明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



芭蕉庵は、芭蕉記念館の担当者と案を練っている。一辺が1メートルで作れば、芭蕉像を庵の中に配置し、それこそリアルで面白いが、かなりの大きさである。当初考えた古池までは無理である。第2案は後ろ半分をカットし、背後には周り込めないよう背後の壁面に接するよう配す。第3案は、芭蕉像を中に入れるのを断念し、コンパクトに芭蕉庵全体を作る。サイズによれば古池の制作も可能になるかもしれない。こればかりは私の都合だけで決める訳には行かず、私より間違いなく空間把握能力に長けている担当者と相談の上、進めて行かなければならない。 ベランダのトロ舟(セメントを練るのに使う容器。金魚によく使われる)に沈めて水を含ませ沈むように、とアク抜きをしていた流木を水槽内に設置。少しでも中国の山中風にしたい。 全作品を絵巻調に連ねて数メートルに及ぶ作品を考えているが、寒山拾得の各エピソードを並べて行く訳だが、陰影のない日本絵画は、時間経過でさえ、一枚の画面上に展開させることなど、まったく問題もなく可能である。よって一枚の絵巻の中には寒山と拾得や虎に乗った豊干が、何パターンも登場する。ただ、同じ空間といっても、場面ごとの区切りは必要である。それが岩山であったり、樹木であったり、小川であったり、する予定だが、水槽に沈めた流木も岩山として使えそうだし、本当の岩山も使いたい。また、こんな岩肌は実際無いだろ、というような、例えば曾我蕭白の、結晶が積み重なったような奇岩も石膏を削って是非とも作りたい。嘘もホントも、分け隔てなく登場するのか私の作品の特徴といえるが、これからさらにエスカレートし、土俵からはみ出せるだけはみ出し、これは果たして写真と言えるのか、などという議論は置いてきぼりにして、ギターに長いシールドを着け、ギターを弾きながらステージを降りて会場の外に出て、さらにタクシー乗ってしまったのはアルバート・コリンズだったか?のように行ってみたい。そもそも寒山拾得をモチーフにするということは、そういうことを意味しているだろう。

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