次の「義経千本桜」時鳥花有里は所作事なので、法学的・社会学的分析の対象外。
ということで、昼の部・最後の演目へ。
「ここに登場する主な3人は、杉酒屋の娘お三輪と恋仲の求女、その求女の元へ夜ごと通う橘姫ですが、『妹背山』は大化の改新をモチーフにしているので、実は求女は藤原鎌足の息子、橘姫は鎌足が滅ぼそうとしている入鹿の妹という設定です。
「すごいのは、すべてがお三輪の目線で描かれているところです。豆腐買にしろ、官女にしろ、お三輪とは話が全然通じない。お三輪も見知らぬ場所に来てパニックになっているので、相手の言うことがわからない。その孤独感、不安感がうまく表現されている。ですから、お三輪がかわいく見えればいいのではないかと思います」 」
「すごいのは、すべてがお三輪の目線で描かれているところです。豆腐買にしろ、官女にしろ、お三輪とは話が全然通じない。お三輪も見知らぬ場所に来てパニックになっているので、相手の言うことがわからない。その孤独感、不安感がうまく表現されている。ですから、お三輪がかわいく見えればいいのではないかと思います」 」
「鱶七の言うところの“疑着の相”になるわけですが、それを理由にお三輪は命を奪われてしまいます。
「刺された後に鱶七から、求女は藤原淡海であると聞かされる。そんなことを何も知らないお三輪が、藤原氏と蘇我氏の争いに巻き込まれ、鱶七の説明で納得して死んでいく。その人のためになったといううれしさになるのか、哀れさになるのか…。なさる方によって違うところですよね」 」
「刺された後に鱶七から、求女は藤原淡海であると聞かされる。そんなことを何も知らないお三輪が、藤原氏と蘇我氏の争いに巻き込まれ、鱶七の説明で納得して死んでいく。その人のためになったといううれしさになるのか、哀れさになるのか…。なさる方によって違うところですよね」 」
歌舞伎や文楽ではよくある男一人・女二人の三角関係。
お三輪は、嫉妬に駆られて”疑着の相”となったため、蘇我入鹿(藤原淡海の宿敵)を倒すための「生き血」を得る目的で殺された。
要するに、お三輪は、恋人である淡海のために殺され、「犠牲」に供された。
ここがこの演目の最大のポイントである。
「「疑着の相」というのは、嫉妬に狂ってなった恐ろしい形相のことです。・・・
「疑着の相」を顕わしたお三輪は殺されるのですが、殺されたお三輪の生き血は、帝位を奪った大悪人"蘇我入鹿(そがのいるか)"を倒すのに重要な役割を果たすのです。
まことに奇想天外というか、馬鹿馬鹿しい限りなのですが、そこは歌舞伎ですから許してしまいましょう。蘇我入鹿は、母親の胎内に白い牝鹿の生血を与えた験(げん)によって生まれた怪獣なのです。そしてこの霊力を持つ蘇我入鹿を倒すには、爪黒(つまぐろ)の鹿の血汐と、「疑着の相」ある女の生き血を鹿笛に注いでこれを吹くとき、入鹿は超能力を失ない、その虚を狙って入鹿を斬れば殺すことが出来るというものです。」
このあたりは、一般人には絶対に理解出来ない設定であり、”馬鹿馬鹿しい限り”という評は正当である。
早い話が、作者:近松半二は、「淡海のために犠牲となるお三輪」を描くために、無理やりこのような設定をひねり出したのだろう。
彼の作品においては、おそらくどのようなストーリー展開も可能であり、何が起きても不思議ではない。
・・・ここで私は、現代のある作家のことを思い出した。
「話のできる猫、未来を見通すカエル、謎の羊、消滅する象。時間移動、パラレルワールドの扉、消える語り手......。
これを読んで「もっと聞かせて!」と思った人は、きっと村上春樹の小説のファンだろう。逆に、わずかでも現実に起こりそうなことを書いた小説が好きな人なら、僕と同じく、あんなバカバカしくて不合理な話を、この分だと結末もまともではないなと思いながら何百ページも読む気にはならないはずだ。・・・
僕にとって村上の小説はとても長くて、信じられないこと(悪い意味で)が書かれているだけでなく、偉大な文学が持つ意義や洞察に欠けている。村上の読者は感銘を受けているのだろうが、僕はヤギの口から出てくる「リトル・ピープル」や、月が2つある世界を読むと、そこにどんな意味があるのか知りたくなる。何の意味もないのなら、奇妙さ自体に価値があるとされているわけだ。・・・
しまいに僕は、村上の物語に入り込めなくなった。何が起きてもおかしくない世界では、いくら物語が展開してもあまり衝撃を受け得ないからだ。物語の重要な場面に差し掛かり、主人公はどうなるのかと頭を悩ませていたら、彼が10年前の世界に飛んでしまったり、突然2000歳のキツネが登場したり......という経験を僕はしたくない。・・・
村上はジョージ・オーウェルやフランツ・カフカなど他の作家にさりげなく言及する。音楽家についても同じことをよくやっている(ヤナーチェクやコルトレーンなど)。ひいき目に見れば偉大な作家たちへのオマージュだが、シニカルに見れば自分が偉大な先人に近づいたことを暗に伝えようとしたり、彼らの名声を借りようとしたりする行為だ。」
私も、「バカバカしくて不合理な話」の意義を否定するわけではない。
時にはこういったもので脳のリフレッシュを図る必要もある。
だが、何百ページも読んで膨大な時間を費やしたり、安くないお金を払って鑑賞したりするというのは、出来ればやりたくない。
さて、コリン・ジョイスは、「ジョージ・オーウェルやフランツ・カフカなど他の作家」、「ヤナーチェクやコルトレーン」などの音楽家の名前がこの作家の小説に唐突に出て来る理由を、見事に指摘した。
要するに、こういう行為の根本にあるのは権威主義であり、心理学的に説明すると、防衛機制の一つである「同一化(同一視)」、「取り入れ」である。
同じことは、「近松」の姓を勝手に名乗った近松半二についても当てはまるだろう。
・・・というわけで、「妹背山婦女庭訓」三笠山御殿において、お三輪は淡海を救うためという理由で命を奪われ、”強制ポトラッチ”の犠牲者となったことから、ポトラッチ・ポイントは、5点:★★★★★。