■緊急報告,犬山城被雷
今回は予定を変更し、先週発生した愛知県記録的豪雨の象徴的な被害に耐える国宝天守閣の様子をお伝えします。
犬山城天守閣に落雷があり屋根の一部が破損、衝撃的な報道が全国を驚かせました。現存天守12城であるとともに犬山城は日本5国宝天守閣の一つに数えられ、姫路城、彦根城、松本城、そして新しく国宝指定を受けた松江城と共に城郭の威容と気風を湛える名城です。
落雷による破損、愛知県全域に記録的豪雨による警戒が促されていた7月12日1600時頃、犬山城天守閣屋根にある鯱瓦が破損している事が犬山城を管理する財団法人犬山城白帝文庫職員の巡回により発見されました。当時会館中であり落雷の瞬間は記録されていません。
織田広近を築城主とする犬山城は木曽川峡部に位置し、尾張国と美濃国の境という緊要地形に立地します。築城は応仁の乱時代まで遡りますが、先行して二層部分までが1537年に築城され、標高88mの小山上に立地する事から眺望に優れ徐々に郭が整備されてゆきます。
小牧長久手の戦いや関ヶ原の戦いではその眺望から戦略拠点としての機能を有し、一方城郭としても野面積の天守台石垣は高さは5mに達し、更に木曽川岸に位置する立地により攻城戦に際しても木曽川の砂洲を除けば地形防御を最大限に活かせる構造とされてきました。
豊臣秀吉は小牧長久手の戦いに際して、ここ犬山城に本陣を置き、小牧山城に本陣を置く徳川家康と対峙しています。城主は転々としましたがその後、豊臣秀次の領地となり、関ヶ原の戦いののちには小笠原吉次、続いて尾張藩付家老の成瀬正成が城主となっています。
成瀬正成が城主となって以降、犬山城は大規模な改修工事を行い複合式望楼型三層四階地下二階の天守閣は1620年の大改修により完成したものとされています。これにより仏閣伽藍を思わせる二層天守は三層四階となり、天守閣は重厚無比な現在の威容となった訳です。
天守閣は往時の威容を保っていますが、城門や櫓等は廃藩置県に伴う廃城と共に破壊されています。この驚くべき文化財破壊は、城郭の軍事拠点としての重要性が色濃く残る明治初期において士族反乱が相次ぐ中、軍事拠点を予め破壊しておくという必要上によるもの。
災害と犬山城という視点からは1891年の濃尾地震、現代史に記録される最大の内陸地震により天守閣の東南角の付櫓が破損すると共に、1959年の伊勢湾台風でも天守閣は被害を受けています。しかし、最大の破損は災害ではなく廃藩置県に伴う犬山城廃城の決定でした。
落雷は7月12日1600時頃と考えられ、瓦製で高さが1mという鯱が破損しています。これは1964年に復元工事に合わせて取り替えられたもの、1600時は開館中で1700時まで天守閣には観光客がいましたが。屋根は一般開放される天守閣最上階から数m上にあります。
犬山城では落雷によるけが人などは出ていません。鯱が落雷から観光客を護ったといえるでしょう。吹き飛んだ鯱瓦は天守閣周辺に破片となって降り注ぎましたが、落雷当時は一時間雨量100mmという記録的豪雨に見舞われ、観光客が雨宿りしていたのも、僥倖の一つ。
落雷により鯱瓦と共に天守閣の電気系統が大きく破損し、火災報知機も破壊されました。犬山城では火災報知機の修理を行うと共に、電気系統などで漏電を引き起こす配線破壊の兆候が無いかを点検するよう消防署より求められ、安全第一、一般公開中止を決定します。
鯱は落雷から天守を護るものでその役割を果たしたといえます。点検中天守閣への入場中止となりましたが、城郭の一般公開は行われ、入場料について徴収せず、無料開放されていました、現在は天守閣一般公開が再開されています。鯱瓦は国宝の天守閣一部、今後修理方法について文化庁と協議するとの事です。
北大路機関:はるな くらま
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
今回は予定を変更し、先週発生した愛知県記録的豪雨の象徴的な被害に耐える国宝天守閣の様子をお伝えします。
犬山城天守閣に落雷があり屋根の一部が破損、衝撃的な報道が全国を驚かせました。現存天守12城であるとともに犬山城は日本5国宝天守閣の一つに数えられ、姫路城、彦根城、松本城、そして新しく国宝指定を受けた松江城と共に城郭の威容と気風を湛える名城です。
落雷による破損、愛知県全域に記録的豪雨による警戒が促されていた7月12日1600時頃、犬山城天守閣屋根にある鯱瓦が破損している事が犬山城を管理する財団法人犬山城白帝文庫職員の巡回により発見されました。当時会館中であり落雷の瞬間は記録されていません。
織田広近を築城主とする犬山城は木曽川峡部に位置し、尾張国と美濃国の境という緊要地形に立地します。築城は応仁の乱時代まで遡りますが、先行して二層部分までが1537年に築城され、標高88mの小山上に立地する事から眺望に優れ徐々に郭が整備されてゆきます。
小牧長久手の戦いや関ヶ原の戦いではその眺望から戦略拠点としての機能を有し、一方城郭としても野面積の天守台石垣は高さは5mに達し、更に木曽川岸に位置する立地により攻城戦に際しても木曽川の砂洲を除けば地形防御を最大限に活かせる構造とされてきました。
豊臣秀吉は小牧長久手の戦いに際して、ここ犬山城に本陣を置き、小牧山城に本陣を置く徳川家康と対峙しています。城主は転々としましたがその後、豊臣秀次の領地となり、関ヶ原の戦いののちには小笠原吉次、続いて尾張藩付家老の成瀬正成が城主となっています。
成瀬正成が城主となって以降、犬山城は大規模な改修工事を行い複合式望楼型三層四階地下二階の天守閣は1620年の大改修により完成したものとされています。これにより仏閣伽藍を思わせる二層天守は三層四階となり、天守閣は重厚無比な現在の威容となった訳です。
天守閣は往時の威容を保っていますが、城門や櫓等は廃藩置県に伴う廃城と共に破壊されています。この驚くべき文化財破壊は、城郭の軍事拠点としての重要性が色濃く残る明治初期において士族反乱が相次ぐ中、軍事拠点を予め破壊しておくという必要上によるもの。
災害と犬山城という視点からは1891年の濃尾地震、現代史に記録される最大の内陸地震により天守閣の東南角の付櫓が破損すると共に、1959年の伊勢湾台風でも天守閣は被害を受けています。しかし、最大の破損は災害ではなく廃藩置県に伴う犬山城廃城の決定でした。
落雷は7月12日1600時頃と考えられ、瓦製で高さが1mという鯱が破損しています。これは1964年に復元工事に合わせて取り替えられたもの、1600時は開館中で1700時まで天守閣には観光客がいましたが。屋根は一般開放される天守閣最上階から数m上にあります。
犬山城では落雷によるけが人などは出ていません。鯱が落雷から観光客を護ったといえるでしょう。吹き飛んだ鯱瓦は天守閣周辺に破片となって降り注ぎましたが、落雷当時は一時間雨量100mmという記録的豪雨に見舞われ、観光客が雨宿りしていたのも、僥倖の一つ。
落雷により鯱瓦と共に天守閣の電気系統が大きく破損し、火災報知機も破壊されました。犬山城では火災報知機の修理を行うと共に、電気系統などで漏電を引き起こす配線破壊の兆候が無いかを点検するよう消防署より求められ、安全第一、一般公開中止を決定します。
鯱は落雷から天守を護るものでその役割を果たしたといえます。点検中天守閣への入場中止となりましたが、城郭の一般公開は行われ、入場料について徴収せず、無料開放されていました、現在は天守閣一般公開が再開されています。鯱瓦は国宝の天守閣一部、今後修理方法について文化庁と協議するとの事です。
北大路機関:はるな くらま
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