■山城への好奇心
歴史に関心と好奇心はあるが知識の方は全然追い付かない中に今回の望遠で眺めた城郭という話題を。

金華山山頂に位置する岐阜城、金華山は標高329mと東京タワーよりも若干低いのですが、岐阜市は勿論、岐阜基地や小牧基地と名古屋市からも望見でき、山頂の天守閣があるというだけで、遠方からも直ぐ見分けられるために、当地の象徴的な城郭となっています。

二階堂行政が建仁元年こと西暦1201年に当地へ城郭を造営した事が始りという。そして天守閣は現在、模造天守閣が山頂に再現されていますが、元々当地には1567年造営の望楼型四重五階天守閣があり、現在の独立式望楼型三重四階という模造天守閣よりも巨大です。

山城、有名な山城には上杉謙信造営の越後国春日山城、尼子経久による出雲国月山富田城、六角義賢が造営の近江国は観音寺城、有名な浅井長政による近江国の小谷城、いろいろとあるのですが、現地を探訪しますと、大胆な想像力が要るほどにその概要がわかりません。

織田信長の岐阜城、この岐阜城は天守閣が模造でも再建されているので一見してここかあと感慨深いのですが、浅井長政の小谷城は神社を辿るも戦時中の高射砲陣地跡地なのか城郭遺構かわからず、一乗谷城は一乗谷朝倉氏遺跡となっていますが、やはり遺構が少ない。

独立式望楼型三重四階天守閣は、1956年に岐阜城はこんな感じ、という印象で造営されたものです。戦前にもありましたが火災で失われたという。ただ、再現された模造天守閣が無ければ、城郭の歴史をふれる端緒が少なくなるように思うのですよね。その点貴重です。

岐阜城は知っているようで知らないのだよなあ、少し調べますと山頂の天守閣と山麓の三重塔は実は城郭の一部であるという事に気付かされます。織田信長は行政拠点として城郭を整備したため、国境警備の山城と違い支城が数多くあり、一帯が城郭となっています。

戦闘機と城郭という写真を撮影しよう、じつはファントム現役時代に、基地撮影班から離陸情報を受け、金華山の稜線を超えたあたりで山麓から超望遠レンズを使った圧縮効果で天守閣と戦闘機という写真を考えていました、実際には簡単ではなく、実現はしません。

金華山、しかし、その撮影適地を探し右往左往、いや離れた場所から撮影地を探していますと、神社のようなものが望遠レンズ越しに見えたり人工造成地形と思われる地形などが、これは遠くから見たからこそ分かるのですが、妙に関心を掻き立てます。支城は実際多い。

特別な瑞雲を視れるという事で瑞龍寺を探訪下したさいの話題は前に掲載しましたが、瑞龍寺は岐阜城から離れているものの、ここにも城塞があったということでして、要するに今は山麓の岐阜市が広がりますが、中世以降は金華山の稜線の方が賑わっていたという。

丸山砦に松田尾砦と稲荷山砦や相場山砦に権現山砦、支城はこのように広まっていまして、しかし歴史愛好家や郷土史研究者によれば、なにしろ造営が建仁元年と古い事から、今でも知られていない土塁の遺構などがまだまだ存在する筈であるといい、関心を集めている。

自動車で外周を回った方が、間近に散策するよりも分りやすいぞ、とは登山が面倒という言い訳ではないのですが、天守閣の見える方角を変えるだけで別の城郭のように見える多くの城郭の天守閣と同じ様に好奇心を刺激し、しかし確かに峰々の多さに気付かされます。

COVID-19の影響が残る為に敢えて混雑するところを避けて自動車で自由気ままに散策しているのですけれども、成程城郭に昇る以外にも歴史を考える機会はあるものだなあ、と感心します。その呼び水となる模造天守閣は、他の山城にも再建して欲しいものですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
歴史に関心と好奇心はあるが知識の方は全然追い付かない中に今回の望遠で眺めた城郭という話題を。

金華山山頂に位置する岐阜城、金華山は標高329mと東京タワーよりも若干低いのですが、岐阜市は勿論、岐阜基地や小牧基地と名古屋市からも望見でき、山頂の天守閣があるというだけで、遠方からも直ぐ見分けられるために、当地の象徴的な城郭となっています。

二階堂行政が建仁元年こと西暦1201年に当地へ城郭を造営した事が始りという。そして天守閣は現在、模造天守閣が山頂に再現されていますが、元々当地には1567年造営の望楼型四重五階天守閣があり、現在の独立式望楼型三重四階という模造天守閣よりも巨大です。

山城、有名な山城には上杉謙信造営の越後国春日山城、尼子経久による出雲国月山富田城、六角義賢が造営の近江国は観音寺城、有名な浅井長政による近江国の小谷城、いろいろとあるのですが、現地を探訪しますと、大胆な想像力が要るほどにその概要がわかりません。

織田信長の岐阜城、この岐阜城は天守閣が模造でも再建されているので一見してここかあと感慨深いのですが、浅井長政の小谷城は神社を辿るも戦時中の高射砲陣地跡地なのか城郭遺構かわからず、一乗谷城は一乗谷朝倉氏遺跡となっていますが、やはり遺構が少ない。

独立式望楼型三重四階天守閣は、1956年に岐阜城はこんな感じ、という印象で造営されたものです。戦前にもありましたが火災で失われたという。ただ、再現された模造天守閣が無ければ、城郭の歴史をふれる端緒が少なくなるように思うのですよね。その点貴重です。

岐阜城は知っているようで知らないのだよなあ、少し調べますと山頂の天守閣と山麓の三重塔は実は城郭の一部であるという事に気付かされます。織田信長は行政拠点として城郭を整備したため、国境警備の山城と違い支城が数多くあり、一帯が城郭となっています。

戦闘機と城郭という写真を撮影しよう、じつはファントム現役時代に、基地撮影班から離陸情報を受け、金華山の稜線を超えたあたりで山麓から超望遠レンズを使った圧縮効果で天守閣と戦闘機という写真を考えていました、実際には簡単ではなく、実現はしません。

金華山、しかし、その撮影適地を探し右往左往、いや離れた場所から撮影地を探していますと、神社のようなものが望遠レンズ越しに見えたり人工造成地形と思われる地形などが、これは遠くから見たからこそ分かるのですが、妙に関心を掻き立てます。支城は実際多い。

特別な瑞雲を視れるという事で瑞龍寺を探訪下したさいの話題は前に掲載しましたが、瑞龍寺は岐阜城から離れているものの、ここにも城塞があったということでして、要するに今は山麓の岐阜市が広がりますが、中世以降は金華山の稜線の方が賑わっていたという。

丸山砦に松田尾砦と稲荷山砦や相場山砦に権現山砦、支城はこのように広まっていまして、しかし歴史愛好家や郷土史研究者によれば、なにしろ造営が建仁元年と古い事から、今でも知られていない土塁の遺構などがまだまだ存在する筈であるといい、関心を集めている。

自動車で外周を回った方が、間近に散策するよりも分りやすいぞ、とは登山が面倒という言い訳ではないのですが、天守閣の見える方角を変えるだけで別の城郭のように見える多くの城郭の天守閣と同じ様に好奇心を刺激し、しかし確かに峰々の多さに気付かされます。

COVID-19の影響が残る為に敢えて混雑するところを避けて自動車で自由気ままに散策しているのですけれども、成程城郭に昇る以外にも歴史を考える機会はあるものだなあ、と感心します。その呼び水となる模造天守閣は、他の山城にも再建して欲しいものですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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