「りんご」と聞いてイメージするもの
A 青森県、長野県、りんご狩り、サンフジ、つがる、王林、秋映え、しなのスイーツ
野口五郎、
B 青森県、長野県、りんご狩り、サンフジ、つがる、王林、秋映え、しなのスイーツ
野口五郎 アップルレコード、 ビートルズ、アップルコンピュータ(Mac、iPhone)
ニュートン、トロイア戦争、ウイリアム・テル、エチレンガス
人の知識はこのようにてAとBに差があることは珍しくない
単に知識量が違うだけなら良いが、問題はそれから生じる判断も違ってくることだ
多くのことが頭に入っていると、物事の事実、危険性、実現可能性などを
知らず知らず思い浮かべて慎重な判断を下す
そしてその理由を理屈っぽく口にする(この説明が一部の人には嫌われる)
ところがそうでない場合、眼の前の出来事のみで反射神経的に判断を行ってしまう
そこに感情的なものとか正義感は含まれると手に負えなくなることがある
まして同じような考えを持っていると感じる人が周りにいるとなると
それは数の暴力にもなりうる
最近気になるのは、こうした背景知識の差が社会の分断の理由の一つではないか
と思えることで、以前からの経済格差だけでなく、こうした文化的な差も
無視できないように感じる
(尤も文化的な背景の違いは辿っていくと経済的な差によるものの可能性は否定できないが)
トランプさんもその支持派も、斎藤知事、立花孝志支持派も自分たちの主張の正当性
(ファクトチェック)にはどうも関心がないようだ
問題は彼らの言い分が効果的な否かだけで、事実か否かは関係なく感情に煽られて勢いづいてしまう
(トランプ支持者潜入一年にはその傾向が書かれていた)
その危険性を感じる人々は、せめてファクトチェックだけはしようと口にしても
いろんなことを知っている人を病んだエリート層として、そこには利権があると
勝手に判断して全否定をしてしまう
そしてオールドメディア対SNSの戦い、利権対革新などの単純化された
強引なカテゴリー分けで自己の正当化を行う
確かに、エリートに対する怒りはアメリカも日本も存在するようだ
そのエリートとは高学歴、高収入企業人、政治家、官僚があげられて
それらを馬鹿にすることで自己の精神的なバランスを保っているような気もする
人は少なからず、承認欲求を持っている
だが大半の人間はそれを公に訴えることなく、あるときは自分を抑えて
また諦めて過ごしていく
しかし、それでも内にくすぶる小さな火を消すことができない場合は
どうしてもウケ狙いの行動にでてしまうのではないか
トランプ大統領があのような行動に出るのは実は
「アメリカを再び偉大に」のためではなく、自己の承認欲求のせいではないか
と思ってしまう
そしてその承認欲求は、神の如くの全能感という感覚でのみで果たされると
思っているのではないかと自分には思えてしまう
ところで「大衆の反逆」の中でオルテガは
高学歴とか高収入とか社会的な立場による分け方ではなく
自らの内面的な声に従って自己を高みに向かう人たちをエリートと定義づけている
いかにもヨーロッパ人の発想と思えないこともないが
社会の声なき大衆もこうした内的な熟成があればいいなと心底思う
またもや、まとまらない話