北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】北野天満宮-初詣,十年一度の大寒波は卯年絵馬掲げる楼門と咲き始めの梅花をあつく包む

2023-02-04 20:11:32 | 写真
■京都大寒波の雪景色
 雪景色というのは京都の場合は数時間で屋根の一部をのぞいてほどけてしまう事が基本ですから非日常の風景という印象ではある。

 北野天満宮。雪だ、これは仕事なんかしている場合じゃない、と思ったわけでは決してないのだけれども、外に出る機会がありましたので、これから始まる大仕事を前に大願成就、というわけではないけれども、第二の初詣、第二北大路機関のように歩み進める。

 卯年ということで、うーちゃんの絵馬をみよう、こうした思いも浮かれすぎかな、とはおもったのですが、今年の絵馬はすごい、と開くのが怖い添付メール付きでお話が来ましたので、十年に一度の大雪だ、ちょっといってようではないか、と。気分転換は大事です。

 十年に一度の大寒波来る、大袈裟な、舞鶴にでも行ってみようか、と調べてみますと、舞鶴線終日運休・小浜線終日運休・山陰線終日運休・湖西線運転再開見通しなし。という、これでは近江今津駅からバスで小浜までもいけない。これはすごい雪景色なのになあ、と。

 京都縦貫道通行止め、舞鶴若狭道通行止め、そもそも国道27号線で立ち往生の恐れあり、そして運転見合わせに東海道本線が、京都線と琵琶湖線と神戸線でくわわり、いやよく見れば豪雪地の滋賀県とは関係ない奈良線さえも運休している、これは大雪、となりました。

 大雪ならば、これは仕事がうまくいくか心配だ、となりますので、もちろん万全の調整と資料収集に機材と人員と管理体制をしっかりやりましても、あとは運が左右してしまう、そうなるともう、初もうで第二弾に行くほかないじゃあないですか、緊張感と共に門出だ。

 上京区御前通今出川上ル馬喰、主祭神に菅原道真公をまつります社殿は、壮大な楼門とともに鎮座しています。しかしこれは、毎年この時期から猛烈に忙しくなります関係で梅花は仕事場とごくご近所の香りを愉しむていどなのですが、雪の中に梅が咲いていまして。

 右大臣菅原道真が左大臣藤原時平の陰謀により太宰府に左遷され、当地でこの世を去った、北野天満宮の始まりは、こうした悲しい歴史から始まります。太宰府、行ってみると九州よい街でしたが、1120年前はほんとう何もなかったらしい、延喜3年西暦903年のはなし。

 太宰府の建物は、転勤でも配置転換でもなく配流に近い状況でした、大宰府浄妙院で謹慎していましたが、食事もまともなものがなく布団はまだ当時ないですがまともな寝具もなく、冬にも屋根さえ穴から寒風吹きこむ状況であったといいますので、窮死という状況だ。

 藤原時平、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする藤原北家の出身なのですが、左遷した張本人という位置づけ、しかし菅原道真を左遷してしばらくのちに39歳で亡くなります、いや藤原北家はその10世紀半ばにあの藤原道長を輩出し、繁栄を極めてゆくのですが。

 菅原道真の没後に、京都では落雷による被害が相次ぎました。落雷、わたしも昔、100m先に落雷する瞬間、木が弾けるのを見たことがありますが、あれは怖い、そのお陰で74式戦車の空包射撃くらいは大丈夫、目の前に落ちれば36cm艦砲を艦橋でみる様なものなのか。

 清涼殿落雷事件、菅原道真の没後20年を少し経たころに、日本の中枢である御所の清涼殿に落雷するという大事件が発生しまして、これこそ祟りだ、鎮めなければならない、という、これはもう国家的大事件への危機管理という視点から、北野天満宮は造営されました。

 学問の神さま、こう親しまれている北野天満宮は、思えばいまは大学入学共通テストを経て、いよいよ大学受験本番、という頃合いになっています。いつものことですが、参詣は多いよう思え、梅の季節桜の季節にはお礼参りにこられるといいね、こうおもうのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】下鴨神社(賀茂御祖神社),山城国一宮-平和を記した卯年の絵馬と近現代の日本神社

2023-02-04 14:41:32 | 写真
■伊勢神宮同格の京都の神社
 卯年の絵馬には平和とちいさくともはっきり記されていました。

賀茂御祖神社、この社殿は、かもみおやじんじゃ、とこう読むのですが、下鴨神社として親しまれています、ただ、前のPCではなぜか下賀茂神社と変換されることが多く、誤変換の多い北大路機関はそのまま載せてしまい、氏子の方申し訳ないことをしたと反省した。

 山城国一宮、二十二社上七社の一社、この一つとって歴史あることは何よりも証明されるのですが、明治以降の近代国家としての道を迷いながら歩む日本にとり、旧社格は官幣大社として、天皇制を中心とした近代国家を目指す日本のよりどころの一つとなりました。

 神武天皇が当地まで進んだ際に、この北にあります御蔭山に祭神である賀茂別雷命が降臨した、といいます歴史から創建されたものでして、要するに神話の中の神武天皇の父系に当たる神様という故に上賀茂神社と合わせ奈良時代前から朝廷の崇敬を集めてきた歴史が。

 上賀茂神社というすなわち賀茂別雷神社とともに賀茂氏の氏神を祀る神社という位置づけになっていまして、両社は葵祭にて結ばれている神社なのですが、二つの神社を合わせ賀茂神社という位置づけにもあるのです。この二つの神社、遠いが散策してみるとなかなか。

 賀茂氏とは、天孫降臨として神武天皇が高天原、つまり南九州の宮崎県に日本へ到着するとともに、この京都のあたりまで先導しましたのが賀茂氏とされています、このあたりは歴史研究に詳しい方の話を聞かねばならないのですが、渡来系なのかもともとの日本人か。

 下鴨神社にて、まさか神職の方にご祭神は渡来系ですか大和系ですか、と聞くわけにはいかないのですが、ここを掘り始めると何かこう“日本誕生”というあたりまで壮大な歴史を問うことになります、ただ、先導、案内したということは日本の豪族であったのかとも。

 別表神社として、現在は神社本庁に位置付けられています。伊勢神宮に次ぎ賀茂別雷神社とともに官幣大社の筆頭、こういう位置づけでしたが、戦後神社本庁ができますと、下鴨神社は、神社本庁に属するか単立神社として歴史を歩むか少々議論があったとも言います。

 伊勢神宮と同格にする、神社本庁が示したものはこの条件であったという、こうした話が伝わり、それならば日本の一つの神社として、新しい道を歩もうとしたのですが、社格では伊勢神宮が別格、即ち同格といっても名前の筆頭は伊勢神宮、つまり騙されてしまった。

 神社本庁、ここをあまり言いたくはないのですが、水戸黄門さんの大日本国紀や古事記はじめ、日本が日本帝国として世界に覇権を目指した時代には、日本神道は相当に利用されてきたと歴史があり、本来近代国家はこうした神話から距離おくべきであったのですね。

 神話の時代、もちろん人間には心のよりどころは必要ですし、調和と倫理観のためには人知を超越したもの、日本の場合は神々が、なにしろ巨大火山噴火や大地震に津波と、超越したものを定期的に顕現すると思えるのですが、一人一人心のよりどころは必要と思う。

 ただ、これを国家が政策の正当化に用いては、なにか今のロシアのような状況なのだよなあ、と反省するべきだったのではないかと考えます。そして、伊勢神宮と同格とするならば、まさか社格を50音順で示すわけではないですし、今からでも改めては、と考える。

 糺の森、さてさて、初もうでということで参道は糺の森を三角州の鋭角から歩んできましたが、こう、歩いてみると壮大な神域と思いました。ただ、もう一度あの長い道程を戻るというよりは、そのまま河原町通に真横へ二分、気持ちを新たに歩み進めました次第です。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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ドイツ政府-ウクライナへレオパルド1戦車供与許可,防衛企業保有の第二世代戦車-旧式だがT-72戦車に対抗可能

2023-02-04 07:01:41 | 国際・政治
■臨時情報-ウクライナ情勢
 74式戦車を廃棄するくらいならば重いって供与し現在74式戦車を運用する部隊に北海道で廃棄される90式戦車を管理替えしては、とは思うのです。

 ドイツ政府はドイツ国内の防衛企業が保有するレオパルド1について、そのウクライナへの供与を許可しました。ドイツ国内には連邦軍が使用したレオパルド1戦車がまだ備蓄されていたようです。ウクライナが必要としているレオパルド2主力戦車は第二次世界大戦後第三世代の戦車ですが、レオパルド1は第二世代、日本の74式戦車と同世代となります。

 レオパルド1、高度な戦車ではありますが最新式ではありません、ただ、ボスニア紛争におけるNATOコソボ安定化部隊として派遣されたデンマーク軍のレオパルド1主力戦車が実戦に投入されて、相手はロケット砲兵部隊ですが制圧している。この際に派遣されたレオパルド1はユーゴスラビアに多数配備されていたソ連製T-72戦車を想定したものでした。

 第二世代戦車であるレオパルド1主力戦車は、装甲の薄さが難点です。それは設計に際し、当時のエンジン技術水準では敵戦車の砲弾に耐える装甲を施した場合、機動力が大きく低下し、軟弱地形では行動不能となる懸念と敵戦車と遭遇した際も遮蔽物に移動するのに時間を要する、この為、基本装甲は敢えて20mm機関砲弾に耐える程度となっています。

 74式戦車と比較した場合にかなり薄い装甲に驚かれるかもしれませんが、これは基本装甲の話であり、その後の改修で砲塔には中空装甲という、対戦車ミサイルが命中した場合に砲塔にメタルジェットが到達する前にミサイル信管を作動させジェットを拡散させる装甲が、また車体には増加装甲という特殊金属の防弾板が追加され、防御は強化されています。

 T-72戦車、ロシア軍が多用するT-72戦車やその改良型であるT-90と近代化改修型のT-72B3の砲弾がレオパルド1に命中した場合は、恐らく2000m以内では貫通します、レオパルド2戦車の複合装甲、チタンとセラミックの積層装甲のように戦車砲弾を弾き返す事はできません、ただ、レオパルド1の105mm砲は2000mの距離でT-72を撃破できる。

 メーカーが保有しているものは、第三国に輸出する為で、昨年のユーロサトリでは、砲塔を新型に置換えたものがベルギーの防衛企業により提案されていました。ただ、レオパルド2に対してレオパルド1は車体も古くなっており、供与してもよいという認識があるのかもしれません。しかし有用な戦車です、74式戦車と比べれば暗視装置も改良されています。

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