■京都大寒波の雪景色
雪景色というのは京都の場合は数時間で屋根の一部をのぞいてほどけてしまう事が基本ですから非日常の風景という印象ではある。

北野天満宮。雪だ、これは仕事なんかしている場合じゃない、と思ったわけでは決してないのだけれども、外に出る機会がありましたので、これから始まる大仕事を前に大願成就、というわけではないけれども、第二の初詣、第二北大路機関のように歩み進める。

卯年ということで、うーちゃんの絵馬をみよう、こうした思いも浮かれすぎかな、とはおもったのですが、今年の絵馬はすごい、と開くのが怖い添付メール付きでお話が来ましたので、十年に一度の大雪だ、ちょっといってようではないか、と。気分転換は大事です。

十年に一度の大寒波来る、大袈裟な、舞鶴にでも行ってみようか、と調べてみますと、舞鶴線終日運休・小浜線終日運休・山陰線終日運休・湖西線運転再開見通しなし。という、これでは近江今津駅からバスで小浜までもいけない。これはすごい雪景色なのになあ、と。

京都縦貫道通行止め、舞鶴若狭道通行止め、そもそも国道27号線で立ち往生の恐れあり、そして運転見合わせに東海道本線が、京都線と琵琶湖線と神戸線でくわわり、いやよく見れば豪雪地の滋賀県とは関係ない奈良線さえも運休している、これは大雪、となりました。

大雪ならば、これは仕事がうまくいくか心配だ、となりますので、もちろん万全の調整と資料収集に機材と人員と管理体制をしっかりやりましても、あとは運が左右してしまう、そうなるともう、初もうで第二弾に行くほかないじゃあないですか、緊張感と共に門出だ。

上京区御前通今出川上ル馬喰、主祭神に菅原道真公をまつります社殿は、壮大な楼門とともに鎮座しています。しかしこれは、毎年この時期から猛烈に忙しくなります関係で梅花は仕事場とごくご近所の香りを愉しむていどなのですが、雪の中に梅が咲いていまして。

右大臣菅原道真が左大臣藤原時平の陰謀により太宰府に左遷され、当地でこの世を去った、北野天満宮の始まりは、こうした悲しい歴史から始まります。太宰府、行ってみると九州よい街でしたが、1120年前はほんとう何もなかったらしい、延喜3年西暦903年のはなし。

太宰府の建物は、転勤でも配置転換でもなく配流に近い状況でした、大宰府浄妙院で謹慎していましたが、食事もまともなものがなく布団はまだ当時ないですがまともな寝具もなく、冬にも屋根さえ穴から寒風吹きこむ状況であったといいますので、窮死という状況だ。

藤原時平、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする藤原北家の出身なのですが、左遷した張本人という位置づけ、しかし菅原道真を左遷してしばらくのちに39歳で亡くなります、いや藤原北家はその10世紀半ばにあの藤原道長を輩出し、繁栄を極めてゆくのですが。

菅原道真の没後に、京都では落雷による被害が相次ぎました。落雷、わたしも昔、100m先に落雷する瞬間、木が弾けるのを見たことがありますが、あれは怖い、そのお陰で74式戦車の空包射撃くらいは大丈夫、目の前に落ちれば36cm艦砲を艦橋でみる様なものなのか。

清涼殿落雷事件、菅原道真の没後20年を少し経たころに、日本の中枢である御所の清涼殿に落雷するという大事件が発生しまして、これこそ祟りだ、鎮めなければならない、という、これはもう国家的大事件への危機管理という視点から、北野天満宮は造営されました。

学問の神さま、こう親しまれている北野天満宮は、思えばいまは大学入学共通テストを経て、いよいよ大学受験本番、という頃合いになっています。いつものことですが、参詣は多いよう思え、梅の季節桜の季節にはお礼参りにこられるといいね、こうおもうのです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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雪景色というのは京都の場合は数時間で屋根の一部をのぞいてほどけてしまう事が基本ですから非日常の風景という印象ではある。

北野天満宮。雪だ、これは仕事なんかしている場合じゃない、と思ったわけでは決してないのだけれども、外に出る機会がありましたので、これから始まる大仕事を前に大願成就、というわけではないけれども、第二の初詣、第二北大路機関のように歩み進める。

卯年ということで、うーちゃんの絵馬をみよう、こうした思いも浮かれすぎかな、とはおもったのですが、今年の絵馬はすごい、と開くのが怖い添付メール付きでお話が来ましたので、十年に一度の大雪だ、ちょっといってようではないか、と。気分転換は大事です。

十年に一度の大寒波来る、大袈裟な、舞鶴にでも行ってみようか、と調べてみますと、舞鶴線終日運休・小浜線終日運休・山陰線終日運休・湖西線運転再開見通しなし。という、これでは近江今津駅からバスで小浜までもいけない。これはすごい雪景色なのになあ、と。

京都縦貫道通行止め、舞鶴若狭道通行止め、そもそも国道27号線で立ち往生の恐れあり、そして運転見合わせに東海道本線が、京都線と琵琶湖線と神戸線でくわわり、いやよく見れば豪雪地の滋賀県とは関係ない奈良線さえも運休している、これは大雪、となりました。

大雪ならば、これは仕事がうまくいくか心配だ、となりますので、もちろん万全の調整と資料収集に機材と人員と管理体制をしっかりやりましても、あとは運が左右してしまう、そうなるともう、初もうで第二弾に行くほかないじゃあないですか、緊張感と共に門出だ。

上京区御前通今出川上ル馬喰、主祭神に菅原道真公をまつります社殿は、壮大な楼門とともに鎮座しています。しかしこれは、毎年この時期から猛烈に忙しくなります関係で梅花は仕事場とごくご近所の香りを愉しむていどなのですが、雪の中に梅が咲いていまして。

右大臣菅原道真が左大臣藤原時平の陰謀により太宰府に左遷され、当地でこの世を去った、北野天満宮の始まりは、こうした悲しい歴史から始まります。太宰府、行ってみると九州よい街でしたが、1120年前はほんとう何もなかったらしい、延喜3年西暦903年のはなし。

太宰府の建物は、転勤でも配置転換でもなく配流に近い状況でした、大宰府浄妙院で謹慎していましたが、食事もまともなものがなく布団はまだ当時ないですがまともな寝具もなく、冬にも屋根さえ穴から寒風吹きこむ状況であったといいますので、窮死という状況だ。

藤原時平、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする藤原北家の出身なのですが、左遷した張本人という位置づけ、しかし菅原道真を左遷してしばらくのちに39歳で亡くなります、いや藤原北家はその10世紀半ばにあの藤原道長を輩出し、繁栄を極めてゆくのですが。

菅原道真の没後に、京都では落雷による被害が相次ぎました。落雷、わたしも昔、100m先に落雷する瞬間、木が弾けるのを見たことがありますが、あれは怖い、そのお陰で74式戦車の空包射撃くらいは大丈夫、目の前に落ちれば36cm艦砲を艦橋でみる様なものなのか。

清涼殿落雷事件、菅原道真の没後20年を少し経たころに、日本の中枢である御所の清涼殿に落雷するという大事件が発生しまして、これこそ祟りだ、鎮めなければならない、という、これはもう国家的大事件への危機管理という視点から、北野天満宮は造営されました。

学問の神さま、こう親しまれている北野天満宮は、思えばいまは大学入学共通テストを経て、いよいよ大学受験本番、という頃合いになっています。いつものことですが、参詣は多いよう思え、梅の季節桜の季節にはお礼参りにこられるといいね、こうおもうのです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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