里芋の葉っぱに溜まったつゆを集めて墨をすり
その墨で短冊に願い事を書いて笹の葉に飾る
こんなのんびりしたことを、そのまま実際に行ったかどうかどうかは
覚えていないが、短冊に勝手な願い事を書いて真似事をしたことはある(保育園とか家で)
七夕は、子どもたちにとって愉しい行事の一つなのかもしれない
いや親にとっても微笑ましい思い出に残るイベントに違いない
下手くそな字で屈託のない、とんでもない願い事を見るだけで
どこか幸せな瞬間を感じることができる
このような時間は、その行事がどのような目的で行われるようになったか
本来の目的以上の役割を果たしているんかもしれない
今年の7月7日金曜日 珍しい七夕の行事を見に行った
ところは名古屋市の芸術劇場コンサートホール
行われたのは

京都御所の北に住まいを構える冷泉家の七夕の行事だ
冷泉家は「小倉百人一首」を選んだ藤原定家の孫の藤原為相に始まる「和歌の家」
数年前、一般公開された時に立ち寄った事があるが、
その家のしつらいのこだわりや品のいい事、そしてお蔵にはとても需要な文化財が
保存されていることなど、この家の関係者から話を聞いてぼんやりと覚えている
京都はいつ行っても興味は尽きないが、最近の自分の関心の方向は「侘び寂び」よりも雅の方
どうしても真似出来ないような、京都にしか存在しないような
ちょっとした気の利いた美的ポイントとかこだわり
それはきっとお公家さんたちのセンスから来ているものだと勝手に思い込んでいて
今回も、その公家さんたちの行事はどんなものか、、の興味から足を運んだ
プログラムは、蹴鞠、雅楽演奏、和歌披講、流れの座の大きく4つに分かれている

これらの一つ一つを解説できるほどの力量や知識はないので
いつものように現場で、空想や想像が羽ばたいたこと思いついたことなどを
そこはかとなく書き綴れば、、、
蹴鞠
何よりも印象に残っているのは、登場した人たちの衣装のきれいだったこと
濃い色ではなく、今で言うならパステルカラーに近い色
その一つ一つが品があって、照明にあたって本当にきれいだった
蹴鞠は数人で行うサッカーのリフティングのようなもの
あの衣装と靴では、やりにくいだろうな、と思いつつ
昔の人もやり始めると夢中になってしまいそうなこの行事
ハマって練習をする人たちがあの時代にもいただろうな、、、などと思ったりした
会場は狭く演技者には少し可愛そうな環境だったが
慣れるに従って少しづつ空気のない鞠は地上に落ちずに
ポンポンと掛け声にのって宙を舞った
雅楽
お祭りには録音されたものを聴くことがあるが生は初めて
11人で奏される音楽は、音を出しっぱなしというかリズムがない
旋律すらも感じ取れない
笙とか篳篥、太鼓、琵琶、琴が西洋音楽とは明らかに違う決まりで
時間の経過を表現する
(フト、モーツァルトの生き生きしたリズムと言うのは、
なんと表現力豊かなのだろうと思ったりした)
短い最初の曲、なぜだか知らないが雅楽という割には
この音楽は遠いペルシャに近いものを感じた
それは音色なのか、あるかないかわからないメロディーのせいかわからないが
根拠なくきっとそうに違いないと確信した(単なる思い込みだろうが)
次いで長い曲が奏された
音楽はなりっぱなしのリズムはないのはずっと同じだが
今度は少しばかり聴きやすい
琴が印象的な分散和音のようなフレーズを、遠慮気味に時々奏する
最初は小さな音で、それから徐々に大きく存在感を持って
そのゆっくりゆっくり進むさまの効果は音楽的で
まるでボレロの様な感じ (音楽的効果については洋の東西を問わず似ているってことか)
和歌披講
8人の人が左右に分かれて座る
テーマに沿って歌われた和歌をゆっくりと音読する
いや音読というより歌う
マイク無しでゆっくりと、まず1人が上の句を歌うように音読する
その旋律はその人の独自のメロディなのか決まりがあるのだろか
ついで 他の人も声を合わせて下の句の一部(?)を歌う
それは単なる斉唱かメロディーが存在するのか、よくわからない
ただ即興で合わせるということも難しそうなので、何らかのきまりはあるのだろうか
と素人は心配してしまう
和歌は本で読んだりすると単に57577の歌に過ぎず、その歌の意味をあれこれ想像するが
こうして音として表現されると、意味以外のなにか(リズムとか流れの良さとか)が
重要なのかもしれないと感じる
それにしても、のんびり歌い、それを楽しむ事のできる事のできる気持ちは
ちょいと羨ましいかもしれない
流れの座
和歌は、のんびりしているだけではどうやら収まらないらしい
和歌披講についで行われたのは、即興で和歌を作ること
七夕の行事なので左右4人づつに別れた舞台の中央に
天の川を連想させる縦に長い敷物が準備された
それぞれの「うたいびと」は与えられたテーマにそって
これまた優雅に墨をすって、短冊に和歌を書き、それを扇子に載せて
対面に座る「うたいびと」に手渡す
受け取った「うたいびと」はその歌の返しを即興で行う
これも全体的には音のない静かななかで行われる
七夕の行事とはいえそれは本来は旧暦の行事
この静かな行事を想像力頼もしく秋の虫が鳴き始めて、
月も三日月で、暑いとは言え時に涼しい風が吹く様子を連想しながら
この舞台を見ると、その趣は一気にこの行事の趣味の良さを実感する
全ては静かなうちに行われる
音のない音楽のなかで、聴こえるのは虫の声、風の音、文字を書く音、衣擦れの音、
昔の人達は、こうしたことを「趣のあるもの」として大事にした
その判断と感性は、もしかしたら今の時代こそ大事にすべきかもしれない
歌の即興はとても難しそうなので、お公家さんは歌の勉強を常々する必要があったのだろう
だからこそ「歌の家」の冷泉家のような存在が必要だったに違いない
この歌のやり取りだが、ある面人物評価のチェックポイント人もなるのではないだろうか
まずは歌の視点、詩的空間(時間)の存在の認識とその表現技術、過去の歌への理解
(なんだか夏井いつきさんの言い分に似てきたぞ)
それらはいわゆる教養としての分野のことがらでお公家さんには必要とされ
これらが上手くできないと無粋な人(それから連想されることとして)判断を間違えやすい人
との烙印を押されてしまうのではないか
物事を判断するのに損得だけでなく、美しいいかどうかといった審美眼が必要とする考え方は
今こそ、判断基準にしてほしい、と思うのはないものねだりだろうか
ということで、あの現場で勝手気ままに思い浮かんだことはこんなこと
それにしても、衣装はきれいだったな、、
一番印象に残ったことは実はこれだったかもしれない
(だから葵祭を見に行きたいと思うのだろうか)