて見える。真黒なエチオピア人の耳もとに垂れさがっているきらめく見事な宝石のように、あの女は真暗な夜の頬を燦然と飾っている。
あの美しさはもったいなくて手も触れられぬ、立派すぎてこの世のものとも思えぬ!
まるで烏の群れの真中に下りた純白な鳩だ、仲間の女たちにまじっているあの女の姿は。
踊りがひとしきり終わったら、俺はあの女の所に行って、美しいその手に触れて俺のがさつな心を潔めてもらおう。
ああ、俺の心は今まで真実恋をしていたのか?俺の眼よ、誓いを取り消せ!
俺は今宵初めてほんとうに美しい女を見たのだ!
原文(Act1, Scene5)では、”shows” が決め手となる単語である。
つまり、ジュリエットの姿=「フォルム」こそが、一目惚れを惹き起こした要因なのだった。
言うまでもないが、これは言語ではないし、「高学歴」「高収入」のような社会的要因とも関係がない(但し、白衣を着て医学部出身であることをアピールしたり、ポルシェを乗り回して金持ちであることをアピールしたりする、などといった非言語的手法はあり得る。)。
このシーンを、シェイクスピアはややくどい言葉で表現したのだが、非言語的芸術であるバレエ(映画も)は、これを言葉ではなく、主にダンスで表現することになる。
これが、バレエ「ロミオとジュリエット」の見せ場の一つであり、クランコ版のコリオはこの点をよく把握していると思う
ところで、一目惚れを惹き起こすのが非言語的な要素であるとして、では、それは本当に「フォルム」だけなのだろうか?
「金髪のインゲ、インゲボルク・ホルム。高くとがって入り組んだゴシック式の噴水のある、あの中央広場のかたわらに住むホルム博士の娘が、16歳になったトニオ・クレーゲルの意中の人だった。
どういうきっかけでそうなったのか。彼はそれまでにも幾度となくこの娘の姿を見ていたのである。ところがある夜のこと、彼はある照明の下で彼女を見た。女友達と話をしながら、彼女は声をたててひどく陽気に笑った拍子に頭を横にかしげて、その手を、けっしてことさらほっそりもしていないし、けっしてことさら花車でもない小娘風の手をある種の仕草で後頭部へ持っていくと、白い紗の袖口が肘からずり落ちるのを彼は見た。また彼は、彼女がある言葉を、何かちょっとした言葉を一種の調子で口にすると、その声のうちに、ある暖かい響きがあるのを訊いた。と、ある恍惚感が彼の心をとらえた。」(p25~26)
「フォルム」だけではなく、「仕草」(Bewegung)、(特定の響き:Klingenの)「声」(Stimme)なども、一目惚れを惹き起こす要因となり得る。
つまり、前頭前皮質(記憶や言語を司る)ではなく、脳幹や身体に直接働きかけるようなもの(「三高」で言えば「高身長」?)が作用するのである。
なので、プロコフィエフには申し訳ないけれども、バレエでは、本来ならここで音楽も止めるべきだろう。
音楽が、「フォルム」と「仕草」(バレエでは「コリオ」と呼ぶ)以外の要因となって、干渉してくる可能性があるからだ。