「5月9日(木)から、東京・シアター1010で『5月文楽公演』が上演されている。」
「襲名披露狂言『和田合戦女舞鶴』市若初陣の段は、・・・鎌倉幕府三代将軍・源実朝の時代に起こった、北条氏が和田氏を滅ぼした和田合戦の勃発を、未然に防ごうと働く人々の悲劇を描く五段の物語で、「市若初陣の段」は三段目に当たる。名高い女武者の板額は、主君の忘れ形見の命を助け、夫の意図を悟り、初陣に手柄を立てたい息子・市若丸の望みをかなえるために苦悩する。ひとりの女性として選択を迫られる板額の姿、そして晴れて手柄を挙げた市若丸を称えて人々が見送る場面が聴きどころ・みどころとなる。」
今月は、国立劇場の文楽が東京で開催されるというので、Aプロ・Bプロともチケットを購入。
Aプロの「豊竹若太夫襲名披露狂言」は、「和田合戦女舞鶴」の「市若初陣の段」。
余り上演されない演目で、東京では35年ぶりだという。
余り上演されないのには理由がある。
この演目のストーリーが極めて不健全だからである。
人間関係がややこしいが、将軍は源実朝の時代。
頼朝公(故人)と政子尼公の娘:斎姫を殺害した犯人:荏柄平太は逃亡し、その息子:公暁丸(きんさとまる)に追手が迫っている。
この追手の中に、主人公:板額(怪力の女武者という設定)の息子:市若丸がいる。
11歳の市若丸にとってはこれが初陣であり、
「公暁が首受け取らん」
と意気盛んである。
ところが、なぜか政子は、公暁丸とその母:綱手を匿っている。
公暁丸は、実は、亡き将軍:頼家の妾腹の子(善哉丸)であり、政子は、
「実朝に子のないゆえ、もしもの時は跡目にも」
と考えて、荏柄平太・綱手夫婦に託して育てさせていたのである。
つまり、公暁丸(実は善哉丸)は、将軍家(源家)の”ゲノム”を承継する人物であり、政子はこれを守ろうとしていた。
ところが、政子と雖も将軍(実朝)に逆らうことは不可能であり、公暁丸の首を差し出すことは避けがたい。
当の公暁丸は、
「我が命終はるは厭わねども、ともにとある婆様のお命が助けたい、よきに頼む」
と子どもらしく他人に決定権を投げる。
対する政子も、
「この子が助かる筋あらば尼が命は終はるとも助けてたも板額」
となぜか板額に救済を求める。
この時点で既に「犠牲強要」の匂いがプンプンするのだが、決定的なのは、公暁丸を追っている板額の夫=市若丸の父:浅利与一が、市若丸の兜の忍び緒をわざと解けるようにしていたことである。
「忍び緒を切る」というのは、戦で討死する武士が行うことであり、これは、浅利与一が板額に送った謎かけだった。
彼も、公暁丸が頼家の子であることを知っていたのである。
「離縁された夫の浅利与市が、市若丸を公暁丸(実は善哉丸)の身代わりにして殺せ、という謎をかけて、兜の忍びの緒を切って妻板額のもとに市若丸を遣わしたと知り、母として苦悩しながらも「涙を忠義に思ひかへ」て、市若丸に自ら腹を切らせように仕向ける。ここが、単に息子の命を惜しむという現代の感覚や母性愛と全く違う。彼女は忠義のためには何としても尼公の孫のであり前将軍の子である公暁丸の命を助けるために、我が子の命を差し出さなければならない。だが自ら手を下すに忍びない。そうした板額にできることは、武家の論理と母としての思いの葛藤から、市若丸を謀反人の子と思いこませることだった。周囲が聞き耳を立て、何が起こるかを注視している中での、板額の一人芝居。板額の声だけが響く中、市若丸は自ら腹を切る。まだ幼さが残る少年でありながら、武士としての名誉を守るために。そして死に際、板額は市若丸を抱えて、「何の荏柄の子であらうぞ。与市殿と我が仲の、ほんの、ほんの、ほんの、ほんの、本ぼんの子ぢやわいなう」と叫ぶ。そこに大勢の観客から自然に拍手が起こる。舞台と客席が一体となる喜び。豊竹若太夫、鶴澤清介、桐竹勘十郎、それぞれの芸が切り結ぶようであった。その余韻でしばらく、客席を立てなかった。」
板額は、(公暁丸の身代わりとして)市若丸を自らの手で殺すのは忍びなかったため、「市若丸は実は謀反人である荏柄平太との間の子」という虚偽を述べて市若丸を錯誤に陥らせ、自害させたのである。
それを受けた板額のセリフには呆れるほかない。
「・・・そなた一人が死ぬるとの、尼君様や若君様の命の替り。手柄も手柄大きな手柄。コレ潔う死んでたも。何の因果で武士の、子とは生まれてきたことぞ」
だが、「親が子を騙して犠牲に供する」というのは、悪質極まりない「寺子屋」(3月のポトラッチ・カウント(5))と比べても更に悪質であり、実際、長年この演目が批判されてきた理由もそこにあったようである。
さて、視点を変えて当時の社会を分析すると、前述したこの作品の真の狙いが見えてくると思われる。
”ゲノム”について言えば、江戸時代の旗本約5000名の相続人調査で約23%が養子であることが判明しており(日本経済史の新しい方法 : 徳川・明治初期の数量分析 p74)、「絶家再興」も認められていた。
つまり、武家において、「”ゲノム”の承継」はフィクションと化していた。
もっとも、このことを一般庶民はおそらく知らなかっただろう。
対して、農民等においては、「子殺し」が広く行われていた。
「世はなれ山深く住あたりには、子供一人弐人あれば、あとより生まるゝ子はせわなり費也とて、はらめるうちより呑薬さしおろし、又ハ安らかに生れ出たるを不便とも、かはゆいとも、悪き事とも、恥しき事也とも思はで、手づから返し=返は産子を殺す事=或は取揚うばといふ者をたのみて情なくも返す事在よし扨々いたはしき事にて、まことにおろか成る事ならずや。」(p64)
私がつねづね不思議に思うのは、歌舞伎や文楽に出て来る「身代わりとしての子殺し」の場面において、子供たちが例外なく「自発的に」死に赴くという点である。
10歳そこらの子供が「他人の身代わりとなって潔く死ぬ」などという事態の方がむしろ不自然だが、かといって、子供がじたばた暴れたり逃げたりするシーンは絶対に出て来ない。
そんなリアルなシーンが出て来ようものなら、観客は、罪悪感でその場に居られなくなるかもしれないだろう。
・・・作者の狙いは、明らかに、
「主君の”ゲノム”を守るため、潔く命を差し出す子供」
を登場させ、その行動を美化するところにあるのだが、これは、結局のところ当時の社会の現実を正当化(問題を隠蔽)することにほかならない。
なので、結果的には、① 武家における"ゲノム承継"の仮装、つまり養子制度の正当化、② 農民等における「子殺し」の正当化、に寄与することとなる。
もちろん、こうしたストーリーを、例えば近松が作ることは絶対にないだろう。
というわけで、「和田合戦女舞鶴」の「市若初陣の段」のポトラッチ・ポイントは、市若丸が公暁丸の身代わりとして死んだことから、5.0:★★★★★。