北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】法然院,校閲文化の原点は朱筆書き足すここ経蔵と避け得ぬ誤字の戒め込めて日々を綴る

2022-06-01 20:22:30 | 写真
■朱筆は日本出版文化の原点
 京都散歩の醍醐味は意外な身近と思える文化の原点が直ぐ目の前に在るところでしょうね。

 法然院は浄土宗の原点回帰を目指して再興された、とは記しましたが、そして浄土宗は学僧を本来重要視しており、先週念仏とともにこの法然院は江戸時代、今でいう校閲の聖地となる。元文2年こと西暦1737年に建立されました経蔵には、その歴史がつたわる。

 法然院。京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町という、東山のなかにあってその中心部でありながら少し小高い傾斜地の中腹に位置しています、そしてここは、校閲と非常に関わりあるところでもあるのです。こういいますのも、赤ペンを入れる、その文化の始まりは、ここ。

 新聞記者の方や新聞社の方とお付き合いする機会が増えますと、決まって誤字の多さを指摘されます、実際、誤字脱字は自衛隊の方にもCGS教育において誤字は恥ずかしいものである、こうした教育が在るものだとやんわりと窘められまして、実際わたしもはずかしい。

 校閲部が北大路機関にも欲しいものだと考えたものですが、これも2010年代後半までは打つ手なしの状態が続いていまして、毎日更新を停止して偶数日のみの更新として一日を校了日に充てるという校閲日方式も検討しましたが、毎日更新が原点ゆえに換えるのは辛い。

 誤字脱字、古くからの北大路機関閲覧の方はお気づきかもしれませんが北大路機関は2000時台に更新となったのはここ数年であり、前には2359時までに投稿できれば毎日更新、という文字通り気息奄々自転車操業が常態となっていました。校閲の時間などとても、ない。

 大陸から渡来した経文は日本仏教の重要な経典となりましたが、現地での写本や口述には誤りも多かったように伝わります、しかし、経典は当時日本にも版木による経文の大量印刷技術がありました、そこで誤字脱字が在りますと、大量印刷で拡散してしまうのですね。

 朱筆、要するに赤ペンを入れる事ですが法然院の経蔵には他の大寺院にて製本された教本へ朱筆をいれるという、渡来本も含めた校閲の役割を法然院が担っていたといいまして、大蔵経典へも容赦なく朱筆をいれていたといい、複数朱筆の入った経文も収められている。

 教えられたように思えたのは校閲に時間がかかるのは当然であり、しかし重要な行程である、そこで執筆の様式を転換させる必要への認識なのですね。北大路機関、速報性は低下したものの多少誤字は減った、かなり減ったとはここ数年読まれる方からのおはなしです。

 大蔵経典へも容赦なく朱筆というお話を聞きますと、しかし版木を組んだ僧侶などはこの法然院からの通知を知る事はあったのだろうか、やはり反省したのだろうけれども過度な叱責などはあったのだろうか、誤字脱字は恥ずかしいものですが、指摘もこわいものです。

 執筆と校閲は表裏一体、ここを拝観しまして、また個展などにも門戸を開く寺院ですので、様々な方とも出会います。個展は方丈ではなく、浄土庭は水の湧くあたりの蔵にて行われていまして、流石にここで個展を開くような写真などは手元にないのですけれども、さて。

 文筆家や哲学者の方でここを墓所として選ばれている方も多いようでして、実は墓地を散策することは当方は避けているのですけれども、細雪でしられる谷崎潤一郎の墓所もこちらにあるといいまして、文学を愛する方なども拝観に探訪するという、堂宇でもあります。

 緑に溢れる寺院ですが紅葉も素晴らしく、そして隣接する銀閣寺程ではありませんが活況となるともいう。ただ、この頃の季節にはそれほど賑やかと云う事も無く、ふと熱い暑い季節の京都に少し清涼剤のような情景を、魅せてそして見せてくれる散策のひと時でした。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】法然院,善気水は京都の名水湧く東山の地に浄土宗原点回帰期す法然所縁の地での念仏道場

2022-06-01 20:01:31 | 写真
■茅葺屋根迎える法然院
 COVID-19がひと段落し落着きましたがコロナに命脅かされるか熱さの熱波に脅かされるかという夏がもう直ぐやってくる。

 京都の夏がはじまる、熱いという一言で片づけられないものなのですが、市内を散策していますともう少し堀川通りの様に大木を増やせないものかと思いつつ、しかし熱い中でも散策しますと、その時は暑くとも情景そのものを記録した写真は、熱さを忘れさせる。

 東山を巡りますと、流れる水と煌びやかな緑に古刹の庵、写真で涼しさを感じるのにこの暑さは何なのだろうと、五月末で厳しい暑さを予感させるものですから、思いやられます。気候変動なのか盆地なのかヒートアイランド現象なのか、それでも歩み、そしてめぐる。

 山門は茅葺屋根でありまして、これは洛中の寺院ではなかなかに稀有というもの、佇むという名を示すようにというものですが、新緑は色濃く木々の幹の様に当地に溶け込んでいる、銀閣寺にほど近い庵なのですが、出会いの場となる寺院でもある。不思議な一角です。

 法然院とは、その始まりの歴史を辿りますと鎌倉時代、専修念仏の教えを説くべく比叡山を降りた法然が弟子たちと共に六時礼讃行の修行を深めました庵をその始まりとする堂宇なのですが、ほどなくして荒廃、しかし江戸時代初期に再興されたという歴史ある寺院だ。

 慈照寺こと銀閣寺はここ法然院にほぼ隣接している立地なのですが、銀閣寺といえばもう観光寺院の定番というもので延々門前町にはきつねうどんと天丼にかき氷の観光門前町定番が軒を連ねるものの、少し稜線を歩むだけでここまで静けさが包むのか、と驚かされる。

 哲学の道、京都大学の西田幾多郎先生や田辺元先生といった哲学者が当地を散策しつつ思想冥想を巡らせたとの由来から始まる地名なのですが、法然院はこの哲学の道に面した、そして門前に茶店も一軒ありますので、なんといいますか学問と所縁或る立地に違いない。

 善気山法然院萬無教寺という名が正式名称でして、太平洋戦争後に単立寺院となりました。萬無、この方は知恩院38世であるのですが法然所縁の地に念仏道場を造営するべく幕府に発願したといいまして、門弟の忍澂とともに再建、延宝8年こと西暦1680年のことでした。

 百砂壇という、山門から拝観へ探訪しますと白砂の盛り砂が構成する小山に波紋などが描かれている様子が、左右に百砂壇という狭間は清め砂を意味するものでもありまして、ここで心身を清めて拝観に向かうという。この先には名水が懇々と湧く庭園がひらかれた。

 善気水、京都の名水なのですが法然院の方丈庭園は所謂浄土庭園の様式を執りまして、名水が湧きまして、その向こうに経蔵と、そして方丈など堂宇が広がるのです。気付かされるのは拝観料をとらない、ここは数多の檀家により支えられている聖域ということです。

 萬無の時代、江戸時代に幕府は徳川家菩提の浄土宗を重要視しましたが、特にこの時代の保護政策は、キリスト教文化に対するけん制という意味もありましたので、本来日本仏教のかたちでは権力との距離感が在ったが、江戸時代には保護が進み過ぎたようにもおもう。

 忍澂とともに幕府に願い出たのは、浄土宗の中に保護に甘んじ修行の怠りが大寺院ほど顕著に出ていたという実情への改革を期したともいわれています。徳川家綱、江戸幕府四代将軍は、浄土宗改革を求め法然院の再興を求める声に応じます。こうして寺院は再興へ。

 本堂は延宝9年こと西暦1681年に客殿として落成しまして、方丈は少しのちに貞享4年こと1687年、後西天皇皇女の御殿を移築する事で造営されました。法然院は念仏道場ですが、この再興の際に白蓮小清規という修行が示され、法然院ではいまも継承され続いています。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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六月のウクライナ戦争-長期化するロシア侵攻と世界の対ロ経済制裁に二分されるグローバル社会-見えぬ出口戦略

2022-06-01 07:00:16 | 国際・政治
■臨時情報-ウクライナ情勢
 ウクライナ戦争の六月に入りましても今にも見えぬ出口戦略という視点について。

 ウクライナが予想外の粘りを見せていると考えたのは開戦一か月後ですが、ロシアの経済制裁への粘りも意外と大きいと考えたのが開戦2カ月後、そして出口戦略のみえないままに三カ月をこえています。出口戦略というのは、ロシア経済制裁を継続するならば、ロシア産天然資源を輸入しロシア経済を支える事でウクライナ侵攻に加担する諸国と、割れた。

 世界のもう一つは日本を含めた経済的影響を覚悟してロシアと縁を切る諸国による世界の二分化です。経済制裁をいつまで継続するか、これは延々とロシアからの天然ガス供給を断念する前提で経済計画を構築するか、それともウクライナとの出口戦略で、おそらく反発するであろうウクライナ世論を無視してでもロシアに撤退の口実を与えるかということ。

 当たり前ですが多少ウクライナが反発するところを無視してでもロシアから資源を輸入するという主張が今後増大することです。もちろん、片方は即座の世界大戦に繋がる懸念があり、賛同は出来ません。ただ、世界は出口戦略を求め、一部の国には、もうよいだろうという離反の声や、安い資源で漁夫の利をしめようという声も大きくなってくる可能性が。

 ウクライナ戦争、しかしここで下手な妥協は”軍事力でどうとでもなる”という印象をロシアに与え、天然資源が通常通りに輸出できる体制となれば十年程度で経済を正常化させ軍事力をためた上で、恐らく本命であるロシア飛び地のカリーニングラードへの安全回廊構築、つまりNATO加盟国領域であるスヴァルキギャップへの侵攻に着手するでしょう。

 スヴァルキギャップでも、ここで再度欧州諸国が妥協するならば、次は東西ドイツ国境まで、西ドイツ崩壊までは望まないでしょうが、この程度は覚悟する必要がある。短期的には北海道北部へも脅威は及びます、ロシア海軍が今回のウクライナ戦争で受けた被害は限られます、それは黒海艦隊が大打撃を受けていますが、主力の北方艦隊は無傷である為だ。

 北海道に脅威が及ぶという論拠は、しかし、ロシア艦が21世紀の開戦に対応できない事が明らかとなっており、ロシアが死活的に重視する戦略ミサイル原潜の聖域をバレンツ海に確保することが難しく、すると北海道北部に圧力を掛けオホーツク海を確保することに選択肢が生まれます。故にロシアへの妥協は危険です。有るよう見えて出口はありません。

 出口戦略の難しさは、ロシアの穀物生産量での世界における地位と、欧州における天然ガス依存度の高さから、永続的にロシアへの経済制裁を行うのは難しい、という事です。いや、プーチン大統領も不老不死ではありませんので、寿命と共に気の長くなる時間で待つという選択肢もあるのかもしれませんが。すると、長期化は半年程度では済まない懸念も。

 ウクライナ支援は今後も継続されるのでしょうが、ロシアが我慢比べの様に長期戦を選択し2020年代半ばまで戦闘を続けること。ロシア軍は保管していたT-62戦車を動員し始めている、T-55は欧州通常戦力削減条約で廃棄していますが、対してT-62は歩兵支援に有用で古いですが整備性は高い、これなどはまさに長期戦を考えている証左といえるでしょう。

 簡単な出口戦略は、ロシアのウクライナ侵攻部隊に決定的な痛撃を加えることなのかもしれませんが、ロシア軍が侵攻作戦を継続できない程に例えばウクライナ空軍へのF-16戦闘機供与やHIMARSロケットシステムの配備などを思い切って行わなければ難しいでしょう。すると簡単でない選択肢、戦争を国際社会が止める出口戦略、模索の必要があります。

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