明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



ホテイアオイは咲いても一日のようで、咲いたらお仕舞いだそうである.季節が終わり、ただの大量のゴミと化した池の光景を思い出した。花が咲いたのが、小学生のアサガオ以来。考えてみると先日書いた、前半生で苦手な物を後半生で克服の一種、と言えなくもないが、調子に乗って観葉植物など買うと、何でも枯らしていた、かつての二の舞となるだろう。ホテイアオイが咲いたからといって花が好物と転じた訳でもなく、早くもゴミと化した姿を想像している有様である。興味がある物とない物の差が甚だしいのは今に始まったことではない。 水槽内の金魚は、一応役柄に応じて色など違う金魚を選んだせいで、寒山や拾得、豊干その他、相応に見えている。性格も違うし、かといって、連中の興味は餌だけであって、彼等にとって、私はただの給餌装置であろう。さすがに哺乳類と違って勘違いをさせられないで済む。 森鴎外作品の朗読CDを注文した。そろそろ彼等にも具体的に妄想を描く補助になってもらいたい。といっても、凡百の寒山拾得図が肥満体型であっても、寒山詩の序文にあるように、痩せたみすぼらしい男二人にしたい。コロコロとした水槽内の連中のようにしたくもあるが、ゲラゲラ笑いながら何処かへ行ってしまうようなキャラクターには向いているからである。しかし、そう書いてある以上、それを曲げることは出来ない。松尾芭蕉を門弟の描いた肖像画だけを参考に制作したように、やって良いことと悪いことがある。

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