■一休さんこと一休宗純
大徳寺の広い山内は迷う事は無いのですが季節の情感を感じるべく散策しますのは歴史に触れるようで趣き深い。

大徳寺、北大路通とともに京都の北辺に鎮座します寺院は、大燈国師を開山としまして正中2年に開かれました、西暦でいいますと1325年のことです。龍寶山の山号を持ちます寺院は、臨済宗寺院ですが塔頭寺院が山内にも20を超える寺院が並ぶ街のような風情が。

大燈国師宗峰妙超による開山、では大徳寺の創建はどのような時代だったのでしょうか。寺院創建、仏教伝来は七世紀ごろとなっていましたが、日本国内には数多神社が並びます通り、様々な信仰が定着していまして、全ての街や村落に寺院が在った訳ではありません。

最澄も延暦寺開山の前には諸国を行脚した事は良く知られていますが、宗峰妙超も諸国行脚、禅宗僧侶は旅する僧侶で、説法を旅先に行う事から袈裟とともに旅装のような出で立ちで絵画に記されています、その旅は説法の旅であると共に寺の未だない村落を巡った。

中世の日本は人口が急激に増加した、この背景には稲作、灌漑や溜池農法定着前には広大な平野部は単に湿地帯で絶え間ない洪水に開発どころではなく、田圃は山麓の湧水沿いにかぎられました、これが農法開発で耕作適地が一挙に増え、人口も、そして村落も増える。

禅宗僧侶、鎌倉時代に入り大陸からは云った禅宗僧侶は天台宗のような元々の国家宗教でも、真言宗のような権力により育てられた宗派でもなかった新興でしたが、わが街わが村にも寺院をと考える、未だ寺のない地域に布教を行い布教の情熱により寺を得てゆきます。

塔頭が並ぶ大徳寺は、ここから一歩進みまして全国の有力者に布教を行い、わが街に寺院を、という先に、京都の大寺院、その僧侶と知己を得る事で領域内に寺院を持つだけではなく日本の中心、京都に自らの庵室を開きたい、こうした野望というか自尊心に応えた。

京都五山に列せられない林下の寺院という独自の道を歩みまして、江戸時代には二十四塔頭准塔頭五十九宇という規模となりまして、末寺は25ヶ国280余寺にも広がる規模を有していました、明治維新後の廃仏毀釈により劇的に小さくなるも主な塔頭寺院は以下の通り。

加賀前田家の菩提寺芳春院、三好長慶の菩提聚光院、豊臣秀吉が織田信長菩提として建立の総見院、古田織部や石田三成の菩提という三玄院、畠山義総が建立の興臨院、大友宗麟が建立という瑞峯院、畠山義元と大内義興と大友義親が創建の龍源院、とつづきまして。

織田信長が父織田信秀の菩提としての黄梅院、足利義満の弟足利満詮が細君菩提として造営した養徳院、肥後細川氏の菩提寺である高桐院、黒田長政が黒田如水菩提に造営の龍光院、豊臣秀吉と豊臣秀保が豊臣秀長の冥福を祈り造営の大光院、今残る塔頭でもこういう。

応仁の乱では、こうした寺院の性格上完膚なきまで焼失しまして、一休宗純が堺の豪商尾和宗臨の支援により復興を実現させるまでは厳しい時代であったといいますが、ここから塔頭を一から再建したという歴史もまた、大徳寺の歴史なのですよね。寺は此処で一新へ。

一休宗純の復興は文明6年こと西暦1474年に後土御門天皇の勅命を受け大徳寺住持に任じられたという、正式なものですが、一休宗純はここで大名頼りの大徳寺というものを町衆の寺院へ一転させまして、この施策が豪商はじめ町衆の広い支持を集める事となりました。

大徳寺が開かれた寺院と感じますのは一休さんの変革故と云うところでして、撮影禁止の塔頭がおおいと感じるのは大燈国師宗峰妙超の大名寺院という成立ち故という、まあいわば二面性の寺院、そんな成立ちの歴史故なのかもしれない、散策の最中にふと思いました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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大徳寺の広い山内は迷う事は無いのですが季節の情感を感じるべく散策しますのは歴史に触れるようで趣き深い。

大徳寺、北大路通とともに京都の北辺に鎮座します寺院は、大燈国師を開山としまして正中2年に開かれました、西暦でいいますと1325年のことです。龍寶山の山号を持ちます寺院は、臨済宗寺院ですが塔頭寺院が山内にも20を超える寺院が並ぶ街のような風情が。

大燈国師宗峰妙超による開山、では大徳寺の創建はどのような時代だったのでしょうか。寺院創建、仏教伝来は七世紀ごろとなっていましたが、日本国内には数多神社が並びます通り、様々な信仰が定着していまして、全ての街や村落に寺院が在った訳ではありません。

最澄も延暦寺開山の前には諸国を行脚した事は良く知られていますが、宗峰妙超も諸国行脚、禅宗僧侶は旅する僧侶で、説法を旅先に行う事から袈裟とともに旅装のような出で立ちで絵画に記されています、その旅は説法の旅であると共に寺の未だない村落を巡った。

中世の日本は人口が急激に増加した、この背景には稲作、灌漑や溜池農法定着前には広大な平野部は単に湿地帯で絶え間ない洪水に開発どころではなく、田圃は山麓の湧水沿いにかぎられました、これが農法開発で耕作適地が一挙に増え、人口も、そして村落も増える。

禅宗僧侶、鎌倉時代に入り大陸からは云った禅宗僧侶は天台宗のような元々の国家宗教でも、真言宗のような権力により育てられた宗派でもなかった新興でしたが、わが街わが村にも寺院をと考える、未だ寺のない地域に布教を行い布教の情熱により寺を得てゆきます。

塔頭が並ぶ大徳寺は、ここから一歩進みまして全国の有力者に布教を行い、わが街に寺院を、という先に、京都の大寺院、その僧侶と知己を得る事で領域内に寺院を持つだけではなく日本の中心、京都に自らの庵室を開きたい、こうした野望というか自尊心に応えた。

京都五山に列せられない林下の寺院という独自の道を歩みまして、江戸時代には二十四塔頭准塔頭五十九宇という規模となりまして、末寺は25ヶ国280余寺にも広がる規模を有していました、明治維新後の廃仏毀釈により劇的に小さくなるも主な塔頭寺院は以下の通り。

加賀前田家の菩提寺芳春院、三好長慶の菩提聚光院、豊臣秀吉が織田信長菩提として建立の総見院、古田織部や石田三成の菩提という三玄院、畠山義総が建立の興臨院、大友宗麟が建立という瑞峯院、畠山義元と大内義興と大友義親が創建の龍源院、とつづきまして。

織田信長が父織田信秀の菩提としての黄梅院、足利義満の弟足利満詮が細君菩提として造営した養徳院、肥後細川氏の菩提寺である高桐院、黒田長政が黒田如水菩提に造営の龍光院、豊臣秀吉と豊臣秀保が豊臣秀長の冥福を祈り造営の大光院、今残る塔頭でもこういう。

応仁の乱では、こうした寺院の性格上完膚なきまで焼失しまして、一休宗純が堺の豪商尾和宗臨の支援により復興を実現させるまでは厳しい時代であったといいますが、ここから塔頭を一から再建したという歴史もまた、大徳寺の歴史なのですよね。寺は此処で一新へ。

一休宗純の復興は文明6年こと西暦1474年に後土御門天皇の勅命を受け大徳寺住持に任じられたという、正式なものですが、一休宗純はここで大名頼りの大徳寺というものを町衆の寺院へ一転させまして、この施策が豪商はじめ町衆の広い支持を集める事となりました。

大徳寺が開かれた寺院と感じますのは一休さんの変革故と云うところでして、撮影禁止の塔頭がおおいと感じるのは大燈国師宗峰妙超の大名寺院という成立ち故という、まあいわば二面性の寺院、そんな成立ちの歴史故なのかもしれない、散策の最中にふと思いました。
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