北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】北野天満宮-初詣,平安時代昌泰の変と応天門の変-歴史の分岐点の一つとして広がるこの社殿

2023-02-08 20:22:35 | 写真
■清涼殿落雷事件への道
 水墨画のような情景に浮かぶ社殿に向き合うとともにしかし敢えて歴史を見てみますと、なにか日本的だなあと考えてしまいます。

 北野天満宮は曼殊院門跡とのかかわりが深いという。いや歩くと曼殊院まではけっこう覚悟がいる距離、だいたい北大路から鞍馬まで行くような覚悟がいる距離なのですが、時をも超える歴史の思索に距離は関係ありません、実は近しい関係があるのですね。

 曼殊院門跡、北野天満宮造営当時にあって門跡の門主是算国師が菅原家の出身であった、こういうこともありまして是算が初代北野別当職に任じられた背景がある。菅原道真公は昌泰4年こと西暦901年、昌泰の変において天皇廃位を企んだと疑いを着せられます。

 宇多天皇と醍醐天皇の時代に官職にあった菅原道真、宇多天皇にも重用されるところとなるのですけれども、醍醐天皇の時代に昌泰の変が起きました、娘婿を天皇に嫁がせようとした陰謀だとか、その先に醍醐天皇の廃位をたくらんでいたのだとか、研究されている。

 昌泰の変、この時点で宇多天皇は宇多上皇、菅原道真はそんなことを企むような人物ではないしそもそも野心を持つような人間ではないと、宇多上皇は醍醐天皇に使者を送るのですが、受け入れられず、結果的に菅原道真とその実子4名が流罪となったのでした。

 菅原道真は太宰府にて窮死したのは歴史にある通りですが、実子は別々のところに流されまして、しかし全員学問に秀でていましたので、例えば大津の石山寺など、大切にされていたのですね。すると刑が撤回されても誰も京都に戻ろうとしない、そんな中で落雷が。

 清涼殿落雷事件は醍醐天皇の目の前に落雷が起こる、しかも清涼殿という天皇御座所で、という大事件でした。大納言民部卿の藤原清貫が立ったまま天皇の前で即死するなど大変な騒ぎであり、醍醐天皇はショックのあまり三か月後に崩御、北野天満宮が造営される。

 しかし、この時代の日本史は、なにしろこの日本国家がそのあと千年以上続くとは思われていない視野狭窄の時代でしたので権力闘争は日常茶飯事だったのです、菅原道真をかわいがったという藤原基経も応天門の変で権力闘争の表舞台にて頑張っている、それは。

 応天門の変、貞観8年こと西暦866年に発生しました大納言伴善男を伊豆へ流罪としました大事件でしたが、大伴氏といいますと神武天皇の御世に付き従った天忍日命の子孫という一族ですので、その左遷は古代からの系譜への大きな衝撃を与えた事件ともいえるもの。

 藤原基経は当時参議、ただ実父が大納言という。応天門が放火され、その犯人を捜すさなかに有力氏族であった大伴氏を排斥し、そしてこれは歴史研究が完全に結論を出していない事なのです故断言はできないのですが大伴氏の去ったあと藤原氏が勢力を伸ばす。

 本能寺の変の黒幕をテレビなどでは定期的に特集するところではありますが、日本史としては応天門の変のほうが一大事でもあり、しかし千年以上前の事件故に結論はおそらくでまいといいますか、さすがに当時の新資料もそれほど出てこないようにおもえるものです。

 藤原氏と菅氏との権力闘争の結果、というところなのでしょうけれども、その後味の悪さからこの社殿が造営され、そして今は受験生が拝んでいるという概況をみていますと、日本史は薄気味悪さが神秘性に置き換えられ今に至るのだなあ、慕情を更に深められました。

 北野天満宮、歴史の分岐点の一つとして広がるこの社殿へ、大寒波の雪景色の中の参拝、日常の幕間に紅葉の季節と梅花桜花に新緑の季節の幕間には、こうした雪景色を散策しますと、靴なんかが大変ということはさておき、なにか清涼感を感じるものでした。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】北野天満宮-初詣,学問の神様として祀られる菅原道真公と受験本番は吹雪の中の参拝賑わい

2023-02-08 20:00:25 | 写真
■雪風とともに参拝
 寒い最中の情景は写真で観返しても若干肌寒さを感じる。

 北野天満宮は学問の神様、こう崇敬されているところでして、この大雪の季節は確かに大学受験本番、確かに受験生、というよりもそのご家族の方の参拝を多く感じるところです。大願成就叶い梅花咲き誇るころにはお礼参りができますようわたしも祈ろう。

 学問の神様として祀られます菅原道真公、ここ北野天満宮は今出川通に面しているのですが、今出川通を東へ進めば同志社大学とその先に京都大学、そしてすぐ近くにはバス停衣笠校前がありまして西大路通からの立命館大学最寄り。不思議なものなのだなあ。

 菅家御伝記、菅原道真公についての伝記によれば道真の師は文章生田口達音であり、その教えを受けた菅原道真公は18歳で文章生となったという、この文章生というのは式部省大学寮にて紀伝道を専攻した学生を示すといい、定員20名、毎年の定員ではない。

 文章生は官職で幹部候補生、いまの大学のように毎年20人合格するのではなく定員20名の役職ですので、18歳で任官というのはすごいといいますか、なによりこの18歳というのが高校三年生、つまり大学受験と重なることで信仰へつながったのでしょうか、ねえ。

 国家公務員一種試験にあたる対策という、試験対策というと受験に備えるものですが対策試験というものは奈良時代から室町時代まで行われた官吏登用試験にあたります、口頭試問方式なのですが菅原道真公はこれに26歳で合格しまして正六位上の官職を得ます。

 学問の神様、こう慕われる背景には、なるほどこうした試験に強く、特に口頭試問での評価というのは短答式以上に深い内容の理解を求められるものですから、ご利益ありますように、と願うところなのでしょうか。しかししかし、歴史というのはその先がある。

 藤原基経中納言が、菅原道真公を重用したともいい、出世街道に乗りましたと言いますか従五位下に任じられ兵部少輔をそして民部少輔に補職されました。藤原基経は文才に驚いたという話も残りますが、公文書作成を依頼するなど高い信頼関係にあったという。

 藤原時平の陰謀で配流となった、菅原道真はこうした終着点が待っているのですけれども、歴史というのは不思議なものでして藤原基経というのは藤原時平の実父に当たります。もっとも左遷された当時は藤原時平と菅原道真は右大臣と左大臣という関係でしたが。

 藤原家は当時勢力を更に伸ばそうとしていた時代、いや、大化の改新のころに大きな頭角を見せました明かですので、そのままでも日本の中枢を担っていたのかもしれませんが、それでは不安定だ、と考えたのでしょう、今の日本以上に当時の世間は狭かったのです。

 ただ、これは今風の価値観での認識ですが、藤原氏は官位を独占することにはなるのです、ただ、これもいくつかの偶然というものが影響しているように、例えば奈良時代の天然痘流行での生き残りなど、背景にあるのですから、少し考えてしまうのです、それは。

 藤原基経に重用されていた菅原道真を、実子の藤原時平はどのようにみていたのだろうか、と思うのですね。いや日本史におけるイエというものの存在は社会学的にいまのイエというものとは比較にはならないほど比重は高かったのですが、結局は人間なのだと思う。

 人間関係というものの大切さを考えさせられる、北野天満宮を見上げますと、天神さんにはふとそんなことも考えるのです。もっとも、配流され左遷されてもなおこの信仰、なるほどあやかりたいというよりも慕いたいとおもい、改めてこうべを垂れた次第です。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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トルコ南東地震-トルコシリア両国死者6000名規模へ,トルコに国際緊急援助隊集結も課題は被災地への機動手段

2023-02-08 07:00:44 | 防災・災害派遣
■臨時情報-トルコ南東地震
 建物が倒壊する様子は心が痛むとしか言いようが有りません。前回のトルコ地震では自衛隊の掃海母艦と輸送艦と補給艦が派遣されましたが海上移動は時間を要する。

 トルコ南西地震による死者数は6000の大台に乗ろうとしています、エルドアン大統領は10県に非常事態宣言を発令したとも報じられていますが、同時に首都アンカラやイスタンブールでは被災地へ向かう救助隊や国際救助部隊とともに有志のボランティアが集まり始めているという心強い一報も入っています。こうした中で課題は被災地への移動手段だ。

 1999年トルコ地震に際しては海上自衛隊が新鋭の輸送艦おおすみ、以下3隻へ被災地支援物資を載せて派遣していますが、2010年パキスタン地震では陸上自衛隊のUH-1多用途ヘリコプターをC-130H輸送機にて輸送し、山間部の被災地支援や救助活動に充てた事例があります、輸送艦では時間がかかるが、C-2輸送機ならばトルコまで充分展開可能です。

 被災地へ救助部隊が入るにはヘリコプターや車両が不足しているということで、日本時間7日の時点で既に各国からは12の救助隊1400名が集結、8日には更に27の救助隊がトルコへ到着するという、しかし、車両が充分なく被災地へ入れないという。具体的には、国際救助部隊は各国の消防や警察などの専門レスキュー部隊を中心に編成されています、が。

 レスキュー部隊は空挺部隊ではなく、移動は基本的に旅客機により展開しますそして旅客機に載せられる車輛とうものは、あるには在るのですが国際救助部隊はこうした車両を装備していません、つまり現地での移動手段が無い状態なのですね。これが軍用輸送機により展開する緊急展開部隊であれば事情は違うのでしょうけれども、現地では不足している。

 C-2輸送機にUH-60JA多用途ヘリコプターを載せて展開させる必要はないか、もちろんトルコはNATO加盟国ですし、ギリシャとの微妙な関係はありますが、イタリアやフランスの空母部隊や空中機動部隊に支援を要請する選択肢はあります、しかし、これは日本の2011年東日本大震災の教訓なのですが、こういうとくにはどれだけ航空機が有ってもたりない。

 日本からは警視庁などが国際緊急援助隊として出動していますが、やはり警視庁も移動は旅客機であり、現地の空港、国際線のある一定以上の規模の空港から被災地までは移動手段が無いという実情です。NATOやアメリカ軍からの支援、中国の支援なども考えられるのですが、こうした状況では被災地は一機でも多くのヘリコプターを必要としています。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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