「【第4幕】
ロドルフォとマルチェッロは元恋人に想いを馳せて仕事がはかどらない。ショナールとコッリーネと共に騒いでいると、ムゼッタが瀕死のミミを連れてくる。皆で所持品を質に入れて薬代にしようとするが、時すでに遅く、ミミは、望み通りロドルフォの側で息を引き取る。」
ロドルフォとマルチェッロは元恋人に想いを馳せて仕事がはかどらない。ショナールとコッリーネと共に騒いでいると、ムゼッタが瀕死のミミを連れてくる。皆で所持品を質に入れて薬代にしようとするが、時すでに遅く、ミミは、望み通りロドルフォの側で息を引き取る。」
演出家の粟國淳氏「ところで、若い時は誰しも、人生経験や学問も足りないからこそ、何事にも形から入ろうとする傾向がありますね。マルチェッロの絵に対するこだわりもそうですが、コーッリーネにもそんなところがあります。
小難しいラテン語を引用しても、誰からも「フィロソフォ(哲学者)とは呼びかけられずじまいです。でも終幕で<外套のアリア>を歌い終わった彼は、ショナールに向けて「それぞれが出来ることをしよう」と告げますが、それは、コッリーネが本物の悟りを得た証なのです。だからこそショナールも思わず<哲学者よ、本当だね/Filosofo, regioni!>と応じます。とても印象的なシーンです。」(公演パンフレットより)
オペラを観る/聴くときは、ほぼ必ず事前に台本を音楽之友社の対訳シリーズ(オペラ対訳ライブラリー プッチーニ ラ・ボエーム)などで予習して臨む私だが、粟國さんが引用したくだりは不覚にもスルーしてしまっていた。
このオペラは、最終幕(4幕)のミミの”みとり”がクライマックスなわけで、当然4幕のやり取りは耳をダンボにして聴く必要がある。
やはり、自分のテキストの読みが甘かったと反省する。
「それぞれが出来ること」というのは、コッリーネにとっては古外套を売って耳の薬代に充てること、そしてショナールにとっては部屋を去ってロドルフォとミミを二人きりにしてあげることなのだった。