① 「頭が痺れるような気持がしたので屋上にのぼった。眼下にはF市の街が灰色の大きな獣のように蹲っている。その街のむこうに海が見えた。海の色は非常に碧く、遠く、眼にしみるようだった。」(p29)
② 「医学部の西には海がみえる。屋上に出るたびに彼は時にはくるしいほど碧く光り、時には陰鬱に黝ずんだ海を眺める。」(p47)
③ 「海は今日、ひどく黝ずんでいた。」(p57)
④ 「闇の中で眼をあけていると、海鳴りの音が遠く聞こえてくる。その海は黒くうねりながら浜に押し寄せ、また黒くうねりながら退いていくようだ。」(p87)
⑤ 「眠っては眼があき、眼があくとまたうとうと勝呂は眠った。夢の中で彼は黒い海に破片のように押し流される自分の姿を見た。」(p88)
⑥ 「一日中船室の丸窓から東支那海の黒い海面が、浮んだり、沈んだり、傾いたりします。その海の動きをぼんやり眺めながら、わたしはああこれが結婚生活なんだと考えたものです。」(p95)
⑦ 「だが戸田は勝呂がそこだけ白く光っている海をじっと見詰めているのに気がついた。黒い波が押しよせては引く暗い音が、砂のようにもの憂く響いている。」(p193)
「海と毒薬」に出て来る「海」を網羅的にピックアップしてみた(もしかしたら見落としているものがあるかもしれない)。
①を除けば全て「象徴的用法」といってよいだろう。
②③の「黝ずんだ海」は人の死の予兆であり、典型的な「象徴的用法」である。
そして、③と④の間に、決定的な出来事が起こる。
「田部夫人の血液が突然、黒ずんだのに勝呂は気がついた。瞬間、なにか不吉な予感が胸にこみ上げてきた。・・・
彼は気がついたのである。血が黒ずみ始めたことは患者の状態がおかしくなって来た証拠なのだ。」(p69~70)
この直後、手術の失敗により田部夫人は死に至る。
田部夫人の死を境にして、海の色は「黝」から(死者の血液を示唆する)「黒」へと変わった。
同時に、「海」は擬人化(というよりはもはや人間化)される。
したがって、④~⑦の「黒い海」は、人間の内部に潜む「悪」という趣旨に理解するのが適切ということになるだろう。
ちなみに、私見では、狐狸庵先生は、「医学生」による独白のパートの、以下のくだりでちとしくじったと思う。
「ぼくは鞄をもって彼等の家を出た。湖は黒く汚れ、ゴム靴や材木の破片が浮いていた。その湖のほとりを歩きながらぼくは別に興奮も苦しさも感じなかった。」(p140)
大津に住む従姉のもとを訪れ、姦通を犯した翌朝の情景だが、「『海』の象徴的用法」の観点からすれば、ここはやはり「湖」ではなく「海」にすべきところだったと思う。
要するに、従妹の家を大津に設定したのがまずかったのである。