パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

妄想すること

2017年10月14日 10時04分10秒 | Weblog

仮定と逞しい妄想(?)の話

あるイベントが有った
テレビ中継されていても、画像の切り取り方や集音の関係で
現場がそのまま再現されるわけではない
野次とか熱気とか緊張感、、そうしたものは画面では伝わらない

いちおう野次は飛ばないきまりになっていて、粛々と進んでいるように見えたが
現場でよく見ると制限された時間内に話す人が時間切れになった時の(慌てる、慌てない)表情や
それを静止する人のつい出てしまう口調
また人が話している時に(自分のことが言われている時に)会話を遮るように口を挟む様は
かなり生々しいもので画像の印象(普段の印象)とは異なる 

これらは、会話の内容とは別に興味深い
もともと決められた会話のテーマはよく考えられて、それほど破綻はない
でも突発的なことは、少し人間性が出てくる
そのイベントの冒頭に「自分の長所と欠点は?」
の問いに答えることになった3人がいた

その中で、1人だけ首を傾げる答えを出した人がいた 
自分を動物になぞらえて「アライグマ」と「ゾウ」を挙げて
長所はアライグマ  その心は「かわいい」
短所はゾウ  『仕事を一生懸命やりすぎる」
これで、その場にいた人はすんなり理解できたか、、とい言えばかなり怪しい

ちなみに他の二人は
欠点は「他人を攻めるときには逃げ場がないほど攻め過ぎる」
長所は「その裏返しで、一本筋が通っている}
なるほど、これは彼を知ってる人は納得するし、知らない人でもその後の会話で納得したことだろう
もう一人は「おばあちゃんっ子だったので、優しいところが長所、優しすぎるところが短所」
これも何となく分かる、一歩間違えると優柔不断みたいとか気の弱そうなな印象とか
これもその後の会話で納得したに違いない

もう一人の「かわいい」と「仕事の一生懸命しすぎる」は
実は彼を知ってる人に聞いても首を傾げる答だったらしい
もっとも、このよくわからない答えは、実は彼の特徴を表しているかもしれない
長々とよどみなく話すが、結局何を言ってるかわからないその話しぶりは
自分で「かわいい」と言ってしまうメンタリティーそのもので
他人の理解を前提とする話し方ではなく、自分の言いたいことを言ってるに過ぎない
「一所懸命仕事をしすぎる」
その立場の人はそうでなくては困るが、これは敢えて言うまでのことはない
ところが「しすぎる」という言葉は、いろいろ思い当たるフシは多い
やり過ぎ、、と、やらせておいて静観する、、このやり過ぎ感 
それは「仕事」の一言を除けば納得できる

最終的には、「判断を間違えない人を選ぶ 」ことが要求される今月の大きな出来事ふたつ
最後の判断を間違えない  ためには総合的な人間力、全人格的な要素が必要となる
この「全人格的な要素」の欠如を覚える人たちが権力の座にいる(就く)不安

そう思うのが偏見で思い込みであれば良いのだが、、どうしても不安のほうが大きくて
いつもの(市外の人には)わかりにくい話(市内の人でストレスが溜まるほどわかりにくい?)

ところで、自分の長所  う~~ん、(自分じゃ優しい人間と思っているが、、、)
        短所  わからないことをいい過ぎる 

あまり人のことは言えないか、、、

 

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小泉進次郎と世論調査

2017年10月12日 08時22分07秒 | あれこれ考えること

その人は、あるタレントさんが大好きだった
そのタレントさんがテレビコマーシャルに登場した
その商品には大して関心がなかったので、機会があればその商品を購入しても
良いかなと考えた
これがテレビコマーシャルの目的

ところが、今度はそのタレントさんが自分の嫌いな商品(企業)のテレビコマーシャルに登場した
とすると、その人はどんな感情を持つか?
これは現実にはなかなか企業の思い通りにはならない 
好ましく思っていない商品・企業に対して好感を持つようになるより
このタレントは何故こんな商品(企業)のイメージアップの片棒を担ぐのか!と不信の念を持つようになる
そして、最悪は好きだったタレントさんに対して距離を置くように(嫌いに)なる

この危険性があるのでアメリカのタレントさんは手っ取り早くお金儲けができそうな
テレビコマーシャルには慎重になり安易に気引き受けない(と聞いたことがある)

話を現在の日本に戻すと、衆議院選挙戦が始まった
引っ張り出されるのは自民党の顔 小泉進次郎氏
ワイドショーでもタイムリーなキレの良い、そしてセンスの有る話っぷりが紹介される
しかし、分別くさく言うのではないが、この人の言説をそのまま信じ、支持することとなれば
森友・加計学園・南スーダン日報問題のあやふやな答弁
共謀罪の強行採決・安保法案の強行採決を進めた政府のやり方を良しと認めることになる
でもさすがに、安倍さんの進め方、それはないだろうというのが世論調査の数字
その状況下で、小泉進次郎氏は自民党を守るべく強行突破を図ろうとすると
(さすがに森友・加計学園は安倍さんが悪いと言ってるが)
今度は彼にどんなイメージを持たれることになるか、、
先程のタレントさんの例が適用されるか、それとも庶民はあまり考えていないから
ブームとか勢いとかイメージで小泉進次郎氏のいる現政権を認めてしまうか、、

小泉進次郎氏は調子に乗って片棒を担ぐと、落とし穴が待ってるかも知れないという意識はあるのだろうか
あんなデタラメのやりたい放題でも良いのだ!とする人たちを、あなたは組織の人間だとしても
応援するのか、、、とガッカリする人たちがいると考えないのだろうか
ま、そのところは小泉進次郎氏の持っている「運」によるのだろうけど
(そしてその運は今の運と、将来の運とは違う)

実際のところ庶民・大衆はどのような判断をするのだろう
自動的にバランスをとる感覚(ブレーキ役を求める感覚)が働くか、
それとも長いものには巻かれろとの変化を求めないことを求めるのか

この気分形成に大きな役割を持ちそうなのが世論調査の結果
先走っていろんなメディアは支持率等を発表する
ところが、この世論調査、はたして当てになるか、、というのが疑問だ
というのは先日我が家に電話がかかってきた
この世論調査に協力して欲しい旨の電話だった
ところが耳元から聞こえるのは、指定されたボタンを押すように依頼する機械音で作られた声
1番から5.6番までどれが良いかを選択させるというものだ(投票する人・政党)
自分はいちおうどんなものかを実感する意味で全部答えたが、終わって感じたことと言えば
これが本当に世論を反映する数字となるのかの疑問だ
固定電話があって電話を受けられる人は、結果的に年配の人が多い
その人達に機械音でどのボタンを押せ、、と言っても、そんな作業に慣れていないジジババは
きちんと応えられるかが疑問、それに選択肢がいくつもあると後半の方は押されにくいのでは
と余計な心配が浮かぶ(結果的に最初の方の番号を押すのではないか)
もっとも統計には標準偏差とか誤差の概念があるから、大丈夫との声もあるが
実感としてどうなんだろうとの思いは捨てきれない

それにしても、本当に今回の選挙はひどい
取ってつけたような解散の理由(消費税の新たな使い方を問う)
このこじつけのような理由は、自分の住む新城市でも住民投票が行われるようになった時も見られた
3.11の災害が起きて物資の高騰が見られたので、今までの計画が実行できるかわからないので
そのままでよいか見直すべきかを問うために住民投票をしたい、、とある人は述べた
でも、そんなことではないことは住民は知っていた
今度の国政選挙も、本当の理由は、取ってつけたような理由でないことはわかっている
実際のところ本当の民力が試される
その結果が、悪法でも法は守ると死を受け入れたソクラテスの悲劇が繰り返されないと良いのだが


 




 

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責任について

2017年10月11日 08時55分41秒 | あれこれ考えること

ある人からそっと聞いた話から連想したこと

新城市には地域自治区制度があって、地域の問題は当事者である地域の住民が
(与えられた)お金の使い道を どのように使うべきかを自ら考えていくことになっている
その予算は、交付金用と自治区予算とに分かれており、交付金は地区の人々から活動したい事業を
所定の様式に則った書類を提出してもらい 、それを地域協議会のメンバーが選択することになっている
もう一つの自治区予算は、この地域協議会のメンバーが地域の抱えている問題について
どのように予算を使うか検討して、その結果を市長に建議し、その実行に至るというもの
新城市は10の地域自治区に分かれていて、その各地域自治区に割り当てられる予算額は
人口・面積(?)等の社会的条件によって異なり、多いところと少ないところは少しばかり差があるようだ
そして、この重要な使いみちを検討する地域協議会のメンバーは、ほとんどが区長さんが兼任する場合が多いようだ
今日の問題としたいのは、区長さんと地域協議会の役割は被っていないか、、区長さんの仕事が多すぎないか  
といった問題ではなくて、地域自治区予算の決定についての地域協議会の方の気持ちの問題

ある地域自治区は、その地域自治区予算がトータルで1000万円ほど近いもので、その大きな金額の使いみちを
果たして自分たちで決めてしまって良いものか、、本当にこれで良いのか、、との不安に襲われるのだそうだ
(これが聞いた話)
普通の生活をする人は(会社経営者でない人)1000万円近くのお金を使う経験はそれほど多くない
大金の出費は車とか家だろうが、これは適切であろうが間違いであろうが 自分のお金で覚悟もしている
ところが、自分のお金でもなく、みんなの生活への責任を持つものとしたら、心優しい心配症の人はこの様な
気持ちを持つことは想像できる(他人のお金だから責任感じずに使えるというタイプの人もいるだろうが)
少しばかり不安を覚えながらも、時が来れば粛々と進んでいくこの予算
心配症の人が安心できる(責任を軽くできるような)考え方が2つある
一つは前例に似たような事業であったと考えること
そしてもう一つは、自分たちは計画を建議したが、それを最終的に了解したのは別の人であったと考えること
建議してその計画が悪いものであったなら拒絶されるはず、、それが認められたとしたら
お墨付きを付けてくれたのだから、多少問題があるような計画であったとしても自分たちの責任ではない
この様に考えると少し安心できる
(実態は建議された自治区予算は否決されたことは一度もないそうだ)

話は飛んで、新城市の若者議会について
若者議会も地域自治区制度のように、年間使える予算が設定されている
若者たちの視点でどのように使えば市にとって効果的か、、時間をかけて
調査・討論し最終的に答申を行い、市長経由で議会に提出され可決されて実行に至る
ところが、さすがに若くて純真な人たちは素朴な不安に襲われる
こんな大金の計画を世間知らずの視野の狭い自分たちで決めてしまって良いものか、、

でも安心できるシステムになっていて、お墨付きをつける役割が別にあったのだ
それは議会の承認というかたち
ここでも現実的には若者議会で出された計画は否決されることはなくそのまま了解される
果たして議員さんたちに計画を精査する技量と熱意があったかどうかは分からないが
こうして若者たちの不安は解消される

ここで考えることは、人は過度の責任からは逃れたい
失敗しても自分たちの責任ではないとしたいし、
その保証が欲しい気持ちが当たり前のように存在するということ
これを過度に形式的に進めていくシステムが行政のそれで、
本当に一体何処に責任があるのかは分からずにイライラすることはよくある

先日読んだ「選択の科学」では辛い選択に安心感を与えてくれる例として
末期患者の対応についての話があった
治療してもしなくても望みのない状況におかれた人の家族に「安楽死」を選択させるのは、
他人が見れば適切と思われても、当人にはとても難しい
でも少しだけ自分を慰められる(納得させられる)方法があって
それは医師のアドバイスに従った  と考える事だ
自分が積極的に考えたわけではない、お医者さんが薦めてくれた方法を選んだだけなのだ、、、と

自分で選択、判断するということは思いの外難しい
自由だからどのように判断できるはず
でもその判断した責任は全部自分が負うのだとしたら
人はそんな自由なんて欲しくない、、と思ってしまうかもしれない
(こうした考察はフロムの「自由からの逃走」
 ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟の大審問官の章に取り上げられている)

それでも、それでも人は腹をくくって、覚悟を持って
自分が納得いくように判断しなければいけないことがある(多分)
それは未来に対する責任のこと、
未来のことは分からない、でもわからないなら想像するしかない
その想像した未来が本当に良きものとして迎えられるかどうか、、
人は試されているかのようだ
人はその試験に合格するようにしなければ
ところで、未来に対する責任とは、、
国では22日、新城市では29日に行われるあのこと 



 

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その体質

2017年10月10日 08時38分32秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

寝付きが良いのが自慢だが眠れぬ夜もある
その例で今でもすぐに思い出せるのは、住民投票と市長リコールのときのこと
前者では防災無線の突然の妙なメッセージの放送
市民まちづくり集会での圧倒的に理不尽な設定と進行
何よりも訳の分からない住民投票の選択肢の文章
後者では署名閲覧に関する脅しのようなチラシが入っていたときのこと
これらは、言いようのない怒りで興奮して寝付けなかった

それが昨日も選挙を前にして(国政・市政)妙に気持ちが昂ぶって眠れないこととなった
選挙は自分の住むこんな小さなところでも、バカみたいな、どうでもいい噂とか
ネガティブキャンペーンに近いことが、ひっそりどころか堂々と行われる
昨日ある会合で目にした2つの印刷物は、ひどいものだった
怪文書という類で、見なければよかった  とさえ思わせるような内容だった
一つはゴシップ、もう一つは一方的な攻撃的批判、(市議選と市長選に関すること)
これらの印刷物の目的は一体何なのかを疑うくらいのものだが、発行者の
勝ちさえすれば何をやってもいい、、という開き直りの品のなさを見せつけるもので
勝たなければ意味がないがないかもしれないが、とても肯定的に受け入れられるものではなかった
(昨日の印刷物の発行者は一体誰たちなのかよくわからなかったが)

この勝つためにはなんでもやってしまう進め方に対する違和感は
どうしても拭い去ることは出来ない 
でも、やってしまう人がいる(過去にやってしまった人がいる)
事情を知らない人には嘘を言っても、嘘とまで言わないとしても、事実と違うことを言っても分からない
だから、平気でそのように話す
ある人物は、新城市の住民投票は、3.11の震災で物資が高騰したので計画通りの予算ではできそうもないので
市民に見直しの選択をしてもらうために行った  と話し、それを一種公的な文書として残す
ところが、現実を知っている側から見れば、住民投票のきっかけは、身の丈にあっていない規模の
庁舎と建設費に対する見直しの提案で、その方法として署名を集めて住民投票を提案したもので
結果的にそれが実現したものだ(いつの間にか誰かの手柄になってしまっている)
また、よく知らないであろうと思われる人たちを前に、その人物は、住民投票が終わったあと
見直しのための実務協議を6ヶ月間行ったと口にしたが、現実に実務協議が行われたのは
たった4回でほぼ1ヶ月で終了していて、6ヶ月も費やしていない(しかも共通の意識を持つには至らなかった)

この人物の(心配な)性格を一番はっきりと見せるエピソードは、一昨年12月の市議会の冒頭の
突然開かれることになった、そしてその時しか行われない「行政報告」だ
この行政報告は「新庁舎建設見直しの経過報告と今後の考え方」がテーマで(結局はリコールの話に終止したが)
なんと13万円の費用がかかるケーブルテレビの中継も行われた(この予算は専決処分?)
この突然行われた「行政報告」は、その前にちょっとした事件がある
実務協議は、結局物別れの様な状態のまま数ヶ月経過し、より多くの削減した案を求める
団体はその具体的な案を行政に提出していた(また各地でその案の説明会も行っていた)
その案に対する意見等には何も反応していない状態で、その人物(行政)は自分たちの具体的な案を
記者発表して新聞にも紹介された
その後で、「少し聞きたいことがあるので、指定した時間に指定した場所に来て欲しい」
と声がかかった
既に自分たちで実行計画を記者発表した後で、今更何を聞くのか、、と思いながら
メンバーは指定された場所に赴くと、そこには予想もしなかったメディア(新聞・テレビ)の人たちが
待ち構えていた
そしておもむろに提案された案についての疑問点を切り出した
疑問点についての答えを印刷した形で用意したメンバーは、この様なシチュエーションは
予想していたので、印刷物を残し、メディアに計画発表する前ならば話し合う用意はあるのに
既に実行案が公にされている以上は、特に話し合っても意味はない  と判断しすぐさま退席した 
その人物にしてみれば、思いっきり試みが外された、、ということになる(メディアの前でイメージダウンを狙ったのに)
そしてその怒りは、どうやってもコントロールできなかったものらしく、突然の数日後のが行政報告という成り行きに繋がった 
もちろんこれは想像の範囲のなかで、急に行う事になった理由は、まことしやかな、それなりの言葉が用意されていた
しかし、本当のところは、、
(この行政報告はやたら興奮していたようで水をよく飲み、傍聴者のヒソヒソ声にも反応して声を上げ
  傍聴者のほうがびっくりしたという) 

こんな事、大したことじゃない
そうかもしれない  単なる被害者意識で細かいことを挙げているのかもしれない
しかし、一番の問題はこれが「政治体質」ということだ
この人物の進め方は、結局のところいつもこうだ
新城市の人でまだ良く知られていないことに、いま進行中の「裁判」がある
庁舎建設用地外の物件に対し、不当な保証金を支払ったので返却を求めるものだが
ここには「住んでいない人」が 「住んでいた」と書類が作成されたが
裁判は証拠主義なので、現時点では「住んでいなかった」という具体的な証拠が
いくつも挙げられていている
この進め方、体質がそれで良いのか、、が自分にはどうしても疑問が残る
いくら雄弁であっても、このような人は最後の最後で判断を誤る
(既にいくつも例が出ている)
人への判断は全人格的なもので、部分的な専門職としての知識だけではない
まして、未来をリードする立場の人へのそれは人間性が要求される と思うのだが
(と言いつつも、自分もネガティブキャンペーンをしているのかもしれない
  でも、どうしても心のなかにしまっておくことはできなくて、、) 

 

 



 



 

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最近、良く聴く音楽は固定しつつある

2017年10月07日 08時25分32秒 | あれこれ考えること

それなりに所有しているクラシック音楽の音楽ソフト
ところが、最近は手に取るものがだいぶ固定化してきている
年令を重ねて、足し算よりも引き算、つまり選別していかないと(人生には)時間が足りない
と感じるようになったからかもしれないが、元々持っている自分の好みや感情に
正直になってきたのかもしれない 

ついつい引っ張り出すのは圧倒的にモーツァルト
ピアノ協奏曲・ヴァイオリンソナタ・弦楽四重奏曲を始めとする室内楽曲・ピアノソナタ・交響曲・オペラ
(取り上げた順番は聴く頻度の高い順)
そして聴く度に本当にすごいなと思うのは、歌がそれぞれの楽器間、フレーズで会話しあって
よく聴くと(しっかり聴かないと抵抗感がないだけで気が付かない)微妙な変化があって、まるで気分の変化
のようで、そして「美しいもの」というのはこういうものだと思える瞬間があって(圧倒的な感動とか感傷的とか違って)
それらが完璧という表現しか思いつかないような形で耳に届く
もちろん、天才モーツァルトにも駄作はあるようで、イマイチだなと思えるようなものもある
直感的なアイデアに富んでなくて、途中から職人風の作曲技術でこなしているような作品もある

直感的なアイデア、すっと心のなかに入っていく音楽
聞きやすいだけが良いわけではないが、本当に才能のあるものは音楽の最初から何かが違う
これは小説類の冒頭にも言えるかもしれない
最初の数行で自分と波長が合うか合わないか判断できたり、その先の何かが予感できたりする
小説に限らず科学的な分野の本でも、直感的に満ちたものかどうかは何となく分かる(と言っても個人的判断だけれど)

バッハの音楽はすごいと思う
その職人的な技術の完璧さ、どこか精神という言葉がふさわしいような音の流れ
でも横着が好きな自分にはちょいと辛い
ゲレングールドのピアノ演奏で有名なゴールドベルク変奏曲
この曲は変奏曲というだけあって主題のカノンが一度ごとに職人技で滞ることなく展開される
この様に変奏のパターンがこの曲の場合とても秩序だっている(と解説文にあった)

また平均律ではハ調長・ハ短調・嬰ハ長調・嬰ハ短調、、、とこれまた規則的に
真面目に秩序だっている
そして前奏曲に続くフーガも  とても真面目で中身が濃い
でも自分にとっては真面目過ぎる
例えば曲のなかに面白くしようとする部分があっても、それは理性で考えられた面白さのよう
 

ところがモーツァルトの音楽を聴くと、例えば変奏曲でももっと自由に感情の赴くまま
音楽が進んでいくように感じられる
そしてホッとする
もっと直感に富んだ音楽のよう

この直感というもの(あるいは好み)が、果たして何に由来するのか
生きてきた経験値、それとも生まれ持ったもの、、なのか
そしてこの直感と言うものは、人がいろんなことを判断するにおいて、信用するに値するか

一言で言ってしまえば、単なる好みに過ぎないかもしれない直感
それの支配する力の強さを侮れないことは、最近読んだ認知心理学関係の本で明らかにされたし
そうでなくても、なんとなく経験でわかっている

直感の指し示すもののなかには、人への評価がある
何かを考えたわけでなく、なんとなく感じる第一印象
この印象を忘却の彼方へ消し去ることは難しい

ただ問題は、自分のことは長年付き合っているのでわかってるつもりでも
他人からは直感的にどう思われているのかは分からないということ
(偏屈な頑固者  くらいかな、、、仕方ない )

わけのわからない話はやめて、モーツァルトを聴こう
今の気分で取り出すのは、オイストラフでK364かな 
(相変わらずの毒にも薬にもならない話) 



 


 

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新国立劇場の「神々の黄昏」

2017年10月06日 08時21分30秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

「ラインの黄金」から一年後の去年の秋は「ワルキューレ」
そのまた一年後の今年の夏は「ジークフリート」
そして、その数ヶ月あとの「神々の黄昏」
飯守泰次郎さんが進める「ニーベルングの指環」のプロジェクトは自分の中では
この秋の10月4日で終わった

待ち遠しかったこの日
でもスタートがいつもの14時からではなく16時から

おまけにとてつもなく長い
これでは田舎からのお上りさんは、東京に宿泊するしか手はない
翌日は地元で用事ができたので、ホテルで寝るだけで直ぐに帰ることになった

それにしても、長い!
特に第一幕、2時間ほど延々と続く、そのため心配したとおりお尻が痛くなってきた
だが隣の人もいるので自分勝手にゴソゴソできず、正直なところ後半は少しきつかった
音楽は相変わらず雄弁、物語の背景を3人の運命のノルンが話す
人はここで大枠のストーリーを再確認することになるが、スッキリ明確にいかないで
何度も行ったり来たりするところがヴァーグナーらしい
2時間もの音楽と台本を書ききったヴァーグナーの精神のスタミナ(しつこさ)は、
日本人には少し驚きを覚える(やっぱり彼は怪物だ)

一応レコードで予習しようとしたが全部まではいかず、結局本番を楽しむことにしたが
一幕はだいたいストーリーは分かっていた
音楽自体は歌手陣が誰で、どのくらいのクラスの人か情報に疎いので偉そうに言えないが
フト感じたことを言えば、ブリュンヒルデが最初に声を出した瞬間、それまで声を出していた人たちとは
何かが違う(透明度とか訓練の度合いとか)と根拠のない印象をもった

この「神々の黄昏」のヒロインであるブリュンヒルデに対する共感、感情移入は
第2幕はもっとハッキリしたものになる
それはこの役を演じたペトラ・ラングの性格描写の凄さかもしれない
ここで見られるジークフリートとの夫婦喧嘩みたいなものは、一般家庭でもよくありそうな
というか、世間にいそうな女性の怒りみたいで、すごくリアリティがあった
おまけにノートゥングを突き立てて、横で眠るブリュンヒルデには手を出さなかった
というグンターに化けたジークフリート(記憶を失っている)は、最近不倫騒動で
「一線は超えていません」とか「男女の関係はありません」といったスキャンダラスな芸能ネタを
連想させられて、いつの時代も、どこでも似たような事件とモラルに対する要求(貞節)があるものだ
と変なことに納得した

「神々の黄昏」は演奏、パフォーマンスの良し悪しを批評・比較できるほど聴いていないので
実演では音楽を聴いているのか、筋を追っているのかわからないところだが
第3幕でラインの乙女たちが出てきたのは、このニーベルングの指環の一番最初のシーンを
回想させられて、しかも、回想することによって物語の統一感がしっかり出て、
そして物語の主役は「権力をもたらす呪いをかけられた指環」であることがわかった
そして物語の一番最初に登場したもう1人の人物アルベリヒも、今回の演出では最後に
ヨボヨボと登場し、これまた物語に余韻を与えた
(このアルベリヒは結局、どんなことになったか、、自分はよくわからなかったが)

こうした楽劇とかオペラは声が良い、声量があるだけでなく演ずる役の性格を想像させる様な
ニュアンス(演技と歌い方)が必要だが、策士ハーゲン役に佇まいや声の質、
勢いだけで屈託のないジークフリート役の若々しい様は、それぞれの歌い手さんがその道では
評価を受けているのは納得できるものだった
(ハーゲンはアルベルト・ペーゼンドルファー ジークフリートはステファン・グールド)

さてオーケストラの演奏は、、、
特に気になることはなかったから可もなく不可もないというところかもしれないが
大音量だな、、と変な記憶だけが残った
盛り上げるには大音量だが、ちょっと必然性のある流れとかニュアンスとは違うような
(と言ってどこがどうのとはよく分からなくて、ただそう思っただけなのだが)
もう少し踏み込んだ演奏はやりようがあるような気がしたが、それは西欧人と日本人の
元々持っている違いによるものかもしれない

最近「ニーベルングの指環」は日本で多く上演されるようになっているらしい
この物語の権力求めての策略や、それを求めることがもたらす運命、そしてその犠牲者等は
現在の政治の世界のドタバタをまるで暗示するかのようだ
だからこそ、読み直しの演出が幾種類も出てくるのだろう
しかしプロトタイプの神話的要素の「ニーベルングの指環」の方が
想像力を刺激して、面白そう、、、(だが、もう生で指環を見ること聴くことはない、、かな)
 

 

 

 

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可愛らしい痩せ我慢を!

2017年10月04日 05時17分00秒 | あれこれ考えること

「太った豚になるよりは、痩せたソクラテスになれ」
昔、話題になった言葉で、東大の卒業式で大河内一男総長が述べたと報道された
ところが実際は、当日この言葉は使われなかったらしい
しかも元々は「なれ」という強制的なものではなかったらしい 

功利主義者ジョン・スチュアート・ミルの
満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよい。満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスであるほうがよい」
大河内総長が意訳して用意したが実際には語らず、草稿を手に入れた新聞社の「なれ」という表現の報道によって世に定着した
というのが本当のところらしい 

ところが、意図したものと違っていたかもしれないが、この「なれ」の表現のほうがその時代の雰囲気を表しているのではないか
あの時代はどこか気張って、読みこなせもしない朝日ジャーナルや「資本論」を携えて髪を伸ばし、
タバコの煙の漂うジャズ喫茶で聞いたふりをする、そして太った豚より痩せたソクラテスを目指す
それがカッコいいとされた(と思う)

今思うと可愛らしい痩せ我慢だ
でも嫌いじゃない
いやむしろ微笑ましく、今もそうあって欲しいとさえ思う

最近の社会は本音が幅を利かせすぎて、何もかもがストレートでどこか余裕がなくなってきている
そんな時だからこそ、こういうやせ我慢が見たいな(我慢してるのは見抜けるから)

 


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嘘を見抜くことはできるか

2017年10月03日 08時39分10秒 | あれこれ考えること

朝からニュースはアメリカのラスベガスの銃乱射事件一色
現時点で死者59名、負傷者527名との報道があるが、気の滅入る話だ
どんな理由があろうと人を殺傷する道具を軽微な規制で簡単に手に入ることは、異常としか思えない
人は残念ながら、持っているものは試したくなる
江戸時代の試し切り、もしかしたら広島の原爆投下
人のなかに潜むどこか気持ちの悪い衝動、その存在をコントロールできるのは
理性ということになるが、今までの歴史の中でそれらが実現されてきたか
人は自分たちで思っているほど理性的な存在ではない部分があることは頭に入れておくべきだ
(アメリカはどれだけの人が亡くなれば銃規制を考え直すのだろう) 

ところで、話は変わって話題は「嘘について」
先日読んだ本のなかに「人間嘘発見器」と言われるアメリカの教授の話があった
この人の的中率は95%以上
普通嘘を見抜くのは警察、裁判官、弁護士、精神科医が得意とするところ
それは基本的に話していることの矛盾点を把握するところから始まる
ところが、この「人間嘘発見器」なる教授は、話の内容(矛盾点)と言うよりは
顔の表情の変化、ボディーアクションから判断する
自分の意識と違う時に見られる微妙な顔の表情の変化、つい出てしまうボディーアクション
それらを何十年も渡って詳細に研究した結果、身につけた特技、知識でこれが可能となったとのこと

人は多少の思い込みや間違いがあるかもしれないが、この教授のようになんとなく嘘を言っているのは、
わかるという気持ちを持つ(知らず知らずこの教授のような見方をしているのかもしれない)
国も市も選挙が近いので今問題となるのは、庶民は政治家という人達の話すことが本当かどうか を見分けられるか?ということ
この肯定的な例としては、最近では森友・加計学園では誰が嘘を言っているか説得力のない話をしているかは
素人でもだいたい分かると実感し、それは現に世論調査でも数字に現れている
一方、一部の方々は頑なにある種の見方をあっさり信じてしまっている(おまけに個人の判断というよりは組織の統一見解として)
そしてそれは理性的(合理的)な真っ当な説明だと言い切っている
しかし、それが信じられないというのが庶民の感覚で
なにかおかしい、、ほら水ばかり飲んだり、早口になったり 、表情に出てくる何から感じられるのもは力強く
理性的な言い訳のような説明は説得力を持たない

ところが、ここからが問題で、政治家の嘘を発見できないことがある
それは未来に関することだ
現実的には誰も未来のことは分からない
だからなんとでも言いようがある
そしてそこでは嘘を言っているという自覚はない だから表情・ボディーアクションには兆しは見えない(?)
(そこで話されることを嘘という言葉が適切かどうかは問題だが)
政治家は未来を語る、しかし未来は現実的には分からない 
先のことは分からない  という無責任なことはいけないので
期限を区切った約束を政治家は庶民に語りかける
期限は区切った、約束をした、(できそうもないけど勢いだ)
これらを話す政治家さんたちを、庶民は一体どのように判断するのか
ここでは嘘を言ってるわけではない ただ先の分からない未来のことを言っているだけ
この中で選ばなければならないとしたら、、、

一体、人は何を根拠に選ぶのだろう
誰の描く未来に実現性・リアリティー・夢を感じるか  ということなのだろうか
それとも、その人の全人格的な要素なのだろうか(この人なら間違いはしないだろうという)
人はもしかしたら自分には一票しかないということにホッとしているかもしれない
全責任を負うなんてことはしんどくてたまらない、、
他の人だってそう判断したじゃないか、、と言い訳したくなる気持ちわかる気がする
(これは「自由からの逃走」や「カラマーゾフの兄弟」の大審問官の章に通じそう)

相変わらずまとまらない話、いったい何が言いたいんだか、、、

 

 


 


 

 

 

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いつかわかる

2017年10月02日 10時07分35秒 | あれこれ考えること

昨日、福祉関連の勉強会(?)に行ってきた
そこで身体障害・精神障害・知的障害・発達障害 の分野で日々実践している方の生の声を聞く事ができた
こういう人の前にいると、どうしても引け目を感じてしまう
自分は幸いにして、身内にも近所にも今のところそのような障害をもった人はいない 
でも、福祉の仕事を忍耐強く、しかも充実感をもってこなしている人を見かけると
なにもしないで、見てるだけどころか、その実態や法律的なことも
いい歳をして何も知らないでいることが恥ずかしくなる

もともと優しい性格の人たちが取り組んでいるのだろうけれど
まだまだ(自分のような)無関心の多い世の中をどう考えるかと尋ねたところ
「いつか、わかる」との答え
特に年齢を重ねれば、身体障害を始めとして、そこから導かれるかもしれない精神障害は
他人事ではなく早かれ遅かれ当事者になる可能性大だ 
いつかその時、当事者としてわかるから 特に焦りはない  と その人達は言う
しかし、  どうしても、やっぱりやりきれない

いつかわかる
でも気付いたときには遅かった
それでは辛い
そうならないために、自分の身に起こりそうなことを想像するしかないが
その想像力が、、、

当事者と未来の当事者
ここに必要なちょっとした想像力がなんと難しいことか
いい話を聞いたんだが、少し凹みそう、、

 

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「バンド・オン・ザ・ラン」効果的なテーマの回帰

2017年10月01日 09時59分53秒 | ポール・マッカートニー

ロックの音楽をそれなりの音量で聞くのは心地よい
ストレス発散、肉体的快感も同時に味わえる
日曜の朝、久しぶりに引っ張り出したレコードは「バンド・オン・ザ・ラン」
ポール・マッカートニーの名作だ

このアルバムにはタイトルの「バンド・オン・ザ・ラン」の他「ジェット」
「レット・ミー・ロール・イット 」「1985年」などライブでも取り上げられる曲が多い
これらの曲はヒット曲全集の中で単独で収録される

しかし「バンド・オン・ザ・ラン」はコンセプトアルバムで、通して聴くほうが音楽的に圧倒的に楽しい
その理由の一つが、テーマの回帰の効果、統一感
最後から2番めの「ピカソの遺言」この曲は途中で急にまったく別の曲が挿入される
最初は「ジェット」のあの印象的な部分、そして二番目は「ミセス・ヴァンデビルト」の奇妙な
「ホ・ヘ・ホ」という掛け声
これらの曲はアルバムの最初の方に収録されているが、それが終わり近くになって回帰するのは
驚きを覚えて、しかも懐かしい
「バンド・オン・ザ・ラン」の最後の曲「1985年」も終わったと思うと「バンド・オン・ザ・ラン」
とキャッチーな歌が流れて、それで終わる
そして聴き終わったあとには、何かまとまった余韻を覚えることになる 

ポール・マッカートニーは回帰の手法が好きなようでビートルズ時代の「アビー・ロード」でも
あの素晴らしいメドレーの中に「ユー・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マネー」の冒頭のメロディが
とても効果的に再現される

これらの回帰・再現の効果は、ヒット曲を単独で聞いてるだけでは味わえない
この回帰・再現の効果こそ、音楽そのもの、、、みたいな気がする
ポール・マッカートニーはクラシックの素養や勉強をしていなくても、どうすれば効果的なのか
統一感を得られるのか把握しているんだろうな(いやいやしっかり勉強している?)

ポールのこの手法はまだ見つけられるけど、彼はホント、天才だ
同時期に生まれて、彼の全盛期を見て、聴く事ができるのは幸せなことだ
メッシの全盛期を見られるのも幸せなことだが、、

 

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