橋下徹と石原慎太郎コンビの日本維新の会が3月30日党綱領を発表、その中で改憲意志を明確に提示している。
〈日本を孤立と軽蔑の対象に貶め、絶対平和という非現実的な共同幻想を押し付けた元凶である占領憲法を大幅に改正し、国家、民族を真の自立に導き、国家を蘇生させる。 〉――
改憲に関する文言はこれだけである。だが、たったこれだけの短い文言が多くを語っている。
安倍晋三と同じく日本国憲法を占領憲法だと断罪、「日本を孤立と軽蔑の対象に貶め」とはおどろおどろしい。
戦後に生き残った戦前の血を引いた日本の政治家には占領軍主導を待たなければ日本国憲法のような民主的憲法をつくる力を持たなかったことは昨日のブログに書いた。
そのような占領軍主導制定の日本国憲法を日本人自身の手で改憲して、「国家、民族を真の自立に導き、国家を蘇生させる」と高邁なる目標を高々と掲げている。
このことを読み解くと、当然のことだが、占領軍憲法が日本国家、日本民族の自立を奪い、日本国家を仮死状態に陥れたということになる。
ということは、これも当然のことだが、戦前の日本は国家としても、民族としても立派に自立していたということになる。
要するに戦前の日本は国家としても、民族としても立派に自立していたにも関わらず、戦後占領軍がそのような日本国家、日本民族の自立を日本国憲法を魔法の杖にして奪ってしまい、日本を孤立と軽蔑の対象に貶めた。
だから、占領軍憲法=日本国憲法を改憲して自立にかけた魔法の呪縛を解き放ち、孤立と軽蔑の対象から外して国家、民族の真の自立を回復させ、日本国家を蘇生させなければならない。
日本維新の会の改憲意志はこのような論理を取っているはずだ。
この論理を正当化するためには戦前の日本が国家としても民族しても自立していたことを前提としなければならない。
果たして戦前の日本は国家として自立していたのだろうか。
個人に関しても同じだが、国家が自立するについては、国家としての行動を与えられた義務と責任に基づいて自らを律し、行い、その行動の結果に対しても責任を負う体制を国家自らが構築していなければならないはずだ。
構築していなければ、自らの行動を律することはできない。義務と責任を負わない場所に自立も自律も期待しようがない。
個人に関して言うと、学校でイジメが事実として明かになりながら、校長や教師が情報隠蔽や情報操作を謀って責任回避や責任転嫁に走る。このような校長や教師は自立した個人と言えるだろうか。
自立(もしくは自律)には常に義務と責任が伴う。
戦前の日本は国家の行動として起こした戦争の敗戦という結果に果たして責任を負ったのだろうか。連合国側の東京裁判で様々な形で責任を取らされたが、日本国自らはどのような責任も取らなかった。
これは当然の責任回避であろう。責任を明らかにする戦争の総括すら回避して行なっていなかったのだから。
責任の明確化が存在しない場所に責任遂行は存在しない。あるのは責任回避と責任転嫁のいずれか、あるいはその両方である。
いわば日本は敗戦に於いて自立していない国家の姿を曝した。
戦争の敗戦という結果に対する責任だけではない。開戦の決定に関しても国家としての義務と責任に基づいて自らを律し、行動の結果に対して責任を負う自立国家の姿を果たして取っていたと言えるだろうか。
「Wikipedia」の「総力戦研究所」の項目がそのことを教えてくれる。
既にご存知の方も多くいると思うが、戦前の日本国家が自立国家だったかどうかを明らかにするためにこの項目を参考にして説明したいと思う。
総力戦研究所は昭和15年(1940年)9月30日付施行の勅令第648号(総力戦研究所官制)により開設された内閣総理大臣直轄の研究所として組織され、昭和16年(1941年)7月12日。研究生に対して、日米戦争を想定した第1回総力戦机上演習(シミュレーション)計画が所長の飯村から発表された。同日、研究生たちによる演習用の青国(日本)模擬内閣も組織された。
模擬内閣閣僚となった研究生たちは7月から8月にかけて研究所側から出される想定情況と課題に応じて軍事・外交・経済の各局面での具体的な事項(兵器増産の見通しや食糧・燃料の自給度や運送経路、同盟国との連携など)について各種データを基に分析し、日米戦争の展開を研究予測。
総力戦机上演習の結論。
「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に青国(日本)の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」
日米開戦の1941年(昭和16)12月18日から遡る3~4カ月前の1941年8月の時点で日米開戦以後の実際の展開をほぼ予測していた。
この研究結果と講評は1941年8月27・28日両日、首相官邸で開催された『第一回総力戦机上演習総合研究会』に於いて当時の近衛文麿首相や東條英機陸相以下、政府・統帥部関係者の前で報告された。
東条英機「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戰争というものは、君達が考へているようなな物では無いのであります。
日露戦争で、わが大日本帝国は勝てるとは思はなかった。然し勝ったのであります。あの当時も列強による三国干渉で、止むに止まれず帝国は立ち上がったのでありまして、勝てる戦争だからと思ってやったのではなかった。戦というものは、計画通りにいかない。意外裡な事が勝利に繋がっていく。したがって、諸君の考えている事は机上の空論とまでは言はないとしても、あくまでも、その意外裡の要素というものをば、考慮したものではないのであります。なお、この机上演習の経緯を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということであります」――
しかし日米国力の差、軍事力の差、軍の機動性の差(アメリカ軍は南洋諸島に飛行場を構築する際、ブルドーザー等の機械類を持ち込んだが、日本にはないために刑務所の囚人などを日本から動員して手作業で構築したという)、自国資源の差、特に日本は石油の80%近く、鉄類は70%近くをも当時アメリカからの輸入に依存していた、その差は厳然たる事実として存在していたはずだ。
同じ総力戦研究所の総力戦机上演習を扱った次の記事――《【日米開戦 70年目の検証】考・資源 日本の国力「平和であればこそ」》(MSN産経/2011.5.7 07:41)に以下の記述がある。
〈米国は鉄産出で対日13倍、石炭8倍、石油300倍。産業の「コメ」である鋼材生産力は20倍近い。その「コメ」を材料に兵器を生み出す工作機械は米国製に頼っていたが、日米通商航海条約廃棄(15年1月)に伴い対日輸出が禁止されている。
国民総生産は約1千億ドルと10倍以上。総合的国力は約20倍の格差があったと推定されている。机上演習は「敗戦」以外の結論を導きようがなかった。〉――
こういった国力の差を示す厳然たる事実に対して東条英機は、日露戦争の勝因としてロシアが艦隊をバルト海方面からスエズ運河やアフリカの喜望峰周りで日本海に航行させなければならかった地の不利や日英同盟による英国のロシアに対する牽制といった事実としてあった勝因に関わった合理的な要素を挙げずに、「日露戦争で、わが大日本帝国は勝てるとは思はなかった。然し勝ったのであります」とか、「戦というものは、計画通りにいかない。意外裡な事が勝利に繋がっていく」、あるいは、「諸君の考えている事は机上の空論とまでは言はないとしても」と事実を無視して空論もどきに貶め、「あくまでも、その意外裡の要素というものをば、考慮したものではないのであります」と、事実に基づく合理性から離れた精神論を戦争行為の主体的要素とする非合理性は無視できない。
こういった頭の働きをすること自体が自立した人格とは言い難く、そのような人格の持主が陸軍大臣として国家の枢要な地位を占めて国の方向を決める大きな力となっていた。
だとすると、1941年(昭和16)12月18日の総力戦机上演習結論無視の日米戦争突入を裏返すと、自立していなかったのは東条英機一人ではなく、戦前の日本国家自体が国家としての行動を与えられた義務と責任に基づいて自らを律し、行い、その行動の結果に対しても責任を負う自立国家の体裁にまで至っていなかったことの証明にしかならない。
この証明が間違っていないとすると、戦前の日本国家の非自立をそのまま引き継いだ占領時代の日本国家の非自立ということになり、日本維新の会が党綱領で謳っている「日本を孤立と軽蔑の対象に貶め、絶対平和という非現実的な共同幻想を押し付けた元凶である占領憲法を大幅に改正し、国家、民族を真の自立に導き、国家を蘇生させる」とする政治目標は占領政策や日本国憲法に対する責任転嫁となる。
責任転嫁してその価値を「軽蔑の対象に貶め」た。
日本国家として自立していない存在性は占領や占領政策、さらには日本国憲法にも関係しない戦前から引き継いでいる日本人個人の問題となる。
日本人個人が自立していないから、その集合体としての日本国家も自立できていないと言うことではないのか。
「日本を孤立と軽蔑の対象に貶め、絶対平和という非現実的な共同幻想を押し付けた」と言っていることが日本国憲法9条の戦争放棄を指しているのだとしたら、武装解除・戦争放棄は当時としては戦前の日本の攻撃的軍国主義のツケを支払わされた当然の措置であろう。
憲法の戦争放棄の規定が自立した国家として必要な対外行動を規制していると言うなら、先ずは戦争を総括して、国家としての自立を獲得していなければならなかったはずだ。
戦前も国家として自立していなかった、戦後も自立していなかった。ここに来て自立云々を言うのは矛盾そのものだからだ。
勿論、日本国憲法を占領憲法だと「軽蔑の対象」として貶めることも矛盾そのものとなる。