橋下徹大阪市長が1月27日日曜日(2013年)朝日テレビ「報道ステーションSUNDAY」に大阪局から中継出演して、桜宮高体育科系入試中止の正当論をペラペラと熱弁した。
その熱弁発言どおりに入試中止に正当性があったのか、見てみる。
その前に入試中止の正当性との関係から、桜宮高部活動再開のニュースと、入試中止の正当性とは関係しないが、上記番組の中で取り上げている桜宮高男女生徒のインタビュー発言から、彼らが学校や教師に如何に依存しているか、見てみる。
その依存関係が体罰を許す一つの土壌となっているはずである。
依存関係とは非自立の関係とイコールする。
日本人の行動様式は上が下に従わせ、下が上に従う権威主義的上下関係を行動様式・思考様式としていて、そのような非対等性が相互に自立し得ない人間関係を築き上げると書いてきたが、まさに彼らの発言は権威主義的上下関係の体現を物語っている。
異なる場面の発言だが、一つに纏める。
男子生徒「今までの先生と生徒、結構仲いいんで、全員替わったら、2年も1年もパニックになると思うんですよ」
女子生徒「私達の深い絆を癒してくれるのは同じ傷を味わった先生にしかして貰えないことだと思います。
大人の方が今やろうとしていることって、その子の命をムダにしてしまうことだと思います」
「その子」とは自殺した生徒のことだと思うが、入試中止まですることは、その子の本意ではないと思うといったことなのだろうか。
男子生徒の発言だが、小学校から中学校、中学校から高校学校と先生はガラリと変わるし、友だちもその多くが替わる。中学から高校へ進学するときに一度経験していることであって、教師が替わることによって今までと違う世界が体験できるといった発想がないのは教師に対して依存した関係を築いているからだろう。
もし自立していたなら、学校の危機管理の無責任な怠慢から一人の生徒を自殺させてしまったことを考えて、教師総入れ替えという厳しい環境を乗り越えていこうと心決めなければならないはずである。
女子生徒の「私達の深い絆を癒してくれるのは同じ傷を味わった先生にしかして貰えないことだと思います」は、これ以上はないというぐらいの教師に対する依存関係にどっぷりと浸り込んでいる。傷ついたというなら、自らの力で立ち直ろうと決意する自立心を発揮してもよさそうだが、教師に癒しを求める依存状態に陥っている。
生徒自身の教師に対する依存心が強いから、体罰指導まで受け容れることになり、体罰指導を当たり前として依存することになる。自立していたなら、自らの主体性を恃(たの)むことになって、主体性を無視することになる体罰での強制に嫌悪感を感じるはずである。
次に部活再開の記事。《桜宮高校運動部再開へ 一部顧問は交代》(NHK NEWS WEB/2013年2月5日 22時47分)
大阪市教育委員会は2月5日、体罰常態化が疑われたバスケットボール部、男子バレーボール部、サッカー部の3部活の顧問交代等と体罰根絶に向けた誓約書の提出を前提にすべての運動部の活動再開を決定。
1月6日、校長が生徒に説明した上で運動部の活動を再開。
勿論、在校生に対しては授業カリキュラムでも体罰に依存しない、自主性・主体性に基づいた行動能力の学習を用意することになるだろう。成果は先のことであるにしても、教育環境ということでは異常な環境から曲がりなりにも正常な環境へと転換できることになる。
そこに新入生がストレートに加わっては悪い理由はないはずで、逆に積極的に参加させても何ら障害はなく、と言うことなら、わざわざ入試を中止してからストレートに参加させるというのは意味もない面倒を受験生に課すことになる。
大体が在校生やその保護者がその学校の体罰容認の風潮を黙認、馴染んでいくのは入学してからのことであって、学校の教育環境を変えることによって回避可能となる風潮である。
入試中止を持ってくるのではなく、教育環境の改善を持って来さえすれば解決していく問題であった。
勿論、改善を定着させることができるかどうかは教師や在校生徒のみならず、新入生徒の態度にかかっている。生徒が教師の指導に言いなりになる自立から程遠い依存関係しか築くことができなければ、あるいは教師が生徒の自立心を促す指導ができなければ、教師は部員に自ら能力を伸ばそうとする姿勢が期待できなくなって、教師が望む結果を出さないと、苛立って手が出たり足が出たりの体罰につい走って、元の木阿弥とならない保証はない。
では、「報道ステーションSUNDAY」の橋下発言を見てみる。発言の間に挟んで、適宜批評を加えたいと思う。
橋下徹「暴力というものがある意味常態化し、そして周りの先生の誰もが止めることができなかった。
このまま体育科を何の問題もなかったかのように入試を継続するなんていうことは、まっーたく僕はそれは教育という観点からしても、間違っていると思っています」――
学校は決して「何の問題もなかったかのように入試を継続」するわけではあるまい。あれだけ大きな問題となったのだから、学校内から体罰を根絶しなければならなかったし、例え入試を継続しても、体罰を根絶した学校へと迎えることになるはずだ。
体罰根絶は市教委が決めたように部活顧問に体罰指導はしないとする誓約書を書かせて、以後、学校が監視することによって可能となる。
橋下徹「生徒はね、先生を絶対的な存在にしてしまう。それはいいことだけれども、しかし危険と隣り合わせです。それがずうっと積み重なってきて、だーれも止められなくなってしまった。その結果、一人の生徒が命を断ったわけです。
それをホントーにキッカケとして、トコトン徹底して改めていくと、いうことが、僕はね、亡くなった生徒に(対する)本当の思いだと思いますね」――
「先生を絶対的な存在にしてしまう」ことが「いいこと」であるはずはない。「危険と隣り合わせ」ではなく、自立した精神の確立という点で危険そのもの、毒薬にしかならない。教師を絶対とし、自身を非絶対とすることから教師に言いなりの状態をつくり出し、体罰に関しても言いなりの誘発を行なうことになる。
長野智子キャスター「入試中止に至った一番の理由は?」
橋下徹「それは桜宮高体育科が新入生を迎え入れるような状況ではないということです。それは在校生や保護者、それはね、桜宮高の体育科を目指してきて、そしてそこでずうっと、まあ、顧問の指導の先生に、まあ、教えを請うているわけですから、ある意味、正しいもんだと思って、信じ込んでいますけども、これは客観的に見れば、とてもじゃありませんけども、新入生を迎え入れるような、いわゆる教育の現場の体を成しておりません。
もう一つは、これはね、評価の問題です。価値判断の問題です。暴行事案がこの桜宮高校では常態化していたんです。あとから詳しくまたお話をさせてもらいますが、バレーボール部では既に数年前に停職処分の、あの、教師がなってるんですね。それぐらいの暴行事案があった。
繰返し暴行を、まあ、体罰を行ったんだけれども、今度は学校は隠蔽をした。もっとひどいことに今回問題となっているバスケットボール部に於いては、公益通報制度で2年前に、2011年ですが、体罰があるんじゃないかという指摘があった。
しかしこれもですね、教育委員会も学校もきちんと調査せずに、まあ、公益通報の委員の制度も問題もあるんですけれども、これは結局、この調査が不十分である」――
橋下徹は「まあ、顧問の指導の先生に、まあ、教えを請うているわけですから、ある意味、正しいもんだと思って、信じ込んでいます」と自己判断できない生徒の姿を炙り出しているが、これは体罰以前の問題で、日本の教育の問題である。
橋下徹にはそのことに気づくだけの判断能力がないらしい。
橋下徹が指摘している様々な問題点が明らかにならなければ、普通に入試が行われて、新入生が体罰の風潮・文化に順々に馴染んでいくのは目に見えているが、しかしすべての問題点が一般社会の目から隠された状態にあることになって、悪しき風潮・文化は潜行したままとなり、表面は平穏無事を描くことになる。
だが、問題点は、例え全てではないにしても、大方は明らかになったのである。全てを明らかにするのは今後に待つとしても、明らかになった問題点を早急に是正すれば、在校生の感染の治療に役立つし、以後の新入生の感染を防ぐことができる。
そこに入試中止という要素は関係しない。実際に部顧問に体罰をしない誓約をさせている。例え生徒・保護者が強い部、より良い成績を願って厳しい指導を求めたとしても、学校の監視がしっかりしていれば、体罰指導を手段として勝利至上主義には走れないはずである。
橋下徹「これは暴行が常態化している。そして生徒が自殺した。とーんでもない事態なんです。ところが、その、やっぱり認識、事の重大さの認識、それは在校生も保護者も、教諭も、その重大性の認識についてはね、非常に弱いですね。まあ、弱い。
これは生徒や保護者のね、色んな自由記述欄、あのー、アンケート調査とか、そういうものがドンドン僕んところへ上がってきていますが、非常に心配です。
こういう状態でね、子どもたちをドンドン卒業させるっていうことについては、非常に問題、非常に心配。
でも、これは今の教育委員会では、それをね、心配だと思っていない。問題だと思っていない。個々の価値観の違いなんでしょうね」――
新入生に同じ繰返しをさせないこと、在校生をそういった環境から脱出させることが喫緊の課題であって、教育委員会や学校の尻を叩けば、できない解決ではなく、解決できなければ、体育科志望受験生の普通科入試も不可能となる。
長野智子キャスター「生徒はなお体育科の入試をやめても、何も根本的な解決にはならないというふうに訴えておりますが、それに関してはどういうふうにお答えになります?」
橋下徹「これはね、あの色んなメディアの中から批判の中でも多いんですけどね、じゃあ、体育科を継続したら、もっと何も変わりませんよ。
これは体育の入試をね、あのー、中止することによってすべてが変わるわけじゃないけれども、しかし、もう変わり始めています。
先程生徒も言いましたけども、桜宮体育科あっての桜宮高校なんです。この体育科、今までやってきたことが間違っている。そこを先ずはっきり示すこと。意識を変えて貰わなければいけません。
在校生・保護者、まだまだ不満がある。早くクラブをしたい、早く試合をしたい。しかしちょっと待ってくれ。今そういうことじゃないでしょ、と。学校の問題点は何だったのか。先生のね、指導を受けて、みんなOBを含めて、先生は愛情の、まあ、愛情に基づいた指導なんだと、みんな思っているわけです。
しかし外から見たらね、桜宮高校の外から見たら、完全に間違った指導なんです。しかし在校生も保護者も、OBも、その間違いをまだ認識しておりません。
今ね、試合の事とかクラブ活動のことじゃなくて、暴行事案が学校現場に、生徒がそれを最大の原因として自殺をしたんです。そういうところの状態の中でね、今やらなければいけないことっていうのは、何が学校で間違っていたのか、それを徹底して在校生・保護者、教員、外部の有識者を含めてね、話し合いをして、自分たちの間違いを自ら気づくことなんです。
そして自分たちで立て直すことなんです。それをね、入試を継続したままやれっていうのは無理なんですね。ですから、体育科の、先ず入試をやめて、そして一から立て直してもらう。そのような方針を僕は貫くべきだと思っています」――
体育科というのは器に過ぎない。いわばハコモノに過ぎない。中身の人間の在り様(ありよう)が器、あるいはハコモノの質を決める。中身の人間の在り様を変えることによって、新たに入ってくる生徒にふさわしい器、ハコモノを提供可能となる。
人間のありようを変えるということは橋下徹の「意識を変える」ことが基本となるのは言うまでもない。
体罰は絶対にいけないことと厳禁し、体罰に頼ることは部活顧問と依存関係にあることを意味し、それぞれが自立していないことを証明するに過ぎないこと、さらに自主的・主体的に自らの能力を伸ばしていく姿勢の獲得こそが部活顧問の体罰といった強制に従って動く姿勢を必要としなくなり、真に自立した自己を確立できると教え込むことによって器、あるいはハコモノの質を変えることができ、橋下徹が言う「自分たちで立て直すこと」につながる。
入試中止によって変えることができるのは器、あるいはハコモノではなく、当然中身の人間でもない。入試中止は関係しないということである。
ところが橋下徹はあくまでも入試中止に拘る。
橋下徹「桜宮のね、ある意味看板であった体育科っていうものが、これは今までの遣り方が間違っていたんだっていうことをはっきり示して、入試をストップさせた。これが一番重要なんです」
これでは体育科の今までの遣り方の間違いを入試中止を材料に受験生に思い知らせるのと同じである。
橋下徹「体育科をこのまま継続してやってたらね、何も変わらないですよ」
政治の世界のムダ根絶は先ず直らないと見ていいが、体罰根絶は可能である。学校に隠れて体罰して、それが成功しても、一度成功するとまた体罰をしたくなり、いつかは露見するものだ、体罰をするときは懲戒免職を覚悟しなければならないと教師に伝えておけば、教師にしても自分が可愛いから、例え手を出したくなってウズウズしても、できないことになる。
橋下徹「これから体育科の、体育科を抜本的に変えていくって言うんですから、今までもおんなじ意識でね、入試を迎えられたら、入試に挑まれたら、ダメなんですね。
だから、変わるって言うんだったら、まずはね、入試をやめてね、変わってから、その変わった状況できちんと、お迎えをするというのが本来の筋ですね。
これ、入試を継続してね、混乱が収まるなんて、絶対ないですよ。だって、先生も替わっていってしまう、クラブのあり方まで変わっていってしまう。授業のカリキュラムまで変わっていってしまう。取り敢えず入試をだけ継続してね、先ず生徒だけをそのまま迎え入れよう何ていうのは、これほど無責任なことはないですね」――
矛盾だらけの発言となっている。変化に時間がかかると言うなら、在校生はかかる時間の間、被害者でいなければならない。変化に成功しなければ、被害者のまま卒業させることになる。
カリキュラムを変えることも部活のあり方、指導のあり方を変えることも、中身や運営方法を変えることによって、少なくとも従来の遣り方とは異なる選択を生徒に与えることができるはずである。変えることに時間がかかる程、無能揃いというわけではあるまい。
無責任なのは橋下徹の方だと気づいていない。
例え無能揃いで時間が掛かるにしても、新入生をストレートに体育科に迎え入れて、新しいあり方を模索する議論に参加させてもいいわけで、参加することによって社会人として成長していく何らかの糧を身につけていくはずである。
最後に橋下徹が入試中止は間違っていると考えるなら、「選挙で落とす権限を有権者は持っている」と自ら発言したことに対して、出演者の政治評論家だかの後藤謙次が質問している。
後藤謙次「(桜宮高の)高校生たちが記者会見の中でですね、私たちには選挙権がないんだと言ってましたけども、この言葉はどう受け止められましたか?」
橋下徹「まだ高校生は未成年ですね。未成年者には責任もないんです。だから、権利も制約されるんです。だから、大人がしっかりと子どもたちのために判断をしなければならない。
僕は在校生のために、そして受験生のためにね、彼らの気持ちをそのまま汲むことが大人の、また市長の役割だと思っていませんね。
彼らの考えがもし間違っているんであれば、そして受験生のね、将来のことを考えて、今桜宮の体育科に入ることは、これは最悪の状態だというふうに僕が判断したんであれば、この受験生の将来のことを考えて、一回は普通科に入れて、そして桜宮を完全に立て直してね、そこからもう一回、そういう体育のね、専門科っていうものをつくって、入れたらいいと思うんですね」
後藤謙次はこの発言に何ら反論を試みていない。
橋下徹は桜宮高を完全に立て直すには時間がかかると見ている。だとすると、在校生を被害者のままに放置することになる。早急に体罰なしのクラブの運営も、カリキュラムの作成もできないとしていることになる。
だが、現実には市教委は新しいカリキュラムの導入と体罰根絶に向けた誓約書の提出を義務付けて、新しいスタートを開始しようとしている。
あとは実効性を持たせ、実績を上げていくことが残されているだけである。やはりそこに新入生を参加させて悪い理由はない。
確かに未成年者は権利が制限される場合もある。親の承諾を得なければ、権利の行使ができないこともある。だが、教育を受ける権利は日本国憲法第26条第1項に「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」と規定されていて、その権利は制限されるものではない。
当然、受ける教育の内容に発言する権利も制限されるわけではない。問題はその発言内容の是非、判断の程度のみである。是非、判断の程度は親や教師との議論の闘わせによって決着をつけるべき事柄であって、権利云々の問題ではない。
もし受ける教育の内容に発言する権利を制約するとしたら、言葉を封じること以外の何ものでもない。
勿論、教育を受ける権利には受けるについての責任が伴う。その責任も未成年者だから、制約されるということはない。決して免除されるものではない。
入試中止の是非を問う選挙ということで言うなら、親が子どもと議論、子供の主張を正当とすることができたなら、子供の意思を親が代理して投票することもできる。
また、子供に代って「大人がしっかりと子どもたちのために判断をしなければならない」と言っていることは、大人が子供を下の位置に縛り付けて、子供の判断を禁止し、大人の判断を子供に押し付けて、その判断に依存させ、行動させようとする権威主義的発想からの発言であって、子ども自身の判断を禁じて大人の判断に依存させることは自立の阻害に当たり、自立促進の障害にしかならない。
自立を促すには子供の判断を尊重し、大人がその判断を間違っているとするなら、自らが正しいとすることに責任を持ち、議論し、諄々(じゅんじゅん)に言い諭して、その間違いを納得させなければならないはずだ。子供が自ら判断しない場所からはどのような自立も生まれない。
以上、橋下徹の桜宮高体育科入試中止論には無理があることを書いた。書いたことの正当性も問われることになる。
小野寺防衛相が昨夕、1月5日夕方、緊急記者会見し、先月の1月19日(2013年)午後5時頃、東シナ海で中国海軍のジャンカイ1級フリゲート艦から護衛艦『おおなみ』搭載の飛行中のヘリコプターに射撃管制用レーダーの照射が疑われる事案があったことと、同じく先月の1月30日、東シナ海で中国海軍のフリゲート艦が海上自衛隊護衛艦に対して射撃管制用レーダーの照射があったことを公表した。
射撃管制用レーダーとは艦艇搭載ミサイルの発射に当たって、敵攻撃目標に照準を合わせて照射し、それを捕捉・追尾しつつ、次の段階でミサイル等を発射、攻撃・撃破する、いわばミサイル等を敵攻撃目標にまで誘導する目的のレーダーだそうだ。
よくアメリカ映画などで戦闘機が敵戦闘機にレーダーを照射、赤外線を照射したときのような小さな赤い点が敵戦闘機にマークされると、操縦士が、「ロックオン」と言って、敵戦闘機をレーダーが捉えたことを告げ、編隊を組んでいる隊長機や基地からの発射許可が降りるのを待つ。
発射許可が降りると、レバーのボタンを押してミサイルを発射。ミサイルが後尾から白い煙を吐きながら、逃げようと機体をくねらせるようにして揺らしながら飛行方向を激しく変える敵戦闘機をどこまでも追尾していき、最後に吸い込まれるようにして命中、敵戦闘機が爆破されるシーンを見かける。
中国側にはミサイルを発車する意思はなかったに違いないが、問題は面白半分に照射したのか、「いつかは攻撃してやるぞ」といったかなり悪質で意図的な威嚇意思に基づいて照射したかである。
親指と人指し指をピストルの形に作って、その指を相手にピストルを向けるように向け、撃つマネをして発射音を口で「バン」と言う。冗談でするときもあるし、相手に悪意を持っていて、殺してやりたいという思いがそうさせている場面を映画等で時折見かける。
サスペンス映画などでは実際に後になって実物のピストルを撃ち、相手を殺すシーンにお目にかかる。
政府関係者の受け止めは、尖閣諸島周辺の警戒を強めている自衛隊牽制の狙いからではないかという見方と、中国軍の現場の独断との見方があるらしい。
レーダー照射と同じ1月30日午前11時頃、中国海洋監視船3隻が沖縄県尖閣諸島沖合の日本の領海に1時間半に亘って侵入している。
これは現場の独断だろうか、あるいは軍、もしくは中国当局の意図的行為なのだろうか。
1月30日から5日後の2月4日午前9時半頃から午後11時半過ぎまで14時間に亘って同じ中国海洋監視船2隻が同じく沖縄県尖閣諸島沖合の日本の領海に侵入している。
14時間は明らかに現場の独断からではない、中国当局の指図を受けた意図的侵犯であろう。中国は尖閣諸島を自国領土だとしている。いわば自国領海だと見せつけるための14時間という示威行動だと推察することができる。
中国海洋監視船2隻が14時間に亘って日本領海に侵入した同じ2月4日、戚建国・中国人民解放軍副総参謀長の記者会見を次の記事が伝えている。
《「主権・領土」で譲歩せず=軍高官、海上闘争に決意-中国》(時事ドットコム/2013/02/04-21:47)
北京で開催の軍と国家機関の海上安全協力問題に関する座談会での発言だそうで、国防省が公式サイトで伝えたという。
いわば戚建国・中国人民解放軍副総参謀長の発言は中国政府の意思でもあることを物語っていることになる。
2月4日の何時頃の座談会か分からないが、中国海洋監視船2隻が日本領海に侵入していた2月4日午前9時半頃から午後11時半過ぎまでの14時間内の座談会と見ていいはずだ。
日本と北京の時差は日本の方が1時間進んだ1時間だということだが、「朝まで生テレビ」というわけではないだろうから、まさか午前8時半前とか午後10時半過ぎからの座談会といったことはあるまい。
また、中国人民解放軍が14時間にも亘る中国監視船の動きを把握していないということもあるまい。
戚建国・中国人民解放軍副総参謀長「国家の核心利益は一つも損なってはならず、主権は一分たりとも失ってはならず、領土は一寸たりとも欠けてはならない。
わが国の安全上の脅威は主に海上から生まれ、わが国の発展の重点も海上にある。軍と国家機関は海上闘争と海上安全、権益保護、安定維持の任務で著しい効果のある戦略的協力を行った」――
記事も解説で伝えているが、「軍と国家機関」を主語に据えていることからも、軍・政府一体の意思表明となっている。
1月19日と1月30日のレーダー照射が現場の独断であったとしても、中国は尖閣諸島は中国領土だとして、一歩も譲ることはない。そのことの改めての宣言が戚建国・中国人民解放軍副総参謀長の北京の座談会での発言であった。
いくら日本政府が尖閣諸島は日本の領土だと言い立てたとしても、中国も尖閣諸島は中国の領土だと言い立てる。日本政府が尖閣諸島を実効支配している関係から、中国は尖閣諸島を自国領土だと証明するためには領海侵入や接続水域航行といった示威行動を余儀なくされるのだろう。
レーダー照射が現場の独断だったとしても、「軍と国家機関」の意を体した以心伝心の行動としていることは間違いないはずである。
あるいは中国当局の尖閣諸島に関わるこれまでの行動を見たとき、「国家の核心利益は一つも損なってはならず、主権は一分たりとも失ってはならず、領土は一寸たりとも欠けてはならない」ことの強い意志表示を日本に対して何らかの具体的形で突きつける必要性を常に衝動として持っているはずだから、現場の独断であった方が思い切った形での尖閣諸島は中国領土であることの宣言とすることが可能となり、そのことに対する日本の対応を瀬踏みすることができるという計算を成り立たせているかもしれない。
勿論、偶発的な不測事態が起きる危険性は高まる。
だが、日中双方が自国領土だと言い張っている限り、偶発性の危険性は収まらない。
安倍政権が「尖閣諸島は歴史的にも国際法上も日本の領土だ」と主張するなら、中国に対して歴史的根拠、国際法上の根拠を証明して、納得させる以外に日中の軍事的衝突の偶発性を停める方法はないのではないだろうか。
「尖閣はわが国固有の領土であり、外交交渉の余地はない」と言っている間は中国の尖閣を自国領土だとする示威行動はなくならないだろうし、常に日中衝突の偶発性を抱えることになる。
主張は相手を納得させて初めて主張の正当性を持つ。いわば安倍首相の「尖閣諸島は歴史的にも国際法上も日本の領土だ」は中国を納得させることができていない、日本国内向けの主張に終わっている。
内弁慶という言葉がある。家の中では強いことを言っても、外では主張できなことを言う。当然、外では通用しない家の中だけで通用する主張ということになる。
――安倍晋三は徳田政務官採用判断と辞表受理判断の妥当性を辞任理由明確化の上証明する説明責任を負う――
よく分からないことが多い。復興庁政務官を兼務する徳田毅国交省政務官が女性問題で2月3日夜、自ら辞任申し出を行い、翌日4日午前中に辞表提出、即受理されたということだが、そのあまりのスピード処理からすると、かなり重大な罪に相当する女性問題のようにも思えるが、にも関わらず、その事実内容を本人は明らかにしていない。
過去の女性問題だと伝えている記事もある。
この過去がどのくらい遡った過去なのか分からないが、過ぎ去ったという意味の過去と解釈すると、過去の女性問題に関わる責任をいつまでも引きずらなければならないわけではないから、スピード辞任劇が不可解な側面を持つことになる。
いつまでも引きずって、ついて回るとしたら、昨年の2012年7月に6年遡る2006年の高級クラブ女性との不倫を週刊誌に報道された橋下徹大阪市長などは徳田政務官に習って大阪市長を辞任しなければならなかったはずだ。
だが、無事生き残っている。
考えられることは殆どの記事が憶測しているように、第一次安倍内閣が複数の閣僚の不祥事や不適切発言等のスキャンダルと安倍自身のその対応のまずさから支持率を下げていき、2007年7月の参院選で歴史的大敗、国会運営に支障をきたして遂には病気を理由に自ら首相の座を投げ出した苦過ぎる過去を学習・反省して、まもなく始まる国会審議での追及を避けるために内閣運営の障害物可能性を早めに取り去ったということなのかもしれない。
しかし、そういった事情で辞表を受理したからといって、全ての問題が片付くわけではない。辞表を受理したということは、任命責任者の安倍晋三自身が徳田議員の過去の女性関係を、例え過去のことでも、現在の政務官としての職務に、人格上の観点からなのかどうか分からないが、関係してくる至って不適切な問題だと、一方では判断していなければならないからだ。
つまり、安倍晋三が任命責任者として一度は徳田議員を復興庁政務官兼務の国交省政務官に採用しているということは人物を見込んだ上でのことだろうから、内閣運営の障害物可能性の早々の除去のみを理由とした辞表受理ではあってはならないということである。
当然、安倍首相の徳田議員に対する人物評価に関わる採用の判断と、採用の判断に反した辞表受理判断が妥当かどうか、国民に説明する責任を負うはずだ。
国民が安倍首相の判断の妥当性を判断するためには徳田議員の女性問題を詳しく知る不必要が生じる。どんな女性関係だったのか、どんな女性問題だったのか、スキャンダルと言っていい人格に関わる問題だったのか、徳田議員自身が記者会見か国会で説明責任を果たすことによって知り得る情報から、国民は安倍首相の採用と辞表受理の判断との比較で、その妥当性を推し量ることが初めてできることになる。
では、政府はどういった対応を取るつもりでいるのか次の記事で見てみる。《徳田氏辞任 過去の反省踏まえ対応》(NHK NEWS WEB/2013年2月4日 18時53分)
この記事も過去の反省からの対応として把えているが、過去の反省からのみの辞表受理など前代未聞で、あっていい訳はない。あくまでも個別に判断しなければならない問題のはずである。
2月4日午前の記者会見。
菅官房長官「大変残念だ。国政の遂行に支障が生じないよう、後任の任命を速やかに行って責任を果たしていきたい。対象を数人に絞っており、国土交通行政と震災復興に力を発揮できる人という考え方で選考している。
(辞任を直ちに認めたことについて)政権を遂行していくうえで、必要な判断をできるだけ早くしていくのが政権の役割であり、安倍総理大臣もさまざまな反省のうえに立って今度の決断をしたのだろう」
記者「徳田政務官は、議員辞職する必要はないのか」
菅官房長官「私が今、概略の報告を受けていることから判断すると、必要ないだろうと思っている」――
徳田毅国交省政務官(コメント)「一身上の都合で政務官を辞任した。問題の内容については、相手との関係で明らかにすることができないが、私自身の問題で内閣に迷惑をかけたくないと考え、辞任を決意した。経済再生と被災地の復興に向け始動したやさきに、国民の皆様、政府や党の関係者に大変ご迷惑をおかけすることになり、心よりおわび申し上げる」――
菅官房長官の発言は政権遂行上の障害としないための辞表受理という点のみは理解できるが、それだけでは肝心要としなければならない任命責任者の安倍晋三の徳田氏政務官採用の判断とスピード辞表受理の判断の妥当性を国民は判断しようがないし、徳田氏の辞表提出理由が「相手との関係で明らかにすることができない」では、安倍首相の任命責任と徳田氏の辞任との整合性が理解不能のまま終わることになって、このまま片付けるのなら、任命責任者安倍晋三の国民の目に事実を隠す説明責任回避を策しているとしか思えない。
また、菅官房長官は議員辞職の必要はないと言っているが、安倍政権が一方的に言っていることで、国民の側からしたら、議員辞職しなくていいのか、議員辞職までいくべきなのかの判断材料を一切持たない状態なのだから、採用判断と辞表受理判断をも含めて、国民の与り知らない所で行われる、情報の多くを隠した、あるいは説明責任を省いた密室辞任劇となる。
このことも問題だが、国民を与り知らない状態に置くこと自体が一種の情報遮断、あるいは情報操作、さらにあるいは情報隠蔽に当たるはずだ。
菅政権は福島第一原発の放射性物質拡散に関わる情報を発表しない情報遮断や、情報を隠す情報隠蔽、政権に都合のいいように情報を操作する情報操作等々を犯してきた。
安倍政権になっても、情報に関わる様々な処理に関して期待できないことになる。
記事は主だった人物の発言を伝えている。
太田国交相「昨夜、電話をもらい、徳田国土交通政務官から辞任したい旨の報告があったが、夜ということもあったので『また、あすにでも』という話をした。はっきりと辞任するということではなかったと記憶しているが、辞表の届けを出したということなので、私としてはそれを受け止めたい。国土交通省としては、国土交通行政に遅れが出ないようしっかり進めていきたい」
石破自民党幹事長「徳田政務官としては、内閣や自民党にいささかなりとも迷惑がかかってはならないということで、早い決断をしたのではないか。政権に与える影響が全くないかと言えばそうではないが、最小限にとどめることが必要だ」
漆原公明党国会対策委員長「理由は詳しく聞いていないが、内容によっては厳しく問われることがあるかもしれない。政府は、仲間意識や温情で対応するのではなく、国民の視点に立って、素早く処理することが大事だ。相当前の話が原因のようだが、その事実を知りながら政務官に任命したのかどうかも、衆議院の予算委員会などで話題になるだろう」
与党関係者のうち前二者は任命責任者としての安倍晋三の徳田氏政務官採用判断と辞表受理判断に触れていない。当然のことだが、漆原国対委員長のみが徳田氏政務官採用判断に触れているが、安倍晋三の辞表受理判断には触れない片手落ちを犯している。
細野民主党幹事長「ニュースで流れているのは速報で見たが、全くどういう状況なのか分からないので、今の段階ではコメントしかねる」
「全くどういう状況なのか分からない」からこそ、どういった経緯で2012年12月26日第二次安倍内閣発足から1カ月そこそこで自らが採用した政務官を辞任させなければならないのか、その状況を知るために任命責任者たる安倍首相の説明責任、辞表提出の徳田議員に説明責任を求めなければならない立場にありながら、「今の段階ではコメントしかねる」などと、この程度の咄嗟の判断しかできないようだ。
「詳しい説明責任が必要だ」の一言ぐらい言えないのだろうか。
共産・市田書記局長「事実関係は詳しく掌握していないが、みずから辞任を申し出て、それが受理されたということは、『任にふさわしくない』という事実を、政府としてもつかんだからではないか。政府にしてみれば、『はやくシッポを切っておこう』ということではないか」
過去の反省を主たる動機とした、第一次安倍内閣失態の二の舞を避ける理由からの早手回しの辞任劇ということなら、まさしく市田氏が言っているように、トカゲのシッポ切りということになる。
実際にトカゲのシッポ切りかどうかの判断に資するためと、どのような女性問題だったのか、徳田氏自身が説明責任を果たすことによって可能となる彼自身の辞任の妥当性に対する判断材料の提供と、その判断材料から得ることができる国民の判断との比較で、安倍晋三の任命責任者としての徳田氏政務官採用判断と辞表受理判断の妥当性を国民が判断できる説明責任を果たさなければならないことは改めてここで繰返す。
内閣総理大臣の任命責任に関わる問題である。如何なる情報操作も許してはならない。少しの情報操作でも許した場合、放射性物質拡散といった重大な緊急事態に於いても国民の生命を無視した情報操作・情報隠蔽・情報遮断が引き起こされることになる。
2月1日の参議院本会議での代表質問で、水野賢一みんなの党議員から中国のノーベル平和賞受賞者の民主化活動家劉暁波(リュウ・ギョウハ)氏の釈放について質問を受け、安倍首相が「釈放されることが望ましい」と答弁したと伝えているマスコミ記事を読み、「望ましい」ということはどういうことなのだろうと思って、NHK中継放送の録画を文字に起こしてみた。 水野賢一・みんなの党「総理は外交方針として自由・民主主義・法の支配などの価値感を共有する国々との連携を模索しているようです。
「望ましい」とは希望であって、釈放の要求という如何なる意志行為に関しても自らの関わりを外側に置く意思表示に過ぎない。いわば関わろうとしないことの宣言に他ならない。
では、代表質問の劉暁波氏に関する箇所を見てみる。
そういう意味では、それらの価値感が一致するとは言い難い状況の中国とは共産党一党独裁の元、様々な人権侵害が続いています。3年前、民主化運動をしている劉暁波(リュウ・ギョウハ)氏がノーベル平和賞を受賞しましたが、政治犯として服役中のため、授賞式に出席することさえできませんでした。
そのとき自民党議員は総理の菅首相に、釈放を求めるべきだと、随分詰め寄っていました。みんなの党も劉暁波氏の釈放を求める決議案を国会に提出致しました。
安倍総理は劉暁波氏を含む中国の民主化活動家やチベットの独立運動家に対する中国政府の弾圧に対して、どのような姿勢で臨むのですか。具体的には劉暁波氏の釈放を求めますか」
安倍晋三「中国の民主化活動家を巡る人権状況や国際社会に於ける普遍的価値である人権及び基本的自由が中国に於いても保障されることが重要であります。
劉暁波氏についても、そうした人権及び基本的自由は認められるべきであり、釈放されることは望ましいと、考えられます。
このような観点から、これまでも政府間の対話などの機会を捉えて、民主化活動家についての我が国の懸念を中国側に伝えてきております」(以上)
「中国の民主化活動家を巡る人権状況や」から、「釈放されることは望ましいと、考えられます」は一般論を述べたに過ぎない。「望ましい」とする希望すら、考えられることだとする、自分自身の問題から遥か遠くに遠ざけた、低いレベルの一般論としている。
一般論だから、釈放に関わる安倍晋三自身の「私」という主語を言葉のみならず行間にすら存在させていない。どこからも「私」の釈放意志を窺うことができない。
当然、安倍晋三の劉暁波氏釈放に関わる本気度は限りなくゼロに近い疑義が生じることになる。
安倍晋三は機会あるごとに「自由と民主主義、基本的人権、法の支配」の普遍的価値を言い立てている。2013年1月18日にインドネシアを訪問、インドネシアのユドヨノ大統領との首脳会談は行ったものの、アルジェリアでの邦人人質事件を受けて、何の役にも立たないだろうが直接指揮を取るため、予定を早めて帰国することになったことから、スピーチする予定だったがスピーチし済まいの『開かれた、海の恵み―日本外交の新たな5原則』の中でも、「普遍的価値」に触れている。
安倍晋三「未来をつくる5原則とは。第一に、2つの海が結び合うこの地において、思想、表現、言論の自由――人類が獲得した普遍的価値は、十全に幸(さき)わわねばなりません。
第二に、わたくしたちにとって最も大切なコモンズである海は、力によってでなく、法と、ルールの支配するところでなくてはなりません。・・・・・」
かくかように「思想、表現、言論の自由」、「法と、ルールの支配」等の「人類が獲得した普遍的価値」を挙げて、普遍的価値に対する希求精神旺盛なところをご披露に及んでいる。
対して劉暁波氏拘束は中国では自由も民主主義も認められていない、基本的人権も存在しない、法の支配も確立していない等々が一般的社会性・一般的国家的性格となっている反普遍的価値横行の象徴である。
にも関わらず、その象徴を打ち破って、中国の反普遍的価値を僅かでも切り崩そうとする「私」の意志を示すことすらしない、矛盾した普遍的価値希求精神旺盛となっている。
普遍的価値の認識及びその希求精神の程度が知れる。単に中国に対する対抗手段として利用している普遍的価値に過ぎないからだろう。身についている「自由と民主主義、基本的人権、法の支配」の普遍的価値とは決して言い難い。
水野賢一議員が「そのとき自民党議員は総理の菅首相に、釈放を求めるべきだと、随分詰め寄っていました」と言っていることの一例を、以前ブログに利用したから、挙げてみる。
2010年10月14日の参議院予算委員会の質疑。山本一太自民党議員、現沖縄担当相が、アメリカのオバマ大統領も釈放を求めている、英国政府も、フランス政府も、ドイツ政府も求めている、日本政府も釈放を求める予定があるのかと菅無能首相を追及している。
この10月14日は2010年9月7日に尖閣諸島中国漁船衝突事件が発生、逮捕した中国人船長を中国の圧力に屈して菅政権が釈放した9月24日から20日後である。
「中国に於いて、普遍的な価値ある人権と、基本的自由が、保障されることが、重要だと、このように考えております」と言いながら、次のように答弁している。
菅首相「まあ、どういう形での、どういう・・・・、表現をするかということは、あー・・・、考える・・・、必要があると思いますが、釈放されるのが望ましいと、このように思っております」
安倍晋三とほぼ同じ答弁となっている。普遍的価値保障の重要性を言いながら、いざ釈放となる後、釈放すべきだではなく、「釈放されるのが望ましい」と希望にとどまっている。
この答弁に対する山本一太の更なる追及。
山本一太「今の、釈放されるのが望ましいというのも、これは総理の新しい答弁だと思いますが、私はもっと踏み込んでおっしゃってもいいと思うんですね。これで総理が以前よりは踏み込んで答弁をしていただきましたが、人権問題についてはっきりと言わないと、日本人は人権問題について意識が低いんじゃないかと、そういうふうに国際的に思われてしまうと思うんですね。もうちょっとはっきり言ってください。もう一回答弁をお願いします」
菅無能の以前より踏み込んだ答弁が「釈放されるのが望ましい」程度では情けない限りだが、山本一太の「人権問題についてはっきりと言わないと、日本人は人権問題について意識が低いんじゃないかと、そういうふうに国際的に思われてしまう」は安倍晋三にも言えることで、かつての自民党の菅政権追及の姿勢と整合性が取れていないことになる。
山本一太は安倍晋三の応援隊長を自任しているとかのシンパだそうだが、「総理、『釈放されることは望ましいと、考えられます』ではまずいですよ。あのバカを追及したときと整合性は取れないし、日本人の人権意識が疑われしまいます。釈放を要求するとはっきりと言って、実行してください」と必ずや忠告するはず・・・・はないか。
中国の反発を恐れて、これ以上要らぬゴタゴタはゴメンだと、身についてない普遍的価値どおりの反応を見せるに違いない。
例えアジアの周辺諸国を普遍的価値共有の仲間に引き入れ、外堀から埋めて中国を普遍的価値容認に追い込んでいく戦術だとしても、直接迫って日本が受ける経済的ダメージ等を恐れていたのでは、及び腰そのので、周辺諸国の対中経済依存と併せ考えると、中国の強硬な共産党一党独裁体制を基盤とした普遍的価値アレルギーは簡単には切り崩すことはできまい。
肝心なことは中国政府に普遍的価値を認識させる政治的努力は劉暁波氏釈放問題のみにかかっているわけではなく、誰もが認識していることだと思うが、安倍晋三は自らの関わりを一般論に置いていることからすると、劉暁波氏釈放問題を普遍的価値を認識させる政治的努力の対象の一つとする認識はないようだ。
尖閣諸島が明らかに日本の固有の領土でありながら、日本の主張がまともに通じず、中国が自国領土だと不法な要求を通用させている理由の一つに中国が軍一体の共産党一党独裁の体制にあることであり、そのことが大きな障害となっているはずだ。
独裁主義は自国を絶対とする。国民も自国を絶対とする独裁主義の空気を吸って育つがゆえに国民自身も自国を絶対とし、国が自国を絶対としない政策を行った場合、反発し、国は国民の自国絶対姿勢に応じてなおのこと自国を絶対とする、国家と国民共に頑迷な自国絶対主義の相互反応関係を築くことになる。
だとするなら、中国の共産党一党独裁体制の民主主義体制への転換が日中領土問題の障害を取り除く有効な手段となり得るはずだ。
中国の民主化こそが、その時々の政治情勢で左右されることのない日中の真の対等な戦略的互恵関係構築の契機となるし、真の対等な日中友好関係構築の契機となり得ることになる。
領土問題の対立が原因となって政治的・経済的軋轢を招き、その損失を相互に被りながら、戦略的互恵関係を言う矛盾は倒錯そのものである。
非常に困難な選択ではあるが、機会あるごとに民主化を促すしかない。劉暁波氏釈放要求にしても民主化要求の重要な一環となるはずだが、対中民主化要求の有効な戦略を描くだけの合理的判断能力を欠如させているのだろう、「釈放されることは望ましいと、考えられます」と、他人事として扱う脳ミソしか示すことができないでいる。
勇ましい話し振りに誤魔化されてはいけない。
前々から体罰は言葉の問題だと書いてきたが、数学教師の体罰に於ける言葉の能力不在の考察に入る前に二つの記事の紹介から入ることにする。 「なぜ体罰は起きるのか」(「NHKニュイース深読み」HP投書/2013年2月2日 朝)
一つは、昨日2013年2月2日、NHK朝の『週刊 ニュース深読み』で、「なぜ起きる? どう防ぐ? 学校での体罰」のコーナーを設けていて、そのHPに投書欄があるから、体罰は言葉の問題という観点から、「なぜ体罰は起きるのか」と題して投書した自身の記事。400字制限であるために2回に分けて投書したが、少し訂正し直して、体罰を言葉の問題としてどう把えているのかを知って貰うためにここに掲載してみる。
二つ目は橋下市長が学校に於けるスポーツの場での体罰は厳禁だが、生活指導の場ではどうするのかと問題提起していて、その発言を伝えているマスコミ記事の紹介。発言自体が体罰を言葉の問題と把えていないために、どちらに正当性があるか、判断して貰うことにする。
少なくとも日本に於いては教師と児童・生徒を上下関係で律した暗記教育が原因。暗記教育は教師が教科書の知識・情報をほぼそのとおりに上下関係そのままに児童・生徒に伝え、児童・生徒は教師が伝える知識・情報を上下関係に従ってほぼそのとおりに受け取って暗記する構造の教育。
そこには教師と児童・生徒、さらに児童・生徒同士がお互いに考えを言い合う、あるいは意見を述べ合う水平双方向のプロセスを存在させていない。もし存在させていた場合、考えを言い合う、あるいは意見を述べ合う点に於いて教師と児童・生徒と、さらに児童・生徒同士は対等な関係を築くことになる。
存在させているのは精々教師が伝えた知識・情報の中から伝えた通りの答を求めるぐらいで、当然、教師が伝えた知識・情報に従うことに他ならないから、上下関係に縛られた知識・情報の交換ということになる。
職業上の(あるいは立場上の)上下関係にあっても、そこに考えを言い合う、あるいは意見を述べ合うという水平双方向の対等な関係が存在しなければ、職業上の(あるいは立場上の)上下関係にある下の者が上の者に対して自分の考えや意見をぶつける機会にも訓練にも恵まれないこととなって、そういった意思疎通の技術が身につかず、慣習化しないことになる。
いわば言葉の訓練が教師にしても児童・生徒にしてもできない。
上の者にしても、単に自分の知識・情報(=自分の考え・意見)を下の者に伝える技術しか身についていず、下の者の意見や考えを聞く訓練をしていないことになって、そういった意思疎通が慣習化していて、自身の意思が通じない場合、相手の言葉を求める慣習がないから、先に手が出たり、足が出たりすることになる。
最初から教師や部活顧問の言うことをただ単に聞いて、それに言いなりに従うのではなく、児童・生徒にしても部員にしても自分の考えや意見を述べる対等な水平双方向の意思疎通の関係を築いていたなら、人間関係に於いても信頼関係に於いてもより発展的な関係ヘと進むことができ、体罰自体が必要なくなる。
教師は授業に於いて教師が伝えた知識・情報の答を求めるのではなく、議論すること(=意見・考えを述べること)を求めなければならない。議論が児童・生徒と教師の間だけではなく、児童・生徒同士の間に交わされる習慣が当たり前となって、いわば自由な意見交換・自由な思考交換を日常的に可能とさせたとき、築き上げた上下関係の上の立場を利用して誰かをイジメたとしても、下の立場に立たされてイジメを受けた児童・生徒にしても、相手に対してイジメを拒絶する、あるいは間違っていると指摘できる自身の意見や考えを述べる勇気を持ち得るはずである。
《【桜宮高2自殺】生活指導「体罰認めるか、出席停止を」 橋下氏が発言》(MSN産経/2013.1.31 23:37)
1月31日定例会見――
橋下徹大阪市長(生活指導の現場での体罰について)「ある程度の有形力の行使を認めるか、それとも一切禁止の代わりに生徒を出席停止とするのか、どちらかの大きな方向性に行かないといけない。
(生活指導での体罰の必要性について)何が許されて何がだめなのかは、正直、僕も分からない。(桜宮高体罰問題発覚以降)小中学校の生徒が調子に乗って(何かあったら)『体罰だ』『体罰だ』と言っており、クラス運営で先生が相当悩んでいる。
(体罰を一切認めない場合は)出席停止やクラスから放り出すような措置をやったらいいじゃないか」
記事解説。〈橋下市長はスポーツ指導での体罰は絶対禁止とする一方、全市立学校の調査を行い実態解明が終わるまでは生活指導での体罰について判断を保留しているが、具体的な方策を例示したのは初めて。〉
「小中学校の生徒が調子に乗って(何かあったら)『体罰だ』『体罰だ』と言って」いるという意味は、教師が体罰を行ったために「体罰だ」、「体罰だ」と騒いだということではなく、クラスの誰かが答を間違えたりのちょっとした失敗をすると、懲らしめに体罰を加えて言うことを聞かせろ、体罰に相当するという意味合いで、児童・生徒が「体罰だ、体罰だ」と騒いでしょうがないということなのだろう。
橋下市長自身は「何が許されて何がだめなのかは、正直、僕も分からない」とは言っているものの、体罰指導を一つの条件としている以上、生活指導の現場に限っては明らかに体罰容認の衝動を抱えている。
生活指導の場で体罰容認の姿勢でいるなら、なぜスポーツの現場での体罰は厳禁なのか、矛盾することになる。
要はスポーツの現場で体罰を受けて一人の生徒が自殺していることから、体罰容認とは言えないというだけのことではないかと疑うことができる。かつては体罰を容認していたのである。
ホンネはどうであっても、橋下市長はスポーツの現場での体罰にしても、生活指導の現場での体罰にしても、言葉の問題とは把握していない。
では、小田原市立中学校数学教師の体罰の経緯を見てみる。
2月1日、50代数学教師の6時限目の授業で、16人の2年生男子生徒が授業開始に遅れた。その理由を質したところ、一部の生徒が「バカ、死ね、ハゲ」と罵った。数学教師は誰が言ったのか、名乗り出るように求めたが、誰も名乗り出なかったので、16人の男子生徒を廊下に正座させ、再度、誰が言ったのか名乗り出るように求めたが、やはり名乗り出なかったために全員の頬を1回ずつ平手で叩いた。
授業終了後、50代数学教師が校長に報告。1月2日朝、校長や教師本人、その他が生徒と保護者に謝罪。
橋下徹は大阪府知事時代の2008年10月、「言っても聞かない子には手が出ても仕方がない。どこまで認めるかは地域や家庭とのコンセンサス(合意)次第だ」と発言していたことからすると、数学教師の体罰は橋下徹の容認の範囲内の基準とすることができるかもしれない。
先ず、「NHK NEWS WEB」記事から発言をみてみる。
数学教師「自分の発言には責任を持つようにと指導したかった。体罰が問題になっているにも関わらず申し訳ない」――
だが、自分の発言に責任を持たせることができなかった。いわば言葉で説得することができなかった。
これは明らかに言葉の能力の問題、その不在を意味するはずだ。
「毎日jp」記事。
数学教師「許せなかった。正々堂々と名乗って欲しかった」
生徒の正々堂々と名乗らない資質という問題もあるが、50歳を超えるまでに人生経験、社会経験を積んだ数学教師の名乗らせるだけの言葉の力を持たなかったという言葉の能力不在も問題としなければならないはずだ。
「asahi.com」記事――
過去、「ハゲ」とバカにされたときの対応。
数学教師「差別はいけない。言ったことの責任を持たなければならない」
だが、この言葉にしても説得力を持たせることができなかった。言っただけで終わった。
「バカ、死ね、ハゲ」とバカにしたのは、あるいは罵ったのは、16人の生徒のうちの誰かである。16人全員を自席に座らせて、数学の授業を中止、先ず、誰が言ったのか名乗り出るように求める。誰も名乗り出なかったなら、クラス全員を相手に、「ハゲは悪いことのか」、あるいは「ハゲのどこが悪いのか」と生徒全員に尋ねる。16人に気兼ねして、誰も答えようとしないに違いない。
生徒一人一人を順番に名指しして、「ハゲは悪いことのか、ハゲのどこが悪いのか」と尋ねて、答を求める。「分かりません」と逃げる生徒が出たなら、次のような言葉の応酬を用いる。
数学教師「中学2年生になっても、そのぐらいの判断もできないのか。中学生2年生という年齢歳相応の判断能力も持てないでは、成長していないということで、ハゲよりも悪いではないか」
さらに次のような質問を試みる。
数学教師「ハゲであるかどうかで、人間が判断できるのか。身体の特徴がその人間の能力を決めるのか。全然目が見えなくても、機会を与えることによって、世界的に有名なピアニストになることができた人間は全盲であることがピアノの才能を決めたわけであるまい」
誰も答えなかったなら、やはり一人一人を名指しして、順番に答えさせる。暗記教育で言葉の訓練ができていないから、答えようと試みたとしても、満足には答えることができないかもしれないが、教師の側が議論を求めることによって、それが度重なると、例え生徒が答えなくても、教師の議論を求める言葉が刺激となって、少なくとも徐々に言葉自体を頭に記憶していくことになり、記憶に対応して頭の中でその答を見出そうと努力するようになる。
あるいは生徒を強制的に2班に分けて、1班を「ハゲは軽蔑の理由になる」と、身体の特徴で人間は判断できると肯定する生徒の集まりとし、もう1班を、「ハゲは軽蔑の理由にはならない」と、身体の特徴で人間は判斷できないと否定する生徒の集まりとして、班同士でディベートするのも、人間に対する価値判断はどうあるべきかの言葉の能力獲得のキッカケとなるはずである。
ご存知のように肯定・否定の班に分かれたディベートは肯定派は常に肯定の言葉をつくり出し、否定派は常に否定の言葉をつくり出して、言葉を闘わせ、どちらが説得力があったかで勝敗が決まるが、その過程で言葉の能力の獲得に併せて正しい価値感を学んでいくはずである。
16人の生徒のうち、誰かが「バカ、死ね、ハゲ」と罵ったのに対して名乗り出るように求めたが、名乗り出なかったために「自分の発言には責任を持つようにと指導したかった」から叩いたと理由を言っているが、叩く前に、「自分の発言には責任を持てないのか、持てないまま発言したのか」と問うことができなかったことも、数学教師の言葉の能力不在を物語っている。
数学教師「名乗り出る勇気もなく、バカにしたのか。名乗り出るだけの勇気がなかったことを後々後悔することがある。今度先生をバカにするのは、名乗り出るぐらいの勇気と覚悟を持ってからにして貰いたい。名乗り出ることを前提としてバカにして貰いたい」
数学教師「君たちのうちの誰かが、『死ね、バカ』と言われたら、どう思う。『死ね』と言うのは相手の全存在を否定することではないのか。生きている価値はないという意味となるからだ。生きている価値のない人間はこの世に存在するのか。何かしら生きている意味を持ち、生きている価値を持っているものではないのか。よく考えて貰いたい」
但しこの言葉を発するには数学教師として、少なくとも教えている過半数以上の生徒から数学教師として役に立っているという支持を得ることが必要となる。生徒は数学を教える能力という一面でのみ、教師の価値判断をしがちだからである。
以上の発言は頭の中で考え捻り出したものだが、最初にバカにされたとき、今度はどう対処しようか、理論武装しなければならないはずだ。
理論武装することによって、教師自身も言葉の能力を獲得していく。勿論、ただ単に生徒を打ち負かす言葉の能力であってはならないのは断るまでもないことである。生徒にも言葉の能力を植え付け、その成長を促す言葉の獲得でなければならない。
私自身には無理だが、生徒相手に学校の教師をしている宿命上、当然の務めとしなければならないはずだ。だが、言葉を獲得するに至っていなかった。言葉の能力不在そのものを示したに過ぎなかった。
言葉の能力の介在という認識なしに体罰の必要性・不必要性、さらにはイジメる生徒に対する有効な戒めを語ることができるのだろうか。
大阪市教委が桜宮高体育科系入試中止、普通科振替入試の決定を受けて、体育科系受験生の入学後の普通科カリキュラムに関して1月29日の会議でその概要を決定したという。
《大阪・桜宮高校 普通科の実技廃止に》(NHK NEWS WEB/2013年1月29日 18時52分)
(1)生徒が所属する部活動と同じ競技を授業の中で顧問の教師から学ぶ「実技科目」については、「部活動と一体化していた可能性がある」などとして、廃止。
(2)上記決定の代替策
体罰に頼らない指導方法を学ぶ科目の新設。
体罰を排除し、フェアプレー精神や相手を思いやる気持ちを学ぶ科目の新設
記事。〈教育委員会では、出願の時期が来月中旬に迫っていることから、受験生への情報提供を急ぐとともに、具体的な内容の検討を続けることにしています。〉云々。
記事はこの概要決定に対する橋下徹市長の発言は伝えていない。
次の記事がもう一つの改革方針と併せて、この方針に関する橋下徹市長の発言を伝えている。《【桜宮高2自殺】脱・暴力!運動部の顧問は外部委託に 大阪市教委方針》(MSN産経/2013.1.29 22:04)
桜宮高運動部活動の顧問を市教委が外部委託する方向で検討しているという内容である。
さらに校長も年度内に更迭、外部人材登用の方針だと記事は書いている。
橋下市長(記者団に)「部活動の在り方を変える。顧問を外部委託する方針を市教委から聞いた。全く違う学校になる。
(外部監察チームのアンケートで1割近い生徒が体罰を受けたと回答したとして)学校全体が暴力的な指導法が良いと思っていた。中身を変え、本質的な改革を着実に進める」――
「部活動の在り方を変える。顧問を外部委託する」と言うなら、新入生を単に普通科に潜り込ませただけで終わることになり、新入生を何も普通科で受入れずに体育科として受け入れても何の障害も生じないことになる。
それとも、改革してもなお障害があるというのだろうか。
「中身を変え」と言っている「中身」とは、部顧問の外部委託を受けた発言と限って判断すると、カリキュラムに関する「中身」ではなく、校長や部活顧問が関与する指導体制の「中身」を替えるということことであって、替えることによって、体罰指導を当たり前としていた在校生徒・保護者の意識改革・体質改革を共に行うということだろうから、これから入学する新入生にとって普通科に入学しようと体育科に入学しようと、改革の影響は何ら変わりはないはずだ。
例え普通科に入学しようと、自分は体育科の人間だという意識のもと、普通科から体育科への編入を待つ姿勢にのみ違いがあるということなら、普通科振替入学はさして意味を成さないことになる。
上記記事の市教委のカリキュラム改革の概要決定に対して、橋下徹市長は1月27日のあさひテレビ「報道ステーションSUNDAY」に大阪局から同時中継出演、決定を受け入れる発言をしている。
橋下市長「こんだ、あの、来年度、4月1日から、体育科は(入試を)1回中止しましたので、普通科で新入生を迎え入れて、この普通科のカリキュラムの中で、そういう授業(=新設科目の授業)を入れていくっていうことを教育委員会で決定しました。こういう形で変えていきます」――
新規カリキュラムに関る教育委員会の決定を支持している。部活顧問の外部委託、校長の外部人材登用、新しいカリキュラムの導入等、新入生が普通科に入学しなければできない対策だというのだろうか。
体育科に入学させたなら、実現不可能な対策だというのだろうか。場所は関係しない改革であるはずだ。
いわば体育科入試中止は市教委の新しい対策が普通科入学によって初めて機能し、体育科入学では機能しないとすることによって、正当性を確立可能とする。
だが、どう考えても、そのような形式でなければ確立できない正当性とはどこから見ても見えない。
橋下市長は部活顧問たちの体罰の蔓延と在校生・その保護者の体罰容認の風潮が相互反映して増長した現象だと見て、そういった相互反映の増長のもと、部活顧問の体罰によって一人の生徒が自ら命を断ったことを以って、その重大さを認識させる理由に入試中止を置いているようだが、例え保護者がもっと厳しく指導して欲しいと部活顧問に要求した結果の体罰の蔓延だったとしても、あくまでもそのような指導の正否を無視した学校の生徒管理にこそ、問題の根を見なければならないはずだ。
例え部員たちが保護者に同調して、保護者共々厳しい指導を求めたとしても、学校の生徒管理の問題であることに変わりはない。
保護者、あるいは生徒も含めた要求を無条件的に受け入れて、勝利至上主義に流された。あるいは部活顧問の教師自体が勝利至上主義に流されて、体罰を指導の効果ある手段とするに至った。
部員たち、あるいは生徒たちは体罰管理に馴らされ、良しとし、それが生徒指導の風土・文化となって、その中で育つことになった。
部活顧問や保護者に対する同調の罪はあるにしても、あくまでも教師・顧問に対する上下関係の中での下からの同調であって、上に位置する教師・顧問の主導的責任を免れることができるわけではない。
保護者や生徒に唆された体罰だとして、私達教師や顧問に責任はありませんと言うことができるだろうか。
入試中止は学校の生徒に対する指導管理の罪を受験生に迄なすりつける責任転嫁に見えて仕方がない。
「お知らせ」
「gooブログ」から、2013年1月31日を以って楽天銀行の決裁を停止する旨の連絡があり、有料グログを続けるには別の機関のクレジット払いにするよう言われた。
理由を問い合わせたが、決裁停止を言うばかりで、意味不明のまま。他のブログに移動することも考えたが、歳も歳ゆえ、新しく始めるのも億劫で、有料がダメでも、無料に移行するだけだということだから、例え死ぬことになって口座が停止されても、無料なら暫くはインタネット上にブログ記事がさまようのも自身の人生の最後にふさわしいように思えて、無料ブログを選択することにした。
但し機能の範囲が狭まることになり、有料の2万字が1万字となることから、2万字以上の記事の最後が途切れることになります。レイアウト左側のプロフィール欄にメールアドレスを添付しました。必要な記事がありましたなら、連絡をくだされば、メールで送ります。
但し、ハードディスクに保存漏れの場合、ご希望に応えることができないかもしれません。そのときはご容赦を。
今回のアルジェリア人質事件では安倍政権は邦人の安否確認に手間取った。理由は、「情報が錯そうしていて、確たる情報は申し上げられない」(1月18日午前1時50分過ぎ菅官房長官記者会見)からであった。情報の錯綜は国営アルジェリア通信が1月18日日本時間午前4時50分頃に軍事作戦終了と報道した後も続いた。
現地に飛んで邦人の安否確認に動いていた城内外務政務官が1月26日帰国し、同日午後4時過ぎに安倍首相に現地状況を報告、その後の記者団に対する発言も情報の錯綜を訴えていた。
《城内外務政務官 安否確認は困難極めた》(NHK NEWS WEB/2013年1月26日 19時19分)
城内外務政務官「アルジェリア政府による軍事作戦が行われるなかで、全くと言っていいほど情報がなかった。何人が亡くなっているのか、国籍はどこかについて、錯そうした情報に翻弄された。断片的な手がかりを、イギリス、アメリカなどと情報交換しながら照合したが、全容はつかめなかった。
事件現場はガス生産プラントで、ちょっとしたことで大爆発し、大惨事になるということで、大変緊張した状況だった。アルジェリア政府の配慮で、最も近い所まで行くことができたが、残念ながら生存者は確認はできなかった」
記者「アルジェリア軍の攻撃で日本人の命が奪われたのか」
城内外務政務官「日本人がどのような形で亡くなったか詳細は分からないが、大半がテロリストによって銃殺されたと推察される。アルジェリア軍の攻撃で、日本人が死亡したという証拠はない」――
人質は要求貫徹と自分たちの身柄安全確保の切り札である。要求がなかなか通らない場合、一人二人は殺すかもしれないが、切り札として大事に扱うし、扱わなければ、もう一方の切り札である自分たちの身柄安全確保の保証を失うことになる。
いわば武装勢力は自分たちの要求貫徹と身柄安全確保のために必要に応じて何人かを除いた人質の身柄の安全を保障する。
要求前の例外としての殺害は人質となる前に武装勢力の捕獲から逃れようとした場合の逃亡阻止のための殺害と要求中の例外としての人質殺害は人質の方から武装勢力の制御の隙を狙って、その支配から逃れようとした場合の逃亡阻止のための殺害といったとこだろう。
「人質は困らないほど沢山いるから、一人二人逃げても構わない」と逃亡を許してはくれまい。このセリフは逃げられてしまった場合に使う言葉であるはずだ。事実、今回の武装勢力襲撃事件では少なくない何人かが武装勢力の発砲をかいくぐって逃亡に成功した従業員もいたはずだ。
但し、「テロリストとは交渉しない」の制圧優先の切り札の前には人質は如何なる切り札ともなり得ない。制圧側の優位な軍事力の前に人質が足手纏いとなり、あるいは毒を食らわば皿までとばかりに道連れに人質を殺す展開を余儀なくされたといったことが考えられるとしても、制圧作戦が武装勢力を掃討していく過程で人質をも巻き込んでいった展開も優に否定はできない。
アルジェリアのメデルシ外相が軍事作戦開始のキッカケを1月25日、世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)開催のスイスでAP通信のインタビューに答えている。《アルジェリア外相“作戦やむなし”》(NHK NEWS WEB/2013年1月26日 5時9分)
メデルシ外相「犯人たちは人質を連れて施設から逃げ、隣国のマリへ向かおうとした。わが軍はそれを止めようとして、そのとき初めて戦闘が起きた。テロリストの中には自爆を試みる者もいた。
作戦は成功したと考えている。しかし、外国からの投資を呼びかけているアルジェリアとしては、外国企業のためにも、イナメナスでの事件は再検証する必要がある」――
この発言通りの事実がそもそもの発端として存在していたのかどうか、かなり疑わしい。
武装勢力はフランスのマリからの撤退を要求していた。要求を出さないまま逃亡することはあり得ないから、要求を出したのに対して、「我々はテロリストとは交渉しない」の一言を返答とされたとき、人質は要求貫徹の切り札であることの効き目を失い、身柄安全確保の切り札として一縷の望みを託すことになる。
わざわざ説明するまでもなく、「テロリストとは交渉しない」とは人質を犠牲にしたとしても制圧を優先させるという宣言に他ならないからである。
当然、一縷の望みにしても半信半疑の不確定要素と化す。だが、アルジェリア政府が制圧の構えでいる以上、相手の圧倒的な軍事力を考えた場合、いわば人質が相手の軍事力を相殺する力を失った以上、イチかバチかの逃亡を試みるか、建物内に閉じ込もって抵抗を試みるか、あるいはメデルシ外相が言っているように自爆で施設を少しでも破壊するか、主としてこれらの選択肢しか残されていなかったはずだ。
人質に身柄安全確保の一縷の望みを託して人質を連れて逃亡を試みたが、その望みも治安部隊の攻撃によって敢え無く打ち砕かれることとなったという展開も考慮しなければならない。
治安部隊の最初の攻撃開始が人質と武装勢力の区別の確認が困難である上に武装勢力か人質か標的の確認も困難なヘリコプターによる空爆で、その後地上部隊の突入が続いたという作戦から、武装勢側からしたら、人質は足手纏いであること以外は決定的に意味を失ったはずだ。応戦するには人質は邪魔な存在でしかない
次の段階として武装勢力は足手纏いの抹消に進むことになる。あるいはそんな余裕はなく、治安部隊に対する応戦がやっとで、人質と共に殺されていったという経緯を取った可能性も考えることができる。
もしこういった経緯を踏んだとしたら、メデルシ外相の発言はアルジェリア政府に都合のいい発言でしかないことになるし、城内外務政務官の「大半がテロリストによって銃殺されたと推察される」にしても、「アルジェリア軍の攻撃で、日本人が死亡したという証拠はない」にしても、些か趣を異にすることになる。
まだアルジェリア政府の公式の検証が済んでいないにも関わらず、済んだとしても内容の正当性は当てにはならないが、城内外務政務官が治安当局の攻撃が発端となった武装勢力の人質殺害の存在を疑ってもいいケースを排除しているのは、情報収集の一端を担っている政府の一員として役目不足の感が否めない。
もしそのような経緯を疑っていながら、それを隠しての発言だとしたら、武力制圧支持の姿勢を早くも打ち出していることになる。
武力制圧支持の姿勢は、当然、10人の犠牲を止むを得ない事実として受入れて、受け入れることによって人命優先の姿勢に幕を降ろすことを意味する。
安倍首相にしても城内外務政務官と同じ姿勢を取っていることが彼から報告を受けた後の記者団に対する発言から窺うことができる。安倍首相がそういった姿勢だったから、城内外務政務官が同じ姿勢を取ることになったのか、その逆なのか、あるいは双方してイギリスやアメリカ、フランスの態度を話しているうちに意思疎通し合った姿勢なのか、いずれかであろう。
《首相“テロに対し強い憤り”》(NHK NEWS WEB/2013年1月26日 18時28分)
以下は、〈総理大臣公邸で、アルジェリアから帰国した城内外務政務官から現地の状況などについて報告を受けたあと、記者団に対し〉(記事)て行った発言である。
安倍首相「改めて事件の悲惨さとテロリストの暴虐な行動に対して強い憤りを覚えた。世界の最前線で頑張ってきた日本人が、非道にも命を奪われた。最愛の家族を失った遺族にとっては、悲痛で悔しい思いだろうと思う。家族の気持ちを思うとことばもない。われわれは、改めて、テロと戦っていく決意を新たにした。
アルジェリア軍の軍事オペレーションで、結果として尊い日本人の命が失われたことは残念だが、遺体の確認などで、アルジェリア政府が最大限の配慮をしてくれたことも分かった。今後とも、真相を明らかにするうえで、アルジェリア側に協力を求めていく」――
「今後とも、真相を明らかにするうえで、アルジェリア側に協力を求めていく」という発言は事実の全体としての真相解明はこれからだということを意味している。
「アルジェリア軍の軍事オペレーションで、結果として尊い日本人の命が失われたことは残念だが」との発言は、安倍首相に報告後の城内外務政務官の「アルジェリア軍の攻撃で、日本人が死亡したという証拠はない」という発言と照合すると、アルジェリア軍の軍事オペレーションが発端ではあったものの、武装勢力が率先して行った人質殺害であり、「結果として尊い日本人の命が失われた」という意味になるはずだ。
そうでなければ、「遺体の確認などで、アルジェリア政府が最大限の配慮をしてくれた」としても、それがいくら「最大限の配慮」であったとしても、それを以てして人命喪失と交換できるものではない。人命喪失がなければ、いわば人命優先が厳格に実行されていたなら、遺体確認は存在しない不必要な行為となる。
要するに人質の犠牲が武装勢力側の例外を除いてアルジェリア軍の制圧作戦が発端となって武装勢力を追い詰めた結果の可能性もあるとする情報解読の選択肢を行わずに、排除したまま、邦人殺害はすべて武装勢力の仕業で、「遺体の確認などで、アルジェリア政府がする大限の配慮をしてくれた」と感謝するのは、アルジェリア政府側の制圧作戦の免罪発言となる。
安倍首相にしても、城内外務政務官と共にアルジェリア政府の制圧作戦を良として、これまでの人命優先の姿勢に幕を閉じたことになる。
もしこれまでと同様に人命優先を言い続けるとしたなら、アメリカもイギリスもフランスも軍事作戦を止むを得ない選択肢だと一定の理解を示している中で日本一国だけがアルジェリア政府の軍事作戦を追及しなければならないことになる。外交上得策でないと判断したはずだ。
記事は、〈安倍総理大臣は、来週にも、菅官房長官を長とする検証委員会を立ち上げ、事件の真相解明を進め、海外の日本人の安全対策の強化などに取り組む考えを重ねて示しました。〉と書いているが、既にアルジェリア政府の制圧作戦を容認する姿勢でいるのだから、事件の真相解明の方向は既に知れている。
日本政府は当初人命優先の価値感・人権意識を至上命題とした。アルジェリア政府は人命優先の後回しは止む無しとした「テロリストとは交渉せず」を至上命題とした。
「テロリストとは交渉せず」は1月16日午後2時頃の武装勢力襲撃から1日と6時間置いただけの素早い制圧作戦開始と多大な犠牲者数によって意志表示された。
人質優先だったなら、もっと時間をかけた練り強い交渉が展開されたはずだ。
そして安倍政権は犠牲者と無事だった邦人の帰国を果たすと、アルジェリア政府の軍事作戦を容認する姿勢へと転換、人命尊重に幕を降ろした。
人命優先だ、安否確認が取れない、情報が錯綜していて、どれが事実なのか分からないなどと大騒ぎしたことが何の意味も持たなかった。
要するに直接的交渉当事国ではない日本政府は人命優先に関しても情報収集に関しても非力であった。制圧はアルジェリア治安部隊の元、天然ガス関連施設とそのごく周辺の密室で行われたのである。人命と情報に関してはアルジェリア政府が握っていた。中で武装勢力が人質をどう殺害しようとも、そういった展開もアルジェリア政府下にあった。
但し、両政府間の関係は最初からそうであると分かっていたはずだ。アルジェリア政府の「テロリストとは交渉せず」の姿勢がどういうことなのか、安倍首相はいくら鈍感であっても、遅くとも日本時間の1月18日午前0時30分から15分間、アルジェリアのセラル首相と電話会談したときに悟らなければならなかった。
既にアルジェリア政府は武力鎮圧の攻撃を仕掛けていた。
安倍首相「アルジェリア軍が軍事作戦を開始し、人質に死傷者が出ているという情報に接している。人命最優先での対応を申し入れているが、人質の生命を危険にさらす行動を強く懸念しており、厳に控えてほしい」
セラル首相「相手は危険なテロ集団で、これが最善の方法だ。作戦は続いている」――
制圧作戦の展開とそれに対する武装勢力の抵抗・反撃との間で繰り広げられる攻防自体が人質の生殺与奪の権を握ることとなっていた。
それが「テロリストとは交渉せず」の姿勢が答としていく現実であった。
もし安倍首相が、あるいは安倍政権の中の一人でも情報に関わる全ての能力に対して合理的な判斷を可能としていたなら、安倍政権は狼狽えずに「残念で、手をこまねくことになるが、制圧の結果を待つしかない。我々の手が及ばない場所で制圧が行われている」と発表すべきだったろう。
事実その手しかなかった。勿論、そういった発表の裏側で情報収集を続けなければならないのは務めであり、当然のことである。
だが、制圧作戦が進み、人質の犠牲が明らかになっても、何ら影響力を持つことのない人命優先を言い続け、安否確認で右往左往した。
人命優先を言い続けることが首相としての地位を守る手段だとしていたなら、尚更に問題となる。
人命優先は当然であるとしても、いつ如何なるときでも国家の安全保障を担っている以上、日本が置かれている現実を的確に読み取って行動に移す情報判断能力の臨機応変性を失ったなら、一国を任せるリーダーとしての資格に疑いが出てくる。
また、直接的な交渉当事国であるか否かに発した人命優先云々と最終的にアルジェリア政府の軍事作戦を容認することで人命優先に幕を降ろすことになった皮肉な結末はあくまでも情報処理能力の問題であって、それを欠いていたなら、アルジェリアの人質事件を受けて検証委員会を立ち上げ、検討することになった邦人保護対策では簡単には片付かない。
《首相 緊急時邦人保護策取りまとめ指示》(NHK NEWS WEB/2013年1月29日 16時45分)
1月29日、首相官邸で人質事件の検証委員会初会合開催。
安倍首相「世界の最前線で活躍する日本人が、テロの犠牲になったことは痛恨の極みだ。日本の成長と発展、そして国際貢献のために、海外で日本の企業が安全に活動することが必要不可欠だ。
事件への対応の具体的な検証を行ったうえで、有識者の意見も聞いて、テロなどの緊急事態に備えて平素から取るべき対策と、万が一危機が発生した場合に、海外に滞在する日本人を保護するための方策を検討してほしい」
海外に於ける日本人保護を問題としているのである。「平素から取るべき対策」は兎も角、「テロなどの緊急事態」発生の場合は日本政府は直接的交渉当事国に立つことはできない。だが、以上の発言には直接的交渉当事国か否かを前提として取り得る対策の違いと効果に関わる認識を一切窺うことができない。
今回の武装勢力襲撃と人質事件から学習しなければならないことは、直接的交渉当事国ではない日本が如何に人命優先に無力であったか、その無力を補う対策として直接的交渉当事国に対して如何に人命優先の作戦を採用させて、如何に効果的に人命優先に取り組むことができるかであったはずだ。
このような視点をすべて欠いた発言と方策検討指示となっている。当然、この程度の合理的判断能力からは満足な方策は期待できない。
「検証委員会」出席者は安倍首相以下、アルジェリア事件の対応に当たった菅官房長官と関係省庁の局長級だと記事は書いている。安倍首相の合理的判断能力を欠いたこの程度の方策検討指示がそのまま通ったということは、出席者全員からアルジェリア事件から学習した特段の意見も出なかったことを意味している。
いわば安倍首相と似たり寄ったりの雁首ばかりであることを理由とした期待できないなのである。例え「有識者」が素晴らしい対策を講じたとしても、その対策を実行するのは首相をトップとした官房長官、関係省庁の官僚ということになる。
合理的判断能力を欠いた雁首ばかりであったなら、どのような実行能力を期待できるというのだろう。