安倍晋三が4月14日(2013年) 硫黄島を訪れ、戦没者の遺骨収集の様子を視察したあと、現地開催の戦没者追悼式に出席、愚かしいばかりの挨拶を行なっている。
《首相 硫黄島の遺骨収集に全力》(NHK NEWS WEB/2013年4月14日 17時49分)
安倍晋三「祖国の安寧を祈願し、遠く離れた家族を案じつつ、戦場に散った方々に思いをいたすとき、悲痛の思いが胸に迫るのを禁じえない」――
追悼式後、記者団に。
安倍晋三「いまだに戦没者のおよそ半数の遺骨は眠ったままだ。総理大臣官邸がリーダーシップをとって、なんとか遺骨帰還事業を着実に進めていきたい」――
遺骨早期収集は「総理大臣官邸がリーダーシップ」を取ろうが取らまいが、早期に完了しなければならない大切なことだが、何よりも大切なことは国家が硫黄島戦でアメリカ軍戦死者約7千弱に対してその3倍近い日本軍約2万の兵士を戦死させるに至った国家の戦争の正当性の検証であって、国家が兵士を戦士させた戦争に正当性を与え得て初めて戦死者に対して悼みの思いを伝える顕彰の正当性を得ることができるはずだ。
検証・総括の結果、国家の戦争が正当性ある戦争だったと高々と宣言できたとき、硫黄島戦に限らず、すべての戦闘の戦死者は国家の戦争の正当性を受けた正当性ある戦死との位置づけが可能となって、特に国家権力に所属する人間にとって、初めてその死を顕彰の対象とする資格を得る。
当然、硫黄島戦のみならず、沖縄戦やガダルカナル戦等々を含めて全体としての国家の戦争の正当性を検証する戦争総括にこそ、「総理大臣官邸がリーダーシップ」を取って行わなければならないことになる。
このことを逆説するなら、正当性の答を出さずに「戦場に散った方々に思いをいたす」とか、「悲痛の思いが胸に迫るのを禁じえない」とか言うことは、その言葉自体の正当性も失うはずだ。
もし国家の戦争に正当性を与えることができなかったなら、顕彰の対象とするのではなく、国家の戦争によって犠牲となった犠牲者として、安倍晋三は謝罪の対象としなければならない。
戦死者の家族・近親者にしても、「戦場に散った」という文脈ではなく、国家の犠牲にされたという文脈での追悼に変わるはずだ。
確かに戦場に駆り出された兵士は「祖国の安寧を祈願し、遠く離れた家族を案じつつ」苦しい戦争を戦い、家族を残し兄弟姉妹を残し、その生命を散らしていっただろうが、だが、安倍晋三がそのように言う言葉は戦死者が正当性ある国家の戦争を戦った言葉であって、国家の戦争の正当性を問う検証・総括をしないままのそのような国家の戦争の正当化は歴史のゴマ化しそのものであろう。
戦前、内閣総理大臣直轄の研究所として組織された総力戦研究所が昭昭和16年(1941年)7月12日、日米戦争を想定した第1回総力戦机上演習(シミュレーション)を、日米国力比較・戦力比較等の様々なデーターとソ連参戦等の予測可能性を駆使して行った結果、日米開戦前の時点で“日本必敗”の予測結果を出していたいうことは4月9日の当ブログ記事――《日本維新の会党綱領の「日本を孤立と軽蔑の対象に貶め」云々の憲法観の筋違いな責任転嫁 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に書いた。
内閣総理大臣直轄の研究所が勝てないと予測したにも関わらず、国力が20倍近くも格差のあるアメリカに戦争を仕掛けていって、旧厚生省統計によると、日中戦争の発生から敗戦までの日本人の戦没者数は軍人、軍属等約230万人、外地の一般邦人約30万人、空襲等による国内の災死没者約50万人、合計約310万人もの死者を出し、国を破壊した国家の戦争に安倍晋三は検証・総括の結果、どのような正当性を与えようとしているのだろうか。
それとも以後も国家の戦争を検証・総括せずに、さも正当性ある国家の戦争であったかのように装って戦死者を悼み続ける歴史のゴマ化しを押し通そうとするのだろうか。
尤も後者がふさわしい安倍晋三の人格とは言うことができる。