Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

6月のポトラッチ・カウント(1)

2024年06月20日 06時30分00秒 | Weblog
 「第二部は武田孝史による能「籠太鼓」。松浦某の家来・関清次は喧嘩相手を殺害してしまったので牢に入っていましたが牢を破って逃げてしまいます。代わりに清次の妻が牢に入れられますが夫の行き先を問うても答えません。妻は夫恋しさに牢にかけた鼓を打ち鳴らして狂い舞いますが、それを見た某は夫婦ともに助ける事にすると、妻は正気に戻り隠れていた夫を尋ね探して仲睦まじく暮らすのでした。恋慕の余り狂乱となるのが主題ですが、夫の身を守ろうとする心の強い女性を描く、対話劇風に進行し緩急のある見せ場の多い演目です。」

 上演頻度は決して高くない「籠太鼓」(ろうだいこ)。
 題名のとおり、籠と太鼓という2つの小道具が登場するのが特徴的とされる。
 ストーリー的にはいわゆる「狂女物」の系譜に連なるが、解説の金子直樹さんは、清次の妻は狂気を演じている、つまり「佯狂」であると解釈する。
 そういえば、ハムレットは、ギルデンスターン&ローゼンクランツに対しては、
 「デンマークは牢獄だ
と述べて狂気の扮装を開始したから、「籠」に閉じ込められた清次の妻の「佯狂」という筋はあり得るだろう。
  さて、この演目が興味深いのは、罪人の親でも子でもなく、妻がターゲットとされているところである。
 「イエ」原理によれば、罪人とゲノムを共通にする「イエ」の構成員(親や子、きょうだい)は、問答無用で”連帯責任”を問われることとなる。
 「菅原伝授手習鑑」しかり、「熊谷陣屋」しかり、「ひらかな盛衰記」しかり…枚挙にいとまがない。
 だが、妻は夫とゲノムを共にしていないから、同じ根拠で”連帯責任”を問うことは出来ない。
 それでは、どういう根拠で「夫の代はりに籠舎」した、つまり、現代で言えば「人質司法」の手段を使ったのだろうか?
 
シテ(女)「・・・況んや偕老同穴と契りし夫の行方知らで 残る身までも道狭き なほ安からぬ籠の内 思ひの闇のせん方なさに 物に狂ふは僻事か
地謡「・・・無慙や我が夫の 身に代はりたる籠の中・・・花の間も添ひ果てぬ 契りぞ薄き灯火の・・・」
地謡「・・・五つの鼓は偽りの 契り徒なる妻琴の・・・」
地謡「・・・隠れし夫を尋ねつつ もとの如くに帰り居て 結ぶ契りの末久に・・・」

 最初、女は、
 「夫は我が身可愛さに、『偕老同穴』という私との『契り』を破って勝手に逃げた
と述べ、発狂する、あるいは狂気を演じる。
 これを見た清次の主君は、夫との『契り』の深さに心を打たれ、夫婦とも許すこととした。
 つまり、”連帯責任”の根拠は「契り」であり、かつ、罪を許す根拠もやはり「契り」だったのである。
 ここに、「主君のゲノムを守るため、自分や子を犠牲として捧げる」という、従来型の能・文楽・歌舞伎のメイン・ストリームとは異質の思考が現れているように思う。
 とはいえ、ここで対等な個人間の「約束」が含意されているとは断定し難く、妻の夫に対する・片務的な「奉仕」を意味している可能性もある。
 もしそうだとすると、この"契り"も、結局は「忠義としての自己犠牲」の一形態に過ぎないこととなるだろう。
 ところで、「身体拘束(人質司法)によって『契り』の深さを試す」例として、「芸能界大麻汚染事件」が挙げられる。
 但し、これは、「籠太鼓」とは正反対の結末となった。
 
 「77年9月29日、研ナオコのマンションにガサ入れがあり、3グラムのマリファナが押収された。そもそもの入手先は元恋人の男だったが、別れてからの入手先を追及されると、内藤やす子から譲り受けたことを自供したのだ。

 「籠太鼓」において、妻によるポトラッチは、主君の恩赦により未遂に終わったため、ポトラッチ・ポイントは0.5。
 
コメント
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