■新特集:大久保駐屯地祭
日曜特集、第4施設団52周年大久保駐屯地祭を今回から紹介しましょう。第4施設団長に小野塚貴之陸将補が着任していました時代です。
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写真特集第四施設団創設記念大久保駐屯地祭二〇一三、京都府宇治市の陸上自衛隊駐屯地で中部方面隊隷下部隊の建設工兵部隊である第4施設団と京阪神紀州を防衛警備管区とする第3師団隷下の戦闘工兵部隊である第3施設大隊等の部隊が駐屯している駐屯地です。
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京都府宇治市、大久保駐屯地は近鉄京都線大久保駅に隣接し、大久保駅ホームからは駐屯地の隊舎や施設器材と青々とした駐屯地の木々を間近に見る事が出来ます、駅舎には路線バスや高架下に飲食店街があり、京都市と宇治市の中心部の中間という立地にあるところ。
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駐屯地創設記念行事は例年五月下旬に執り行われ、施設部隊として戦闘工兵と建設工兵が駐屯する駐屯地ならではの行事が行われ、京都の桜花観桜の喧騒が新緑の涼やかな静寂を愉しめる風情と時期を併せ、開催されるものです。大久保駐屯地駐屯部隊は以下の通り。
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第4施設団本部及び付隊、第4施設団隷下、第7施設群本部及び第7施設群、第102施設器材隊、第307ダンプ車両中隊、中部方面後方支援隊第104施設直接支援大隊など。第3師団隷下部隊では、第3施設大隊、第3後方支援連隊第1整備大隊施設整備隊が駐屯する。
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大久保駐屯地は施設部隊駐屯地であり、その規模は比較的大きいのですが駐屯地運用と維持業務には中部方面会計隊隷下第397会計隊、中部方面通信群第318基地通信中隊大久保派遣隊、第131地区警務隊大久保派遣隊、大久保駐屯地業務隊等の部隊が当たっています。
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創設記念行事は広大な駐屯地の一角で行われます。大久保駐屯地は近鉄大久保駅から外柵に沿って用水路を少し駅から離れた場所に白壁の先に広がります、駐屯地入口を挨拶と共に通れば、国際貢献任務完遂を祈る蛙像、無事帰るを願掛けした像とグラウンドが見える。
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しかし、大久保駐屯地の駐屯地創設記念行事は広大なグラウンドでは行われず、もう少し駐屯地の奥まったところに更に広大な広場があり、此処が記念式典会場となっています。そして、その道中には施設部隊関連機材等が多数並び、施設科の任務の幅が垣間見えます。
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第4施設団、中部方面隊隷下の建設工兵部隊として1961年に新編された部隊で、新編当時からこの大久保駐屯地へ駐屯しています。旧陸軍飛行場跡地を米軍が接収し、その後警察予備隊創設と共に陸上自衛隊へ移管されました。中部方面総監部を置く構想もありました。
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1961年当時の編成、団本部、本部付隊、第101建設大隊、第109施設大隊、第305施設器材中隊、第307ダンプ車両中隊、第302地区施設隊、第303地区施設隊、第304地区施設隊、第313地区施設隊、第318地区施設隊、第319地区施設隊、第320地区施設隊、です。
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地区施設隊とは、方面隊管区毎に建設工兵部隊を100名規模で駐屯させていました部隊で、規模としては現在の施設中隊規模ではありますが、日本本土の道路整備が未発達であった時代には部外工事として民生支援等日本経済の発展にも寄与した独特の編成といえるもの。
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地区施設隊の配置を見ますと、第302地区施設隊は金沢駐屯地、第303地区施設隊が出雲駐屯地、第304地区施設隊は山口駐屯地、第313地区施設隊は豊川駐屯地、第318地区施設隊が久居駐屯地、第319地区施設隊は大津駐屯地、第320地区施設隊が松山駐屯地、と。
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建設大隊とは、施設大隊を示すものですが当時は施設大隊と建設大隊を分けていました。1960年代、日本は高度経済成長の真直中ではありますが僅か十数年前の太平洋戦争敗戦は日本の軍事という制度に対する拒絶性、しかし国家と不可避の命題に悩んだ時代といえる。
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60年代の自衛隊は同時に米軍供与装備が次々と国産化され、M-4戦車が61式戦車へ、M-3半装軌車が60式装甲車へ、M-40A1無反動砲が60式無反動砲と60式自走無反動砲へ、M-1小銃とM-1騎銃が64式小銃へ、M-1919A6機関銃が62式機関銃へ、転換してゆく。
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軍隊と国家の関係性ですが、61式戦車が開発された当時、戦車という呼称を避け61式特車という呼称を用いたくらいですし、64式対戦車誘導弾の英訳略称ATMが核ミサイルを彷彿させるというよく分からない理由でMATという怪獣攻撃チームのような名称もできた。
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自衛隊草創期が一段落した1962年、第4施設団隷下に、第105建設大隊、豊川駐屯地第321地区施設隊、大久保駐屯地第322地区施設隊、大久保駐屯地第323地区施設隊、三軒屋駐屯地第324地区施設隊、高知分屯地第325地区施設隊(高知駐屯地が一斉に新編される。
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1962年は陸上自衛隊改編の大きな一年となっていました。即ち、陸上自衛隊へ“師団”という制度が創設されたわけです。自衛隊は旧軍呼称との決別の意味もあり、管区隊、という呼称を師団に代えていました。しかし、管区隊は規模が大きく、小回りが利きません。
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管区隊はアメリカ陸軍型歩兵師団を参考に創設されたものですが、日本の国土には大型のアメリカ軍型歩兵師団は使いにくく、機械化混成団という現在の旅団規模となる連隊戦闘団を並列しておき、機動運用を行う構想が立てられました、しかし機械化予算が無かった。
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第7混成団だけは機械化混成団となりましたが、従来、管区隊の大きな防衛線構築により敵の行動を拘束し、その上で機動力を活かした機械化混成団の機動打撃を以て敵を殲滅、もしくは管区隊の防衛線構築までの機械化混成団の遅滞戦闘、と基本構想があった訳です。
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1962年、機械化へ60式装甲車が2500両くらい必要で、実質、機械化混成団が単なる小型の管区隊にしかなっていない実情に鑑み、師団を構成する普通科連隊を当時の2500名規模の編成から1200名規模の編成に小型化し、管区隊と混成団を共に師団へと改編し今日に至る。
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新しい駐屯地や分屯地が続々と強化されたのも1962年で、岐阜駐屯地、富山分屯地、鯖江分屯地、和歌山駐屯地、と。現在分屯地となっている駐屯地や逆に現在駐屯地となっている当時の分屯地の名前等が並びますが、地区施設隊は次々と全国へ駐屯していた時代です。
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第4施設団はこうして現在の編成へ数多の改編を経て完結してゆきました。現在の第4施設団編成は、団本部、段本部付隊、第6施設群、第7施設群、第304水際障害中隊、第304施設隊、第305施設隊、第102施設器材隊、第307ダンプ車両中隊、となっています。
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隷下施設群の編成を見ますと、第6施設群は、群本部、第369施設中隊、第370施設中隊、第371施設中隊、第372施設中隊という編成です。第7施設群の編成を見ますと、群本部、第380施設中隊、第381施設中隊、第382施設中隊第304水際障害中隊、という編成だ。
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方面隊隷下の施設団は建設工兵であった、とは前述のとおりですが、現在は必ずしもそうとは言い切れないものがあります。即ち、近年は戦闘工兵用装備の集約も行われており、障害処理や地雷処理の最前線へ展開する運用が多々、想定されるようになっている為です。
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大久保駐屯地祭では、こうした様々な経緯と共に重厚と多様性を増した施設科の各種装備品が、複雑な現代戦闘の第一線工兵任務や戦闘支援任務を訓練と戦術研究により会得した施設科隊員たちの手により観閲行進や訓練展示、装備品展示や体験試乗等に活躍します。
北大路機関:はるな くらま
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
日曜特集、第4施設団52周年大久保駐屯地祭を今回から紹介しましょう。第4施設団長に小野塚貴之陸将補が着任していました時代です。
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京都府宇治市、大久保駐屯地は近鉄京都線大久保駅に隣接し、大久保駅ホームからは駐屯地の隊舎や施設器材と青々とした駐屯地の木々を間近に見る事が出来ます、駅舎には路線バスや高架下に飲食店街があり、京都市と宇治市の中心部の中間という立地にあるところ。
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駐屯地創設記念行事は例年五月下旬に執り行われ、施設部隊として戦闘工兵と建設工兵が駐屯する駐屯地ならではの行事が行われ、京都の桜花観桜の喧騒が新緑の涼やかな静寂を愉しめる風情と時期を併せ、開催されるものです。大久保駐屯地駐屯部隊は以下の通り。
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第4施設団本部及び付隊、第4施設団隷下、第7施設群本部及び第7施設群、第102施設器材隊、第307ダンプ車両中隊、中部方面後方支援隊第104施設直接支援大隊など。第3師団隷下部隊では、第3施設大隊、第3後方支援連隊第1整備大隊施設整備隊が駐屯する。
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大久保駐屯地は施設部隊駐屯地であり、その規模は比較的大きいのですが駐屯地運用と維持業務には中部方面会計隊隷下第397会計隊、中部方面通信群第318基地通信中隊大久保派遣隊、第131地区警務隊大久保派遣隊、大久保駐屯地業務隊等の部隊が当たっています。
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しかし、大久保駐屯地の駐屯地創設記念行事は広大なグラウンドでは行われず、もう少し駐屯地の奥まったところに更に広大な広場があり、此処が記念式典会場となっています。そして、その道中には施設部隊関連機材等が多数並び、施設科の任務の幅が垣間見えます。
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第4施設団、中部方面隊隷下の建設工兵部隊として1961年に新編された部隊で、新編当時からこの大久保駐屯地へ駐屯しています。旧陸軍飛行場跡地を米軍が接収し、その後警察予備隊創設と共に陸上自衛隊へ移管されました。中部方面総監部を置く構想もありました。
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建設大隊とは、施設大隊を示すものですが当時は施設大隊と建設大隊を分けていました。1960年代、日本は高度経済成長の真直中ではありますが僅か十数年前の太平洋戦争敗戦は日本の軍事という制度に対する拒絶性、しかし国家と不可避の命題に悩んだ時代といえる。
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60年代の自衛隊は同時に米軍供与装備が次々と国産化され、M-4戦車が61式戦車へ、M-3半装軌車が60式装甲車へ、M-40A1無反動砲が60式無反動砲と60式自走無反動砲へ、M-1小銃とM-1騎銃が64式小銃へ、M-1919A6機関銃が62式機関銃へ、転換してゆく。
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軍隊と国家の関係性ですが、61式戦車が開発された当時、戦車という呼称を避け61式特車という呼称を用いたくらいですし、64式対戦車誘導弾の英訳略称ATMが核ミサイルを彷彿させるというよく分からない理由でMATという怪獣攻撃チームのような名称もできた。
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1962年は陸上自衛隊改編の大きな一年となっていました。即ち、陸上自衛隊へ“師団”という制度が創設されたわけです。自衛隊は旧軍呼称との決別の意味もあり、管区隊、という呼称を師団に代えていました。しかし、管区隊は規模が大きく、小回りが利きません。
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管区隊はアメリカ陸軍型歩兵師団を参考に創設されたものですが、日本の国土には大型のアメリカ軍型歩兵師団は使いにくく、機械化混成団という現在の旅団規模となる連隊戦闘団を並列しておき、機動運用を行う構想が立てられました、しかし機械化予算が無かった。
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第7混成団だけは機械化混成団となりましたが、従来、管区隊の大きな防衛線構築により敵の行動を拘束し、その上で機動力を活かした機械化混成団の機動打撃を以て敵を殲滅、もしくは管区隊の防衛線構築までの機械化混成団の遅滞戦闘、と基本構想があった訳です。
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新しい駐屯地や分屯地が続々と強化されたのも1962年で、岐阜駐屯地、富山分屯地、鯖江分屯地、和歌山駐屯地、と。現在分屯地となっている駐屯地や逆に現在駐屯地となっている当時の分屯地の名前等が並びますが、地区施設隊は次々と全国へ駐屯していた時代です。
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第4施設団はこうして現在の編成へ数多の改編を経て完結してゆきました。現在の第4施設団編成は、団本部、段本部付隊、第6施設群、第7施設群、第304水際障害中隊、第304施設隊、第305施設隊、第102施設器材隊、第307ダンプ車両中隊、となっています。
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方面隊隷下の施設団は建設工兵であった、とは前述のとおりですが、現在は必ずしもそうとは言い切れないものがあります。即ち、近年は戦闘工兵用装備の集約も行われており、障害処理や地雷処理の最前線へ展開する運用が多々、想定されるようになっている為です。
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大久保駐屯地祭では、こうした様々な経緯と共に重厚と多様性を増した施設科の各種装備品が、複雑な現代戦闘の第一線工兵任務や戦闘支援任務を訓練と戦術研究により会得した施設科隊員たちの手により観閲行進や訓練展示、装備品展示や体験試乗等に活躍します。
北大路機関:はるな くらま
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