◆巨大戦艦武蔵、海底の墓標70年を経て発見
本日、Microsoft共同創業者であるポールアレン氏の海洋探索チームが、フィリピンのシブヤン海に沈む戦艦武蔵を発見したと、発表しました。

戦艦武蔵発見、これは大和型戦艦二番艦であるとともに史上最大の海戦として知られるレイテ沖海戦により戦没し、そして戦後アメリカ海軍が武蔵を調査のためにシブヤン海全域を調査したものの発見に至らず、しらね型護衛艦の12倍という巨大な戦艦であっても海洋の広大さには及ばないという証左であり、一説には沈没時に内部浮力が残り太平洋へ移動しているのではないか、とも言われた事があり、その発見は驚きです。

レイテ沖海戦は、1944年10月、キングII作戦に基づくアメリカ軍のフィリピン進攻により発動した捷一号作戦により開始されたもので、1941年の太平洋戦争開戦と共に東南アジアの欧米植民地資源地域を一挙に制圧し、戦争遂行に必要な天然資源を日本本土へ輸送する体制を構築した我が国が、太平洋での連合軍進攻を抑える事が出来ず、その進攻はフィリピンに達した瞬間であり、このフィリピンを失えば連合軍基地がフィリピンに再建され、東南アジアと日本本土の輸送を遮断され、戦争遂行はもちろん国民経済を支える根底を喪失する危機感から発動されたものでした。

日本海軍は持てるすべての海軍力を投入し、史上最大の海戦は、フィリピンに上陸するアメリカ陸軍部隊をアメリカ海軍の戦艦及び航空母艦の防御を何とか突破し刺し違えてでも撃滅し数十万の人的被害を及ぼすことでアメリカ国内の厭戦気運を高め、講和に持ち込もうとするもので、失敗すれば我が国は物資輸送の途絶、成功すれば講和の契機と、国家の命運をかけたものでした。日米の参加兵力は戦艦21隻、航空母艦39隻、巡洋艦45隻、更に多数の駆逐艦や輸送艦に潜水艦と無数の航空機が参加するものであり、現在世界中の航空母艦を全て集めたとしてもこのレイテ沖海戦遺産化した航空母艦吸うには遠く及びません。

戦艦武蔵は、大和型戦艦二番艦として、栗田健男中将率いる連合艦隊主力部隊として参加、南方のブルネイを出発し、フィリピンの多島海域を抜けレイテ湾へ突入する任務に就きます、この際にアメリカの護衛部隊は九州から南下する小沢治三郎中将率いる空母部隊が囮となりフィリピンの北方海域へ誘導し、その間に戦艦部隊が殴り込むという方策で、西村祥治中将の戦艦部隊と志摩清英中将率いる巡洋艦部隊が栗田中将の艦隊と同方向へ別経路を採り三方向から攻撃へ向かいました。一方、既にフィリピン及び台湾と西日本の海軍航空部隊及び陸軍航空部隊はマリアナ沖海戦と台湾沖航空戦により壊滅状態にあり、神風特別攻撃隊による体当たり攻撃を行うほかない状況であり、膨大な米海軍の空母部隊へ対抗することが出来ず、連合艦隊は大損害を被りました。

戦艦武蔵は1942年8月6日に就役した日本海軍最大の戦艦で、有効射程41.6kmを誇り46センチ砲9門を基準排水量64000tの船体に搭載し重要部分には46センチ砲弾級の直撃を想定した防御を施し、27ノットの高速で航行することが出来ました。大和型戦艦三番艦信濃は建造途中に航空母艦へ変更され、大和型戦艦四番艦111号艦は着工後に建造中止、関東武士発祥の地武蔵を艦名に掲げる戦艦武蔵は日本海軍最後の戦艦として完成したわけです。

一方巨大な戦艦はアメリカ太平洋艦隊との艦隊決戦を想定し、同世代の最高水準の戦艦数隻を一隻で相手とする火力と防御力を盛り込んだ設計ですが、艦隊決戦を想定したため日常的に運用するには余りに膨大な燃料を消費するため、連合艦隊旗艦として1943年に呉よりトラック島へ展開、同年5月には米海軍のアリューシャン反攻へ艦隊決戦を期して準備するも実現せず、同年10月へマーシャル諸島米海軍出現の一報を受け出動するも海戦に至らず、1944年に入りパラオ方面陸軍部隊輸送等に当たる程度、実戦の機会はありませんでした。

これまで二回ほど米潜水艦からの雷撃を受け命中していますが、大きな被害無く防御力の強さを示しています。しかし、1944年10月24日、レイテ沖海戦において三波の米艦載機大規模空襲を受け、必死の回避を行うものの爆弾命中17発、魚雷20発、至近弾27発の被害を受け、浸水、やがて航行能力を失い沈没しました。巡洋艦程度ならば魚雷一発で航行不能となり二発で轟沈といわれ、至近弾でも駆逐艦程度であれば戦闘能力を喪失するといいますのでこの防御力は驚異的なものです。

武蔵、戦艦大和のように弾薬庫爆発による爆沈では無かったため、乗員2400名のうち1400名が脱出に成功しています。しかし、強大な防御を誇る大和型戦艦も重要区画以外に多数の命中を受けた際には生き残れないという厳しい現実を突きつけたものでもあり、戦艦の時代は終わりつつあることを示したとも言えるでしょう。そして翌年四月には一番艦大和も九州沖に武蔵の後を追いました。

Microsoft共同創業者ポールアレン氏が3月3日に自身のTwitterアカウントにて、深海調査船Octopus号により、シブヤン海海底1000mに沈む戦艦武蔵を発見、戦没から70年以上を経ての、艦首と船体一部の写真を公表しました、公表写真は大和型戦艦の特徴を有しており、信憑性は高いといえます。なお、旧海軍戦艦は東南アジアなどで再生資源目当ての盗掘損傷被害に遭っていますが、今後はこの点が気になるところです。1000mの水深にある海底の墓標、静かに見守りたいというのが当方の唯一の願いです。
北大路機関:はるな
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
本日、Microsoft共同創業者であるポールアレン氏の海洋探索チームが、フィリピンのシブヤン海に沈む戦艦武蔵を発見したと、発表しました。

戦艦武蔵発見、これは大和型戦艦二番艦であるとともに史上最大の海戦として知られるレイテ沖海戦により戦没し、そして戦後アメリカ海軍が武蔵を調査のためにシブヤン海全域を調査したものの発見に至らず、しらね型護衛艦の12倍という巨大な戦艦であっても海洋の広大さには及ばないという証左であり、一説には沈没時に内部浮力が残り太平洋へ移動しているのではないか、とも言われた事があり、その発見は驚きです。

レイテ沖海戦は、1944年10月、キングII作戦に基づくアメリカ軍のフィリピン進攻により発動した捷一号作戦により開始されたもので、1941年の太平洋戦争開戦と共に東南アジアの欧米植民地資源地域を一挙に制圧し、戦争遂行に必要な天然資源を日本本土へ輸送する体制を構築した我が国が、太平洋での連合軍進攻を抑える事が出来ず、その進攻はフィリピンに達した瞬間であり、このフィリピンを失えば連合軍基地がフィリピンに再建され、東南アジアと日本本土の輸送を遮断され、戦争遂行はもちろん国民経済を支える根底を喪失する危機感から発動されたものでした。

日本海軍は持てるすべての海軍力を投入し、史上最大の海戦は、フィリピンに上陸するアメリカ陸軍部隊をアメリカ海軍の戦艦及び航空母艦の防御を何とか突破し刺し違えてでも撃滅し数十万の人的被害を及ぼすことでアメリカ国内の厭戦気運を高め、講和に持ち込もうとするもので、失敗すれば我が国は物資輸送の途絶、成功すれば講和の契機と、国家の命運をかけたものでした。日米の参加兵力は戦艦21隻、航空母艦39隻、巡洋艦45隻、更に多数の駆逐艦や輸送艦に潜水艦と無数の航空機が参加するものであり、現在世界中の航空母艦を全て集めたとしてもこのレイテ沖海戦遺産化した航空母艦吸うには遠く及びません。

戦艦武蔵は、大和型戦艦二番艦として、栗田健男中将率いる連合艦隊主力部隊として参加、南方のブルネイを出発し、フィリピンの多島海域を抜けレイテ湾へ突入する任務に就きます、この際にアメリカの護衛部隊は九州から南下する小沢治三郎中将率いる空母部隊が囮となりフィリピンの北方海域へ誘導し、その間に戦艦部隊が殴り込むという方策で、西村祥治中将の戦艦部隊と志摩清英中将率いる巡洋艦部隊が栗田中将の艦隊と同方向へ別経路を採り三方向から攻撃へ向かいました。一方、既にフィリピン及び台湾と西日本の海軍航空部隊及び陸軍航空部隊はマリアナ沖海戦と台湾沖航空戦により壊滅状態にあり、神風特別攻撃隊による体当たり攻撃を行うほかない状況であり、膨大な米海軍の空母部隊へ対抗することが出来ず、連合艦隊は大損害を被りました。

戦艦武蔵は1942年8月6日に就役した日本海軍最大の戦艦で、有効射程41.6kmを誇り46センチ砲9門を基準排水量64000tの船体に搭載し重要部分には46センチ砲弾級の直撃を想定した防御を施し、27ノットの高速で航行することが出来ました。大和型戦艦三番艦信濃は建造途中に航空母艦へ変更され、大和型戦艦四番艦111号艦は着工後に建造中止、関東武士発祥の地武蔵を艦名に掲げる戦艦武蔵は日本海軍最後の戦艦として完成したわけです。

一方巨大な戦艦はアメリカ太平洋艦隊との艦隊決戦を想定し、同世代の最高水準の戦艦数隻を一隻で相手とする火力と防御力を盛り込んだ設計ですが、艦隊決戦を想定したため日常的に運用するには余りに膨大な燃料を消費するため、連合艦隊旗艦として1943年に呉よりトラック島へ展開、同年5月には米海軍のアリューシャン反攻へ艦隊決戦を期して準備するも実現せず、同年10月へマーシャル諸島米海軍出現の一報を受け出動するも海戦に至らず、1944年に入りパラオ方面陸軍部隊輸送等に当たる程度、実戦の機会はありませんでした。

これまで二回ほど米潜水艦からの雷撃を受け命中していますが、大きな被害無く防御力の強さを示しています。しかし、1944年10月24日、レイテ沖海戦において三波の米艦載機大規模空襲を受け、必死の回避を行うものの爆弾命中17発、魚雷20発、至近弾27発の被害を受け、浸水、やがて航行能力を失い沈没しました。巡洋艦程度ならば魚雷一発で航行不能となり二発で轟沈といわれ、至近弾でも駆逐艦程度であれば戦闘能力を喪失するといいますのでこの防御力は驚異的なものです。

武蔵、戦艦大和のように弾薬庫爆発による爆沈では無かったため、乗員2400名のうち1400名が脱出に成功しています。しかし、強大な防御を誇る大和型戦艦も重要区画以外に多数の命中を受けた際には生き残れないという厳しい現実を突きつけたものでもあり、戦艦の時代は終わりつつあることを示したとも言えるでしょう。そして翌年四月には一番艦大和も九州沖に武蔵の後を追いました。

Microsoft共同創業者ポールアレン氏が3月3日に自身のTwitterアカウントにて、深海調査船Octopus号により、シブヤン海海底1000mに沈む戦艦武蔵を発見、戦没から70年以上を経ての、艦首と船体一部の写真を公表しました、公表写真は大和型戦艦の特徴を有しており、信憑性は高いといえます。なお、旧海軍戦艦は東南アジアなどで再生資源目当ての盗掘損傷被害に遭っていますが、今後はこの点が気になるところです。1000mの水深にある海底の墓標、静かに見守りたいというのが当方の唯一の願いです。
北大路機関:はるな
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