■祇園祭は山鉾巡行後祭へ
祇園祭は後の祭りという言葉の意味を再考させるものとなっています、それは後祭りの山鉾巡行の規模も大きい為で、疾病祓いの伝統行事、その準備の模様を紹介しましょう。

大船鉾、祇園祭山鉾巡行後祭に向けて鉾建てが進んでいます。祇園祭、四条通から河原町通り、長刀鉾を先頭に23の山鉾が月曜日の山鉾巡行として前祭は盛況と共に幕を閉じました。そして来週月曜日には後祭として山鉾巡行が執り行われ、今週末は宵山を迎えます。

神功皇后が三韓征伐として百済に任那加羅と新羅、朝鮮半島を攻めた故事を描く山鉾です。前祭には出征の威容を表現する船鉾が巡航しましたが、大船鉾は凱旋の故事を示すもの。実は近年まで幕末1864年に在った騒乱、蛤門の変にて発生した大火で焼失していました。

神功皇后の御神像や舳に飾る大金幣は幸い戦火を免れ、2014年に実に150年ぶりの山鉾巡行を果たしました。33の山鉾が巡航しますが、休み山といわれる戦乱や大火により山鉾巡行に参加できない山鉾はまだ残り、最盛期の山鉾巡行は更に大規模なものだったとのこと。

鯉山は鉾建てが進む後祭りの山鉾に在って特に進んでいる山鉾の一つです。鯉山とは中国の故事に因み、山の険しい川を上る鯉は登竜門へと至り、山を乗り越える事で龍となる、その登竜門を越えた瞬間を再現した山鉾です。鉾建て経て本番に鯉の絡繰りが冠せされる。

ホメロスのトロイヤ戦争を描いた叙事詩イーリアス、鯉山にはこの一幕にあたるトロイヤのブリアモス王と王后カベーを描いたタペストリーが掲げられます。ベルギーのブリュッセルにて織られたタペストリーで、山鉾が動く美術館と称せられる所以といえるでしょう。

八幡山は鉾建ての途上と云いますか、端緒に就いたばかりという印象です。前祭と後祭に分かれた祇園祭、かつては山鉾巡行が分け隔てられることなく全ての山鉾が一堂に会したものですが、二回に分けられますと、どうしても町々に祭事の空隙が目立つものですね。

北観音山、鉾建てとして既にその威容を見上げる事が出来ます。1353年の創建という歴史を誇り、観音山と冠せられる通り、その内側には楊柳観音像と韋駄天立像を安置しています。破風下の木彫雲鶴は片岡友輔が刻んだものとされ動く寺社仏閣というところでしょう。

楊柳観音像と韋駄天立像を安置する北観音山、組み上げられている途上ですが、山鉾巡行に際しては四方を縦断にて絢爛豪華に覆います。ペルシャ絨毯を正面に掲げるとともに胴懸東面はトルキスタン絨毯を挙げ、西面はインド絨毯と、華やかな出で立ちとなります。

曳山を祭事に取り入れ巡行する行事は日本全国津々浦々に親しまれていますが、山車の多くは基本的にそのまま車庫に収められています。対し祇園祭の山鉾巡行は山鉾を都度組み上げ、分解しており、鉾建てという儀式そのものが祇園祭の要素といえるかもしれません。

南観音山、楊柳観音像を報じた山鉾です。これは善財童子が南を南へと53の聖者を訪ね菩薩道修業をした華厳経の説話を再現するもので、インド更紗旧打敷を保存会が報じています。このインド更紗旧打敷は1684年のもので日本に存在する最古のものといわれている。

疾病祓いの祇園祭ですが、南観音山は柳の大枝を差し既に組み上げを進めています。鉾建てとは文字通り倒して完成させたものを建てる。柳の大枝は疾病祓いの効能があると永く信じられ、柳を振るいつつ巡行する事で疾病予防のご利益を広く市中に広めるというもの。

四神の図は塩川文麟下絵、昭和期の逸品である加山又造の龍王渡海図を掲げ、また数年前に従来使用した江戸中期のインド絨毯後懸について風化が顕著化したため、イラン製中東連花水辺に魚文様絨毯を掲げ山鉾巡行に臨みます。その組み上げは明日か明後日でしょう。
北大路機関:はるな くらま
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
祇園祭は後の祭りという言葉の意味を再考させるものとなっています、それは後祭りの山鉾巡行の規模も大きい為で、疾病祓いの伝統行事、その準備の模様を紹介しましょう。

大船鉾、祇園祭山鉾巡行後祭に向けて鉾建てが進んでいます。祇園祭、四条通から河原町通り、長刀鉾を先頭に23の山鉾が月曜日の山鉾巡行として前祭は盛況と共に幕を閉じました。そして来週月曜日には後祭として山鉾巡行が執り行われ、今週末は宵山を迎えます。

神功皇后が三韓征伐として百済に任那加羅と新羅、朝鮮半島を攻めた故事を描く山鉾です。前祭には出征の威容を表現する船鉾が巡航しましたが、大船鉾は凱旋の故事を示すもの。実は近年まで幕末1864年に在った騒乱、蛤門の変にて発生した大火で焼失していました。

神功皇后の御神像や舳に飾る大金幣は幸い戦火を免れ、2014年に実に150年ぶりの山鉾巡行を果たしました。33の山鉾が巡航しますが、休み山といわれる戦乱や大火により山鉾巡行に参加できない山鉾はまだ残り、最盛期の山鉾巡行は更に大規模なものだったとのこと。

鯉山は鉾建てが進む後祭りの山鉾に在って特に進んでいる山鉾の一つです。鯉山とは中国の故事に因み、山の険しい川を上る鯉は登竜門へと至り、山を乗り越える事で龍となる、その登竜門を越えた瞬間を再現した山鉾です。鉾建て経て本番に鯉の絡繰りが冠せされる。

ホメロスのトロイヤ戦争を描いた叙事詩イーリアス、鯉山にはこの一幕にあたるトロイヤのブリアモス王と王后カベーを描いたタペストリーが掲げられます。ベルギーのブリュッセルにて織られたタペストリーで、山鉾が動く美術館と称せられる所以といえるでしょう。

八幡山は鉾建ての途上と云いますか、端緒に就いたばかりという印象です。前祭と後祭に分かれた祇園祭、かつては山鉾巡行が分け隔てられることなく全ての山鉾が一堂に会したものですが、二回に分けられますと、どうしても町々に祭事の空隙が目立つものですね。

北観音山、鉾建てとして既にその威容を見上げる事が出来ます。1353年の創建という歴史を誇り、観音山と冠せられる通り、その内側には楊柳観音像と韋駄天立像を安置しています。破風下の木彫雲鶴は片岡友輔が刻んだものとされ動く寺社仏閣というところでしょう。

楊柳観音像と韋駄天立像を安置する北観音山、組み上げられている途上ですが、山鉾巡行に際しては四方を縦断にて絢爛豪華に覆います。ペルシャ絨毯を正面に掲げるとともに胴懸東面はトルキスタン絨毯を挙げ、西面はインド絨毯と、華やかな出で立ちとなります。

曳山を祭事に取り入れ巡行する行事は日本全国津々浦々に親しまれていますが、山車の多くは基本的にそのまま車庫に収められています。対し祇園祭の山鉾巡行は山鉾を都度組み上げ、分解しており、鉾建てという儀式そのものが祇園祭の要素といえるかもしれません。

南観音山、楊柳観音像を報じた山鉾です。これは善財童子が南を南へと53の聖者を訪ね菩薩道修業をした華厳経の説話を再現するもので、インド更紗旧打敷を保存会が報じています。このインド更紗旧打敷は1684年のもので日本に存在する最古のものといわれている。

疾病祓いの祇園祭ですが、南観音山は柳の大枝を差し既に組み上げを進めています。鉾建てとは文字通り倒して完成させたものを建てる。柳の大枝は疾病祓いの効能があると永く信じられ、柳を振るいつつ巡行する事で疾病予防のご利益を広く市中に広めるというもの。

四神の図は塩川文麟下絵、昭和期の逸品である加山又造の龍王渡海図を掲げ、また数年前に従来使用した江戸中期のインド絨毯後懸について風化が顕著化したため、イラン製中東連花水辺に魚文様絨毯を掲げ山鉾巡行に臨みます。その組み上げは明日か明後日でしょう。
北大路機関:はるな くらま
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