安倍晋三が昨日、4月19日午後3時30分から日本記者クラブで講演した。首相官邸HP――「成長戦略スピーチ」を参考にし、発言の中から「チャレンジ社会」、「全員参加型社会」への言及を取り上げて、真に理解しているとは思えない主張を俎上に載せたいと思う。
安倍晋三「すべての人が意欲さえあれば活躍することができるような社会をつくることが成長戦略です。老いも若きも、障害者や病気を抱える方も意欲があれば、どんどん活躍して貰いたいと思います。
一度や二度の失敗にへこたれることなく、その能力を活かして、チャレンジできる社会をつくり上げます。すべての人材がそれぞれの持場で持てる限りの能力を生かすことができる全員参加型社会こそが、これからの成長戦略のカギであると思います。
高度成長時代の所得倍増計画を理論づけた下村治博士は『経済成長の可能性と条件』と題した論文の中でこう論じています。
『成長政策とは日本の国民が現に持っている能力をできるだけ発揮させる条件をつくることだ』と。下村博士は当時4千5百万人いた就業者が非常に高い潜在能力を発揮できる機会が少ないことを指摘し、機会さえしっかりと与えれば、日本経済は成長できると説きました。
この下村博士の言葉は現在も普遍的な価値を持っていると考えます。
政権が発足してから僅か3カ月でこれまで低迷していた新規求人数は4万人増えました。1本目、2本目の矢は確実に新たな雇用、という形でも、成長を生み出しつつあります」(以上)
具体策として大学生が3年生まで学業に集中できるようにすることと帰国留学生が就職活動で不利とならないよう、国内卒業生との機会平等を図るために就職活動解禁時期を現在の大学3年生12月からを大学4年生の4月(春休み)への後ろ倒しや、各種資格習得試験支援の「自発的キャリアアップ制度」の創設、日本の若者の目を世界に向ける目的の世界の若者との交流の機会創設、そのための英語が確実に身につく教育環境の整備、女性の社会参加を容易とするための待機児童解消、子育てて休業、もしくは退職した女性の職場復帰の保証等を挙げている。
安倍晋三は「一度や二度の失敗にへこたれることなく、その能力を活かして、チャレンジできる社会」の構築と「すべての人材がそれぞれの持場で持てる限りの能力を生かすことができる全員参加型社会」の構築を「成長戦略のカギ」だと断言した。
いわば安倍晋三は日本の社会は「チャレンジ可能社会」とも、「全員参加型社会」ともなっていないと宣言したことになる。だから、成長できないのだと。
だとすると、安倍晋三もかつて関わった自民党政権がこのような社会の構築を長年放置していたことになり、その怠慢・不作為を問わなければならないが、このことは措いて、そのような社会となっていることの原因はどこにあるのか、先ずは探らなければならないはずだ。
原因不明のまま、新たな社会を設計しても、今まで構築できなかった原因は残ることになって、折角の新しい設計も構築できなかった原因が設計の阻害要因とならない保証はない。
原因を先に探って、日本の社会に特有な事情、あるいは日本人に特有な思考性の結果としてあるなら、あるいは日本人に限らず、日本人を超えて人類にある程度共通した思考性の結果としてある原因なら、そのことの修正から入らなければ、「チャレンジ可能社会」も「全員参加型社会」も満足な設計図を得ることは難しく、当然、不満足な構築とならざるを得ない。
安倍晋三は言いっ放しで、このような視点を全く欠いている。認識能力の程度が知れるというものである。
安倍晋三の程度の低い認識能力からしたら、「チャレンジ可能社会」も「全員参加型社会」も期待はできない。
学校社会は実社会の下位社会を形成している。相互に別個の社会として成り立っているのでは決してなく、実社会の在り様の影響を受けて学校社会は成り立っている。いわば学校社会は実社会のヒナ型として存在し、相互反映関係にある。
実社会の大人たちが決める教育を受け、実社会のマスメディアが発信の大部分を占める(垂れ流すと言ってもいい)、大人たちが構成する知識・情報の影響を受けて人間としての成長を経て、実社会に出て、実社会の大人たちの仲間入りをするのだから、児童・生徒と大人たち、あるいは学校社会と実社会は、ある意味、年齢の大きく離れた双子の関係にあると言うこともできる。
実社会が「チャレンジ可能社会」も「全員参加型社会」も実現し得ていないにも関わらず学校社会が両社会を実現していたなら、実社会のヒナ型として存在し、年齢の大きく離れた双子の関係にあって相互反映し合っているという両者の関係性は崩れることになる。
学校社会は「チャレンジ可能社会」となっているのだろうか。「全員参加型社会」だと言うことができるのだろうか。
学校社会はテストの成績を最重要・最優先の価値観とし、テストの成績をモノサシとして児童・生徒の人間の価値を測るか、部活に於ける野球なら野球と限った、あるいはサッカーならサッカーと限った運動能力の優秀性を最重要・最優先の価値観として、部員としての人間の価値を測る社会となっていることは事実としてある社会現実であろう。
学校教育者も教育関係の識者も価値観の多様化と言いながら、多用な価値を認めず、学校社会に於ける児童・生徒の可能性をテストの成績か、それぞれの部活の能力に限定している価値観の閉鎖生が学校社会に於いて「チャレンジ可能社会」も「全員参加型社会」も構築し得ていない原因となっているということであろう。
このことを逆説するなら、学校社会の大人たちはテストの成績か運動能力でしか、児童・生徒の可能性を試さないチャレンジ閉鎖社会・一部参加型社会を形作っていると言うことができる。
学校社会と実社会は相互反映の関係性にあるからこその学校社会の「チャレンジ不可能社会」・「一部参加型社会」に対する実社会の「チャレンジ不可能社会」・「一部参加型社会」ということであるはずだ。
学校社会で生まれながらに運動能力に恵まれていない児童・生徒がテストの成績を上げることができなかった場合、テストの能力か部活の運動能力しか求めない学校社会に於いてどのような再チャレンジの機会があるというのだろうか。
自身の可能性に気づかされないままに学校を卒業し、社会に出て、何らかの幸運なキッカケで自身の可能性に気づいたか、他者が気づかしたかした新社会人も存在するだろうが、多くは可能性が分からないことが原因となって生活のために行き当たりばったりに就職しては辞めていくことの繰返しを続けることになる。
実社会がチャレンジ不可能社会、あるいは非全員参加型社会となっている象徴的な事例として、大学卒から3年間は新卒扱いとするとする政府の通達を挙げることができる。
実社会は大学新卒と既卒に差別を設けているということである。あるいは大学新卒と既卒に付与する価値観を異にして、前者により高い価値観を与え、後者により低い価値観を与えているということである。
だから、わざわざ政府が通達を出さなければならない。
このような状況をも含めて、学校社会、実社会共々チャレンジ不可能社会・一部参加型社会となっているそもそもの原因は職業や学歴、収入等々のそれぞれの価値を上下で測って人間の価値の上下に当てはめる日本人の権威主義にあるはずだ。
例えば職業に貴賎はないと言いながら、職業を上下の価値観で測り、その上下に応じて人間に貴賎をつける。
非正規社員が正社員と比較して非婚が多いのは単に収入が低いことだけが原因ではなく、非正規であることを以って人間価値的に下に見る蔑視感も影響しているはずだ。
安倍晋三が学校社会に於けるチャレンジ不可能社会、非全員参加型社会に目さえ向けることができずに実社会だけに存在するかのように言う程度の低い認識能力を曝しているようでは、「チャレンジ社会」、あるいは「全員参加型社会」の何たるかを実際には理解していないまま、言葉自体の格好の良さのみで安請け合いした、多分参院選対策なのだろう、国民に対する約束としか思えない。