明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



うちの寒山拾得もそうだが、描かれた寒山拾得像の多くが肥満体である。中国は舘山寺で長年売られている土産物の拓本自体が相撲取りのようである。しかし舘山詩の序には"痩せてみすぼらしいと"と書かれている。私は新たな、私の寒山拾得像など創作するつもりはなく、人形を被写体に、石塚式ピクトリアリズムで描ければそれて良いと考えており、説話の世界だから、と好き勝手に調子に乗って飛びかかって、巴投げを食らって大の字になる。これだけは絶対に避けたい。私の処女出版は江戸川乱歩だったが、乱歩は早々にトリックのネタも尽き、整合性云々といわれ、子供っぽい作品しか書けなく、と本人もいっているくらいだが、それを真に受けその気になって、私ならこうする、と油断してかかると、巴投げを食らう。乱歩は食虫植物のように、創作者に対し危険な甘い香りを放ち続けている。そして多くの映画、ドラマ化で累々たる屍を連ね、その体液をすすって乱歩作品は未だに生き続けている。私は決して調子に乗らず、できるだけ乱歩が描いていることに従った。三島由紀夫が死んでいる様子を作って二回も個展を行った作者は、案外こう見えて慎重派なのである。人がいってくれないので自分でいう。 話は戻るが、なぜ多くの寒山と拾得が、"痩せてみすぼらしい"と書かれているのに肥満体で描かれる理由が気になるのだが、私としては"痩せてみすぼらしい"と一言書かれていたなら律儀に、痩せた寒山拾得にせざるを得ない。これも性分である。そう思うと、あのイカれた曾我蕭白の寒山拾得図はちゃんと痩身である。 いずれにしても、まだ金魚眺めているだけに見えるだろうけれど、いや実際そうなのだが、すでに水面下では、差し手争いは始まっている。はずである?2年後には水槽の金魚を眺めて暮らし、寒山拾得に挑もうと、本気で思っていたのだ、と笑い話になるのかどうか。 本日、フェイスブックで、2002年のニジンスキー、コクトー、デイアギレフをモチーフにした個展のことを思い出す書き込みを拝見した。これなど、前年にイベントで一度バレエを観ただけで開催してしまった。そりゃバカでなければ暴挙な事ぐらい判る。しかしやりたくて仕方なければ、そこに必ず何かが待っている。勿論開催して良かった。性能の悪い頭を使わぬよう。このためにもウチの寒山拾得が必要なはずである。 本日はテレビがないので半沢直樹をスマホて観ようと15分前まで気にしていたのに、金魚を眺めていたら残り15分となっていた。


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