北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】大徳寺,大燈国師から一休宗純へ-二十四塔頭准塔頭五十九宇広がりと応仁の乱後に寺院の変容

2022-06-15 20:22:46 | 写真
■一休さんこと一休宗純
 大徳寺の広い山内は迷う事は無いのですが季節の情感を感じるべく散策しますのは歴史に触れるようで趣き深い。

 大徳寺、北大路通とともに京都の北辺に鎮座します寺院は、大燈国師を開山としまして正中2年に開かれました、西暦でいいますと1325年のことです。龍寶山の山号を持ちます寺院は、臨済宗寺院ですが塔頭寺院が山内にも20を超える寺院が並ぶ街のような風情が。

 大燈国師宗峰妙超による開山、では大徳寺の創建はどのような時代だったのでしょうか。寺院創建、仏教伝来は七世紀ごろとなっていましたが、日本国内には数多神社が並びます通り、様々な信仰が定着していまして、全ての街や村落に寺院が在った訳ではありません。

 最澄も延暦寺開山の前には諸国を行脚した事は良く知られていますが、宗峰妙超も諸国行脚、禅宗僧侶は旅する僧侶で、説法を旅先に行う事から袈裟とともに旅装のような出で立ちで絵画に記されています、その旅は説法の旅であると共に寺の未だない村落を巡った。

 中世の日本は人口が急激に増加した、この背景には稲作、灌漑や溜池農法定着前には広大な平野部は単に湿地帯で絶え間ない洪水に開発どころではなく、田圃は山麓の湧水沿いにかぎられました、これが農法開発で耕作適地が一挙に増え、人口も、そして村落も増える。

 禅宗僧侶、鎌倉時代に入り大陸からは云った禅宗僧侶は天台宗のような元々の国家宗教でも、真言宗のような権力により育てられた宗派でもなかった新興でしたが、わが街わが村にも寺院をと考える、未だ寺のない地域に布教を行い布教の情熱により寺を得てゆきます。

 塔頭が並ぶ大徳寺は、ここから一歩進みまして全国の有力者に布教を行い、わが街に寺院を、という先に、京都の大寺院、その僧侶と知己を得る事で領域内に寺院を持つだけではなく日本の中心、京都に自らの庵室を開きたい、こうした野望というか自尊心に応えた。

 京都五山に列せられない林下の寺院という独自の道を歩みまして、江戸時代には二十四塔頭准塔頭五十九宇という規模となりまして、末寺は25ヶ国280余寺にも広がる規模を有していました、明治維新後の廃仏毀釈により劇的に小さくなるも主な塔頭寺院は以下の通り。

 加賀前田家の菩提寺芳春院、三好長慶の菩提聚光院、豊臣秀吉が織田信長菩提として建立の総見院、古田織部や石田三成の菩提という三玄院、畠山義総が建立の興臨院、大友宗麟が建立という瑞峯院、畠山義元と大内義興と大友義親が創建の龍源院、とつづきまして。

 織田信長が父織田信秀の菩提としての黄梅院、足利義満の弟足利満詮が細君菩提として造営した養徳院、肥後細川氏の菩提寺である高桐院、黒田長政が黒田如水菩提に造営の龍光院、豊臣秀吉と豊臣秀保が豊臣秀長の冥福を祈り造営の大光院、今残る塔頭でもこういう。

 応仁の乱では、こうした寺院の性格上完膚なきまで焼失しまして、一休宗純が堺の豪商尾和宗臨の支援により復興を実現させるまでは厳しい時代であったといいますが、ここから塔頭を一から再建したという歴史もまた、大徳寺の歴史なのですよね。寺は此処で一新へ。

 一休宗純の復興は文明6年こと西暦1474年に後土御門天皇の勅命を受け大徳寺住持に任じられたという、正式なものですが、一休宗純はここで大名頼りの大徳寺というものを町衆の寺院へ一転させまして、この施策が豪商はじめ町衆の広い支持を集める事となりました。

 大徳寺が開かれた寺院と感じますのは一休さんの変革故と云うところでして、撮影禁止の塔頭がおおいと感じるのは大燈国師宗峰妙超の大名寺院という成立ち故という、まあいわば二面性の寺院、そんな成立ちの歴史故なのかもしれない、散策の最中にふと思いました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】大徳寺,初夏の澄んだ青空と共に巡る臨済宗大徳寺派大本山寺院と世界観光客の歩み音を感じる

2022-06-15 20:00:47 | 写真
■初夏の北大路を巡る
 北大路通りを散策していますとこの大寺院が船岡山の上り下りとともに印象的でして山内は木々の木陰が涼しく初夏には嬉しい。

 大徳寺、京都市北区紫野大徳寺町に鎮座しています臨済宗大徳寺派の大本山寺院です。ここは塔頭寺院が20以上と、妙心寺のような一つの街といえる広がりを見せていまして、とにもかくにもこの周りの散策というのは気分が落ち着く、何よりも人が少ないですから。

 金毛閣という山門はかの千利休と豊臣秀吉の諍いで日本史に残りましたが、寺院は正和4年こと西暦1315年に宗峰妙超の手により開山となりまして、しかし一休さんこと一休宗純の寺院と云う事もありまして、散策はここを多くの歴史が歩いた、と考えると新鮮です。

 六月十日から外国人観光客の日本訪問が再開するという報道がありまして、さらば静寂よキミはいいやつだった、とオーバーツーリズムといいますか、身動きできない観光過多の京都を思い出しつつ、まあ観光業で成り立つほかない経済に転換したのだし、と嘆息です。

 外国人観光客受け入れ、観光業に就業しましたり宿泊業を営む友人知人の苦節苦労と、自衛隊行事などでお世話になったお宿などが幾つかコロナ禍に廃業してしまいましたことに心痛めた事も多いものですから、まあ賑やかならば悪い事ではないのだ、と納得しつつも。

 ビザ取得の関係から、外国人観光客の日本到着は六月十日から受け入れられるとは言っても実際に日本に到着するのは一か月後になる、こう聞きまして、いや一か月後になりますと、祇園祭の山鉾巡行がどうだろう、という時節なのかと、慌てさせるなよ、とおもった。

 団体旅行に限られる、外国人観光客は添乗員付きツアーに限定されるので個人旅行客の受け入れはもう少し先になるといいまして、添乗員付きツアーでは巨大な観光バス駐車場のある金閣寺や清水寺に集まるくらい、ここ大徳寺には観光バスは停められるけれど、と。

 添乗員付きツアーでは、観光業でも受け入れられるホテルなど宿泊施設は限られますし、なにより自由自在に散策できるのが、大陸の方などは中国共産党の監視の無い自由な時間を過ごせるのですから意味があるのでして、ツアー限定というのはどうかなあ、と思う。

 二万人の枠内で。現在外国人の日本入国は一日二万人に限定され、ビジネスや修学などに限定して受け入れているのですが、この枠内に観光客を含めるということですので、人数としては、ちょっと期待できない水準ではないのか、というなにか溜息が聞こえる規模で。

 中国からの観光客は出国不能、考えてみればこの大徳寺の禅宗なんかは大陸の最新の仏教と云う事で鎌倉時代に日本に入ってきました仏教なのですが、要するに日本の中国共産党と戦後日本とは特に1990年代以降関係は緊張が孕むのですが、文化の交流は盛んでした。

 COVID-19感染対策、日本は感染対策が比較的緩いものの感染を抑えられた事で世界を驚かせていましたが、しかし中国でのオミクロン株の感染拡大、これで中国では神経質になっていまして、日本はもとより世界中への団体旅行ツアーの出国を禁じている現状がある。

 ゼロコロナ政策がありますので、日本に観光客を招くというものも中々出来ないといいますか、期待できないという。すると、欧州や北米からの観光客は円安で高級宿泊施設も値ごろ感があるでしょうから若干は期待できるのかもしれませんが、経済を支える程か、と。

 大徳寺は一カ所だけ休憩施設がありまして、そのほかは座ってゆったり思想に耽るには拝観料が必要です、もう少し長椅子や縁台があればなあ、と思いつつ、さて外国人観光客で観光過多に思いやられるのはもう直ぐなのか先の話なのか、そんな事も考えたりしました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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C-2輸送機ウクライナ難民人道支援物資輸送概況とウクライナが世界へ切実に呼びかける火砲1000門緊急供与

2022-06-15 07:01:26 | 国際・政治
■臨時情報-ウクライナ情勢
 東部セベロドネツクではロシア軍砲兵偏重編成が威力を発揮しており今も昔も火力なのかと実感させられるところですが。

 ウクライナ難民人道支援物資輸送を完了した航空自衛隊C-2輸送機が14日、美保基地へ帰国しました。これは8日にUNCHR国連難民高等弁務官事務所の要請を受けての人道支援として、アラブ首長国連邦のドバイからルーマニアのブカレストへ人道支援物資を輸送し、任務完了後に帰国したもので、C-2輸送機の航続距離の長さと手頃な輸送力が活躍している。

 しかし、ウクライナでは人道支援物資もさることながら、軍事物資、具体的には火砲と戦闘車両の不足が深刻化しており、ゼレンスキー大統領は各国へ支援の加速を要請しています。特に東部のセベロドネツクでは、ロシア軍のBTG大隊戦術群の編成特色、歩兵2個中隊を支援する3個砲兵中隊という砲兵偏重編成が、ウクライナ軍を火力で圧倒しています。

 ウクライナのポドリャク大統領顧問は各国へ、155mm榴弾砲1000門、多連装ロケットシステム300門、主力戦車500両、装甲車両2000両、無人航空機1000機、これだけの装備が必要であると呼びかけました。多連装ロケットシステムは自衛隊が装備するMLRSのような高性能の物ではなく、75式自走ロケット砲や68式自走ロケット砲程度を示すもよう。

 ウクライナのレズニコフ国防相も、不足しているのは火力であると率直にウクライナ軍の苦戦を認めています。こうした要請はウクライナの制服組トップザルジニー最高司令官がアメリカのミリー統合参謀会議議長との10日における電話会談においても要請されており、東部戦線ではロシア軍砲兵火力が十倍に達し、ウクライナ軍が圧倒されている状況がある。

 155mm榴弾砲1000門、多連装ロケットシステム300門、主力戦車500両、装甲車両2000両、無人航空機1000機、この規模は陸上自衛隊が一個丸々といえるほどの装備であり、特にNATO加盟国は冷戦後、砲兵火力を大幅に削減した為、現役砲迫火力として榴弾砲を100門以上維持している国はアメリカやトルコなど僅かで、支援に限界があるのかもしれない。

 152mmではなく155mm、特筆すべきはポドリャク大統領顧問は公式にウクライナ軍砲兵規格である旧ソ連規格152mmではなくNATO標準で自衛隊と同じ155mm砲を要請している点で、これはNATOに加盟した旧ワルシャワ条約機構加盟国の旧ソ連製装備はいよいよ枯渇し始めており、率直に数を揃えられる装備品を要請しているのだといえるでしょう。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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