下村博文の、これでよく文科相を務めていられるなと思う検証精神なき認識能力

2013-04-22 02:41:32 | Weblog

 安倍晋三が4月19日日本記者クラブ講演で、成長戦略の一つの政策として「チャレンジ社会」・「全員参加型社会」の構築に言及したが、現在そういう社会になっていないことに発している構築意欲である以上、構築できていなかったことの原因を探らなければ、満足な構築はできないと一昨日のブログに書いたが、下村にしても教育行政を与っていながら、他国の高校生と比較して日本の高校生が自分はダメな人間だと思う比率が66%もあることに言及しながら、その原因がどこにあるのか一言も触れもせず、あるいは原因を想像することもせず、嘆くだけで答弁を終えている。

 これでよく文科相を務めていられるなと思う中途半端な認識能力を曝していることにサラサラ気づかずに文科相でございますと振舞っている鉄面皮はさすがである。

 まあ、安倍晋三とお仲間なのも、こういった検証精神が共にない共通項がお互いがお互いを引き寄せている理由なのかもしれない。

 文科省の人材を駆使して調査するか、他の教育関係の機関に依頼して調査するかすれば、答は出てくるはずだ。答を出して原因を突き止めなければ、66%の高校生の自信を取り戻す政策なりの手の打ちようはないはずだが、日本青少年研究所の調査を表面的に受け止めて、表面的に解釈する情報解読能力は、暗記教育形式の知識・情報授受の構造に従っているに過ぎない情報解読であって、表面的受け止めと表面的解釈から何ら発展がないことも、これまた暗記教育の知識・情報授受と同じ構造を取っている。

 その発言は4月10日(2013年)の衆院予算委員会で、坂本祐之輔日本維新の会議員が「学校教育の果たす役割」について下村文科相に質問したときに飛び出している。

 下村博文「先程総理もお話されておりましたが、日本青少年研究所というところで毎年4カ国の意識調査をしております。この中で高校生の意識調査で、自分をダメな人間だと思うと答えている中国の高校生は12%。韓国の高校生が45%。アメリカは23%。日本は自分はダメな人間だと思う、イエスと答える高校生が66%もおります。

 他の国に比べてもですね、圧倒的に、なおかつ中学生のとき以上に高校生になると、さらに自分はダメな人間だと思う子どもたちの数は増えている。

 それがそのまま大人になったとしたら、日本社会でも7割以上がですね、自分がダメな人間だと思う国にですね、活力が生まれるはずがないわけでございまして、そういう意味で、学校教育の本質的な意味としてですね、やっぱり一人一人の子どもたちが、あの、自分に対して自信を持ってですね、自分は素晴らしい人間であると、そして自分という存在がさらに能力を引き出して、教育によって引き出して、そして社会に貢献できる、自分という人間がいることによって、周りの(人に)喜んで貰う、そういう一人一人を養成するということが教育の役割であるというふうに思います」――

 教育の役割は一人一人の子どもたちが自信を持つことができ、社会に貢献できるよう、教育によって引き出すことだと素晴らしいことを言っているが、自分がダメな人間だと思う子どもが66%も存在する原因を突き止め、あるいは想像することで原因を想定し、その原因を除去せずに、言っているところの理想像の育みを教育の役割とすることができるのだろうか。

 そういった手続きを取らずに原因を残したまま、自信を持たせることができると考えた教育を施したとしても、不毛な土地に素晴らしい収穫を約束するという新種の種を蒔くのに似た結果しか招かないのではないだろうか。

 少なくとも教育行政を与る政治家として、まずは原因を突き止めるか想像するかで、その原因の除去に努める責任を有しているはずだし、原因の特定が対策の特定につながるケースが多いことから考えても、その方面の発言が一切ないということは責任の放棄・不作為に当たる。無責任そのものではないか。

 下村博文は自身の公式サイトでも同じ話題を取り上げているが、やはり原因追求の姿勢を見せることはない。 

 《日本再生 教育創世」》(下村博文公式Web/2012年7月30日)

 『4ヶ国の中高校生意識調査』

 日・米・中・韓の4ヶ国中高校生の意識調査によると、「自分はダメな人間と思う」中学生は、日本56.0%、米国14.2%、中国11.1%、韓国41.7%。高校生になると、日本65.8%、米国21.6%、中国12.7%、韓国45.3%と、財団法人日本青少年研究所の調査で分かった。

 どうして日本の中高校生は、こんなに多くの割合で「自分はダメな人間だ」と思っているのだろう。彼らの心情を思うと、切なく暗くなる。

 子供がダメなのではない。そのように多くの中高校生が「自分はダメだ」と思わせる日本社会が問題であり、子供達はその社会の鏡に過ぎない。

 また、「よく疲れていると感じる」中学生は、日本76.0%、米国55.1%、中国47.9%。高校生は日本83.3%、米国69.3%、中国63.9%で、日本の中高校生は、ほとんど疲れている。

 ところが、日本の中高校生の1日の勉強時間は、学校、自宅、塾を含め1日平均8時間で、中国は同様に1日約14時間。日本の中高校生は中国の中高校生のほぼ半分しか勉強していないのだ。

 それでも日本の子供の方が疲れているのは何故だろう。就寝時間が短いのも影響しているようだ。他国の子供に比べ、ダラダラ生活を送っているようだ。

 同研究所は「中韓と比べて、勉強もしていないのに弱音を吐いている現在の子供たちの姿がはっきりみえた。甘えの気持ちが強いのではないか」と分析している。

 子供は社会の鏡だ。日本の社会そのものからシャキッとする必要がある。日本を建て直そう! 

 「どうして日本の中高校生は、こんなに多くの割合で『自分はダメな人間だ』と思っているのだろう」と考えながら、原因を考えてみることすらせず、「彼らの心情を思うと、切なく暗くなる」と、合理性のカケラもない情緒的反応で済ませている。

 また、「日本社会が問題であり、子供達はその社会の鏡に過ぎない」と言いながら、では日本社会にどのような問題があって、その問題が子どもたちにどのように影響しているのかを考え、子どもたちに悪影響を与えない手立てを探るでもない。

 何も考えない、何も手立てを探っていないことは日本青少年研究所の「中韓と比べて、勉強もしていないのに弱音を吐いている現在の子供たちの姿がはっきりみえた。甘えの気持ちが強いのではないか」としている分析を単に紹介するのみで、自分自身の分析を何ら付け加えていないところにも現れているが、結果的に日本青少年研究所の分析を正しい分析として無考えに従っているに過ぎないことになる。

 要するに暗記教育の知識・情報伝達の構造さながらに自身の解釈は施さずに日本青少年研究所が伝える解釈をそのまま受け止めて自身の解釈に変えただけで、そこに何らの発展も試みていない。

 一昨日のブログにも似た趣旨のことを書いたが、実社会に於ける大人たちの学歴主義や有名大学主義、あるいは有名人を持て囃す一種の英雄主義等の価値感を反映して学校社会が児童・生徒たちの可能性を社会の価値観に応えることのできるテストの成績能力と部活運動能力にほぼ限定していることが、それらの可能性に恵まれていない児童・生徒を学校社会から弾き出すことになり、学校社会が求めていないことによって自身の可能性を見つけ出すこともできず、「自分はダメな人間だ」と思わせる自信のなさを生んでいる原因ということではないだろうか。

 当然、学校社会はテストの成績能力と部活運動能力に限定した可能性だけを求めるのではなく、他の様々な可能性も用意して、そのような可能性の探求に力を貸して、その可能性に邁進させることでより生きやすい学校社会とすることができるはずだし、そのような生きやすさの確立が「自分はダメな人間だ」と自己否定し、自信を喪失する児童・生徒の数を減らす要因にもなるはずだ。

 可能性を限定していることが、学校社会が求める可能性から排除された生徒のうち、イジメを自らの可能性とし、それを自己活躍の手段とする児童・生徒も現れる原因ともなっているはずだ。

 下村博文のように教育行政を与りながら、満足に考えることのできない政治家は安倍晋三と同様に逆に日本の教育を危うくする。

 このことは道徳の教科化に現れているが、そのことに関しては別の機会に論じたいと思う。

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