Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

限りなく低い「愛」のハードル(5)

2024年08月11日 06時30分00秒 | Weblog
(引き続きネタバレご注意!)

 「話がしたい」と思っているのは、主人公だけではなかった。
 再会した姉(?)ニーナは、
 「みんなどこかでお前のことを考えてたんだよ、ウィレム。お父さんもお母さんも毎日あんたのことを話してるわ
と告げる(何と、開幕から50分ほど経ってようやく主人公の名前が「ウィレム」であることが判明!)。
 そういうニーナもウィレムに饒舌に話しかけてくるし、ニーナの子供のアンカに至っては、すっかりウィレム叔父さんになついてしまい、やたらと話しかけるだけでなく身体をもたせかけてくる。
 ウィレムいわく、
 「俺に身体を預けて息を整えようとしている感じが好きだった。
 家族みんなが、ウィレムと「話がしたい」と思っているのである。
 そして、久しぶりに会う息子のために、母はオムレツを焼きに行く。
 記憶では、この前後あたりのタイミングでウィレム役は3人目の大石継太さんに交代したと思う。
 この後、ウィレム役の3人でセリフが2~3巡したという記憶である。
 もともとは約75分間の一人芝居だが、本公演ではセリフが4人に分割されているので、一人で全てのセリフを覚えなくて済むわけである(これも一人芝居を四人芝居にしたメリットの一つか?)。
 久しぶりの家族との再会だったが、忙しいウィレムはすぐニューヨークに戻らなければならない。
 実家を後にして空港に向かうウィレムを、ニーナとアンカが車で送るという。
 ウィレムはアンカの横に坐りたかったが、ニーナが助手席に座るよう命じたので、ちょっとむくれる。
 空港に着くと、
 「別れ際にニーナは、すごく優しいハグをした。
 私などは、この言葉に強く心を動かされる。
 これは、単なる「地の文」ではなく、パウリに宛てた手紙の中の一文、つまりメッセ―ジだからである。
 何もしなければ自分ひとりだけの経験にとどまる美しい瞬間が、言葉で表現することによって客観化され、他者とも共有可能な出来事となるのである。
 この芝居は、随所でこんな風に、「美しい出来事を美しい言葉で表現すること」の重要性を再認識させてくれる。
 また、このあたりになると、ウィレムの内面の変容が、観客にも見えるようになる。
 こうした現象は、小説では決して実現出来ないものである。
 一人になったウィレムが空港のバーで酒を飲んでいると、突然目の前にギターを抱えた若い男が現れる。
 ウィレムは思わず、
 「お前を見たんだ!
と叫ぶ。
 
 
 
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限りなく低い「愛」のハードル(4)

2024年08月10日 06時30分00秒 | Weblog
(引き続きネタバレご注意!)

 もともと一人芝居用に作られたこの戯曲を、演出家の桐山知也氏は、4人の俳優で演じ分けるスタイルに変えた。
 うち3人(既に挙げた2人と大石継太さん)は主人公役で、残る1人(溝口琢矢さん)はパウリの役である。
 この趣向について、桐山氏はこう語る。
 
 「この戯曲は、亡くなった弟のパウリに向けてウィレムが綴った数々の手紙によって構成されていますが、最後の一節を読んだ時に、彼は自分が書いた手紙を結局どうしたのだろう、と思ったんです。もしかしたら、ウィレムが10年20年と年を重ねてもずっと持ち続けている可能性があるんじゃないか、今もまだウィレムの手元にあるんじゃないか、と考えた。それが、俳優4人で上演したいと考え始めたきっかけです。」(公演パンフレットより)

 そういうわけで、主人公は、33歳、49歳及び63歳の俳優によって演じられる。
 ストーリーに話を戻すと、主人公役の2人目:伊達暁さんのお芝居は、パウリへの手紙を読むところから始まる。
 パウリの死を受け入れられない父は、かつてないほどに動揺し、泣きじゃくっているらしい。
 だが、パウリの死因が「遺伝性の心疾患」であったことが判明したことで、父は自身の疾患に気づき、検査を受ける動機付けを得た。
 「お前が死んだことによって、お父さんは自分は死ななくて済んだんだ
と主人公はパウリへの手紙に綴る。
 だが、冷静に考えると、死の危険を抱えているという点は、主人公自身にも当てはまるはずである。
 おそらく、この時点では、まだ主人公はパウリの死を自分とは無関係の問題としてしか把握出来ていないようである。
 ふと主人公は、ギターを弾きながら歌をうたうパウリとの関係がどうもうまく行かず、(記憶がやや曖昧なので不正確かもしれないが)
 「狩猟民族は、言葉を使い始める前に、まず歌をうたったと言われているんだ」
と言うパウリを理解出来ないまま、大した理由もなく仲たがいしたことを思い出した。
 そこへアイザックから主人公に連絡が入り、14年ぶりにアイザックと再会する。
 アイザックは主人公の恋人だったが、「うまく行かないだろう」と思って主人公は関係を断ち、アメリカに渡ったらしい。
 アイザックを前にして、主人公はこう述べる。
 「この14年間、ずっと話がしたかった。
 「俺の世界はすごく合理的なんだけど、君はそれを魔法みたいに不思議で美しい詩に変えてしまうー
 このあたりで、ようやく主人公は正常なルートに復帰し始めたように見える。
 すると、主人公は、パウリに手紙を書いている理由は、
 「俺が(お前と)話がしたいと思ったから
であることに気づく。
 実は、二人の仲たがいは、「話をしたい」という主人公に対し、パウリが「歌をうたう」だけだったことに発していたのかもしれない。
 この時点では、まだ主人公は、「歌をうたう」ことの意味を理解していないようである。
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限りなく低い「愛」のハードル(3)

2024年08月09日 06時30分00秒 | Weblog
(引き続きネタバレご注意!)

 主人公は、そこで知り合ったマルチエンヌ(?)という男から、
 「君が寝ているところを見てみたい。君の手が好きだ
と言われ、彼をロイドホテルに連れ込む。
 主人公は、死んだ弟の検視が行なわれているというのに、そちらには立ち会わないのである。
 ここでやや不吉な予感がよぎる。
 上のセリフからすると、マルチエンヌ(?)は、川端康成の「眠れる美女」(ネクロフィリア)や「片腕」(フェティシズム)の主人公と同じく、「人間を『客体』としてしか見ない」思考の持ち主、つまり「愛」からは程遠いところに棲む人物である可能性があるからだ。
 案の定、マルチエンヌ(?)からは、(聴き取り書きなので不正確かもしれないが)
 「炭素原子は全ての物質の基本だ。人間も死ねば炭素になるんだよ
という物騒な言葉が飛び出す。
 彼は、”死の欲動”に支配された、ちょっと危険な人物のようである。
 他方で、マルチエンヌ(?)は、
 「人類が信じられない。だって、赤ちゃんをゴミ箱に捨てるんだぜ!
とも述べる。
 彼は、どうやら人類に絶望しているようだ。
 マルチエンヌ(?)が去ると、主人公は、自分の財布から金が盗まれていないことを確認して安心し、そのことをパウリへの手紙に綴る。
 このあたりで、主人公は、金(ビジネス)とセックスとアルコールによる殺伐とした生活を送ってきたらしいことが分かる。
 すると、主人公の姉(?)のニーナから電話がかかって来て、父(大学附属病院の医師?)が学部長に昇進したこと、パウリの死因は”遺伝性の心疾患”であったことなどが告げられる。
 そして、このタイミングで、主人公は、次の二人目の役者(伊達暁さん)に交代する。
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限りなく低い「愛」のハードル(2)

2024年08月08日 06時30分00秒 | Weblog
(以下ネタバレご注意!)

 舞台上には、椅子に腰かけた一人の男(宮崎秋人さん)があらわれる。
 この男がこの芝居の主人公である。
 設定は朝のニューヨークで、忙しい時間に”地球の裏側”にいる母から電話がかかってくる。
 「パウリが死んだの。すぐ帰ってくるように
 パウリというのは主人公の弟である。
 弟の訃報に接した彼はこう呟く。
 「俺たちはみな生まれる。俺たちはみな死ぬ。なんでもないことだ。わざわざ何か言うほどのことではない。
 どうやら主人公は人生を諦観した人物のようであり、また、弟との関係性も深くはないようだ。
 早速主人公は空港に向かう。
 彼はヘッドフォンを装着するが、音楽を聴くのではなく「自分の息」に耳を澄ませる。
 ここは重要なところで、彼が自我の奥深く沈潜するタイプの人間であることを示している。
 どうやら彼は、他者との関係に問題を抱えているようだ。
 飛行機に乗ると、コニーアイランド上空に来るまでに3杯のカクテルを飲んだというから、彼はアル中のようである。
 飛行機が到着したのはアムステルダムで、ここが彼の故郷である。
 彼は故郷を離れ、ニューヨークの金融機関でエリートビジネスマンとして働いているのである。
 アムステルダムに着くと、彼は突然、
 「アイザックに手紙を書かなきゃ!
と思い付くが、この時点では行動には移らない。
 その後彼は、なぜか実家に帰らず、ロイドホテルにチェックインする。
 母親は実家に来るよう勧めたのが、主人公は、
 「どうせ家に帰っても、お前の部屋に泊まるしかないだろ?
という理由で拒否する。
 この時点で、主人公の独白は弟:パウリに対する語り掛けに変わっている。
 スタート地点はよく覚えていないのだが、主人公は、亡きパウリに手紙を書いており、それを朗読する形式で芝居が進行しているのである。
 ホテルに入った彼は、再びアイザックのことを思い出し、アイザックにメールを送るが、すぐには返信は来ない。
 次に彼は、シャワーを浴びてカクテルを飲むと、
 「シャワーとカクテルのおかげで、爽やかな気分になった
と呟く(やはり『アル中認定』は正しかった)。
 このあたりまでを見る限り、彼は、「感覚を重視し、自我の最深部に潜むことを好む、静かなエピキュリアン」のように見える。
 ところが、彼は単なるエピキュリアンではなかった。
 その後、彼はホテルを出て、街中にある、彼がかつてよく通っていたゲイバーへと向かう。
 

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限りなく低い「愛」のハードル(1)

2024年08月07日 06時30分00秒 | Weblog
 「英イングランド北西部サウスポートで29日にダンス教室のイベントに参加していた子どもが刃物で襲撃され、女児3人が死亡した事件を受け、現地で30日に反イスラムの大規模なデモが実施され、暴徒化した参加者が警察と衝突した。
 警察はこの襲撃事件についてテロとの関連はなく、殺人などの疑いで逮捕された17歳の少年は英国生まれだと指摘。それでもなお、極右団体が少年とイスラム教を関連付けた臆測をかき立てた。
警察によると、デモに参加した数百人がモスク(イスラム教礼拝所)に物を投げ始めて暴徒化。警察は参加者が反イスラムの暴力的なデモを実施してきた「イングランド防衛同盟」という団体と関連があるとみている。

 日本では余り大きく取り上げられないが、イギリス社会はこの事件で大きく動揺している。
 劇作家のサイモン・スティーブンスによれば、この状況は「1930年代のドイツ」と似ているという。
 そうした中で、襲撃を受けた(無辜の)モスクの関係者は、集まった人々に食事を振る舞い、
 「どうしてあなたたちはそのように怒っているのか、教えて欲しい
と対話を求めたらしい。
 この話を聞いて、スティーブンス氏は、涙を流して感動したという。
 このことから察知されるとおり、彼は、「対話」に第一義的な意義を見出しているのだが、このことは、彼の作品にもあらわれている。

 「空気がぴんと張り詰めたように澄みきった冬のニューヨーク。
 34歳のビジネスマン、ウィレムの携帯電話が鳴る。遠く離れて暮らす母親からの電話。
 弟のパウリが死んだ。アムステルダムに帰ってくるように、と。
 突然にこの世界から消えてしまった弟へ綴る手紙。疎遠になっていた家族、見失った愛、向き合いきれずにいる人生を巡る、決して忘れることのできない帰郷の旅が始まる––––––。

 これだけでは、この芝居のテーマは分からないと思うので、作者のコメントを引用してみる。
 「私たちは、自分の故郷であらゆるロマンスや感傷的なことを否定する男の物語を語ってみようと思った。金を稼ぐことを軸に自分というものを構築した男の物語が書けるかどうか。信じることができなくなってしまった故郷を逃れるために海を渡った男。都市や国を売り買いし、愛や死や誕生や希望といっった感傷的な考えを軽蔑していた男の物語を描きたかった。それからその男を、愛することができる、そしていちばん大事なこと、うたを歌うことができる男に変える。」(公演パンフレットより)

 要するに、「愛」と「うた」がこの芝居のテーマなのである。
 「うた」はひとまず措くとして、ここでいう「愛」は、西欧の伝統的な定義に従ったものと解釈してよいと思う。
 つまり、「愛」=「自我の相互拡張」であり、インタラクティヴであることが要となっている(「父」の承継?(9))。
 但し、この芝居における「愛」の概念は、通常私たちが考える「愛」と比べて非常に拡張されたものであり、いわばハードルは極めて低く設定されている点に注意が必要だろう。
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朝ドラから大河ドラマへ

2024年08月06日 06時30分00秒 | Weblog
 「紫式部が彰子のもとに出仕したのは、寛弘2年(1005)、もしくは寛弘3年(1006)の年末とされる。
 彰子が18歳か19歳、紫式部が33歳か34歳ぐらい(生年諸説あり。ここでは天延元年(973)説で算出)のときのことである。
 紫式部は、彼女の宮仕えの日記といわれる『紫式部日記』のなかで、彰子を「お気立ては非の打ち所がなく、洗練されて奥ゆかしくていらっしゃるのですが、あまりに控えめになさるご気性」と称している(宮崎莊平『新版 紫式部日記 全訳注』)。
 定子亡き後もなかなか懐妊の兆しがみられなかった彰子だが、寛弘5年(1008)9月11日、21歳のとき、難産の末、一条天皇の第二皇子となる敦成親王(後の後一条天皇)を出産し、道長を喜悦させている。
 彰子はさらに翌寛弘6年(1009)11月25日にも、第三皇子となる敦良親王(後の後朱雀天皇)を産んだ。
 道長は、道長を外祖父とする敦成親王と敦良親王を一刻も早く皇位につかせるため、一条天皇に譲位にするように、圧力をかけていくことになる。
 皇子を二人も産み、彰子もさぞかし安堵したことだろうが、それもつかの間のことであった。
 寛弘8年(1011)5月、一条天皇が病に倒れてしまったのだ。
 同年6月13日、一条天皇は皇太子であった36歳の居貞親王(冷泉天皇の第二皇子。母は、段田安則が演じた藤原兼家の娘・超子)に譲位し、居貞親王は三条天皇となった。
 皇太子になったのは、一条天皇が望んだ、定子の忘れ形見・敦康親王ではなく、彰子所生の敦成親王だった。
 彰子は一条天皇の意を推しはかり、まず敦康親王を皇太子とし、彼が皇位についた後に、我が子である敦成親王に継がせれば良いと考えていた。
 だが、道長は彰子に相談なしで敦成親王を皇太子としたため、彰子は父・道長を恨んだという(服藤早苗 高松百花 編著『藤原道長を創った女たち―〈望月の世〉を読み直す』所収 服藤早苗「第六章 道長の長女彰子の一生 ◎天皇家・道長一家を支えて)。

 私は、「光る君へ」を全くみていないのだが、先日たまたま外出先でテレビをつけたら、「紫式部と藤原道長は近所に住んでいた」という話が出て来たので驚いた。
 また、この番組の中で、磯田道史先生は、「紫式部は、道長の娘:彰子の家庭教師をしており、その教育のために『源氏物語』を書いた」という説を唱えており、これにも驚いた。
 というのは、吉海直人先生によれば、「源氏物語」のストーリーの根幹には、藤原摂関政治に対する批判があるからである(才能による復讐)。
 これを整合的に理解しようとすれば、次のようになるかもしれない。
 すなわち、紫式部は、道長に代表される摂関政治への批判を込めて「源氏物語」を書き、これを、ある意味では摂関政治の被害者でもある彰子に読ませ、彼女をいわば洗脳(ないし救済?)しようとした、というものである。
  ところで、「いけにえの姫」として入内したが、後に「天下第一の母」となり、87歳まで生きたという彰子の人生を概観すると、何だか既視感を覚えてきた。
 そう、懐かしの朝ドラ、「おしん」の一生にどこか似ているのである。
 なるほど、NHKは、かつての大ヒット朝ドラをとことんデフォルメして、このところ不振が続く大河ドラマのテコ入れを図ろうとしたのだろうか?
 もちろん、「光る君へ」を全くみていない私には判断出来ないのだが・・・。
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ナイスガイから恐竜への変貌、あるいは抑圧されたものの行方

2024年08月05日 06時30分00秒 | Weblog
 「親元を離れて、中高6年間は愛光学園の寮で過ごしたという。同級生の一人が当時を振り返る。 
 「さいちゃん(齋藤氏)とは寮で一緒にご飯を食べたし、お風呂にも入った仲ですけど、いい奴としか言いようがないですよ。頭も良かったし、スポーツも全般的にできました」(中略)
 「旧自治省系は警察の次に上意下達の縦社会。組織自体がパワハラの塊です。加えて、総務省にカネを握られているものだから、各県庁の職員は中央から派遣されてくる総務官僚に文句を言えない雰囲気がある。若くして地方で重要なポストを務めることで、勘違いしてしまう人がいるんです」  
 総務省の独特な土壌が齋藤氏を形作ったと示唆するのだ。

 パワハラ問題で話題の兵庫県知事は、中高時代の同級生によれば、「いい奴としか言いようがない」人物だったらしい。
 つまり、彼は、高級官僚に多いとされている、もともと自己愛性人格障害を抱えている「パワハラ加害者予備軍」(職業と人格障害)ではなかったようなのである。
 それが、知事就任に伴い”恐竜”への変貌を遂げたらしいのだが、その原因は、やはりこれまでの職業生活にあったと思われる。
 おそらく、想像を絶するような”シゴキ”を受けてきて、それを長年抑圧してきた結果、彼のサディスト的本能が覚醒してしまったのではないだろうか?(抑圧されたものの行方
 もっとも、これは決して珍しいことではない。
 サラリーマン社会でよく見かけるのが、
 「鬼上司の”シゴキ”を受けた部下が、管理職になった途端に同様の”シゴキ”を実践する
というやつで、こうなると殆ど部活と同じであるが、いずれも「攻撃者(あるいは攻撃そのもの)との同一視」 のカテゴリーに入るだろう(抑圧されたものの行方(2))。
 こうした攻撃性はおそらく多くの人が隠し持っているものであり、かく言う私も例外ではない。
 ごく稀ではあるが、かつて私に恥辱を与えたり嫌がらせを行ったりした人物の顔が脳裏に浮かぶと、とある国の「第一書記」に就任し、その権力を使って、憎い人物を”粛清”してしまいたくなる衝動が、心の奥底に潜んでいるのを感じることが全くないわけではないからである。
 ・・・こうやって見て行くと、やはり、”シゴキ”は害悪でしかないという気がする。
 ”シゴキ”を受けて、それを抑圧してきた人物の中には、それを他者に転嫁してしまう人物がいるのだが、この攻撃をまともに食らった人は、心身に変調を来したり、自死したりしてしまうのである。
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クール・アイランド

2024年08月04日 06時30分00秒 | Weblog
 「私たちの体は、夏になると体内での発熱を抑制し、さらに熱を逃がしやすい体質に変化します。毛細血管を広げ放熱しやすくし、汗をかいて体温を下げようとします。しかし、その夏の体質のため、冷房の効いた室内にいても、血管が縮みにくいため体内の熱が逃げすぎて「冷え」たり、外出先との激しい温度差によって自律神経のバランスが崩れています。自律神経は体温調節や発汗などのコントロールをしていますので、バランスが崩れると「冷え」に対しての抵抗力が弱くなってしまいます。足腰の冷え、だるさ、肩こり、頭痛、食欲不振、神経痛、下痢、不眠など・・・「冷え」によって起こる様々な症状が冷房病と言われるものです。

 暑さ対策は大事だが、クーラーでキンキンに冷やした部屋に一日中こもっていれば、健康な人でもクーラー病になりかねない。
 しかも、私の知る限り、クーラー病は治るのに時間のかかる病気なのである。
 というわけで、クーラーは必要悪だと考えて、使用するのは必要最小限にするのが賢いやり方だろう。
 もっとも、そうすると、居場所の選択という難しい問題にぶつかることになる。
 この時期、どこに行っても屋内はガンガンにクーラーが効いているし、かといって、街に出るとサウナのような暑さだからである。
 とはいえ、消去法で行くと、「クール・アイランド」は、屋外の、「アスファルトのない場所」ということになりそうである。

 「新宿御苑では、夕方の時間を冷房に頼らず涼しく過ごしていただくことで、地球温暖化防止に少しでも役立てようと、8月末まで開園時間を1時間延長しています。
 涼しい風の通る新宿御苑の木陰で、御苑の夏ならではのクールアイランドの効果をお楽しみ下さい。

 15年以上前の古い記事だが、ここでは、新宿御苑が「クール・アイランド」の一つに挙げられている。
 だが、エビデンスに照らすと、もっと涼しいところがあるようだ。

 「水元公園
 小合溜(池)に沿って造られた水元公園は、都内で唯一の水郷の景観をもった公園です。
 園内には水辺に強い樹木が生育し、また水生植物も多く見ることができます。
 水辺の涼やかさを感じながら遊べるスポットがいっぱいの水元公園は、夏のお出かけにぴったりの名所です。

 「メタセコイアの森」付近の日陰は、何と20℃前後の涼しさである。
 ・・・余り宣伝すると人が集まって気温が上がるだろうから、本当は隠しておきたいところなのだが・・・。
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ダブル・スタンダード解消策

2024年08月03日 06時30分00秒 | Weblog
 「今年1月末、パレスチナ自治区ガザで、イスラエル軍の攻撃を受けた車に取り残され、電話で助けを求めていた6歳の少女ヒンド・ラジャブちゃんが、12日後に遺体で発見され、彼女の救助に向かった赤新月社の救急隊員2名も死亡した事件が改めて注目を浴びている。国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)は、今月19日の声明でヒンドちゃんと彼女の家族、救急隊員2人の殺害を戦争犯罪であるとし、当時イスラエル軍は現場にいなかったとするイスラエル側の主張を「受け入れられない」と非難した。

 ジェノサイドというしかない痛ましい状況が続いているものの、IOCは「政治問題には関わらない」という根拠で、イスラエルをパリ五輪から排除しなかった。
 他方で、ロシアとその同盟国ベラルーシの選手は、国を代表して五輪に参加するのを禁止されている。
 そこで、これは「ダブル・スタンダード」(二重の基準)なのではないかという批判が出ている。

 「パレスチナオリンピック委員会(POC)のジブリール・ラジューブ(Jibril Rajoub)会長は25日、イスラエル選手団のパリ五輪出場を認めたのは、国際オリンピック委員会(IOC)によるダブルスタンダード(二重基準)だと批判した。

 やはり、これはダブル・スタンダードに当たるというのが自然な見方ではないだろうか?
 「政治問題には関わらない」というスタンスを徹底させるのであれば、ロシアとベラルーシにも参加資格を認めるべきということになるはずだからである。
 ちなみに、コンラート・ローレンツによれば、スポーツにおける「国家間の競争」は、
 「互いに「個人的に」知り合うことができ、「同じ理念」へ熱中させることで「熱狂」の一体化作用を呼び起こすため、「攻撃性」を抑制する力になる
という(根本原因(13))。
 これが正しいとすれば、ロシアとベラルーシにも参加資格を認めるべきということになり、そうすれば、ダブル・スタンダードという批判を免れることも出来るだろう。
 パレスチナの被害者の方々(国連や赤十字関係者等を含む)に合掌。
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論点ずらしに騙されない

2024年08月02日 06時30分00秒 | Weblog
 「(国沢光宏さん)やはりユーザーの方はそこが一番心配だと思うんですね。不正とか改ざんとかいうふうに言われると、自分の車は大丈夫なのかとなると思います。今回発表されたデータを見ると、精査してみたんですけど、いずれも安全性には影響ないなというふうに判断できるような内容でした。
 「(国沢光宏さん)これは追突の燃料漏れを試験する内容です。日本で走っている車は小さいので1100kgでやるんですけど、アメリカとかは大きな車が多いので重い車でやるんですね。重い車で燃料が漏れなければいいということで。トヨタはアメリカにも車を売っているので1800kgでやったと。これで問題なかったので、本当は1100kgとかやんなきゃいけないんですけど、時間がないとか、認証ってすごく時間がかかるので締め切りがあるので、とりあえず1800kgのデータを出してしまったと。これが不正・改ざんということになります。
 「(国沢光宏さん)今回こういう騒ぎになると、やはり見直しした方がいいんじゃないかという声がたくさん出てくると思うんですね。今まではヨーロッパとかアメリカみたいに開発スピードがそれほど高くないところが相手だったんですけど、今後は中国とか韓国みたいに開発速度の速い国と勝負するには、認証制度をもうちょっと簡素化して早くできるようにした方がいいと思います。それを今後ちょっと話し合っていくべきだというふうに思いますね。

 メーカーに全面的に好意的な発言に終始し、かつ、次々と論点をずらしていった挙げ句、「日本がどう栄えて行くか」にたどり着いてしまった自動車評論家。
 一般消費者としては、この種の議論に騙されないことが肝要である。
 私見では、今回の件は紛れもない「不正」であり、その程度も「重大」である。
 前提として押さえるべきは、この問題の背景には、「官による外部検査」から「民による(自主)検査」という大きな流れがあることである。
 「型式指定」の手続も、おそらくかつての「金融ビッグバン」における「自己査定」や建築確認における「指定確認検査機関」などと共通していると思われる。
 ここで決定的に重要なのは、「「民」がゴマカシをしない」ということであり、外部者によるものでない「自己査定」や「自主検査」であっても客観性や透明性が担保されているということである。
 この観点からすれば、
 「1800kgで検査して大丈夫だった。だから、このデータを1100kgで検査したものとして出しても構わんだろ?安全性に問題はないんだから
という思考は完全にアウトであり、弁解の余地がない。
 「安全性に問題ないので、これで大丈夫」という判断を、”検査主体自らが行った”ことにより、当該制度の客観性や透明性が損なわれたことが致命的な問題なのである。
 なぜなら、こういうことが「自己査定」や「自主検査」で行われるようであれば、「「民」がゴマカシをしない」という基本的な前提が揺らいでしまうからである。
 さらに、この問題の根底に「コスト削減圧力」があるのだとすれば、この種の不正を行う集団は、反対方向、つまり「安全と見せかける方向」にも不正を行いかねないということになる。
 なので、
 「「制度」と「現場」にギャップがある、この制度自体をどうするのか議論になっていくとよい、不正の撲滅は無理だと思いますよ
などという発言は、論点ずらし目的の発言と受けとめられても仕方がないだろう。
 こういう言い分があるのであれば、最初から国交省に提言していればよかったのである。
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