■戦後日本の空母建造計画
戦後日本の空母建造計画、1950年代と1960年代の布石と見て取れる施策とともに経済的にその実現性を考えますと、時期尚早というものがあったのかもしれません。

23000t型対潜空母構想、計画止まりとなりましたがこの研究に加え、第一次防衛力整備計画時代のアメリカ海軍中古航空母艦供与の可能性というものもありましたが、実現していません。海上自衛隊と戦後日本の空母建造計画、草創期の自衛隊から国産装備体系が一段落するまでの期間だけでもこうした航空母艦保有への動きというものがあった訳です。

この中で対潜空母構想、基準排水量8000t程度の全通飛行甲板型護衛艦へHSS-1対潜ヘリコプター18機集中搭載する“対潜空母”というものについては、計画が開始されて後にHSS-2の配備が開始され、防衛計画の進捗が極めて高い頻度で世代交代を迎えた時代を象徴していますが、日本の造船技術の水準から不可能ではない、ある程度現実的施策でした。

海軍造船士官が第二次世界大戦中の大型艦艇建造の実績と技術を多く残しており、この技術的継承というものも課題となっていた時代であり、特に事実上の再軍備といえる海上自衛隊創設後には、大型艦艇、といっても海軍が大戦中に建造した艦艇と比較すれば必ずしも大型とは言えなかった訳ですけれども、継承を求める声と合致した部分もありましょう。

空母信濃、第二次世界大戦末期に日本が完成させた最後の空母でしたが、この空母信濃は大和型戦艦三番艦の船体を転用し、航空母艦としたもので、排水量だけでいうならばアメリカが建造した最大の空母ミッドウェー級よりも大型で、ジェット機時代の巨大空母として計画に終わったユナイテッドステーツに匹敵するものを大戦中に完成させていました。

技術継承という意味では、雲龍型空母の量産も終戦時に続いていました。雲龍型三番艦空母笠置が満載排水量22000tの船体をほぼ完成させていましたし、空母阿蘇、空母生駒、と本土決戦に備え、空母を活用する時機については別として量産が続き、一旦中止されるも空母鞍馬と更に7隻の雲龍型空母の建造が計画されて、造船所にも経験者がいた時代です。

翔鶴型航空母艦が基準排水量25600tでしたので、真珠湾攻撃から珊瑚海海戦での史上初の日米航空母艦決戦と南太平洋海戦での日米空母決戦での日本海軍最後の勝利に貢献し、戦艦と空母の参加で史上最大の海戦となったレイテ沖海戦に沈んだ翔鶴型空母、23000t型対潜空母構想はこれよりも若干小型で、しかし雲龍型空母よりも若干大型という規模です。

実現しなかった背景には、計画された当時はHSS-1が運用されていた時代で、データリンク能力という概念が未整備で多数の対潜用航空機を艦上から複合的に整備するには限度があった点、当時の防衛費では一隻を整備する事が限度であり、稼動率の関係から常時即応艦を置くことが困難であった、という慎重論が海幕と内局に存在していたことも事実です。

こうした限界により海上自衛隊の空母建造計画は中止され、ヘリコプター搭載護衛艦はるな型建造へ転換してゆくのですが、結果的に、はるな型の規模としたことで日本の防衛予算でも2隻、続く護衛艦しらね型2隻の建造が可能となりました、一隻の対潜空母に18機を搭載するよりも、4隻の護衛艦に12機を分散させ搭載した方が、広域を防護可能です。

ただ、イギリスでは1960年に垂直離着陸機ハリアー技術実証型P.1127が初飛行を果たし、1965年からは対潜母艦用のケストレル実験機による研究試験を開始、海上自衛隊遠洋航海に展開した練習艦かとり、をハリアーが飛行展示で出迎え、かとり着艦デモフライトが打診されていました、海上自衛隊はこの新しい区分の航空機へ興味を示す事となります。
北大路機関:はるな くらま
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
戦後日本の空母建造計画、1950年代と1960年代の布石と見て取れる施策とともに経済的にその実現性を考えますと、時期尚早というものがあったのかもしれません。

23000t型対潜空母構想、計画止まりとなりましたがこの研究に加え、第一次防衛力整備計画時代のアメリカ海軍中古航空母艦供与の可能性というものもありましたが、実現していません。海上自衛隊と戦後日本の空母建造計画、草創期の自衛隊から国産装備体系が一段落するまでの期間だけでもこうした航空母艦保有への動きというものがあった訳です。

この中で対潜空母構想、基準排水量8000t程度の全通飛行甲板型護衛艦へHSS-1対潜ヘリコプター18機集中搭載する“対潜空母”というものについては、計画が開始されて後にHSS-2の配備が開始され、防衛計画の進捗が極めて高い頻度で世代交代を迎えた時代を象徴していますが、日本の造船技術の水準から不可能ではない、ある程度現実的施策でした。

海軍造船士官が第二次世界大戦中の大型艦艇建造の実績と技術を多く残しており、この技術的継承というものも課題となっていた時代であり、特に事実上の再軍備といえる海上自衛隊創設後には、大型艦艇、といっても海軍が大戦中に建造した艦艇と比較すれば必ずしも大型とは言えなかった訳ですけれども、継承を求める声と合致した部分もありましょう。

空母信濃、第二次世界大戦末期に日本が完成させた最後の空母でしたが、この空母信濃は大和型戦艦三番艦の船体を転用し、航空母艦としたもので、排水量だけでいうならばアメリカが建造した最大の空母ミッドウェー級よりも大型で、ジェット機時代の巨大空母として計画に終わったユナイテッドステーツに匹敵するものを大戦中に完成させていました。

技術継承という意味では、雲龍型空母の量産も終戦時に続いていました。雲龍型三番艦空母笠置が満載排水量22000tの船体をほぼ完成させていましたし、空母阿蘇、空母生駒、と本土決戦に備え、空母を活用する時機については別として量産が続き、一旦中止されるも空母鞍馬と更に7隻の雲龍型空母の建造が計画されて、造船所にも経験者がいた時代です。

翔鶴型航空母艦が基準排水量25600tでしたので、真珠湾攻撃から珊瑚海海戦での史上初の日米航空母艦決戦と南太平洋海戦での日米空母決戦での日本海軍最後の勝利に貢献し、戦艦と空母の参加で史上最大の海戦となったレイテ沖海戦に沈んだ翔鶴型空母、23000t型対潜空母構想はこれよりも若干小型で、しかし雲龍型空母よりも若干大型という規模です。

実現しなかった背景には、計画された当時はHSS-1が運用されていた時代で、データリンク能力という概念が未整備で多数の対潜用航空機を艦上から複合的に整備するには限度があった点、当時の防衛費では一隻を整備する事が限度であり、稼動率の関係から常時即応艦を置くことが困難であった、という慎重論が海幕と内局に存在していたことも事実です。

こうした限界により海上自衛隊の空母建造計画は中止され、ヘリコプター搭載護衛艦はるな型建造へ転換してゆくのですが、結果的に、はるな型の規模としたことで日本の防衛予算でも2隻、続く護衛艦しらね型2隻の建造が可能となりました、一隻の対潜空母に18機を搭載するよりも、4隻の護衛艦に12機を分散させ搭載した方が、広域を防護可能です。

ただ、イギリスでは1960年に垂直離着陸機ハリアー技術実証型P.1127が初飛行を果たし、1965年からは対潜母艦用のケストレル実験機による研究試験を開始、海上自衛隊遠洋航海に展開した練習艦かとり、をハリアーが飛行展示で出迎え、かとり着艦デモフライトが打診されていました、海上自衛隊はこの新しい区分の航空機へ興味を示す事となります。
北大路機関:はるな くらま
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)