もう夏も終わろうというのに、ベランダに日除けを立てている。こういうことをやらせると、自分で呆れるほど愚図である。まあ昨日のブログに書いたばかりだが、愚図な代わりに人形は作れるからまあいいや、というのがお尻に付くのだが。しかしベランダの日除けも、介護用の風呂か、ビニールプールで水浴びを、と企んでいたのが、来年ということになった。 昨日の話の続きだが、興味のないことには関心がないのは生まれつき極端であった。あれは小学5、6年の時だあった。私が忘れ物が多く、宿題をやって来ないので、ついに忘れ物ばかりして宿題もやってきません、とか大書きされたサンドイッチマンの格好をさせられ、前教室を回らされた。今では考えられない仕打ちであるが、考えたら我が妹の教室も行った訳で、可哀想な目に合わせたものである。ところが宿題など興味がないので、何も感じない。私の次にジャイアンみたいな奴がこの罰を受けることになったが、大泣きして嫌がり、私で終わった。この担任は、後に某区の教育委員長にまでなった。母と担任は相談の上、どこかの施設に連れて行かれ知能テストなど色々されたのを覚えている。しかし私のような興味がないことに関心を示さない子供に何か教育方法という物があるのであろうか?自分でいうのもなんだが、処置無し、というやつではないだろうか?さすがの私も下町の、窓から手を伸ばすと隣の家に手が届くようなところに育ち、母にうるさくいわれたので、知ったかぶりを身につけ、目立たないよう生きている。結局極道の道を行くしかなかった、ということであろう。私が幸いだったのは、何かを得るためには何かを捨てなくてはならず、何処かでっぱったら、何処か引っ込ませるものだということが直感的に判っていたことであろう。何もかにも得ようというわけにはいかない。掃除の時間、何をして良いか判らずフラフラしています、と通信簿に書かれた私は、その代わり人形は作くれるし写真も撮れ、あげくに寒山拾得を作るなんていってる訳である。生まれ付き足が短い人が、その人にはまったく責任がないように、私にもまったく責任はない。
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