パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

夏は朝!

2017年07月16日 08時43分14秒 | 徒然なるままに

枕草子では「夏は夜」が、をかし!ということになっている
月が出てる時も出ていないときも、ホタルの飛び交っているのは
趣きがある、、、というのだが

自分は夏は圧倒的に朝!だな
夜なんて蒸し暑くてたまらない
エアコンをつけるのはどこかもったいない気持ちが働くし
誤魔化すためにアルコールの力を借りても直ぐに口が渇くみたいで
とにかく時間を潰すのにも苦労する
ましてパソコンに向かってなど、、、無理(エアコンのない部屋なので)

夏の活動時間は  朝  だけ
しかし、早起きすると、朝ごはんの後には眠くなる
ほんと、怠け者を実感

今はまだ小学校の夏休みにもなっていない
この先を考えるとゾッとする
やれやれ

 

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祖父のこと

2017年07月14日 09時17分07秒 | 徒然なるままに

先日祖母のことを取り上げので、片手落ちにならないように祖父のことも
(おじいいちゃんは、やっと安心してくれるかな)

祖父は大工さんだった
そして子供の頃は、気難しい人だと思っていた
なにしろよく怒られた
「ゴソゴソするな!」
これは食事のとき、いつも言われた
(そんなこと言われたって、、、)

ところが、自分や妹が中学や小学生の高学年になると
祖父の印象はすっかり変る
祖父は一気にひょうきんな、優しい、面白い人に様変わりする

「おい、今からあみだくじをするぞ、お金は俺が出すから
 当たった人はお菓子を買いに行ってこい」
こんなことが何回も続いた(あみだくじをするのは自分と二人の妹と)
だから妹たちと祖父の思い出話をすると決まってこの話題が出てくる
「おじいちゃんとあみだくじって、よくやったよね、、」

このあみだくじの話の他に、あと2つ祖父の可愛らしいエピソードがある
お酒を飲まない祖父は、年に一度(多分正月時期)競艇に出かけた
本当は多趣味の人だったが、自分たちが知っているのは競艇に行く祖父で
そんなに熱くなることもなく決まった金額で一日楽しんでくるのだった

それがある時、運の良い日だったらしくお土産を買ってきた
「これ、お母ちゃんに(母に)」
と言って、小さな白い小瓶に入ったクリームのようなものを渡した
母は単純に喜んだ
早速、ふたを回しながら中身を確かめようとした

「きゃー!」
突然、母のびっくりした大きな声が聞こえた 
何事が起きたのか、、

でも直ぐに、その驚きは笑い声に変わった
母も妹も自分も大笑いした
小さな小瓶の蓋を回して出てきたのは、バネじかけの蛇のようないたずら人形
お化粧用のクリームだと思ったものは、びっくり箱だった 
まさか、真面目一筋みたいな祖父がこんなことをするとは、、
おじいちゃんって、かわいい人だな、、子供心に思ったものだ

その声はお風呂から聞こえた
「おい、浴槽に泡が出っぱなしで収まらんぞ、、」
祖父が何やら叫んでいる
「何をしたの?」
自分とか妹とか母の尋ねる声
「入浴剤を入れただけ、、この緑の、、、」

その当時、時々お風呂にはバスクリンを入れることがあった
祖父とすればいつも入っている入浴剤を、たまには自分で入れようとしたのだが
祖父が手にしたのは、、、、

「おじいいちゃん、それ違う、、、」
 祖父が手にしたのはバスクリンではなくて、緑色したシャンプーだった
だから泡ばっかりでてくるんだ
「おじいちゃんたら、、、」

この出来事も、妹たちと祖父の話をするときに必ず出てくるエピソードだ

幸い我が家では、世間でよく見られるという「嫁としゅうと、しゅうとめ」の
トラブルは全然なかった(感じることはなかった)
それは、やさしい祖父と祖母のおかげだと思う
そして自分たちがその人達の孫であることは、、、少しうれしい



 

 

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判断の根拠は、、

2017年07月12日 08時26分56秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

例えばある問題について3人が自分の考えを語ったとする
そのテキストに起こされたものを(若干の忍耐力と知識とか想像力が必要だが)
3人を知らない人が読んだとする
得られる情報はテキストだけで、そのどれが自分に一番共感できるか
を選択する事になった場合は、元々読み手が持っている感性によって大きく左右されるだろう

次に、3人がその考えを述べるシーンを、3人を知らない人が実際あるいは動画などで見たとする
そこでは話しっぷりの上手下手だけでなく、その人の発するなにか、熱意とか風貌から感じられる
生き様みたいなものを感じ取ることができるので、単純な話の内容だけでないもので判断を行うことになる
そしてここでも自分が生きている上で身につけた直感的な何かが大きなウエイトを占める

次に今度は彼ら3人をよく知っている人が、テキストを読んだり実際に見たりして判断をせざるを得ない状況になったとする
この場合は多分、話す内容やテキストに残されたものや印象だけで判断するわけではない
既に彼らを知っているので判断材料はもっと多岐にわたり、彼らの発言や表に出されたことが
実際に信頼できるかなど批判的な視点からの要素が加わる
人が人を見る(判断する)ということは、日頃の活動の実績やちょっとしたところの垣間見られる人間性で決まる
彼らが、何をしてきたか、、、それが判断の基礎となる


新城市では今年の秋に市長選の選挙が行われる
そして現在3人の候補者が名乗り出ている
へそ曲がりの自分は、一見まともそうな政策で人が選ばれる(方がいい)という考え方に
実効性等の点で疑問を感じてしまう
上記の3つの例からすれば、新城市民は既に3番目の状態にあって
3人について何も知らない、、、という人は少ない
だから横着な自分が判断するに、市民は面倒くさいこともあって政策云々よりは、
彼らが今まで行ってきたことから推察される人間性で選ぶのではないか、、、と思ってしまう

3人が行ってきたこと
判断の材料になりそうなこと
1人は現役の方で対外的には評価の高い政策を実行してきた(若者議会・地域自治区)
しかし、そのわりには直接住民に関する場面では評判が悪く庁舎建設については
住民投票が行われて自らの方針にはNOと突きつけられた、
そして様々な経緯もあるが結果的に「市長リコール」ということまで起きてしまった

もう一人は、前回も市長選で戦った人で
現在は南部工業団地の産廃関連企業の悪臭被害について
地域住民の方たちと数年間にわたって様々な法の分野の勉強を行い
時に厳しく、またこまめにブログ等でその状況を発信し続けている 

そしてもうひとりは、二元代表制としての役割をはたすべく
市議会議員としての活動を行っている
市民の声を聞く場としての住民投票の実施にも尽力した
そして彼の好みもあるが、新城市に残る歴史遺産を大事にしていこうと
野田城の整備や鳳来寺山で行われるイベントに取り組んでいる

さてこの状況で、自分の立場は、、、
一つだけ答えはハッキリしている
それは、、、 

 

 


 

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「京都 冷泉家 七夕の雅宴」から連想することなど

2017年07月09日 08時47分48秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

里芋の葉っぱに溜まったつゆを集めて墨をすり
その墨で短冊に願い事を書いて笹の葉に飾る

こんなのんびりしたことを、そのまま実際に行ったかどうかどうかは
覚えていないが、短冊に勝手な願い事を書いて真似事をしたことはある(保育園とか家で)

七夕は、子どもたちにとって愉しい行事の一つなのかもしれない
いや親にとっても微笑ましい思い出に残るイベントに違いない
下手くそな字で屈託のない、とんでもない願い事を見るだけで
どこか幸せな瞬間を感じることができる
このような時間は、その行事がどのような目的で行われるようになったか
本来の目的以上の役割を果たしているんかもしれない 

今年の7月7日金曜日 珍しい七夕の行事を見に行った
ところは名古屋市の芸術劇場コンサートホール
行われたのは

京都御所の北に住まいを構える冷泉家の七夕の行事だ
冷泉家は「小倉百人一首」を選んだ藤原定家の孫の藤原為相に始まる「和歌の家」
数年前、一般公開された時に立ち寄った事があるが、
その家のしつらいのこだわりや品のいい事、そしてお蔵にはとても需要な文化財が
保存されていることなど、この家の関係者から話を聞いてぼんやりと覚えている

京都はいつ行っても興味は尽きないが、最近の自分の関心の方向は「侘び寂び」よりも雅の方
どうしても真似出来ないような、京都にしか存在しないような
ちょっとした気の利いた美的ポイントとかこだわり
それはきっとお公家さんたちのセンスから来ているものだと勝手に思い込んでいて
今回も、その公家さんたちの行事はどんなものか、、の興味から足を運んだ

プログラムは、蹴鞠、雅楽演奏、和歌披講、流れの座の大きく4つに分かれている

これらの一つ一つを解説できるほどの力量や知識はないので 
いつものように現場で、空想や想像が羽ばたいたこと思いついたことなどを
そこはかとなく書き綴れば、、、

蹴鞠
何よりも印象に残っているのは、登場した人たちの衣装のきれいだったこと
濃い色ではなく、今で言うならパステルカラーに近い色
その一つ一つが品があって、照明にあたって本当にきれいだった
蹴鞠は数人で行うサッカーのリフティングのようなもの
あの衣装と靴では、やりにくいだろうな、と思いつつ
昔の人もやり始めると夢中になってしまいそうなこの行事
ハマって練習をする人たちがあの時代にもいただろうな、、、などと思ったりした
会場は狭く演技者には少し可愛そうな環境だったが
慣れるに従って少しづつ空気のない鞠は地上に落ちずに
ポンポンと掛け声にのって宙を舞った

雅楽
お祭りには録音されたものを聴くことがあるが生は初めて
11人で奏される音楽は、音を出しっぱなしというかリズムがない
旋律すらも感じ取れない
笙とか篳篥、太鼓、琵琶、琴が西洋音楽とは明らかに違う決まりで
時間の経過を表現する
(フト、モーツァルトの生き生きしたリズムと言うのは、
 なんと表現力豊かなのだろうと思ったりした)
短い最初の曲、なぜだか知らないが雅楽という割には
この音楽は遠いペルシャに近いものを感じた
それは音色なのか、あるかないかわからないメロディーのせいかわからないが
根拠なくきっとそうに違いないと確信した(単なる思い込みだろうが)
次いで長い曲が奏された
音楽はなりっぱなしのリズムはないのはずっと同じだが
今度は少しばかり聴きやすい
琴が印象的な分散和音のようなフレーズを、遠慮気味に時々奏する
最初は小さな音で、それから徐々に大きく存在感を持って
そのゆっくりゆっくり進むさまの効果は音楽的で
まるでボレロの様な感じ (音楽的効果については洋の東西を問わず似ているってことか)

和歌披講
8人の人が左右に分かれて座る
テーマに沿って歌われた和歌をゆっくりと音読する
いや音読というより歌う
マイク無しでゆっくりと、まず1人が上の句を歌うように音読する
その旋律はその人の独自のメロディなのか決まりがあるのだろか
ついで 他の人も声を合わせて下の句の一部(?)を歌う
それは単なる斉唱かメロディーが存在するのか、よくわからない
ただ即興で合わせるということも難しそうなので、何らかのきまりはあるのだろうか
と素人は心配してしまう
和歌は本で読んだりすると単に57577の歌に過ぎず、その歌の意味をあれこれ想像するが
こうして音として表現されると、意味以外のなにか(リズムとか流れの良さとか)が
重要なのかもしれないと感じる
それにしても、のんびり歌い、それを楽しむ事のできる事のできる気持ちは
ちょいと羨ましいかもしれない

流れの座
和歌は、のんびりしているだけではどうやら収まらないらしい
和歌披講についで行われたのは、即興で和歌を作ること
七夕の行事なので左右4人づつに別れた舞台の中央に
天の川を連想させる縦に長い敷物が準備された
それぞれの「うたいびと」は与えられたテーマにそって
これまた優雅に墨をすって、短冊に和歌を書き、それを扇子に載せて
対面に座る「うたいびと」に手渡す
受け取った「うたいびと」はその歌の返しを即興で行う
これも全体的には音のない静かななかで行われる
七夕の行事とはいえそれは本来は旧暦の行事
この静かな行事を想像力頼もしく秋の虫が鳴き始めて、
月も三日月で、暑いとは言え時に涼しい風が吹く様子を連想しながら
この舞台を見ると、その趣は一気にこの行事の趣味の良さを実感する

全ては静かなうちに行われる
音のない音楽のなかで、聴こえるのは虫の声、風の音、文字を書く音、衣擦れの音、
昔の人達は、こうしたことを「趣のあるもの」として大事にした
その判断と感性は、もしかしたら今の時代こそ大事にすべきかもしれない

歌の即興はとても難しそうなので、お公家さんは歌の勉強を常々する必要があったのだろう
だからこそ「歌の家」の冷泉家のような存在が必要だったに違いない
この歌のやり取りだが、ある面人物評価のチェックポイント人もなるのではないだろうか
まずは歌の視点、詩的空間(時間)の存在の認識とその表現技術、過去の歌への理解
(なんだか夏井いつきさんの言い分に似てきたぞ)
それらはいわゆる教養としての分野のことがらでお公家さんには必要とされ
これらが上手くできないと無粋な人(それから連想されることとして)判断を間違えやすい人
との烙印を押されてしまうのではないか
物事を判断するのに損得だけでなく、美しいいかどうかといった審美眼が必要とする考え方は
今こそ、判断基準にしてほしい、と思うのはないものねだりだろうか

ということで、あの現場で勝手気ままに思い浮かんだことはこんなこと

それにしても、衣装はきれいだったな、、
一番印象に残ったことは実はこれだったかもしれない
(だから葵祭を見に行きたいと思うのだろうか) 


 

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あれこれ考えること(選挙がらみの)

2017年07月07日 08時37分51秒 | あれこれ考えること

自分が興味があって、それなりの細かなうんちくがあることがらを他人に伝える時
聞かされる立場の人の立ち位置を正確に把握しないと言葉だけが上滑りする 
ある言葉(キーワード)を発してその言葉に対する反応(表情の変化や返ってくる言葉)で
その人の理解力をおおよそ把握することをする
そしてその現実に合わせて、最初からの丁寧な話か、それとも既に共通理解が
進んでいるところからの話かを判断して進めることにする
これは特別なことではなく、知らず知らずおそらく誰でも行っていることだろう

少し疑問に思うことがある
選挙が近づくと「マニフェスト」という言葉が、とても大事なもののように扱われる
そのマニフェストの良し悪し、賛同できるかできないか、で判断すべしのような、、、
しかし、一般人は「マニフェスト」を判断の材料として扱えるほど理解できるのだろうか
世間の理解はどのくらい進んでいて、どの地点からの話がなされるべきなのか
現在は、少しばかり見栄っ張りの落語の登場人物のように「知らない」ということを言えない人々が
知ったかぶりで、上滑りした言葉遊びになっていないだろうかと
少しばかり心配してしまう

「マニフェスト」の耳障りの良い抽象概念を (具体案が出ていたとしても、説明が長すぎて
理解が困難という事がありうる)、その道のプロたち(被選挙人)が言葉の上で戦わせる行為は
ある種の人たちとっては「わからない話を勝手にしているだけ」ともとられかねない
こうしたプロ同士の会話は「あるべき姿」として政治に関心のある人が多数いるということを前提としている
しかし、現実には良いか悪いかは別として政治に無関心な人が多数存在する
いつか「当事者として」感じることがあるようになれば、必然的に政治に無関心では
いられなくなるとしても、現在は無関心層が多い 

「プロの話はプロに任せておけ」なのか
「もはや一握りのプロには任せておけない」なのか
現在の状況はこの2つの考え方が存在して、時々どちらかに天秤はふれる 

おそらく政治的なことがらは、一つの判断の影響があまりにも多岐に絡んでいるために
いや、多数の要素が複雑に絡まっているために、専門家でも判断に悩むというのが実態だ
その専門的なことがらを選挙の候補者(首長・ 議員)がお役人並みに詳しく理解しているか
といえば、現実にはその可能性は少ない(多分)
(とするとマニフェストもみんなよくわからないからアバウトなものとなりそうだが)
結局のところ、政治家にできることは(後々勉強してその分野に詳しくなるとしても)
判断をするという行為だけではないのか

そして現実には投票する人たちにできることは、被選挙人(候補者)はどんな問題にでも
「正しい判断をするであろう」という期待だけ
厄介なのは「正しい判断」の捉え方が、普通の人がイメージするものと違う現実が存在するということ
一般的な「正しい判断」よりももっと優先すべき判断基準が、ある人たちのなかには存在する
そこには「正しい判断」という言葉はなくて「選ばれたという時点で」住民の信託を受けている
と解釈する考え方がある
エリート(選良)が住民の代わりに判断を下す
それは運営上の効率から導き出されたものか、それとも人が痛い思いをして導き出したものか
それはよくわからない
でも、人が人を選ぶということは、一見まともそうなマニフェストだけで選ぶのは
間違いがあるかもしれない
人には理性の他に感情というものが存在する
この感情の働き、役割を過小評価すべきでないとしたのが保守と言われるバーク
何かわからないけど、「好きじゃない」とか「嫌」というのは馬鹿に出来ないぞ
今回の都議選の自民党の惨敗は、理性の部分というよりは感情的な安倍さんに対する
嫌悪感のせいだと思う
さて新城市の秋の選挙 計算できない感情の動きというものは一体どのように働くのだろう

結局、ごちゃごちゃと、いつものようにまとまらなかった
ま、いいか

 

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聴き比べ(K466など)

2017年07月05日 09時37分27秒 | 音楽

最近音楽の聴き流しができなくなっている
貧乏性のせいで、聴き流すなどというのはもったいないことだと感じるからだ
音楽を聴く機会というのは(クラシックでもロックでもジャズでも)
ライブに臨むみたいに気合を入れてて聴いたほうが、途中でのいろんな空想や想像も羽ばたいて
音楽的体験を充実したものにできる

CDの価格は3000円程度として、それが繰り返し聴けるとしても
現実には数回にとどまることが多い
その元を取ろうとするなら、気合を入れて一回でも集中して聴いたほうが
得られるものが多くて、お得!と思うようになっている
(ただし車の運転中は別)

そんなことで、集中して聴き比べを行った
曲目はモーツァルトのピアノ協奏曲20番 ニ短調 K466
その第一楽章の部分
取り出したCDは
1)ピアニストがリリー・クラウス オケがウィーン音楽祭管弦楽団 指揮がスティーブン・サイモン
2)ピアニスト アンネローゼ・シュミット オケはドレスデンフィツハーモニー 指揮はクルト・マズア
3)ピアニスト ダニエル・バレンボイム オケはベルリン・フィル 指揮はバレンボイム

有名な曲だが、今回その気になって注目したのはピアニストの解釈とか演奏ではなく
オーケストラの音(演奏)の方
モーツァルトのこのあたりのピアノ協奏曲は、木管がとても効果的というか掛け合いの参加が
本当に音楽で会話しているようで、聴く度に楽しい思いをするのだが、オーケストラの違いで
どのくらい違うものかをチェックした

最初のウィーン音楽祭管弦楽団の演奏 実はこのオーケストラはどんなものか知らない
指揮者もあまり良く知らない
でも有名な指揮者でない分だけ、ウィーンの奏者は自分たちの身体に染み込んだ演奏をするのではないか
と予想した
そしてその予想は、、的中した  と勝手に思っている
音色は明るい、その音はムジークフェライン(観光客用の演奏会)で聴いた音を思い出させた
一つ一つの音が単純にきれいで、くっきりして、奏者のお互いがその音をしっかり聴いて自発的に
会話するような、、、ウィーンの伝統とはこういうもの  という感じ
この演奏は、名演奏にピックアップされないかもしれないが、個人的には大好きな演奏
何かとても楽しい気分になる

ドレスデンフィルハーモニーには、ウィーンのを聴いた直後だったので、その音色の違いが
はっきり分かる
嫌いじゃない柔らかな音色、でもどこかくすんでいるような、伸び伸びと屈託なく音をだすことを
遠慮しているような音(でもフォルテになってもやかましい感じはしない)
指揮者はマズアだけに、少し指揮者の意図が反映されている様な
モーツアルト独特の生き生きと感じさせるリズムの刻みがしっかり聴こえる

バレンボイムのベルリン・フィル
当たり前だがこれもウィーンとは違う音色
ドレスデンフィルの方に近い感じがするけど、もう少し洗練されていると言うか
鋭さがある感じ
これも指揮者の意図のせいか、前の2つよりはドラマティックな感じ
彫りが深いというのか表現の幅を大きくしているのか分からないが
真面目でドラマティックなモーツアルトを感じる
楽器間の掛け合いはコントロールの範囲内
ピアノの演奏も上記のものよりは、何か印象に残る

聴き比べは、その気になった時行うと自己満足に過ぎないがとても楽しい 

これで味をしめて、もう一つ聴き比べを行った
曲目はマーラーの「さすらう若人の歌 」
ワルター指揮のコロンビア交響楽団でメゾソプラノのミラーが歌ったもの
フルトヴェングラー指揮のウィーンフィルでフィッシャー・ディースカウが歌ったもの
そしてバーンスタイン指揮でウィーンフィルでハンプソンの歌ったもの

これも随分違う
音楽は始まってしまったら終わりまでどうしようもなく進んでいく
最初の音色が全体を支配するが、その音色を出させているのが指揮者の力量
もちろん歌手の力もあるが、歌にまとわりつくように、
あるいは光景を暗示させるようなオーケストラの力はとても雄弁で
何故こんなに印象が違うのか、と不思議に思えてくる

この3つの演奏の中では、フルトヴェングラーとフィッシャー・ディースカウのが好き
でもフルトヴェングラーとフィッシャー・ディースカウの組み合わせなら
有名なフィルハーモニアのほうが好きかな

 


 

 



 

 

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選挙に真剣になれる人たち

2017年07月04日 08時59分51秒 | あれこれ考えること

特に根拠のない、単なるいつもの偏見と独断にみちたどうでもいい話

選挙の好きな人達がいる(当事者として、あるいは評論家風として)
傍から見ると妙に燃えて、あれこれ未来を予想して
(ここは大したものだが)大して自分に得にならなくても
必死に活動する人が、なんとなく存在する

もちろん一番真剣になるのは利害関係者
少なくとも現在利権を得ていると思われる人たちは
当然、自分たちの置かれている状況の変化を好まない
それは選挙を通じて、未来がどのようにあるべきか、、といった
抽象的な想像の世界ではなく、金銭に結びつく現実の世界だからだ

このリアリストたちは、例えば予想に反して自分たちの望む世界を
大衆が選ばなかった場合、呆れるくらいあっさりと手のひらを返す
(以前政権が民主党に移った時、ある地区の業界団体は今までの自民党の支持から
あっさりと民主党支持と変わった)
要は肝心なのは自分たちにとって都合の良い立場とか環境を確保しておきたい
というだけのこと
問題は、このひとたちにとって都合の良い話が一般の庶民にとっても都合の良い話か
という点で、それが一致すれば問題はないのだが、現実には全てに一致はしない

何かと選挙に於いて協力をしてくれた人物、団体に便宜をはかるのは普通の感情で
だからこそ、人や団体は積極的な行動に邁進できる

ところが、そこはあまりにも露骨に言うことは出来ない
表にできることは耳障りの良い、どこかほんわかとした言葉とか希望
それはマニフェストとか言う言葉でお化粧されて、
一見政策で闘うような状況の舞台に変えられている

この耳障りの良いマニフェスト
その項目を、一般人は果たして理解できるか
そしてそのマニフェストの良し悪しで選択することができるか、、
これは、本来はそうあるべきといったあるべき論ではなく、
現実の世界を見ると、選挙の選択という行為は、もっと別の項目によって行われる
ここで不思議なのは、損得というわかりやすいものだけでなく
なんとなくこちらの方が良いと感じる、、少しばかり説明ができにくい理由で
選択をする人々も少なからず存在するということだ

人が人を選ぶ、、ということ
それはほとんどの場合、客観という行程を経て行われるのではないのではないか
それは実は言葉にするとちょいと恥ずかしさを覚える第一印象とか、
好き嫌いに大きく左右されないか

どうも人間というやつは最初から偏見をもって判断するの普通なのではないか
ある人物をみて「好き」とか「嫌い」と感じる
その事実から始まってそれぞれの理由の正当性の理屈を作る
そうしたことが、行われているのではないか

そして、「好き」「嫌い」という判断が別れるのは、判断する人たちの
人生経験のよるものによって区別されるのかと言えば、
必ずしもそうではないかもしれないのではないか 
「好き」「嫌い」の判断が分かれるのは、生物としての生き延びる可能性を
いくつも残しておく、、といった確率論のなせる技なのではないか

なんだか話がおかしな方向に進んできたぞ、、
(いつものことか)
とにかく、人が人を選ぶという行為は、自分たちが思っているほど
冷静な行為ではなさそうだということ 

しかし、こんな風にいい加減に選ばれる可能性の大きい選挙だが
当事者としてこの秋に市長・市議会議員選挙が行われる身とすれば
少しばかり安穏として構えてばかりはいられない

選挙慣れした人たちは、組織の力が勝負だという
その組織づくりこそが全てだという
それは多分そうだろう、、
でも、その結果一部の人たちだけに得するような世界になるとしたら
(加計学園騒動のように)まずいんじゃないの

新城市は、残念ながら一部の人にお得な出来事がまだまだあった
(例の裁判になった話ではなく別の件で)
その話はもう少し調べてから、ひっそりと(?)アップするかも
なんで、不自然なことが、、続くのか、、

まとまりのない、独り言、、 

 

 

 

 

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専門家でなくとも、、、

2017年07月03日 09時37分20秒 | 徒然なるままに

東京都議会議員選挙、自民党の歴史的惨敗
過去最低の23議席、、、
昨晩からこんなフレーズが飛び交う

今朝のテレビ番組でも専門家と称する方々が
あれこれその原因を述べているが、そんなことは聞かなくたって分かる
専門家と言われる人に、わかりきったことを言わせて
それでお終い?とするメディアの軽さ

政治に関心のない妹が、頭をカリカリさせて
「安倍さんって、もうひどい。全部隠してばっかりで、話に応じないで、、、」
そんなことを口走ったのが数日前
まさか彼女からそんな声を聞くとは思わなかったが、それだけ一般の人にも
ストレスがたまっているということだったんだろう

やり方や人物に対する嫌悪感、こうしたものがいったん芽生えてしまうと
回復はなかなか難しい
投票日前日の秋葉原での「帰れ」「安倍辞めろ」コールは
きっかけは誰かがつくったかもしれないが、それに多くの人が反応して
大騒ぎになった、、、それは不満のエネルギーが頂点に達したということだろう

ところで、専門家  と言われる人々
彼らは、本当に専門家なのだろうか(何の専門家?)
誰かと仲良くしてるから、ボソッとその仲の良い人物に得するような情報を
自分だけが知り得た情報のように話す、、
その存在が、、専門家?

田舎のおっさんが愚痴ってもしょうがないが、何か、どこか変だな
でも相変わらず出続けるのだろうか、、あの白髪のおじさん
なんで多くのテレビ局は彼を出演し続けるのだろうか、、
今まで専門家の情報や視点を聞けた?
(聞けたのは誰かの代弁じゃないのか)

前文科省事務次官の前川氏が懸念を示したメディアのあり方
実はそれは今も何も解決していないのでは

専門家なんていらないから、単に事実を並列で並べて欲しい
判断するのはこちらでするから、、、
少しづつこんな風に思う人が増えるかもしれない

 

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新聞・テレビを見ない人たちは、、、

2017年07月02日 08時40分31秒 | あれこれ考えること

若者の安倍さんの支持率は他の世代と比べて高いとされている
いや、安倍さんというよりどちらかと言えば保守的な傾向が見られる
もっと極端なことを言えば右っぽい傾向があるらしい

チャーチルが実感を込めて発した
「20歳のときにリベラルでないなら、情熱が足りない。
 40歳のときに保守主義者でないなら、思慮が足りない」
という心情は現代の日本では通用しないかのようだ

その原因は、既に何人かの指摘があるが、若者のメディア接触率にある
最近の若者は(若い家庭は)新聞を購読していない
またテレビも見ていない
彼らが接するのはスマホなどを通したネットの世界

このネットの世界というのが曲者で、情報が玉石混交どころか
まったく当てにならないものから、ひどく偏ったものまで(自分のこれも含まれるかもしれないが)
検索という過程を経て、チェックされずに、全ての情報がイーブンの状態で表示される

人は多くの情報の中から冷静に判断を行うようになるかといえば
どうやら、そのようなことはなくて、最近良く言われるのは
ネットは結局のところ自分好みの情報・話題を探し、読み解く傾向が大きいという点

そして、若者に受けるのは、シンプルな対立軸、若者の生理に合うような少しばかり過激な言葉
あれこれ自らが考え調査しなくても良い思考方法
咀嚼するのではなく反射神経のように反応できる言葉の類

実際のところ、ヤフーに「加計学園」と入れてリアルタイムのタブで検索すると
本当に呆れるくらい過激な投稿も見られる
意見の割合はノーマルな方が多いと推察されるが、このネットの世界では対立軸を
はっきりさせるためか、少ない量の投稿でも大きな存在感を占めている
(少なくても多く感じさせるテクニックを用いているという声も聞かれれる)
普通の市民がおかしいと思うことも表に出すと、いきなり「反日」とか「売国奴」とか
感情的な言葉が続く
そしてそのように発言する彼らの信じていることは、それこそ普通なら疑ってかかることを
何故か無条件に信じ込んでいる

もちろん、いろんな考え方は存在するし、あっていいとも思うが
ここで見られるような、一つの話を批判的に見ることもないままに
一方的に盲信するのは、、、、ちょいと、怖い

これもまた、何人かの人が言ってるが、最近日本人のここがすごいとか
日本のここが群を抜いている、、というような自画自賛のような
テレビ番組が多い
日本の伝統はそれなりに評価しなければならないとは思うが
別の国にしてもきっと時間をかけて試行錯誤しながら
身につけてきた習慣や文化だってあるだろう 
すごいと言うのは相対的評価で、自ら言うものでもなく
他者が客観的に思ってもらえるものではないのか

「私は偉い」というより、「あの人は尊敬すべき偉い人」と
自然に評価されるようになれば良いのだが、どうも最近は
これが出来ていない事が多いようだ 

自己承認への欲求が個人であれ国家であれ過度になると
どうも住みにくい世の中になりそうだ

以前「新聞が無くなった都市で起こったこと」を取り上げた事があったが
新聞自体に思想的傾向はあるものの、少しは考えさせる効果のある
新聞を若者が見なくなるのは、、、危ないかもしれない

ネットを用いるとしても相対立する意見を比べることのできる
リテラシーが育っていれば良いのだけれど、、

とうとう、今の若いもんは、、、と言いはじめたのかな、、

 

 

コメント
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