■日露戦争日本海海戦殊勲艦
京都発幕間旅情、水曜日の特集は寺社仏閣城郭紹介の旅行記に加え今回から旅行特集を新たに紹介しましょう。
軍港都市横須賀、海上自衛隊横須賀基地に逸見桟橋ヘリコプター搭載護衛艦いずも、吉倉桟橋イージス艦きりしま、船越地区掃海母艦ぶんご、アメリカ海軍横須賀施設の原子力空母ロナルドレーガン、これら筆頭に護衛艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、掃海艇等が並ぶ。
横須賀は散策する程に、軍港の歴史情緒あふれる、しかし同盟国海軍との異国情緒御溢れる、しかし江戸時代に遡る横須賀開港の歴史が点在し、そして徳川家康と三浦按針との国際交流の歴史を思い出す、深みのある、京都とはまた違った歴史都市である事を思い出す。
記念艦三笠、日本海軍の連合艦隊旗艦として1902年に竣工した戦艦です。敷島型戦艦四番艦として建造され、満載排水量15140t、全長131mと建造当時は世界最大の戦艦でした。建造はイギリスのヴィッカース社、現BAEです。前ド級戦艦として現存する貴重な一隻だ。
海上自衛隊横須賀地方総監部旧三笠艦保存所として登録されるれっきとした防衛省の施設ですが、三笠保存会が運営し入場券を購入すれば自由に見学ができます。戦後一時荒廃し、上部構造物や艦内は多くが再生後となっていますが船体はそのまま、歴史的価値は高い。
横須賀三笠公園、横須賀基地を一望のヴェルニー公園前にある京浜急行汐入駅から徒歩にして十五分ほど、三笠公園はアメリカ海軍横須賀施設三笠ゲートからもう少し進んだところにあり、1923年に除籍されたのちの姿を、戦後一時荒廃しましたが今に伝えています。
戦艦、それは19世紀末に戦列艦から発展し20世紀中期まで国家が有しうる最大の戦略兵器となっており、現代では20世紀中期における核兵器の誕生により戦略的地位を譲り、戦術兵器としては航空機の長距離打撃力により歴史へ去りましたが一時代の象徴兵器でした。
三笠、229mm装甲板を船体に有し戦艦同士の艦隊戦を想定しており、主砲40口径305mm連装砲2基4門、副砲は船体40口径152mm単装砲14門、補助武装40口径76mm単装砲20門と47mm単装砲16基を備えている他、450mm底部魚雷発射管4基を備えている。
六六艦隊構想として明治時代の1896年、日清戦争後に三国干渉として緊張関係が高まったロシアへの対抗を主眼とした艦隊建造計画に依拠し、戦艦六隻と装甲巡洋艦六隻を整備する一大事業が開始されました。計画は当時国家予算八千万円の時代に二億円を要している。
敷島、朝日、初瀬、三笠、以上戦艦四隻が新造され、戦艦富士、八島、とともに戦艦六隻体制を確立し、装甲巡洋艦八雲、吾妻、浅間、常盤、出雲、磐手、を建造しました。富士、八島、はイギリスの前ド級ロイヤルサブリン級戦艦の派生型にあたり排水量12500tという。
日本海海戦、1905年5月27日に対馬海峡で帝国海軍連合艦隊とロシア太平洋第二艦隊との間で戦われた海戦は世界初の戦艦同士による艦隊決戦ともいわれ、更に陸上の会戦ではなく洋上の海戦により戦争の趨勢を決定した世界戦史上での一つの転換点でもありました。
連合艦隊旗艦として臨んだ日本海海戦、戦艦三笠の名前を世界に轟かせました。歴史的価値は1925年に世界の戦艦や大型巡洋艦の保有数を定め軍拡に上限を設けるという世界史上初の主力兵器に関する軍縮条約、ワシントン海軍軍縮条約では枠外として認められたほど。
ワシントン海軍軍縮条約において記念艦として維持される事となり、船体は陸上に置かれ、そして繰り返しますが第二次世界大戦敗戦後、金属窃盗や管理者不在による興行用途転売等で上部構造物が大きく損なわれましたが、アメリカ海軍の助力もあり復興し、今に至ります。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
京都発幕間旅情、水曜日の特集は寺社仏閣城郭紹介の旅行記に加え今回から旅行特集を新たに紹介しましょう。
軍港都市横須賀、海上自衛隊横須賀基地に逸見桟橋ヘリコプター搭載護衛艦いずも、吉倉桟橋イージス艦きりしま、船越地区掃海母艦ぶんご、アメリカ海軍横須賀施設の原子力空母ロナルドレーガン、これら筆頭に護衛艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、掃海艇等が並ぶ。
横須賀は散策する程に、軍港の歴史情緒あふれる、しかし同盟国海軍との異国情緒御溢れる、しかし江戸時代に遡る横須賀開港の歴史が点在し、そして徳川家康と三浦按針との国際交流の歴史を思い出す、深みのある、京都とはまた違った歴史都市である事を思い出す。
記念艦三笠、日本海軍の連合艦隊旗艦として1902年に竣工した戦艦です。敷島型戦艦四番艦として建造され、満載排水量15140t、全長131mと建造当時は世界最大の戦艦でした。建造はイギリスのヴィッカース社、現BAEです。前ド級戦艦として現存する貴重な一隻だ。
海上自衛隊横須賀地方総監部旧三笠艦保存所として登録されるれっきとした防衛省の施設ですが、三笠保存会が運営し入場券を購入すれば自由に見学ができます。戦後一時荒廃し、上部構造物や艦内は多くが再生後となっていますが船体はそのまま、歴史的価値は高い。
横須賀三笠公園、横須賀基地を一望のヴェルニー公園前にある京浜急行汐入駅から徒歩にして十五分ほど、三笠公園はアメリカ海軍横須賀施設三笠ゲートからもう少し進んだところにあり、1923年に除籍されたのちの姿を、戦後一時荒廃しましたが今に伝えています。
戦艦、それは19世紀末に戦列艦から発展し20世紀中期まで国家が有しうる最大の戦略兵器となっており、現代では20世紀中期における核兵器の誕生により戦略的地位を譲り、戦術兵器としては航空機の長距離打撃力により歴史へ去りましたが一時代の象徴兵器でした。
三笠、229mm装甲板を船体に有し戦艦同士の艦隊戦を想定しており、主砲40口径305mm連装砲2基4門、副砲は船体40口径152mm単装砲14門、補助武装40口径76mm単装砲20門と47mm単装砲16基を備えている他、450mm底部魚雷発射管4基を備えている。
六六艦隊構想として明治時代の1896年、日清戦争後に三国干渉として緊張関係が高まったロシアへの対抗を主眼とした艦隊建造計画に依拠し、戦艦六隻と装甲巡洋艦六隻を整備する一大事業が開始されました。計画は当時国家予算八千万円の時代に二億円を要している。
敷島、朝日、初瀬、三笠、以上戦艦四隻が新造され、戦艦富士、八島、とともに戦艦六隻体制を確立し、装甲巡洋艦八雲、吾妻、浅間、常盤、出雲、磐手、を建造しました。富士、八島、はイギリスの前ド級ロイヤルサブリン級戦艦の派生型にあたり排水量12500tという。
日本海海戦、1905年5月27日に対馬海峡で帝国海軍連合艦隊とロシア太平洋第二艦隊との間で戦われた海戦は世界初の戦艦同士による艦隊決戦ともいわれ、更に陸上の会戦ではなく洋上の海戦により戦争の趨勢を決定した世界戦史上での一つの転換点でもありました。
連合艦隊旗艦として臨んだ日本海海戦、戦艦三笠の名前を世界に轟かせました。歴史的価値は1925年に世界の戦艦や大型巡洋艦の保有数を定め軍拡に上限を設けるという世界史上初の主力兵器に関する軍縮条約、ワシントン海軍軍縮条約では枠外として認められたほど。
ワシントン海軍軍縮条約において記念艦として維持される事となり、船体は陸上に置かれ、そして繰り返しますが第二次世界大戦敗戦後、金属窃盗や管理者不在による興行用途転売等で上部構造物が大きく損なわれましたが、アメリカ海軍の助力もあり復興し、今に至ります。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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