■祭事神事はいつの時代も
賀茂競馬の歴史を紐解いてみましょう。
賀茂別雷神社、賀茂競馬の神事を執り行いますのは北区の上賀茂神社です。上賀茂神社は京都屈指の歴史を誇る社殿でありまして、いやその社殿は式年遷宮を幾度も経て常に新しく静謐さを保つために実のところその古さは社殿というより社伝なのですが。
上賀茂神社は賀茂別雷大神を祀る社殿で、そのはじまりは神武天皇の時代に神山といういまはご神体となっています山の山麓は御阿礼所に神武天皇の実父とされる神話上の神、賀茂別雷大神が降臨したという奇跡を受けて造営された神社といわれています。
皇城鎮護の神社という位置づけの社殿なのですが、賀茂別雷大神は航続守護という信仰の先に賀茂別雷大神には雷という一文字を冠していますことから天候の、その先の信仰としまして農業守護という崇敬を集めることとなりまして今日に至るのですが。
五穀成就、この賀茂競馬もこうした農業振興から執り行われているものでして、これは単純に騎馬の速度を競うのではなく、騎馬同士の離隔がどのように開くかにより、勝敗というよりも吉祥の度合いを競っているのがこの賀茂競馬というものといいまして。
神馬、そう上賀茂神社ではこの賀茂競馬の神事が執り行われます砂州の参道に、神事が行われないときにも馬宿がおかれていまして、常にご神馬を常駐出来ない故に実物大模型が置かれているのですけれども、いかにこの神事が重視されているのかがわかります。
撮影に際してはその迫力を縦横無尽に記録するためには、横から流し撮りという方法も考えましたが相手は戦車や装甲車ではなく上下にも動く騎馬ですので流し撮りは意外と難しく、それならばと土煙と共に迫る構図を撮影することとして撮影位置を選ぶ。
宮中武徳殿で執り行われた、天下泰平祈念の節会として競馬会式を平安朝の時代には毎年御所において執り行っていたということですが、寛治7年こと西暦1093年、宮中からその神事の場を上賀茂神社に移したことが賀茂競馬の始まりとされています。
賀茂競馬は当初は一時的な宮中からの遷座というような扱いであったとも聞くのですが、そののちに上賀茂神社の年中行事として定着することとなりました。もっとも、戦後GHQにゴルフ場として接収されるまで当時の神域は今よりも遥かに広かった。
初詣などで上賀茂神社に詣でますと、純白の御白砂が社殿に向けて滔々たる流れを模すように伸びているのですけれども、これがかつては下鴨神社の糺の森のような長大な長さを湛えていたということですので、往時の神事はさぞ迫力のあったことでしょう。
徒然草、吉田兼好はその第四十一段に賀茂競馬について、“五月五日、賀茂の競べ馬を見侍りしに、車の前に雑人立ち隔てて見えざり”と記していまして、そう徒然草が著された時代にはもう、いまのように、全然見えないよ、的な状態であったことに驚く。
平安朝の時代には今のように脚立から望遠レンズで一眼レフを振り回すというようなことは当然なく、貴人は牛車を路駐して御簾の向こうから、奇人は家屋の屋根に上り、商売人は桟敷席を立ち上げて庶民は道端から見物していたといいます。
上賀茂競馬会図屏風や賀茂葵競馬図屏風などの屏風絵にもその様子は残されていまして、これは江戸時代における京都の歴史風俗を示す重要な文化財として位置づけられています。ただ総じて思うのは、何時の時代も祭事を見物する人の多さ、という。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
賀茂競馬の歴史を紐解いてみましょう。
賀茂別雷神社、賀茂競馬の神事を執り行いますのは北区の上賀茂神社です。上賀茂神社は京都屈指の歴史を誇る社殿でありまして、いやその社殿は式年遷宮を幾度も経て常に新しく静謐さを保つために実のところその古さは社殿というより社伝なのですが。
上賀茂神社は賀茂別雷大神を祀る社殿で、そのはじまりは神武天皇の時代に神山といういまはご神体となっています山の山麓は御阿礼所に神武天皇の実父とされる神話上の神、賀茂別雷大神が降臨したという奇跡を受けて造営された神社といわれています。
皇城鎮護の神社という位置づけの社殿なのですが、賀茂別雷大神は航続守護という信仰の先に賀茂別雷大神には雷という一文字を冠していますことから天候の、その先の信仰としまして農業守護という崇敬を集めることとなりまして今日に至るのですが。
五穀成就、この賀茂競馬もこうした農業振興から執り行われているものでして、これは単純に騎馬の速度を競うのではなく、騎馬同士の離隔がどのように開くかにより、勝敗というよりも吉祥の度合いを競っているのがこの賀茂競馬というものといいまして。
神馬、そう上賀茂神社ではこの賀茂競馬の神事が執り行われます砂州の参道に、神事が行われないときにも馬宿がおかれていまして、常にご神馬を常駐出来ない故に実物大模型が置かれているのですけれども、いかにこの神事が重視されているのかがわかります。
撮影に際してはその迫力を縦横無尽に記録するためには、横から流し撮りという方法も考えましたが相手は戦車や装甲車ではなく上下にも動く騎馬ですので流し撮りは意外と難しく、それならばと土煙と共に迫る構図を撮影することとして撮影位置を選ぶ。
宮中武徳殿で執り行われた、天下泰平祈念の節会として競馬会式を平安朝の時代には毎年御所において執り行っていたということですが、寛治7年こと西暦1093年、宮中からその神事の場を上賀茂神社に移したことが賀茂競馬の始まりとされています。
賀茂競馬は当初は一時的な宮中からの遷座というような扱いであったとも聞くのですが、そののちに上賀茂神社の年中行事として定着することとなりました。もっとも、戦後GHQにゴルフ場として接収されるまで当時の神域は今よりも遥かに広かった。
初詣などで上賀茂神社に詣でますと、純白の御白砂が社殿に向けて滔々たる流れを模すように伸びているのですけれども、これがかつては下鴨神社の糺の森のような長大な長さを湛えていたということですので、往時の神事はさぞ迫力のあったことでしょう。
徒然草、吉田兼好はその第四十一段に賀茂競馬について、“五月五日、賀茂の競べ馬を見侍りしに、車の前に雑人立ち隔てて見えざり”と記していまして、そう徒然草が著された時代にはもう、いまのように、全然見えないよ、的な状態であったことに驚く。
平安朝の時代には今のように脚立から望遠レンズで一眼レフを振り回すというようなことは当然なく、貴人は牛車を路駐して御簾の向こうから、奇人は家屋の屋根に上り、商売人は桟敷席を立ち上げて庶民は道端から見物していたといいます。
上賀茂競馬会図屏風や賀茂葵競馬図屏風などの屏風絵にもその様子は残されていまして、これは江戸時代における京都の歴史風俗を示す重要な文化財として位置づけられています。ただ総じて思うのは、何時の時代も祭事を見物する人の多さ、という。
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