明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



芭蕉庵制作用に、大きめのカッティングシートを注文。私のことだから買ったばかりの楢材の古い机も、あっという間に傷だらけであろう。せめてもである。今までたいした道具も使わず来たが、今度からは、机の引き出しに道具はすべて収めて、いちいち探し回ることに貴重な時間を費やすことは避けたい。普段はぐうたらしているのに制作となると、せっかちに変じ、あれがない、これがないとイライラする。それがさっきまで手に持っていたはずの物だったりすると、よけいカッカしてくる。悪いのは整理整頓が出来ない自分だから仕方がないが、今度の机は引き出しも多く頼もしい。 私の場合、自分の駄目な部分、欠点部分が、制作のために、すべてがそちらに導入されているのだ、という考えなので、駄目なところが、その分制作に関わるパートに補充されているのに決まっている。人なんて特別な人間はともかく基本的に、能力、才能なんてほとんど与えられた量は変わらないだろう。バカも刃物も使いよう一つである。なので欠けているといつても、その分脳味噌に穴が空いているわけではなく、必要な部分に回っているに違いがない。 当ブログでは、人形作家としての神秘性を自ら台無しにし続けているが、方向音痴では負け知らず、数字が苦手で計算も駄目だと平気で書いているが,実はその後に,、書かないだけで必ず(その代わり人形が作れるのだ)というのがくっ付いている。であるから私が自身の駄目さ加減を嘆いているようで、実は内心ウットリしている場合があるから油断は出来ない。 世間的にいえば、いわゆる«お目出度い人間»ということになるだろうが、お目出度くないよりは良いのではないか。最近は物忘れがひどくなったことさえも、ひどくなった部分が制作のために駆り出されていることになった、と思っている。よく、そんな状況なのに笑っていられるものだ、といわれるが、物は考えようである。といっても私の場合は、最初から思いこんでいるから、考えも何もないのである。

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