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【京都発幕間旅情】栗林公園,四国紫雲山見上げる大名庭園は高松松平家・生駒家百年の夢

2017-01-18 21:14:13 | 旅行記
■栗林公園 紅葉彩る百年の夢
 栗林公園、四国高松の大名庭園で、この地を治めた高松松平家と生駒家が実に百年以上を費やし造営した、百年の夢というべき風情を今に伝えます。

 栗林公園、水戸偕楽園に金沢兼六園そして岡山後楽園、日本三名園として名高い庭園で、岡山後楽園は岡山城天守閣に隣接し威容と精緻な日本庭園様式美を、金沢兼六園の金沢城に続く池群の流れに感動を覚えるのですが、明治期には栗林公園がより良い庭園とされた。

 高松と云えば高松城、即ち玉藻城だろう、とは当方の主観ですが聞けば一度栗林公園へ足を運んでみるべきとのお話をとある御仁より賜り、ヘリコプター搭載護衛艦くらま高松入港の折、久々に足を運んだ高松にて入港撮影後、琴平電鉄に乗車し足を運んだ次第です。

 香川には金刀比羅宮という航海の神様が瀬戸内と広く太平洋を見守っていますが、しかし金刀比羅宮、大物主命を祀り是非とも足を運びたいところでしたが、何分電車で移動しますとかなりの所要時間を要し、くらま撮影を考えますと、冬の昼過ぎに金刀比羅宮は遠い。

 海上自衛隊と金刀比羅宮の所縁は深く、海洋の守り神として海上自衛隊創設前夜の朝鮮戦争海上保安庁航路啓開隊の機雷掃海任務に際しても参拝を受け、毎年金刀比羅宮では海上自衛隊掃海慰霊祭が執り行われています。しかし、その御縁と言いますと旧海軍から続く。

 瀬戸内海から金刀比羅宮へ参詣に行く事が出来ない艦船がその昔、樽にお金と届け先を記して瀬戸内海に浮かべておくと、漁船が拾って金刀比羅宮に届けてくれまして、そして金刀比羅宮の御札が船の母港に届く、という風習があり、軍艦などもお願いしていたという。

 金刀比羅宮と軍艦の関係を海上自衛隊草創期に聞いた乗員が試しにやってみたところ、実際に基地へ御札が届いたとのことです。こうした御縁もありまして、金刀比羅宮には掃海母艦はやせ主錨が除籍と共に奉納されていまして、今度こそ参拝に行きたいものですね。

 四国高松、栗林公園はこの四国の大都市高松に位置する大名庭園です。大名庭園、というのは江戸時代、大名の最大の娯楽として庭園造営があり、敢えて華美荘厳を排し、我が国土の風土風情を彷彿させる回遊式庭園が、全国へ造営されていますが栗林公園もその一つ。

 紫雲山、この山は石清尾山を頂点とする石清尾山塊の北限に位置する標高僅か170mの小山ですが、美しい稜線と緑湛える山容がこの地に人が住み始めた頃からの崇敬を集め、石清尾山麓には縣社石清尾八幡宮も建立されています、栗林公園もその麓に造営されました。

 元亀年間、即ち16世紀に地方豪族佐藤志摩介道益が紫雲山麓に別邸を建設した事が、この栗林公園の始りと云われています、讃岐国国主生駒高俊により別邸には庭園が設けられ、そして江戸時代に入り高松藩12万石が定められると大名庭園としての風格を強めました。

 生駒氏は領民に慕われたものの、江戸城普請への費用ねん出に執った山林伐採が家臣家老の不和を生み、刃傷沙汰に及ぶに至るのを抑える事が出来ず、併せて若殿の倒錯が重なり幕府に裁定を委ねるに至った生駒騒動が発生、生駒氏は遠く山陰へ転封されてしまいます。

 水戸藩より松平頼重が入封しますと、しかし、この造園造営は受け継がれまして、高松松平家により永らく巨石や水流の配置など継続、実に百余年もの歳月を投じて第5代藩主松平頼恭治世下、ようやく完成を視ました、こうした事もあり栗林公園は実に広大そのもの。

 栗林公園、広い敷地には桜に菖蒲と萩に梅、四季折々の花々が彩り、飛来峰からの俯瞰風景、木々と偃月橋の佇まい、芙蓉峰の起伏、庭園池には千秋丸が湖上遊覧へ優雅に進み、撫でる様に散策しても数刻を要するほど、日本庭園の奥深さを楽しむことが出来ます。

北大路機関:はるな くらま
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