■太平洋戦争も話し合い解決した
本日はあの太平洋戦争終戦から71年となる終戦記念日です。終戦、と云えば我が国ではどの戦争かを問う必要がない、それほど長い平安の時代、これはあの戦争で得た数少ない我が国の恩恵であり、戦火と戦禍に倒れた方々の犠牲により成り立ったものです、そこで終戦記念日ならではの話題を、考えてみたいところ。

あらゆる戦争と国家間紛争は、話し合いにより解決する事が出来る。話し合いにより解決を、という視点、今回はこの視点について戦後71年という記念日に考えてみましょう、意外に思われるかもしれませんが、あらゆる戦争と国家間紛争は話し合いにより解決する事が出来ます、実際問題、話し合いにより解決できなかった戦争は国家間の戦争という概念が誕生して以降、それほど多くはありません、ですから、話し合いにより解決できないのかという平和主義という視点からの問いは、所謂現実主義視点と理想主義視点との間で奥の議論と論争の題材となるものですが、当方としては現実主義の視点から極論としまして、可能である、という回答を呈示する事としています。

太平洋戦争も話し合いにより終戦となりました。太平洋戦争は我が国が連合国とのポツダム宣言を受諾し終戦となっており、あの第二次世界大戦さえも話し合いにより解決された訳です。相手国家を根幹から破壊するまで継続する国家間戦争と云えば、カルタゴとローマ帝国のポエニ戦争が代表する古代戦史には当然の戦争形態でしたが、国際関係の延長線上として戦争が位置付けられるようになった近代以降、講和条約を結ばないまま相手を破砕した事例は中国のチベット侵攻等限られたもので、多くの場合講和会議という、双方の合意を以て停戦状態へ移行しています、ですから話し合いにより解決しました。

それならば、膨大な犠牲者を出す話し合いによる解決は受け入れられるのか。終戦記念日に考えなければならないのは、戦争を話し合いにより解決するのではなく重要なのは戦禍に国土国民を巻き込まないという決意が重要である為です、即ち、我が国が共有する認識での平和とは、戦火に巻き込まれないことにあり、話し合いにより解決することはその手段であって目的ではない為です。話し合いにより解決するまでの間に膨大な犠牲者を払って解決の糸口を探すようでは、平和裏に解決したとは言えません、これは、話し合いにより解決する戦争が国民にとり平和的であったかと問われれば、あの太平洋戦争が話し合いにより解決したことは事実であっても、話し合いは平和を意味するものではなく、故に太平洋戦争が平和的に解決されたとは言えない、でしょう。

不戦の誓い、という言葉も我が国では好んで用いられる言葉なのですが、非常に難しいのは、不戦として戦争、攻撃を受けた場合でも回避し続ける事は国土が戦禍に見舞われる事を意味しまして、これは目的としての平和ではなく、手段としての平和を用いる場合の非常な懸念すべきものとなります。防衛や安全保障を研究する際、戦争が好きなのか、学部時代は人殺しが好きなのか、と実際に何度も罵られましたが、これは単純に手段としての平和を目的とする視点と、平和を手段として用い目的とは必ずしも重ねる事を優先度として重視しない視点との齟齬と云えます、話し合いにより戦争を解決する事は、平和裏に戦争を解決するとは意味を同じくしない。

戦禍を避ける、国土を戦災により荒廃させず、国民を戦禍から守り、平和を謳歌し自由と繁栄を享受するためにはどうすればよいのか。平和の視点を考えますと、国家主権を捨てて降伏すればよい、という声もありますが、しかしこれでは、降伏した後に戦勝国が利する新政権を樹立し、その政権が日本国憲法を徐々に破棄し、例えば戦勝国側について戦争を求める事例は、世界史を見ますと敗戦国から自国軍補充兵力を招集する事例は多く、植民地地域からの人員徴発による動員は、例えば第一次世界大戦におけるイギリスの重要な戦力源ともなっていました、ですから、降伏した場合、国家主権を喪失すれば、云いたいことさえも封じられる状況へ甘んじて追いやられる事を意味しますので、話し合いで戦争を解決するまで時間を掛ける事で犠牲は増えます、故に不戦と敗戦は、国民を戦禍から守る事と両立できません。

防衛と安全保障、という視点ですが、これは平和を手段として用い、平和を目的よりも手段として重視する視点からは忌避されるものとなってしまいました。我が国は終戦の日から実に71年もの長い平和の時代を謳歌し、今日の終戦記念日を迎える事となりましたが、その背景には非常に危うい状況下、防衛力を整備し、同盟国との協力を進展させ、警戒監視と抑止力の維持に努めてきました。平和を手段として第一に考えるのか、平和を目的として第一とするのか、後者の努力が防衛力を整備し法整備を重ねてきました。我が国では、手段としての平和と目的としての平和の齟齬が続いていますが、忘れてはならないのは、全ての戦争は話し合いにより解決しますが、話し合いにより解決するまでの間の膨大な犠牲者をどのように考えるか、手段と目的の齟齬が国土と国民を戦火と戦禍に巻き込まないよう、考えてゆきたいものです、ね。
北大路機関:はるな くらま
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
本日はあの太平洋戦争終戦から71年となる終戦記念日です。終戦、と云えば我が国ではどの戦争かを問う必要がない、それほど長い平安の時代、これはあの戦争で得た数少ない我が国の恩恵であり、戦火と戦禍に倒れた方々の犠牲により成り立ったものです、そこで終戦記念日ならではの話題を、考えてみたいところ。

あらゆる戦争と国家間紛争は、話し合いにより解決する事が出来る。話し合いにより解決を、という視点、今回はこの視点について戦後71年という記念日に考えてみましょう、意外に思われるかもしれませんが、あらゆる戦争と国家間紛争は話し合いにより解決する事が出来ます、実際問題、話し合いにより解決できなかった戦争は国家間の戦争という概念が誕生して以降、それほど多くはありません、ですから、話し合いにより解決できないのかという平和主義という視点からの問いは、所謂現実主義視点と理想主義視点との間で奥の議論と論争の題材となるものですが、当方としては現実主義の視点から極論としまして、可能である、という回答を呈示する事としています。

太平洋戦争も話し合いにより終戦となりました。太平洋戦争は我が国が連合国とのポツダム宣言を受諾し終戦となっており、あの第二次世界大戦さえも話し合いにより解決された訳です。相手国家を根幹から破壊するまで継続する国家間戦争と云えば、カルタゴとローマ帝国のポエニ戦争が代表する古代戦史には当然の戦争形態でしたが、国際関係の延長線上として戦争が位置付けられるようになった近代以降、講和条約を結ばないまま相手を破砕した事例は中国のチベット侵攻等限られたもので、多くの場合講和会議という、双方の合意を以て停戦状態へ移行しています、ですから話し合いにより解決しました。

それならば、膨大な犠牲者を出す話し合いによる解決は受け入れられるのか。終戦記念日に考えなければならないのは、戦争を話し合いにより解決するのではなく重要なのは戦禍に国土国民を巻き込まないという決意が重要である為です、即ち、我が国が共有する認識での平和とは、戦火に巻き込まれないことにあり、話し合いにより解決することはその手段であって目的ではない為です。話し合いにより解決するまでの間に膨大な犠牲者を払って解決の糸口を探すようでは、平和裏に解決したとは言えません、これは、話し合いにより解決する戦争が国民にとり平和的であったかと問われれば、あの太平洋戦争が話し合いにより解決したことは事実であっても、話し合いは平和を意味するものではなく、故に太平洋戦争が平和的に解決されたとは言えない、でしょう。

不戦の誓い、という言葉も我が国では好んで用いられる言葉なのですが、非常に難しいのは、不戦として戦争、攻撃を受けた場合でも回避し続ける事は国土が戦禍に見舞われる事を意味しまして、これは目的としての平和ではなく、手段としての平和を用いる場合の非常な懸念すべきものとなります。防衛や安全保障を研究する際、戦争が好きなのか、学部時代は人殺しが好きなのか、と実際に何度も罵られましたが、これは単純に手段としての平和を目的とする視点と、平和を手段として用い目的とは必ずしも重ねる事を優先度として重視しない視点との齟齬と云えます、話し合いにより戦争を解決する事は、平和裏に戦争を解決するとは意味を同じくしない。

戦禍を避ける、国土を戦災により荒廃させず、国民を戦禍から守り、平和を謳歌し自由と繁栄を享受するためにはどうすればよいのか。平和の視点を考えますと、国家主権を捨てて降伏すればよい、という声もありますが、しかしこれでは、降伏した後に戦勝国が利する新政権を樹立し、その政権が日本国憲法を徐々に破棄し、例えば戦勝国側について戦争を求める事例は、世界史を見ますと敗戦国から自国軍補充兵力を招集する事例は多く、植民地地域からの人員徴発による動員は、例えば第一次世界大戦におけるイギリスの重要な戦力源ともなっていました、ですから、降伏した場合、国家主権を喪失すれば、云いたいことさえも封じられる状況へ甘んじて追いやられる事を意味しますので、話し合いで戦争を解決するまで時間を掛ける事で犠牲は増えます、故に不戦と敗戦は、国民を戦禍から守る事と両立できません。

防衛と安全保障、という視点ですが、これは平和を手段として用い、平和を目的よりも手段として重視する視点からは忌避されるものとなってしまいました。我が国は終戦の日から実に71年もの長い平和の時代を謳歌し、今日の終戦記念日を迎える事となりましたが、その背景には非常に危うい状況下、防衛力を整備し、同盟国との協力を進展させ、警戒監視と抑止力の維持に努めてきました。平和を手段として第一に考えるのか、平和を目的として第一とするのか、後者の努力が防衛力を整備し法整備を重ねてきました。我が国では、手段としての平和と目的としての平和の齟齬が続いていますが、忘れてはならないのは、全ての戦争は話し合いにより解決しますが、話し合いにより解決するまでの間の膨大な犠牲者をどのように考えるか、手段と目的の齟齬が国土と国民を戦火と戦禍に巻き込まないよう、考えてゆきたいものです、ね。
北大路機関:はるな くらま
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