金魚、食欲の収まることを知らず、餌が消えたあとも、水面の泡が餌に見えるのかエアーは充分なのにパクパクやっている。お前らの飼い主はすでに数十年前、空気を飲み込んで腹を満たせるかを試み、失敗に終わったといったろう。 外の世界にレンズを向けず、念写が理想といいながらも、芭蕉庵の芭蕉の樹や、古池には実写を使ってみたい。また寒山拾得の背景にも、わずか数十センチの石膏で作った岩山に、数百メートルの実物の岩山を、分け隔てなく配してみたい。私の場合はウソもホントも等価である。 子供の頃、家で絵を描いたり本を読んでばかりいないで外で遊んで来なさい、と言われ、外でばかり遊んでいると、今度は家にいろ、という。『いったいどっちなんだよ。』大人はかってなことをいうものであるが、今の私は外であろうと、在宅だろうとウソとホントの割合が多少変わるだけで、これは長年、まことを写す、という意味の写真という言葉に抗い続け、古いレンズを使ったり、古典技法を試み、そしてついに被写体から陰影を除くに至り、私がようやく勝ち得た状況であると考えている。だがしかし、陰影をなくすという簡単なことを思い付くのに時間がかかり過ぎた。作家シリーズから寒山拾得というモチーフに、一挙にジャンプ、あるいはワープしたのは、それについての悔やみがそうさせているのは間違いないだろう。持ち時間には限りがある。それでも今のところ、ただ金魚を眺めているしかない。いずれにしてもあらゆる謎はすべて自分の中にある。何もこの暑い中、外に出掛ける必用はないと考えている。
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