■問われる“正義”の定義
国家として独自の防衛力を構築する際、守らなければならない明確な一線が存在する訳ですが、この一線を守るべく国家が国民と必要な措置を採り、その参加と同意を求める際、共通する価値観が必要となります、本論ではこれを“日本の正義”としました。
日本国憲法が禁じた戦争は国際法上の武力攻撃に当たるもので、憲法上の武力行使と国際法上の武力行使は言葉として定義が異なるものであることが見て取れます、仮に国際法上の武力行使を憲法が禁じるならば中華民国政府との国交断行やロシアへの経済制裁、北朝鮮核実験への経済制裁等もこれに含まれる為です、しかし、日本での定義は更に細かい。
戦闘以外に衝突という概念がある事を近年の国際紛争において定義していますので、戦闘以外の衝突であれば憲法が禁じた武力行使には含まれない可能性が示唆され、また、元々前方全体が自衛権を放棄したものではないとし、最低限専守防衛の範囲内での自衛戦闘は認められ、我が国への影響が及ぶ事態への対応も黙示的に含む内閣法制局統一解釈もある。
視点を原点に戻し、日本という国家の正義について考えてみます。我が国は戦争を憲法上行わないとしている事から、対外的な政策は、勿論日本外交にも基本指針は確たる体系が存在していますが、国家間の外交関係の極限状態は、極限の均衡が破綻した状況まで踏み込む際、例外的に維持されている国際法上の同盟条約での同盟国に依存する他ありません。革新派等一部の論者が示す、日本がアメリカの属国、というような論理は、そもそも日本国家が譲れない一線を明確化する正義の定義を確たるものとする主権者の政治参加をそもそも放棄している故の産物に過ぎません。
日米安全保障条約はこの構図から、対外的な外交関係の究極的な状況をアメリカへ外注に出しているという形式が自然に醸成されているといえます、何故ならば防衛力を海外へ展開しない原則を堅持すれば、自国民のリスクへの責任を果たしえない構図が生じ、その代替手段として同盟国に依存する以外の選択肢を、全てではないですが放棄している為です。もちろん、譲れない一線、という曖昧な言葉を選びましたが、この一線を越えられた際には、国家が有する全ての選択肢を行動に含める、という意味を含みます。
正義、すると日本が提示できる正義とは平和憲法を代名詞とした平和国家、という部分なのでしょうか。しかし懐疑的な視点を提示しますと、平和国家とはいえ、平和主義を世界に広める努力について、平和憲法世界化や平和を広める手段が平和的でない場合に全く積極的ではありません、平和を享受する理念普遍化への努力は宣言や経済支援等に限られる。平和主義だが、自国に被害が及ばない限りは周辺国の戦争には無関心でいる、同盟条約を結び重武装を必要とする永世中立国宣言も行わない、これでは外交の独自性にも限界が生じかねない。
平和主義といいますが、諸国の平和が破綻し諸国民の平和的生存権が喪失している状況でも我が国は介入し平和の回復へ臨む等具体的施策では冷淡です。この視点で例えば“日本国憲法へノーベル平和賞を”の市民運動がここ数年間盛んですが実現しない背景は世界の平和へリスクを共有する努力へ日本は参加が最小限である実情と無関係ではないでしょう、むしろ歌詞へも授与されたノーベル文学賞を狙った方が可能性は高いのではないでしょうか。
日本の平和主義姿勢が疑われる背景には、例えば南スーダン政府への経済制裁措置国連決議へ日本が自国へリスクが及ぶ可能性があるとして棄権した事例、核不拡散法体系を進める核全廃絶体系の形成へそもそも核恫喝への防護手段を持たない事から積極的に参加できない事例、日本の外交政策全般からは僅かながら不協和音を示す事例が、散見されます。
アメリカに依存せず必要であれば独自の必要な措置を行う、必要な防衛上の協力関係を包括安全保障協力宣言よりも進んだ同盟条約や地域的安全保障枠組の構築を恒常化させる、核恫喝に耐えうる耐核退避施設の建設と非核手段での核運搬手段迎撃態勢の完成、禁忌を持たない日本型正義の履行への全ての手段を投じる施策、この国民間での理念の共有など。
日本が軍事的に独立するには、政策面も含めた、正義への絶え間ない議論と暫定的な結論の政策化と、これにより独自の国家観や国際関係の構築、必要であれば国家に認められている手段の選択に禁忌を設けず対応する、こうした施策を行って初めて、軍事面を日米安全保障条約により一部アメリカへ外注に出している現状から脱却する事が出来るでしょう。
しかし、お上の論理といいますか、我が国では広く正義や政治を討議し、地域や職域毎に体系化するには、余りに主体的に参加する時間を持てていません。特に、市民政治運動は欧米では保守運動と革新運動が立法府の保守革新の比率と同程度に、均衡が採られているはずなのですが、我が国では一般論として保守的市民運動の動向が活発ではありません。こうなりますと、討議の結果と立法府の勢力が一致せず、議論は空転するばかりとなる。
自主防衛力とは、単純に現在の国境線だけを固執し防護するというだけは国民の総意に基づく合意と指示を受け続けられるかは疑問です、国境線を維持しても国土が焦土となっては意味がない為です。それならば、国境線の内側へ生じる脅威を排除するための積極行動を是認するのか、と問われれば、何を以て排除を発動するかという際限ない議論を生む。
日本の正義とは何か、平和主義であれ、国民平和的生存権であれ、現在の国際公序の維持に依拠する国際協調の維持であれ、その形は様々なものが考えられるのですが、簡単であり最も難しいこの命題を明確に掲げ、そしてその正義への価値観を広く国民と国家が共有できる点を導く険しい過程を越えてこそ、自主防衛の枠組とは実現するのかもしれません。
北大路機関:はるな くらま
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
国家として独自の防衛力を構築する際、守らなければならない明確な一線が存在する訳ですが、この一線を守るべく国家が国民と必要な措置を採り、その参加と同意を求める際、共通する価値観が必要となります、本論ではこれを“日本の正義”としました。
日本国憲法が禁じた戦争は国際法上の武力攻撃に当たるもので、憲法上の武力行使と国際法上の武力行使は言葉として定義が異なるものであることが見て取れます、仮に国際法上の武力行使を憲法が禁じるならば中華民国政府との国交断行やロシアへの経済制裁、北朝鮮核実験への経済制裁等もこれに含まれる為です、しかし、日本での定義は更に細かい。
戦闘以外に衝突という概念がある事を近年の国際紛争において定義していますので、戦闘以外の衝突であれば憲法が禁じた武力行使には含まれない可能性が示唆され、また、元々前方全体が自衛権を放棄したものではないとし、最低限専守防衛の範囲内での自衛戦闘は認められ、我が国への影響が及ぶ事態への対応も黙示的に含む内閣法制局統一解釈もある。
視点を原点に戻し、日本という国家の正義について考えてみます。我が国は戦争を憲法上行わないとしている事から、対外的な政策は、勿論日本外交にも基本指針は確たる体系が存在していますが、国家間の外交関係の極限状態は、極限の均衡が破綻した状況まで踏み込む際、例外的に維持されている国際法上の同盟条約での同盟国に依存する他ありません。革新派等一部の論者が示す、日本がアメリカの属国、というような論理は、そもそも日本国家が譲れない一線を明確化する正義の定義を確たるものとする主権者の政治参加をそもそも放棄している故の産物に過ぎません。
日米安全保障条約はこの構図から、対外的な外交関係の究極的な状況をアメリカへ外注に出しているという形式が自然に醸成されているといえます、何故ならば防衛力を海外へ展開しない原則を堅持すれば、自国民のリスクへの責任を果たしえない構図が生じ、その代替手段として同盟国に依存する以外の選択肢を、全てではないですが放棄している為です。もちろん、譲れない一線、という曖昧な言葉を選びましたが、この一線を越えられた際には、国家が有する全ての選択肢を行動に含める、という意味を含みます。
正義、すると日本が提示できる正義とは平和憲法を代名詞とした平和国家、という部分なのでしょうか。しかし懐疑的な視点を提示しますと、平和国家とはいえ、平和主義を世界に広める努力について、平和憲法世界化や平和を広める手段が平和的でない場合に全く積極的ではありません、平和を享受する理念普遍化への努力は宣言や経済支援等に限られる。平和主義だが、自国に被害が及ばない限りは周辺国の戦争には無関心でいる、同盟条約を結び重武装を必要とする永世中立国宣言も行わない、これでは外交の独自性にも限界が生じかねない。
平和主義といいますが、諸国の平和が破綻し諸国民の平和的生存権が喪失している状況でも我が国は介入し平和の回復へ臨む等具体的施策では冷淡です。この視点で例えば“日本国憲法へノーベル平和賞を”の市民運動がここ数年間盛んですが実現しない背景は世界の平和へリスクを共有する努力へ日本は参加が最小限である実情と無関係ではないでしょう、むしろ歌詞へも授与されたノーベル文学賞を狙った方が可能性は高いのではないでしょうか。
日本の平和主義姿勢が疑われる背景には、例えば南スーダン政府への経済制裁措置国連決議へ日本が自国へリスクが及ぶ可能性があるとして棄権した事例、核不拡散法体系を進める核全廃絶体系の形成へそもそも核恫喝への防護手段を持たない事から積極的に参加できない事例、日本の外交政策全般からは僅かながら不協和音を示す事例が、散見されます。
アメリカに依存せず必要であれば独自の必要な措置を行う、必要な防衛上の協力関係を包括安全保障協力宣言よりも進んだ同盟条約や地域的安全保障枠組の構築を恒常化させる、核恫喝に耐えうる耐核退避施設の建設と非核手段での核運搬手段迎撃態勢の完成、禁忌を持たない日本型正義の履行への全ての手段を投じる施策、この国民間での理念の共有など。
日本が軍事的に独立するには、政策面も含めた、正義への絶え間ない議論と暫定的な結論の政策化と、これにより独自の国家観や国際関係の構築、必要であれば国家に認められている手段の選択に禁忌を設けず対応する、こうした施策を行って初めて、軍事面を日米安全保障条約により一部アメリカへ外注に出している現状から脱却する事が出来るでしょう。
しかし、お上の論理といいますか、我が国では広く正義や政治を討議し、地域や職域毎に体系化するには、余りに主体的に参加する時間を持てていません。特に、市民政治運動は欧米では保守運動と革新運動が立法府の保守革新の比率と同程度に、均衡が採られているはずなのですが、我が国では一般論として保守的市民運動の動向が活発ではありません。こうなりますと、討議の結果と立法府の勢力が一致せず、議論は空転するばかりとなる。
自主防衛力とは、単純に現在の国境線だけを固執し防護するというだけは国民の総意に基づく合意と指示を受け続けられるかは疑問です、国境線を維持しても国土が焦土となっては意味がない為です。それならば、国境線の内側へ生じる脅威を排除するための積極行動を是認するのか、と問われれば、何を以て排除を発動するかという際限ない議論を生む。
日本の正義とは何か、平和主義であれ、国民平和的生存権であれ、現在の国際公序の維持に依拠する国際協調の維持であれ、その形は様々なものが考えられるのですが、簡単であり最も難しいこの命題を明確に掲げ、そしてその正義への価値観を広く国民と国家が共有できる点を導く険しい過程を越えてこそ、自主防衛の枠組とは実現するのかもしれません。
北大路機関:はるな くらま
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