明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



寒山こと桜東錦は、主役の座から降格となり、ベランダへ出向の可能性がでてきたが、一番パワフルで拾得を追い回していたのだが、ここ一週間ぼど、群れから一匹離れ、右隅の、底から10:センチくらいの所から、斜め45度上あたりをじっと見つめている。よく幼児が誰もいない虚空を指さし、知らないおばちやんがいる。そんな感じである。私の友人が魚に悪さをして死なせたそうで、以来、その水槽に新たな魚を入ると一日で死ぬことが何度も続いた。水を全取っ替えしようと効果がない。その魚はタフで知られていたから本来あり得ないことである。冗談で盛り塩してみたらどうだ、といったら、以来止まった。友人と書いた都合上、どんな悪さをしたかは書かないでおく。今流行りで映画化もされるらしい事故物件のような話である。事故物件云々といってる人達は、おそらく親類縁者に東京大空襲の経験者がいない地方出身者であろう。殺人だ自殺だ、呪いだ、といったところで、それがどうした、というのが大空襲である。戦後、雨の日にリンが青白く燃え、それが気持ち悪くて東京から越した人達の話を聞いたことがあるが、うちの母もそうだが、ゴキブリ一匹で大騒ぎしても、おそらく大空襲経験者に、特に事故物件的怪談話は効き目がないだろう。 それはともかく。寒山はまるで大海を懐かしむ、たい焼き君の如き風情であるが”淡水魚大海を知らず“である。体調の異変に備え、準備はしてあるが、餌の時間だ、となると血相をかえ突進してくるから、心配はないだろう。それにしても日々大きくなってきているから、いい加減私も、かわいい新入りを参入させては寒山と拾得役のキャスティングに迷っていてはいけない。最終決定は水槽の前で井川比佐史朗読するところの森鷗外『寒山拾得』を聴きながら決めることにしよう。

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一日  


新作が一番良いと感じるのは作家としては何よりだが、一つには目が慣れておらず新鮮に見える、ただそれだけ、ということもあるだろう。同じように、水槽内に新入りが入ってくるたび、目移りして主役を換えているようでは先が思いやられる。金魚を眺め、寒山拾得制作に備え、といっても、直接金魚自体を参考にして、という訳ではないので、いい加減にしておかなければならないだろう。他の連中が私の姿を見ると、餌を投入する水槽の左側にいつも集まっているのだが、寒山だけが、未だに一匹、右側にいて、斜め上を見ている。中学生になると、急に押し黙り、遠くを見る目になったりする奴がいたものだが、あれを思い出した。相変わらず食欲は大勢なのでそれほど気にはしていないが、主役が一匹、そっぽを向いているのもどうか。今週中には、寒山拾得の朗読CDが届くだろうから、その時に考えよう。新入りが来るたび、可愛い、などといってそちらの方に目が行ってしまうが、寒山と拾得は本来、薄気味の悪さが持ち味である。 そうこうして、芭蕉庵も、設置方法その他、記念館と確認し、そろそろ制作に入りたいところである。芭蕉の樹はともかく、深川に置かれるのであるから、古池もなんとかしたいところである。こうすれば可能か、と考えてはいるが、果たしてイメージ通り行くものかどうか。それこそやってみなければ判らない。ドールハウスやミニチュアを作る人はいるが、私が作るのであるから、その精巧さに関心してもらうより、あくまでも芭蕉像が引き立つことばかり考えてみたい。

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