パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

ベートーヴェンにも付けさせてあげたい!

2009年11月06日 21時26分16秒 | Weblog
今時の補聴器は凄い!
先日機会があって、ある補聴器屋さんに寄ったときの事

お客と思われる老人と店の人が普通の話し方で
普通に会話していた
特に大きな声で話すでもなく、
聞き返す事もなく
また返事が遅いという事もなく
ごく一般的な会話がそこには成立していた

これはちょっと感動ものだった
補聴器と言えば、祖父が使っていた時は
キーキーうなったり、付けづらそうだったり
また性能的にも芳しいものではなかったようで
あまり良い印象は持っていなかったのだけれど、、、

このご老人、後で聞くところによると78歳とのこと
歳の割には元気でハキハキしていたのだが
これも音のある生活を普通にできているからかもしれない

もっとも店の人も、自分たちが驚くほど
補聴器はここ5年くらいが凄く進歩した
という事らしい

話は変わって昔ドイツに行ったときの事
ボンのベートーヴェンハウスには彼にゆかりのあるものが
展示してあったが、今でも強く印象に残っているのものに
大きなラッパ状の補聴器がある

細い部分を耳に差し込んで、大きく広げた花のような部分で
集めた音を聞く様にしているもので
展示されているものは確か1つだけではなく
何種類かあったような気がする

そしてそれを眺めた時には
音に対するベートーヴェンの凄まじい執念みたいなものを
感じずにはいられなかった

今の時代にベートーヴェンが生きていたら
この補聴器に彼はどれだけ喜んだ事だろう

デシタル機器の進歩、科学の進歩
全部が全部良い方向に進んでいる
とは言えないかも知れないけれど
少なくとも補聴器に関しては
人々の暮らしに多いに役立っている
(金額的に高価なのがちょっとばかり辛いところ!)
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浜松モザイカルチャー博の評価は?(想像力の事)

2009年11月05日 20時15分19秒 | Weblog
11月23日迄の浜松モザイカルチャー博
周りにはこのイベントを知らない人が多いけれど
出かけた人もボチボチ

さてこの博覧会、行った人の評価は?

自分は楽しかった
もう一度行っても(来ても)いいかな!
と思ったくらい
もっともモザイカルチャーを楽しんだか?
と言えば必ずしもイエスとは言えないかもしれない

よかったのは会場の環境
会場がフラワーパークというだけあって草花にあふれ
木々にも囲まれ森林浴もでき、本当にのんびりできた
それで高評価になったわけだけれど
残念ながら自分とは反対の意見の人が
多いのもこれまた事実

退屈だった!
物足りない!
それも分からないでもない
確かに最初の幾つかを見れば、徐々に感動は薄れて
後はパターン化されたものを見るだけに終始してしまう

しかし、考えてしまう事が少し!

この退屈だったとか、物足りない!と思う人々は
(人はそれぞれいろんな感じ方をするのを認めた上でも)
楽しむという事に受動的になっていないか?

対象を見て、何かを感じ、何かを考える
といった自発的なものではなくて
強い刺激、退屈しない仕掛けで働きかけてくれないと
楽しむ事ができなくなっているのではないか?

これは大げさに考えると、
想像力の欠如に結びついていかないか?

想像力を働かして、見えている以上のものを楽しむ
これはある種の人にとってはこの上ない楽しみだけれど
別のタイプの人には唯面倒の思えるだけ

そもそも何かを楽しむには
楽しみが向こうからやってきて
何から何までやってくれるなんてのは
それが一般を対象にしている為に分かりやすくする
そしてその事が軽いものにしてしまい
深みがなく、つまらなくなる事がある

つまり誰にでも分かるようなものは、つまらない
分かる人にしか分からないような仕掛けがしてあったり
工夫が施されているもの
そうしたものの方が実は面白いのではないか?

楽しまさせてもらう
のではなくて
自ら想像力を働かせて楽しむ!
この力を養うには、今の季節の定番の言葉
「読書」が最適!
と結論づけるには独断的で少々強引?
(いつもの事?)









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チェンソーアートのフクロウなど

2009年11月04日 20時10分28秒 | Weblog

昨日、東栄フェスティバルで行われたチェーンソーアートの実演
その時作られたものではないが、展示販売されていたものが
このフクロウ
始末屋なのだけれど、フクロウ好きの同居人
珍しく勢いに任せて「えいやっ!」と購入



フクロウは、音が福を連想させるから縁起のいい鳥として
我が家には至る所に鎮座している
(玄関に、茶箪笥の中に、寝室に、和室に)



玄関でかわいらしく出迎えてくれるのは
ある石屋さんからいただいたもの



上のフクロウは掛川花鳥園で土産に購入したもの

まだまだ、家には
南部鉄でできたフクロウ
ガラスでできたフクロウ
ズグソーパズルみたいに木でできたフクロウ
本当にフクロウだらけ

 そう言えば、我が家には姪から指摘されたのだが
 時計もフクロウに負けず至る所にある
 食堂に2個 リビングに1個
 和室に1個 トイレに1個 脱衣所に1個
 お風呂に1個 寝室に1個 パソコンルームに1個
 残念な事に全部同じ時間を指しているかと言えばそんな事はなく
 電波時計の猛烈に正確なもの2つを除いて
 大概が5分くらい進んだまま

しかし、ここまで多くなると
なまじっかフクロウの収集に拍車がかかりそう
それは始末屋の同居人のささやかな楽しみでもあるし
それらを眺める自分も結構気に入っている

次はどこで、どんなフクロウ見つける事やら?
そして、そんな事を思う毎日が
長く続けばいいのだけれど!


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田舎の人はやさしい

2009年11月03日 20時50分44秒 | Weblog
愛知県の東栄町フェスティバルに出かけた
毎年地元の商工会が中心になって文化の日に開催され
特産品の販売や紹介
伝統的な無形文化財「花祭り」や
チェーンソーアートの実演等が行われる

11時くらいに現地に着いたのだが
幸い駐車場の確保に困るほどではなく
狭い会場をササーッと回って、さて腹ごしらえ

そんなこんなするうちに
ブースの前で忙しく働いているお母さん方
お父さん、青年や娘さんを見て
不意に気づいたのは「みんないい顔しているな」という事
のびのびとおおらかで、ちゃんと生活している人の表情だ

勿論過疎の中、大変な事もあるだろうし
解決しなければならない問題は数多くあるだろう
しかし、傍目から無責任に見ている所為かもしれないけれど
少なくとも毎日あくせく働いているような(?)
都会の人よりは柔らかな顔つきだ

実際、何か物を買う時にも、物を尋ねた時にも
彼らは善意丸出しで、とてもやさしかった

昼から地元の小学生の合唱があったけれど
子供たちの表情が本当にすばらしかった
歌がうまいとかハーモニーがどうのこうのという前に
みんながとても仲が良くて、お互いに信頼し合っていて
一人一人が表情豊かで
楽しい事、辛い事を適度に経験しているようで
つまり無理のない成長をしているかのようだった

「田舎の人はやさしい」
多くの人が感じるこの事が
都会に人にはできないように思えるのは何故か?

都会の人は忙しくて余裕がない
世間の荒波に、戦いに明け暮れているから?
しかし、人間性を失うまでの犠牲を払ってまで
得なければならない事等は
そんなにあるのだろうか?

と、この頃考えてしまう



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猛烈な進歩

2009年11月02日 22時11分48秒 | Weblog
1999年11月 スケルトンのiMac購入
CPUは350MHzのもの HDは確か6GB メモリは256MB
正直なところ使いきれずに、埃を被る運命にある可能性も
あったので一番低価格のものを手に入れた

始めはセットアップにも汗だくだく
セットアップ終わるまで電源を切ってはいけません
というもののマニュアル書はないし
それまで触ったこともないし
何がなんだか分からず悪戦苦闘

そんな日が2ヶ月ほど続いた
昨日できたことが今日出来ない
出来るはずなのに!
あてずっぽうな試行錯誤の繰り返し

みんなが使い出したインターネットも
電話回線を通じてのもの
スピードは遅いし電話料金も心配だし
妙なNTTの料金プランに入ったりした

ところが10年後の現在
同じiMacでもCPUは2.66GHz HDは350GB
DVDの書き込みもできるし
インターネットもブロードバンドで定額料金制

毎日の変化は少しでも
こうして時を区切ってみるとこの10年
猛烈な進歩というか変化が起きている

特にインターネットはブームというより
便利なツールとして
またそれ以上の存在として日々変化している
Googleだって10年前は存在してた?

今では高齢者のパソコン教室もあって
簡単なことなら、それなりにこなす老人もいる

パソコンンの普及率がこれだけ高くなると
そして企業のホームページが当たり前になると
想像していた世界とちょっとばかり違った様相を呈してくる

ネットショップはロングテイル 
つまりとんがった商品こそが商売になりやすい
クリック率数パーセントでは地元相手に
ネットで商売しても意味はないと思われていたのだが
それが電話と同じくらいの普及率になると
企業のホームページはいわば電話帳広告
みたいな存在になっている

何曜日が定休だった?とか営業時間は?
お勧めは何だったかな?
そんなものを 近くの企業、商店でも
ネットで調べるようになっている
つまりネットはもう電話と同じ存在だ

それにしても価格のこともさることながら
このコンピュータ、インターネットの進歩、変化は
凄まじい
願わくばこの変化が
人々の生活が(精神生活も含めて)真に豊かになるように
良い方向に向かっていけばいいのだが
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