北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都発幕間旅情】岐阜城(岐阜),山城の歴史浪漫を世に示す金華山山頂の独立式望楼型三重四階の模造天守閣

2022-06-29 20:22:52 | 旅行記
■山城への好奇心
 歴史に関心と好奇心はあるが知識の方は全然追い付かない中に今回の望遠で眺めた城郭という話題を。

 金華山山頂に位置する岐阜城、金華山は標高329mと東京タワーよりも若干低いのですが、岐阜市は勿論、岐阜基地や小牧基地と名古屋市からも望見でき、山頂の天守閣があるというだけで、遠方からも直ぐ見分けられるために、当地の象徴的な城郭となっています。

 二階堂行政が建仁元年こと西暦1201年に当地へ城郭を造営した事が始りという。そして天守閣は現在、模造天守閣が山頂に再現されていますが、元々当地には1567年造営の望楼型四重五階天守閣があり、現在の独立式望楼型三重四階という模造天守閣よりも巨大です。

 山城、有名な山城には上杉謙信造営の越後国春日山城、尼子経久による出雲国月山富田城、六角義賢が造営の近江国は観音寺城、有名な浅井長政による近江国の小谷城、いろいろとあるのですが、現地を探訪しますと、大胆な想像力が要るほどにその概要がわかりません。

 織田信長の岐阜城、この岐阜城は天守閣が模造でも再建されているので一見してここかあと感慨深いのですが、浅井長政の小谷城は神社を辿るも戦時中の高射砲陣地跡地なのか城郭遺構かわからず、一乗谷城は一乗谷朝倉氏遺跡となっていますが、やはり遺構が少ない。

 独立式望楼型三重四階天守閣は、1956年に岐阜城はこんな感じ、という印象で造営されたものです。戦前にもありましたが火災で失われたという。ただ、再現された模造天守閣が無ければ、城郭の歴史をふれる端緒が少なくなるように思うのですよね。その点貴重です。

 岐阜城は知っているようで知らないのだよなあ、少し調べますと山頂の天守閣と山麓の三重塔は実は城郭の一部であるという事に気付かされます。織田信長は行政拠点として城郭を整備したため、国境警備の山城と違い支城が数多くあり、一帯が城郭となっています。

 戦闘機と城郭という写真を撮影しよう、じつはファントム現役時代に、基地撮影班から離陸情報を受け、金華山の稜線を超えたあたりで山麓から超望遠レンズを使った圧縮効果で天守閣と戦闘機という写真を考えていました、実際には簡単ではなく、実現はしません。

 金華山、しかし、その撮影適地を探し右往左往、いや離れた場所から撮影地を探していますと、神社のようなものが望遠レンズ越しに見えたり人工造成地形と思われる地形などが、これは遠くから見たからこそ分かるのですが、妙に関心を掻き立てます。支城は実際多い。

 特別な瑞雲を視れるという事で瑞龍寺を探訪下したさいの話題は前に掲載しましたが、瑞龍寺は岐阜城から離れているものの、ここにも城塞があったということでして、要するに今は山麓の岐阜市が広がりますが、中世以降は金華山の稜線の方が賑わっていたという。

 丸山砦に松田尾砦と稲荷山砦や相場山砦に権現山砦、支城はこのように広まっていまして、しかし歴史愛好家や郷土史研究者によれば、なにしろ造営が建仁元年と古い事から、今でも知られていない土塁の遺構などがまだまだ存在する筈であるといい、関心を集めている。

 自動車で外周を回った方が、間近に散策するよりも分りやすいぞ、とは登山が面倒という言い訳ではないのですが、天守閣の見える方角を変えるだけで別の城郭のように見える多くの城郭の天守閣と同じ様に好奇心を刺激し、しかし確かに峰々の多さに気付かされます。

 COVID-19の影響が残る為に敢えて混雑するところを避けて自動車で自由気ままに散策しているのですけれども、成程城郭に昇る以外にも歴史を考える機会はあるものだなあ、と感心します。その呼び水となる模造天守閣は、他の山城にも再建して欲しいものですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】光明院,重森三玲の世界観は雲-嶺上に生ずること無く-月-波心に落つること有り禅語の具現化

2022-06-29 20:00:59 | 写真
■昭和は遠くになりにけり
 光明院は、その庭園がなによりも世界というものを感じ入らせる造り故に勧めたい寺院なのですが、その歴史も関心を誘う、院と同じほどに庭の歴史がです。

 波心の庭、光明院の庭園です。光明院は東福寺の塔頭ですが、最寄駅は東福寺駅ではなく鳥羽街道駅となっています、ただそれは地図上の事でして、実際最寄りの筈が歩み進めますと、距離感ではなく意外な勾配の急さに昇る際は若干の驚きと遠さを感じさせます。

 雲嶺庭、実は此処光明院、基本的に拝観料が必要な寺院なのですけれども、山門から拝観受付までの間に雲嶺庭という、小さな、しかし確たる小庭がありまして、その奥には摩利支尊天が鎮座、自由に参拝する事が出来ます。摩利支天は勝負を司る神様、ありがたい。

 虹の苔寺、こうも称される光明院は、その先の拝観受付を済ませまして至ります波心の庭、その苔と石の見事な調和を見せる風景によるものなのですが、三尊石組を基点に広がる独特の世界観、見渡したその庭園の様相が一新するところに新鮮な驚きを感じるところです。

 池泉式枯山水庭園、重森三玲が昭和14年、つまり戦前の1939年に作庭した庭園となっています。岡山県は水墨画を思わせる風景の加賀郡吉備中央町吉川に生まれた重森三玲は、その後日本美術学校に日本画を専攻、水墨画の世界観を作庭に活かした作庭家という。

 蘿月庵という茶亭が一段高い所に在りまして、ここからも波心庭を眺める事が出来るのですが、驚く事にこの蘿月庵も重森三玲が、造営は戦後の1956年となっていますが、設計したという事で、光明院の造形、その今日に至る完成へ並成らぬ努力を費やしたわけです。

 日本庭園史図鑑を戦前に部分執筆し上奏した事で知られる重森三玲、京都との所縁は当地に住まいました暮らしとともに、勅使河原蒼風を筆頭に生け花など京都の文化芸術家とともに独自の芸術観を醸成しまして、その上で独学の作庭研究を進め、そして携わります。

 東福寺方丈庭園、重森三玲の作庭は光明院のみならず大本山の作庭と塔頭は龍吟庵と霊雲院、そして大徳寺の瑞峯院、更には有名な松尾大社の松風苑、歴史に残る作庭を世に残しています。新しさを感じる作庭ですが、しかし禅宗の伽藍に溶け込む不思議な調和を醸す。

 戦前の京都、昭和は遠くになりにけりという言葉が有りますが、平成の御世も天皇陛下の譲位により令和の時代となりまして、重森三玲の庭園も、前衛的なという印象は無く、古刹の風情に自然と親しんでいます。ただ、散策し拝観するとともに、ふと思う事もある。

 昭和は遠くになりにけり、しかしここ波心庭が作庭される前はどのような風情だったのか、いや拝観は限られた人のみで荒廃していたのか、荒廃する前にはどのような庭園があったのか、なにしろ古都と呼ばれる京都なのですが、その変化は実は常に続いているのですね。

 平安式州浜型、庭園研究を日本庭園史図鑑として上奏した重森三玲は、波心庭を造営に際し、山号の光明に因んだといい、立石が斜線状に並ぶ中心とともに白砂を大海に見立て、いわば立石に光明が差すが如く、という歴史解釈とともに作庭を象ったとされています。

 雲-嶺上に生ずること無く、月-波心に落つること有り。こうした禅語はあるのですが、重森三玲は元々は画家で作庭は独学、この庭園の設計に際し、禅宗は全ては修行という戦前の東福寺塔頭の住持たちとともに、どのようにこの世界観を具現する話し合いをもったのか。

 東山に西日が差しこみ空の青さは黄昏時に向けて日の傾きと雲の動きを際立たせます、その雲の動きの様に、実は変わっていないようで変ってゆくのが京都なのだよねえ、そんな事を思想の探索としたのちに、日没前の頃合いとともに、御山を降りることとしました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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NATO即応部隊を30万規模に増強へ-現行4万,ストルテンベルグ事務総長がマドリードNATO首脳会議前に表明

2022-06-29 07:00:32 | 国際・政治
■臨時情報-NATO首脳会議
 ロシアのウクライナ侵攻を受け緊張続く欧州ではスペインのマドリードにてNATO首脳会議が開催され、我が国からも岸田総理大臣がNATO加盟国ではありませんが出席しています。

 NATOのストルテンベルグ事務総長は27日、NATO即応部隊について、現在の4万名規模の部隊を30万規模に増強する計画を発表しました。この構想はマドリードにて開かれているNATO首脳会議に発議するとし、冷戦以降最大の集団的抑止力と集団的防衛力構築の改革になる、としています。しかし即応部隊は近年増強されたばかり、驚かされました。

 NATO即応部隊NRFは加盟国各国が陸軍部隊等の中で充足率が高く装備を近代化した師団や旅団を指定部隊とし、有事の際には即座に欧州連合軍司令部隷下へ抽出できる体制を示します。しかし驚かれるかもしれませんが、NATO即応部隊NRFという制度は1949年にNATOが創設されて以降、冷戦時代には存在しない制度でした、これは冷戦後のもの。

 2003年にNRFは正式に運用開始となりました。もともとは2002年のNATOプラハ会議においてアメリカの当時のラムズフェルド国防長官の要請によりNATOが世界規模で活動可能となるNATO加盟国15か国からなる即応部隊を創設する方針が示され、具体的には五日間から一ヶ月以内に出動可能という構想、そして冷戦時代にはこの制度はありません。

 冷戦時代、NATOはもっとも即応対処が求められた時代である為に不思議に思われるかもしれませんが、冷戦時代のNATOはソ連軍を中心としたワルシャワ条約機構軍の西ドイツ侵攻やトルコギリシャ侵攻などを念頭に置いていた為、緊急展開を行うというよりはNATOが防衛体制を固めている地域に相手が侵攻に来る、という想定であったためでした。

 冷戦後のNATO即応部隊が必要とされた背景には、1998年のコソボ派遣を契機に、NATOが創設当時想定していなかった加盟国以外の地域への、所謂“域外派遣”という任務が、冷戦後の欧州への脅威がロシアとの関係正常化によりロシア軍侵攻よりは欧州周辺地域での地域紛争が激化し欧州へ影響を及ぼす可能性に転換し、その抑止が求められた構図です。

 2003年の段階でNRFは2万5000名という“ささやかな”規模で想定されていました、具体的には、地上部隊は4000名規模の旅団を3個旅団、海上部隊は空母打撃群に2個常設水上戦闘群と2個常設機雷戦群、空軍部隊は作戦機24時間当たりの200任務飛行所要、というものが見込まれていました。その任務は当時の情勢を受けテロ対策や非戦闘員退避など。

 NRFの増強、冷戦時代にもなかった変革である為に驚かれるかもしれません。しかし、これは冷戦時代と比較するならば逆に緊張緩和を見込んだ措置といえるのかもしれません。何故ならば前述の通り、冷戦時代にNATOは第一線で守りを固めていたもので、具体的に言えば西ドイツ領内にアメリカ第5軍団やイギリスライン軍団など大部隊が駐屯していた。

 冷戦時代の方式を用いるならば、NATOの大群がバルト三国やポーランドとルーマニア等に駐留することとなります、が、ウクライナ戦争を受け、これらの地域にNATOは部隊を駐留させてはいるのですけれども、駐留しているのはNATO多国籍大隊のみ、旅団でさえありません、つまり、前に出て守りを固めるのではなく、加盟国は自国領内で待機させる。

 NATO多国籍大隊に代えてNATO旅団戦闘団が幾つもロシアとの国境に展開する訳ではない、加盟国は万一の際に即座に派遣可能な即応部隊を置く、という方式となります。冷戦時代の自衛隊の北方機動演習と似たもので、一見大胆な防衛政策にみえるものの、実のところ慎重に、しかし確実な抑止力整備を目指しているということなのかも、しれませんね。

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